ほしがり

 黒板の前に立った男の人が大切なお話がありますと言った。クラス全体ではなく、たしかにこちらの方を向いていた。つゆが始まる直前のなまぬるい空気が、さらに重くなった気がした。
「貴子ちゃんの給食費が盗まれました」
クラスの空気がゆれる。クラスメイトの、ぶしつけな視線がささる。悪意をふくんだざわめきが耳をくすぐる。男もこちらを見ていた。ついに、四つ右の席の男の子が声をあげた。
「せんせい、滝沢クンだとおもいます」
ほら、来た。そう思わずにはいられなかった。
「コラ、証拠も無いのに軽々しく言うんじゃない」
とがめる男の声はうすっぺらい。いちおう先生だからキレイな言葉をならべるだけで、この男も心の中ではみんなと同じことを思っているのは知っていた。うたがわれる理由も知っている。『貧しい』から、『躾が悪い』から。『子供が子供を生んだ』から。ぜんぶ大人たちが言っていた、わがやの評判だった。実際にそうだ。母さんは昨日の朝に見かけたきりだった。たぶん、彼氏のところに行ったのだ。ふつうの母さんなら、子供を家に一人のこしてあそびに行ったりはしないらしい。
「やりました」
答えながら、かかとの高いくつで家を出ていく母さんの背中を思い出していた。ウソをついた。金なんて取っていないし、今日が金をあつめる日だったこと自体知らなかった。本当かと聞く男にまたウソをつく。本当です。ウソをついても心がいたまないのは『教育が行き届いていない所為』だろうか。心にあるのは楽しみだった。悪いことをしたら、学校が母さんを電話でよび出すはずだ。母さんは来てくれるだろうか。ウチの子はそんなコトしませんと言ってくれるだろうか。そう言われたかった。信じてくれなくても、金をはらわないためにそう言ってくれるだけで良い。そう思っていた。母さんから母親らしい言葉を聞きたかった。

 『あ、そう。今日が集金日なのよね? なら、まだ子供が持ってんでしょ。アレから取り上げたら済む話よねえ?アレなんかの事で いちいち電話しないでくれる? 』
夕方の職員室で、何度もかけ直してやっとつながった電話は、やる気のない声で切られた。受話器を耳からはなした男が首を横にふった。母さんは来ない。男はためいきをついてこちらを見ていた。その目は、かわいそうなモノを見る目だった。その目にはらが立って、顔をそむける。
「ウゼェ」
母さんによく似た声が出た。
「この親にしてこの子在りってヤツだなぁ」
よく言われる。悪口だと知っているけれど、その言葉をきらいになれないでいる。オレは、母さんの子。
 それから太陽がしずむまで、金のことを聞かれた。どこにかくしたのか、なんて知らない。本当は金なんてさわってすらいないから。ランドセルをひっくり返しても、机を空っぽにしても、くつしたをぬがされても、初めからないものは出てくるわけがない。男が上着もぬぐように言う。
「分かるか、お前のやった事はな、泥棒だぞ。犯罪なんだ」
本当はドロボーなんてしていない。けれど『嘘吐きは泥棒の始まりです』と言うからにはそうになってしまうのだろうな、と思った。

 夜になったころ、貴子とその母さんが封筒を持ってきた。
「ごめんなさい……ウチの子、忘れたって言えなくて盗まれたと嘘を吐いたらしいんです」
貴子は泣きながら何度も男に頭を下げる女の人のスカートをにぎりしめて泣いていた。そんなことをしたら、スカートがしわになってしまうだろうと考えた。親のスカートをしわになんかしたら、今夜は家に入れてもらえないんじゃないか。洋服に涙なんて付けたら、せなかにタバコをおし付けられるんじゃないか。なんて、貴子の母とオレの母さんはちがうんだ。きっと今ごろ、母さんは学校からの電話におこってる。母さんが家にかえって来たら、明日か明後日か知らないけれど、オレはそういうおしおきをされるだろう。母さんがかえって来たら、また新しい父さんをつれてくるだろうか。新しい父さんは、オレを見てコブ付きとは聞いていないとおこるだろうか。新しい父さんは、新しい父さんは……



