追憶と復讐と、

 「私の中の母の記憶は、大半が後ろ姿だった。
 恐らく私の中で一番古い記憶は、引っ越す前の鏡越しにした断片的な会話。特に覚えてるのは、若い母のドレッサーに向かって髪を梳かす姿。あの頃は綺麗な亜麻色に染めてあった。引っ越した後もそう。3人分の食器を洗う姿。頬には小皺が増えて若干背中が丸まったけれど、いつまでも少女みたいな人だった。利己的で怠惰故の楽観的な女。私と正反対ね。少し羨ましかった。だから嫌いだった、理解できないもの。怖くもあったわ。
 思えば、はっきり覚えてるのは後ろ姿だけ。きっと、顔を向かい合わせて話すのが恐ろしかったのかも知れない。昔から人の眼を見て意見が言えない子供だったの。別に誰の所為だとか言う気は無いわ。完全に他人の所為だと思える程私は無責任で悲観的でもないから。やっぱり正反対だわ、私達。
 まあ、そんな母と私なんだけど、仲が悪かった訳じゃない。忙しい父の分も父兄参観に来てくれたし、お弁当だって作ってくれた。一般的な、極々普通の、平凡極まる母子よ。
 母から私に、教え込まれた事があるの。我慢しなさいって。『誰かが我慢すればいいだけでしょう?』って。誰かは言わずもがな。私よ。教科書に落書きされても、落書きされた教科書を使い続ければいい。親を先生を大人を煩わせないでって。体操着を隠されたら、忘れた事にすればいい。後で探して、どうしても見つからなかったら、お小遣いで買えばいい。……今思えば、あれは隠されたんじゃなくて、捨てられたのかもしれないわね。どっちでもいい。どの道買うしかなさそうだもの。靴も、鞄も、本も、傘も、ペンも、皆そう。確かに私だけで解決できたわ。母の偉大な教え。汝、隣人を愛せよ。汝、敵を愛せよ、だったかしら。家には仏壇があったけど、母は素晴らしいキリシタンだったのかも。少なくとも、私に対しては。いやね。笑う所よ、ここは。

 いけない、脱線した。別に、母を悪く言いたい訳じゃなかったの。折角だから、貴方との話をしましょう。
 ね、貴方と私。初めて会ったのは、私達が小学2年生の5月だった。私が転校して来たから、季節外れの邂逅。勿論そんなに格好いいものじゃなかったけど。『思い出は何時も綺麗』って嘘ね。結構好きな唄なんだけど、残念。ずっと汚いまま。美化の仕様がないもの。
 余所者の私に1番先に声を掛けてくれたのは貴方だったわね。初日は教科書も貸してくれたし、学校を案内してくれた。学校7不思議とか秘密基地とか抜け道とかも紹介してくれた。本当に頼もしかった。貴方は快活で底抜けに明るい……そう、母にそっくりだったんだわ。理解できなくても、眩しかった、羨ましかった。利己的で怠惰で楽観的で無責任な所。私と正反対な性質。加えて、奔放で無邪気。エネルギーの塊みたいな子だった。でも、やっぱり怖かった。違い過ぎて理解できない。理解できないものが怖いのは仕方がないわ。当然の、謂わば防衛本能だから。貴方が私を計り違えたように、私も貴方が分からなかったわ。そうして、ズレて歪んでいったのね、きっと。裏切りと言う事すら憚られる。私は人の眼を見て話せなかった。貴方は私を見てすらいなかった。私は知らない土地で知らない人に囲まれる違和感とそれが日常と化す事の心細さから、貴方という気安い人肌が欲しかった。貴方は知らない土地から来た新参者に優越感と好奇心を満たされる為、私と接触していた。そうでしょう? 少なくとも友情は芽生えなかった、信頼は生まれなかった。だから裏切りなんて高尚な言い方はしない。強いて言うなら切り捨てかしら。散々遊んで、飽きて、面白味がなくなって、貴方は私を切り捨てた。
 最初に私に声を掛けてくれたのが貴方なら、最初に私に飽きるのも貴方。最初に私で遊ぶ事を思いついたのも貴方なら、最初に私に手を出したのも、貴方。
 一緒にいる内に、私が母の教えに忠実だって気付いたのかもしれないわね。何をしても起こらない、大人に言わない、我慢が取り柄の人間って。都合の良い人間。実際ノートを破かれても文句も言わなかったし、鉛筆を折られても誰にも相談しなかった。1度私の給食に針が入ってた事があったのが公になったけど、皆シラを切り通したから、給食センター側の不祥事って事になったわね。私あれ以来シチューとか不透明な汁物を飲むのに抵抗があるの。何か入っていても見ただけじゃ分からないから。だから執拗にスプーンで掻き回して少しずつ飲むの。面倒だし、行儀悪いわね。
 私が我慢すれば済むんだって。理不尽さを自覚しながらも、いつも諦観が勝ってた。大人は忙しいから煩わせちゃいけないと思ってた。貴方達は私が憎いんじゃなくて、そういう遊びがしたかっただけって知ってた。叩かれても叩き返すような真似はしなかった。殴られたって泣き叫んだりはしなかった。蹴られて頬骨に大きな痣ができた時、目立つ暴行の証を残した事に皆が不安そうな顔をしていたのを覚えてるわ。生きた心地がしないって表情。しまった、先生に告発されたらどうしようって。自己保身による後悔の色。私への罪悪感すら一切無い腐りきった心配の仕方に泣きそうになった。絶望って言うのかしら。可笑しいわね、既に諦めてた筈なのに。結局私は誰にも告発しなかった。先生も何も聞いてこなかった。貴方達おおっぴらに騒いではしゃいで結構目立ってたのに、その時の事実も状況も先生が知らない筈がないのよ、本当は。きっと面倒臭かったのね、仕事を増やして欲しくなかったのね。勿論私は我慢したわ。母の言う通りに。貴方達生徒にとって騒がない私は便利なストレス解消道具で、先生や母を始めとする大人達には手の掛からない私は扱い易い良い子だった。私は、徹底的に都合の良い人材だった。
 そう人材。人間と呼ぶには尊厳がなかった。自己主張も抵抗も反抗もしない、道具に近い存在だった。プリントをどぶ川に捨てられても、宿題をシュレッダーにかけられても、私が紛失した事にした。作品を壊されても、ただ黙々と作り直した。私が人間扱いされた事ってあったかしら。多分、抵抗とか拒絶とか主張とか、もう忘れていたのだと思う。提出期限なんて守れた試しがなかった。悔しいと思う心すら、失われつつあった。皆は私が何日提出期限を遅れるかを予想して遊ぶの。私は心が頓麻していくのを感じながら日々無意義に生きてた。貴方達はとても無邪気で、残酷だった。虫を捕まえて羽を毟って遊ぶみたいに、無垢で無知で無邪気な幼稚さは凶器だった。叫ばれないと辛いって分からない、泣かれないと悲しいって分からない、他人痛みに酷く鈍感だから、笑って非道い事ができるの。人間を心から壊死させていくのを遊びにできるの。体操着は無くなる、水着は刻まれる、宿題は出せない、作品は壊される、教科書は塗潰される、ノートは開かない。当然、通知表は1ばかり。2がつけば良い方だった。私は義務感と惰性だけで学校に通ったわ。唯一褒められたのは無欠席。小学校6年間の皆勤。中学校でもそう。公立の近所の学校だったから、4割は知った顔だった。だから当然、私の堪え忍ぶ日々は終わらなかった。
 でも変わらなかったと言ったら嘘になる。
 中学って精神的に不安定になる年頃だから。思春期特有の苛立ちや、高校受験とか意識し始めた焦りとか、皆ストレスが増えた。だから、その捌け口である私に向けられる身勝手な悪意は更に陰湿になって激化した。最悪でしょう。私だって月経が中々来なかったり受験を意識し始めたりして、貴方達以外にもストレスは増えていった。どこか遠くの貴方達の居ない高校に通って、一人暮らしを始めたかったのよ。けれど現実は、一方的で自分勝手な悪意がどこまでも私の足を引っ張った。中学校でも通知表は1ばかり。小学校に比べて人数が生徒の増えたから2なんて貰えなくなった。本当は私、結構勉強できたのよ。それ以外にする事がなかったから。寂しい青春でしょう? でも当時の私にはもうこれが普通になっていたわ。
 ……それと、もう1つの変化、中学2年生の5月に転入生が来たの。覚えているでしょう、貴方も。季節外れの邂逅。デジャヴを感じた。ああ、この子私と同じになるんだって。私が思うに5月って季節もいけなかったのよ。五月病って言うでしょう。4月に出会ったクラスメートの本性が徐々に露見し、人との距離を定め始める。あの子は好き、あの子は嫌いって、少しずつグループができていく季節。そんな5月に余所者が来たら、不安定な均衡は一気に崩れ去る。どのグループにも当てはまる事のない、共通の敵が現れた事になるんだから。
 皆が表面上穏やかに仲良くする為には、共通の敵はもってこいの存在でしょう?身代わりって事よ。人々の原罪を背負ってゴルゴダの丘に登る、なんて綺麗なものじゃいわ。ただの生贄よ。大多数のためならひとりやふたりの犠牲は知らん振り。私の、彼女の、人生は大勢の人々の身勝手に破綻させられる。酷い話ね。酷い人達。
 笑っていいのよ? だって貴方は私達という犠牲で平和に幸せに過ごせたんだから。貴方には愉快な話の筈でしょう?嫌ね、今更反省だの後悔だの口先三寸の謝罪は欲しくないわ。いい加減私に飽きて、新しいのが欲しかった頃だったし、皆にとって私以外の獲物は久々だったから、大いに盛り上がってたわね。可哀想な転入生、可哀想な『春ちゃん』。知らない土地で知らない人達の玩具にされる恐怖は、きっと経験しないと分からないわ。だから謝罪なんていらないの。分かったような口で『苦しませた』とか『辛い思いをさせた』とか言って欲しくないもの。