 滝沢は携帯電話の着信音で目を覚ました。
 アッシュグレーの髪の先から、汗が滴り落ちる。妙な夢を見ていた所為か、まだ春の終わりだというのに彼の寝汗は酷かった。あれは彼が小学校に入ったばかりの時分の記憶だった。滝沢は悪態を吐きながら汗を拭いて、水道から直に水を飲んだ。その間も彼の携帯電話は鳴り続けていた。初期設定のままの単調な着信音は、独り暮らしの小さなワンルームによく響いた。壁の薄さに定評があるこのアパートで隣人から苦情が来ないのは、今日が平日の夕方で社会人の隣人は仕事の為に部屋を留守にしているからだろう。滝沢の携帯電話に着信があるのは珍しい。彼に電話を寄越すような友人は居ないのだ。彼は父親だろうかと推測しながら携帯電話を取る。そろそろ母親との離婚を切り出されるのではないかと思っていたからだ。そうなっては、滝沢はこのアパートの家賃を自分で工面せねばらない。そんな危惧を抱きながら通話ボタンを押した滝沢。
『円谷です』
誰だテメエ。父親ではない他人の名に拍子抜けした滝沢は八つ当たりめいた声を出した。ドスの利いた声と称される彼の声だが、電話の向こうの相手はそれに怯む様子は無かった。それどころか律儀にも滝沢の威嚇紛いな問いに答え始める。
『バスケ部のマネージャーです』
抑揚の無い男の声だったが、滝沢は真面目そうだと検討を付けた。彼が所属する高校の男子バスケ部のマネージャーで男は唯一人の為、滝沢には薄ぼんやりと円谷という生徒の心当たりが有った。これといって特徴の無い醤油顔で、何時もキャプテンの丸山に怒鳴り散らされている、鈍臭い印象の男。円谷と滝沢は正反対の系統と言っても過言では無かった。滝沢が何の用だと問えば、お忘れですねと呆れた声で返す円谷。
『貴方の謹慎期間は昨日で終わってます。先生が待ってますから、急いで下さい』
その言葉で滝沢は今日が何日なのかを知った。自宅謹慎とは名ばかりの自堕落な生活に日付の感覚を失っていたのだ。カーテンの向こうは茜色に染まっていてた。
「無駄じゃね」
今から学校に急いでも部活は終わってしまう時刻。謹慎明けに部活を無断欠席。チームメイトとも上手くいっていない。退部が妥当だろうという諦観が滝沢の胸を占める。
『いいえ、説得してきました。今日中に顔を出して、顧問に詫びを入れてください』
円谷は滝沢の諦観をあっさり覆して、登校を迫る。いいですね、と念を押されて電話が切られた。円谷の鈍臭い雰囲気とは似つかわしくない強引さに驚きつつ、滝沢は電子音を繰り返す携帯に視線を落とした。

 気が付けば滝沢は高校に至る長い登り坂を全速で駆けていた。
 玄関の一番手前に有ったスニーカーに脚を突っ込んで、鍵も閉めずにアパートを出たのは正に衝動だった。滝沢にとってこんな風に世話を焼いてくれる人間は初めてで、嬉しかったのかもしれない。まだ誰かに必要とされているという感覚が彼の背を押した。途中でバスケ部の見知った顔と擦れ違って部活は終わったのだと察しても、滝沢は走り続けた。円谷が今日中にと言ったのだから、彼が脚を止める理由は無かった。
 滝沢がやって来た頃には体育館は静まり返っていたが、部室の方は灯りが点いていた。選手は帰っても、一年とマネージャーは体育館の整備や部室の掃除に残る事が大半だった。そこに円谷が居ると確信に近い期待をして、滝沢は部室のドアに手をかけた。
「お前、滝沢に電話してたよな」
部室から聞こえた声に、彼は思わずドアを開けようとした手を止めた。内容から円谷に向けられたものだと察した滝沢は、悪趣味だと思いながらも聞き耳を立てた。
「どうせ滝沢は来ねえよ、やる気ねえんだ」