 そう、彼女の痛みを本当に理解してたのは私。
 私には彼女が何されるかなんて分かり切ってた。現に彼女は私と同じ事をされていた。私と同じ境遇になっていた。
 でも春ちゃんは、私じゃなかった。当たり前ね。私みたいに卑屈な女じゃなかった。名前の通り明るくて優しい子だった。私と違って拒絶も抵抗もできた。その時知ったわ。私って異常だったんだって。抵抗は罪じゃない。やり返しても良かった。彼女はそう教えてくれたわ。殴られたら殴り返しに行った、向けられた悪意には憎悪で答えてた。健全な精神の持ち主だった。
 その私に無い健全さが、面白かったのね。打てば返る活きの良い、玩具。日を追う事に彼女への悪意は苛烈になっていったわ。放課後は半狂乱の彼女の悲鳴が木霊すのが通例になりつつあった。『止めて、何で、私が何か悪い事したの?』って。泣き叫ぶって語句が生温く感じる痛々しい声だった。私がずっと言いたかった言葉だった。……無抵抗こそ、罪だった。

 春ちゃんは、元気で明るくてタフな子だった。でも、彼女にだって限界はあるわ。私の中で春ちゃんは、濃紺のセーラー服のまま。春ちゃんの御両親の手元には、中学3年生までの時の写真しかないの。卒業式に出席できなかった春ちゃん。高校生になれなかった春ちゃん、社会人になれなかった春ちゃん。成人式も入社式も彼女には訪れない。彼女は16歳の誕生日すら迎えられなかった。
 15歳のまま生涯の幕を閉じた、春ちゃん。


 春ちゃんは、事故死したって事になってるらしいけど、絶対に違う。悪天候の中での川遊びの末、不注意で溺死? そんな馬鹿馬鹿しい話があってたまるものですか。台風なのに最低限の服装で傘すら持たずに遊びに行く子じゃなかった。そもそも増水した川の近くで遊ぶような阿呆じゃなかった。
 自殺したのよ、彼女は。
 増水した川に自ら飛び込んでったのよ。貴方達の悪意に殺されたの。膨大な悪意に曝されて、耐えられなくなったのよ。春ちゃんが言ってたわ。『あいつらが、この世から消え去ればいいのに。殺してしまいたい』って。あいつら、つまり貴方とその御仲間の事。貴方達は遊びの延長線のつもりかもしれないけど、春ちゃんも私も心の底から憎んでたのよ、それこそ死ぬ程に。『殺すのが無理でも、私はあいつらと同じ世界には居たくない』多分それが私に託された遺言だったんじゃないかしら。彼女は優しいから、遺族を必要以上に悲しませたくなかったのよ。だから遺書なんて残せなかった。飛び降りや首吊りなら、一目で自殺と分かる遺体が残るからできなかった。苦しみの少ない確実な方法を彼女は選ばなかった。どこまでも強い子。そして賢かった。川で死ねば遺体は下流のダムで見つかるから、お母さんが遺体のない葬儀をしなくて良いと考えて。水死体になって濁流に揉まれれば、醜く膨れて傷だらけになるから、貴方達に付けられた痣や傷を隠せると踏んで。あの子は不慮の事故として自らを葬った。勿論遺族を傷つけない為にであって、貴方達を庇うのが目的じゃない。そこだけは誤解しないで頂戴。貴方達への報復と家族の安寧を天秤に掛けて、愛する家族を取っただけ。発狂しそうな程に貴方達が憎いのは変わらない事実よ。
彼女は、優しくて賢い日だまりみたいな春ちゃんは、殺されたの。貴方達に。
 私に。

 そう、私も加害者なの。言ったでしょう。彼女の痛みを本当に理解してたのは私だったって。私には彼女が何されるかなんて分かり切ってた。抵抗は罪じゃないって教えてくれた春ちゃんを。私は救えなかったの。救うなんて言い方は傲慢ね。私は何もしなかったし、何もできなかった。つまり見殺しにしたって事。
 春ちゃんが死んでも貴方達も私も変わらなかった。
 貴方達は残酷で幼稚なまま。彼女が死んでも貴方達には私という玩具があった。元々人間扱いしてなかったもの、スペアがあったんだもの。悲しみも反省も無くて当然と言えば当然よね。勿論許されないけれど。私? ご存知の通りよ。受験は見事失敗して風紀も偏差値も底辺の肥溜めみたいな高等学校に流れ着いた。相変わらず卑怯で卑屈な女のまま。
 でもね私、変わろうと思うの、今日から。到底褒められた事ではないけど、人をいたぶる方法も貴方達並みに詳しくなったの。
 でもその前に、私に殺意を教えてくれた春ちゃんに万歳三唱しなくちゃ。復讐は罪じゃない。寧ろ蜜ね。無抵抗こそが、罪。

 だからね、私は貴方に復讐するの。

 他人の名の下に復讐を遂行するのは卑怯ね。だから、これは私の独断。春ちゃんはきっかけに過ぎない。故人の意志は大義名分にできないわ。謂わばこれは自己満足の為に行われる私刑。それで事足りる。でも、貴方には処されるだけの罪は揃ってる。先言通りよ。形だけの猿にでもできる謝罪はいらない。耳が腐るわ。反省なんてできないんでしょう。免罪符は肉片になっても発行してやらないって決めたの。
 これは、私からの復讐。償いなさい。その血肉で。
 そしてこれは、私の贖罪」