俺等と一緒でな、と円谷の返答を待たず二人目の声がした。滝沢は浅葱色のドアを前に静止したまま、一週間前の出来事を思い出していた。声の主に覚えがあったのだ。彼等は滝沢が自宅謹慎となった原因を作った不良連中だった。
 一週間前、滝沢はこの二人に背後から奇襲され、倒れたところを背中や腹を狙って暴行を受けた。堪らず反撃したところを顧問に目撃され、滝沢の方が加害者であるという誤った解釈のまま謹慎処分となったのだ。何の考えも無く顔を殴ってしまった彼にも落ち度が有ると言えなくもないが、仕掛けてきたのは向こうだ。滝沢は嵌められたのだ。滝沢は無愛想で、敵を作り易い。味方の作り方を知らないと言った方が適切かもしれないが、兎角彼は人の恨みを買い易い。今回の騒動の引き金になったのは僻みだった。滝沢は運動神経を買われて一年にして夏の大会のレギュラーに抜擢されたのだ。鼻摘み者の滝沢が選ばれた同学年達の反発は大きかった。不良のクセに、という陰口は滝沢の耳にも入っている。
 部活に居場所を期待していた自分が馬鹿らしく感じた滝沢の手がドアから離れる。円谷に悪いと感じない訳ではないが、この状態で部室に入っていける程滝沢は図太くはなかったのだ。諦める事ばかり得意になっていた。
「お前さ、アイツに財布盗まれたって言えよ」
二度と顔を出せなくしてやろう、と悪意に満ちた声が聞こえて帰ろうとしていた滝沢は脚を止めた。
「アイツ素行悪いし、ロッカーの中に入れとくだけで皆信じるって」
二人分の笑い声が部室の外まで響く。哄笑、嘲笑。滝沢は薄い唇を噛み締めた。部活は辞めるとしてもこの二人は殴っておこうと思い直した滝沢が部室に向き直る。だが、滝沢がドアを開けるより早く、円谷が口を開いた。
「それは出来ません。犯罪ですし、彼を貶める権利は誰にもありません」
淡々とした抑揚に欠ける声だが、静かな空間ではよく響いた。綺麗事かよ、と舌打ち混じりの悪態が返る。円谷はあくまでマネージャーで、彼が血の気の多い選手二人を相手取るには無謀である。それは誰から見ても明白だった。彼等と対面した円谷の姿を見ていない滝沢ですら、そう感じた。
「お前が引き受けないなら女子マネにやらせるだけだ。まあ、お前には黙っててもらうけど」
円谷の腕が掴まれる。口封じをすると告げられても、円谷は前言を翻さなかった。彼は歯を食い縛って次に来るであろう衝撃に備えた。
 鋭い衝撃に襲われロッカーに叩きつけられたのは、円谷の腕を掴んだ男の方だった。部室に入ってきた滝沢が男の背を蹴り飛ばしたのだ。円谷を含む部室に居た三人は、まさか本人が登場するとは予想していなかった為に面を食らっている。
「陰湿かテメエ等」
気に食わねえなら直接来いと中指を突き立てた滝沢。その顔は暴力行為に慣れた不良二人が震えあがる程に恐ろしい。滝沢が怒りに身を任せていられたのも数秒の内だけだった。
「職員室に行きますよ、早く! 」
いち早く我に返った円谷が、滝沢の腕を引いた。不意を突かれた滝沢の喉から妙な声が出る。ひ弱そうな見た目とは裏腹に円谷の力は強く、滝沢は部室の外まで引きずられる。円谷の意識には先程まで自分を脅迫していた連中などとうに無かった。滝沢の険悪な態度も何処吹く風だ。もう夕日は沈み切っていて辺りは暗かったが、彼の歩みに迷いは無い。滝沢が頭を下げに向かうべき顧問はもう部室を出て行ってしまったと、円谷は彼を職員室まで引っ張って行く。滝沢が人に手を引かれて歩いたのは久し振りだった。
 別れ際、滝沢は円谷にどうして世話を焼いてくれたのかと聞いた。もし滝沢が来なかったら、顧問相手に食い下がった円谷の立場は無かっただろう。もし滝沢が部室に現れなかったら、不良相手に食ってかかった彼は肉体的にも危うかっただろう。滝沢には他人である円谷が己の為にリスクを背負う理由も、その結果上手くいくと確信出来る根拠も見当たらなかった。だが円谷はあっけらかんと答える。
「だって滝沢君はバスケが好きでしょう。来ると思いました」