 月明かりに照らされた廃屋で女が微笑んだ。
 鋸を片手に持ったその女はとても儚い顔をしている。取り残された童女のような、出口の知れない御化け屋敷で迷子になった子供のような、悲しい危うさを持っている。瞳は奈落と通じているかのように暗く、しかし復讐に燃えていた。
 女の向かいの柱に全裸で縛り付けられた片腕の無い男は、ガムテープの轡がされた口で何か必死に叫ぼうとしていた。止血の杜撰な片腕から血が滴るのもお構い無しの様子で。この女が恐ろしくて恐ろしくて堪らないといった様子で震えている。冷や汗とも脂汗ともつかない汗が額を濡らし前髪を顔に貼り付かせて、荒い呼吸を繰り返しているばかり。
「止めて欲しい ?春ちゃんは貴方に何度『止めて』と叫んだでしょうね。貴方は1度でも聞き入れたことがあったかしら。とんだ高飛車ね。自分だけ言うこと聞いてもらえると思ってるのかしら。身勝手」
男の口が開かないのを良い事に長々と追憶し延々と罵倒する。感情的な文面とは裏腹に女の口調は淡々としていた。そして一貫して笑顔だった。まるで顔の皮膚に仮面を癒着させたような、空虚な笑み。本来なら、こんな果てしない敵意を抱えて笑える筈がない。
 嘗て虐げる立場であった男は、眼前の復讐者が血の通わない怪物でもあるかのように怯えていた。彼にとっても口を封じられていて良かっただろう。もしこの場において口が利けたら、彼女の最も望まない口先三寸の軽々しい命乞いの為の謝罪していただろう。そんな事をしたら、辛うじて表面上の冷静を保っている女を刺激しかねない。

 女が静かに鋸を振りかざす。

 鋭い突起が行儀良く一列に並んだ刃が月光に濡れる。先端には既に男の血が付着していた。片腕を切り落とした時のものだった。手入れの行き届いた銀色の光沢を赤黒い斑点が汚している。
「私、この日の為に拷問について沢山調べたわ。私の復讐に相応しい事がしたくて。……中国の拷問って凄く残酷なの。時に処刑は庶民の娯楽、笑いながら人を殺せる。誰かさん達と一緒ね。例えば漢の時代に呂后は人間の尊厳を徹底的に踏み躙る事のできる行為を嬉々としてしていたらしいの。貴方達にはぴったりでしょう? 結構有名だから貴方なら知っているかもしれないけど。それに既に片腕切断されたんだから察しはついてる筈よね、いくら人の心に鈍くても」
女の口からは拷問に処刑と恐ろしい単語が次々と出てくる。男が涙を滂沱と垂れ流し畏怖と絶望と媚びの入り交じった顔で、女を見上げた。くぐもった呻きから哀願しているのだと分かる。見受けられるのは悔恨ではなく焦燥と恐怖。彼女は彼の態度にあからさまに失望していた。女はそんな男の残っている片腕を鋸の先端で軽く叩く。次は此方だとでも言いたげに。容赦など一切しないという無言の宣誓にも取れた。

 ついに女が声を上げて笑い出す。
「達磨にしてあげる。人間を人間とも思えない奴が人間であっちゃいけないのよ。そう思わない?貴方が人間の姿をしてる事こそ可笑しいって」
呂后もこんな声で笑ったのだろうか、見た事も無い歴史上の人物と女が男の中で重なる。耳障りな哄笑が廃屋に弾ぜた。湿った空気を不快に振動させて響き渡る。建物に反響して内耳を狂気で支配していく。
「安心なさい悟りを開けるほど痛めつけて屠り尽くしてあげる、喜びなさい貴方みたいな鬼畜生が涅槃できるのよ!」
ほぼ一息で言い切ったのを皮切りに、女が息を詰める。相も変わらず能面のような笑顔だったが笑い声は完全に失せ、男に視線を戻した。
 哄笑の余韻が終わり、静寂が訪れる。飽和する沈黙。

 女は残った片腕を切断する作業に取りかかった。
 連続する小さな刃が男の肩に埋まっていく。口がガムテープで塞がれて開けられず、鼻のみでの呼吸を強いられる。激しい痛みと相まって、呼吸が乱れて荒くなる。大きく前後上下する胸部に汗が伝う。泣くと鼻孔が鼻水で埋まって呼吸を妨げる。ニチャニチャと粘性の強い音を出し、男の腕が切られていく。黄色味のある脂肪が覗く断面。肉の繊維が乱され、中途半端に削げた皮が二の腕から振袖のように垂れる。赤い血が滲んで滴る。傷口から流れる血は、肩が赤い涙を流している様にも見えた。
「心と体、傷付いて痛いのはどちらかしら。少なくとも私も彼女も両方傷付いたし、両方痛かった。私達の受けた痛みに比べれば手足の1本や2本じゃお釣りが来ると思わない? けど安心して。達磨にしただけで終わらせるつもりは更々無いわ」
女が緩慢な動作で鋸を床に置く。肉を切断する感触が変わった所為だ。対象が硬質になり、抵抗が大きくなった。骨に到達したからだ。肉と肉の間から覗く白い骨を認めた女は、懐から小型なナイフ取り出すと、それをライターの焔で炙っていく。女の手に似合う華奢なナイフは、薄手な所為かみるみる熱を孕んで赤くなる。刺せて切れて焼ける狂気の沙汰の凶器ができあがる。薄闇に真紅に光る刀身は女の加虐性そのもの化身のよう。女は小さな声でそれを綺麗だと評した。
 女は、この熱したナイフを焼き鏝の代わりにして止血するつもりなのだ。男を殺さずできるだけ長くと苦しめるつもりなのだ。男はそれを片腕を失った時に学習している。
 女はその即席の鏝を男の傷口に押し当てる。焼石に水をかけたような、水分が一気に蒸発する音がした。幾秒か遅れて仄かに甘い蛋白質の焼ける臭いが漂う。男は喉を晒し体をしならせ、縛られている柱に何度も頭を打ち付けた。自分の肉が焼ける臭いを脳が身体の全細胞が拒否しているのだ。血の混じった泡立った鼻水を吹き出す。只でさえ拙い呼吸を更に困難にさせる。更には失禁し、アンモニア臭のする尿が床や女の足下を濡らす。まさに地獄絵図だった。しかし女は眉一つ動かさなかった。それどころか止血が済むと鋸を替え骨を切断しにかかる。
 男が失神しそうになると熱したナイフで頬を叩いて起こし、出血死を防ぐ為の治療と奴隷印の落款を兼ねた止血作業を繰り返しながら、徐々に腕を奪っていく女は陶然と囁いた。
「呂后は、ヒトの四肢を切り落として、眼を抉り出し鼻を削ぎ耳を取って、薬品を用いて聴覚や言語機能を奪った後、『人豚』と称し生きた便器として配置したらしいわ」
女は笑う。恍惚と。空っぽの笑みと言うには生易しい。憎悪と嫌悪に恨み辛み憾みを内包する激しい復讐心による悪意と殺意。そして自嘲。過去への罪悪感と寂寥。
 空虚に思える笑みは飽和する敵愾心の裏返しだった。

 男の片腕が床に落ちる。完全に切断されたのだ。腕はゴム製品のように不格好に弾んで床に血で歪な半円を描いた。
「私はそんな事しない。人としての尊厳や機能を奪われた事をもっと明確に自覚できるようにしたいから。まあ、耳朶を切り取って鼻を削いで四肢切断して飼い殺すのは決定事項だけど。嘲笑混じりに『人豚』って呼ぶ声を聞かせたいから、聴覚は残すつもりだし、無惨な『便器』の姿をしっかり見て欲しいから、視覚も完全には奪わないつもりよ。人の感性のまま人間の枠から除かれる屈辱を知って欲しいから」
女の腕や頬にも血が飛び散ったが気にする様子は無く、寧ろ満足気であった。
「次は脚。脚なら貴方ももっとしっかり切断される所が見えるでしょう」
そう宣言して尿で濡れた脚の付け根を細い糸で縛っていく。出血を極力減らす行為。彼が確認するまでもなく、彼女は本気だ。間違い無く四肢を切断するという意思が彼女の一挙一動から男に伝わっていく。そして達磨にしただけで許す気も絶対に無いという事も。男は脚をバタつかせて抵抗を試みるも、脚は意思に反して激しく痙攣を繰り返すだけで虚しく終わった。