希望的観測を胸を張って告げる円谷。その根拠と言うには乏しい自信の源に滝沢は閉口した。滝沢に対して手放しに信頼を寄せる人間は初めてだった。


 その翌日、早朝から体育館にはボールを弾ませる音とバスケットシューズによるスキール音が響いていた。音の主は滝沢ただ一人だった。顧問と話した結果、滝沢のレギュラー入りの話は白紙に戻された。退部は避けられても相応の罰は必要であるという顧問の判断だった。そこで滝沢は、もう一度レギュラーの座を取り戻すべく奮起しているのだ。
 元より早朝練習があるバスケ部だが、滝沢はその開始時刻よりも一時間程早い時間に来ていた。この時間帯から学校に来る生徒は少ないが、鍵を取りに行きさえすれば体育館は誰でも解放出来るのだ。彼は元々練習に顔を出すものの、ストイックに自主練習に精を出す質ではなかった。ただ、先日の出来事について考えたのだ。運動神経を買ってくれた顧問とキャプテンの存在や、庇ってくれた円谷の事を。そして自身を陥れようとした二人の部員の事を。少しでも認められて居るならば、それに報いたい。己が抜擢される事に納得がいかない者が居るならば、認めざるを得ない実績を叩き出すしかない。それが滝沢の出した結論だった。
「タイムキーパーしましょうか」
一人でバスケットゴールに向き合っていた滝沢の背後から声がかけられた。円谷だった。いつもこんなに早く登校するのかと問う滝沢に円谷は首を左右に振った。
「昨日は奸計を耳にしてしまったので、一応用心しようと思いまして」
滝沢に窃盗の濡れ衣を着せようという提案を聞いてしまった円谷は、それを阻止すべく早くから張り込もうとしていたのだと言った。彼はまたしても滝沢を守ろうとしていた。その事に気付いた滝沢は慣れない好意に擽ったさを覚えて俯いて頬を掻く事しか出来なかった。ワックスの効いた体育館の床に、二人の影が映っていた。

 それから早朝の自主練習は滝沢の日課になった。それは梅雨の時期も期末試験の期間も続いた。毎日ではないが、円谷も度々それに付き合った。円谷は脚が悪いので練習の相手にはならなかったが、豊富な知識で滝沢の練習効率を上昇させた。円谷は時折、本で得た知識以外にも経験則で培ったと思しき知恵を見せた。バスケ部員達は全員何となく察している事だが、円谷は元選手だ。彼は小学生の時分はそれなりに名の知れた優秀な選手だったのだ。尤も、円谷はスポーツに有利とは言い難い体型のまま成長期を終えてしまっているので、引退しなかったとしても彼が高校バスケで活躍出来たかは怪しい。
 二人は時間を重ねる毎に打ち解けて、休憩時間に他愛無い話もするようになった。滝沢が一番驚いたのは、自身に敬語を使う円谷が一学年上の先輩だった事だ。彼はその時初めてマネージャーは選手に対して敬語を使うべしという規則が存在する事を知った。彼は周囲に対して些か無関心であった。その頓着の無さが周囲の反感を煽るのだと自覚したのも最近の事だった。
「俺さ、本当の父親がマイケル・ジョーダンだって、小学校卒業するまで本気で信じてたんだよ」
滝沢も円谷に決して他人には話す必要は無いであろう事を打ち明けた。バスケットゴールしか無い近所の公園で長時間遊ばせたい母親が吐いた方便だったが、彼はそれを切欠にバスケットボールに親しむようになった。普段は自分に無関心な母親がバスケットボールを買い与えてくれた事が嬉しかったのかもしれない、と滝沢は振り返る。
「ジョーダンと冗談をかけたんでしょうか」
円谷の返答は大抵呑気で、滝沢はそれが心地好くてつい饒舌になる。滝沢はもう、母親に邪険にされていただけだと分からない歳ではないし、円谷も本気でそう思う程鈍くはない。それでもこう話していると救われたような気分になるのだ。円谷は滝沢より背も低くて華奢だが、滝沢がつい寄りかかってしまうような包容力と甲斐性があった。