 「教えてあげる。実は拉致してきた人間は貴方だけじゃないの。貴方はあくまで主犯格。私は、手を出してきた人間全てに復讐するつもりだから」
女の言ったことは事実だった。この廃屋の奥には、大勢の男女が拉致され眠らされている。
「見分けを付けるために額に『便器』の製造番号を刻む予定だけど、貴方達に個体識別なんて必要なかったかしら」
考え直した方がいいかしら、と女が首を傾げる。
「そうね、私の本名分かる?ちゃんと言い当てたら、待遇をちょっと考え直してしてあげる。小学校も中学校も一緒だったから、私を人として認識して識別していたら、当然覚えてるでしょう?」
女は男の口を塞ぐガムテープを手荒く剥がした。男は憔悴しきって答える余裕など無い。しかし女はそんな事はお構い無しに追い詰める。
「5秒以内に当てなさい。……10、9」
棒読みの、無慈悲なカウントダウン。7秒を切った。
「待って、待ってくれ」
両腕の無い男が身体を揺すって喘ぎ喘ぎやっと声を絞り出した。女の口が三日月のようにつり上がる。歪な出来損ないの笑み。捕食者の愉悦が滲む。自分を玩具にした彼等と立場を逆転させた彼女は、より相応しく残酷な復讐を演出する。
「4、3」
「たっ、た田ァアッ!!」
女が彼女の名を紡ぎかけた男の口に熱を帯びたままのナイフを突き入れた。男の悲鳴と女の声が被る。絶望の響き。ゼロになった。
「馬鹿ね、貴方はもう僅かばかりの希望すら望む権利は無いのよ」
女に失意の色が浮かんだが、それは一瞬で消えた。口腔を支配する熱に喘ぐ男の声を堪能しながら、血と尿が溜まった床に視線を落とした。


 女がもう1度口を塞ぐべくガムテープを切る。迫るガムテープに顔を遠ざけようと縛られた体でもがく男が涸れた声で叫んだ。
「おんな事じで、許ざれると思っでるのか」
ただの憤怒なのか延命作戦なのは解せないが、男が喋り出す。火傷を負った舌に構う事無く怒鳴る。今にも飛びそうな意識を繋ぎ留め、女が内包する憎しみによく似た怒りを瞳に宿している。女は片眉を器用につり上げる。そんな元気がまだあったのか、という顔だった。
「じ、死刑になる、死刑になるぞ!畜生っ……何様のづもりだ、お前のやってる事は立派な犯罪だ、それこぞ許ざれないぞっ」
貧血で蒼白い筈の顔を真っ赤にして、唾を飛ばし喚き散らす。女の表情が消える。腕を切断する時も、憎しみを告白する時も絶やされる事のなかった微笑すらも剥がされている。そんな女の変化に気付かない男は尚も理不尽な拷問だと主張する。
「知ってる。そんな事」
どうでもいい、と言わんばかりの抑揚の無い声。完全なる虚無を纏った、空白の感情。
「貴方達は法で裁けない。だから私が償わせる」
女が手を下すのは、この男だけではない。男の言った通り、彼女は間違いなく重罪だ。彼女が予定通り事を成せば死刑も妥当に違いない。しかし彼女には戸惑いの匂いも逡巡の色も無い。
「昔、私達が貴方達の玩具だったように、今度は貴方達が私の玩具になる」
それがさも正当で相応な罰であるかのように女が言った。長年に渡り彼女を虐げてきた者を、春ちゃんという女子を殺めた者を、何処までも追及する。
「私は、」
女は言っていた。私も加害者だと。春ちゃんを見殺したのだと。

 「そう、私も裁かれる。私は法によって」

 そこにあったのは、哀しい笑みだった。
 表情といえる表情は最後までこの表情だった。それしかできないような、泣く事を抑圧されたような、痛々しい微笑にあらゆる憎悪を内包して。積年の凝縮された怨みと高濃度の憎しみが昇華した敵愾心を携えて。
 其処にあったのは、今の彼女を構成する全てだった。彼女が刃を取ったの動機。彼女が拷問という罰を敢行した原動力。

 復讐心、或いは贖罪。



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