「ジョーダンは僕達にとっては神様みたいなものですよね、彼の格言なんて覚えちゃったりして。例えば、You have to expect things of yourself before you can do them. 」
自分に期待することではじめて物事は可能になる。そんな意味の言葉だった。円谷は醤油顔に似付かわしくない流暢さで英語を操った。マイケル・ジョーダンが好きなバスケ部員なんて珍しくもないのだ。だが滝沢は必然の出会いではないかと勘繰りそうになった。円谷はいとも簡単に滝沢の不足を埋めていくのだから。
 円谷の片言隻語が、滝沢の心を溶かしていく。彼の一挙手一投足が、自身が期待するに値し得るものだと滝沢に希望を抱かせた。


 滝沢がキャプテンに個人的に話しかけられたのは夏期休暇に入って直ぐの事だった。部内の打ち合わせや部長会議がある時以外は誰よりも早く帰る彼だが、この日はわざわざモップをかけてから荷物を纏める滝沢を待っていた。その非日常性に若干嫌な気配を感じた滝沢だったが、運動部の縦社会文化は強烈である。キャプテンこと丸山は滝沢を体育館の庇の下に誘導した後、缶入りの清涼飲料水を投げて寄越した。
「滝沢お前、円谷に懐かれてるらしいじゃん」
どちらかと言うと円谷が滝沢に懐かれていると言う方が適切な状態ではあったが、訂正を要する程の差に感じなかった滝沢は頷いた。彼が円谷にだけ横柄な態度を取るというのは、部活内ではよく知られていた。現に、マネージャーと選手の上下関係を強調するような規則を作ったのは彼だった。滝沢は選手としては彼を尊敬していなくもないが、円谷と親しくなる程に彼を人間的に好けなくなっていた。案の定、彼はマネージャーをあんまり甘やかすなと言い放った。
「……円谷を辞めさせたがってるってマジっすか」
ただ、彼がマネージャーに厳しいと言うには語弊がある。円谷個人に対して厳しいのだ。マネージャーで唯一の男だからという理由では説明が付かない程に、円谷への態度は辛辣だった。
「出来る事ならな」
何の臆面も無く言い切られた言葉に、滝沢は思わず閉口した。体育館の外では蝉が忙しなく鳴いている。快晴を思わせる青いパッケージの缶ジュースは早くも汗をかき始めていた。だが滝沢の喉がやたらと乾くのは暑さの所為だけではないだろう。
「でも少なくとも、俺が引退しない限り円谷は辞めない」
不遜な口調に滝沢の眉が寄る。だが彼はそれが自然の道理だと言わんばかりの態度だった。
「元々アイツは俺に憧れてバスケ始めたんだ」
家が近くて昔はよく遊んでやったのだと、納得がいかないという態度を隠さなくなった滝沢に丸山が煩わし気に説明をする。
「アイツが中一の夏、階段から転落した俺の下敷きになって左脚の靭帯がイカれた。それ以来ずっとマネージャーだ」
円谷は語らないが転落した自分を助けようとしたに違いないと、丸山は低い声で言った。アイツは馬鹿だ。その声には円谷への甚だしい憐憫が滲んでいて、痛ましい響きを持って滝沢の耳に届いた。滝沢はどう返事をして良いか分からなくなった。円谷は世話焼きなのに保身にまで意識が回らない節があるのは滝沢も知っていた。そんなところを清らかに感じて好いていたのだ。丸山は自分の分の缶ジュースを開けて喉を潤した。夏の重たい風が二人の首筋を撫でる。
「四年前の話だ。もうバスケに見切りを付けたって良い筈だろう。なのにアイツは高校まで未練を引き摺ってきた」
鳴り止まない蝉時雨の中で、二人の間だけが静かだった。丸山の顎から、汗が落ちた。熱を持った空気に反して、二人の指先は冷たかった。
「俺がシュート決めるとアイツ滅茶苦茶喜ぶんだ……自分の事みたいに。俺に自分を重ねてやがんだ」
不毛だ、と丸山は嘆いた。円谷を貶すような口振りに反してその声には痛切な同情が滲んでいた。だから丸山は円谷をバスケ部から追い出そうとしていたのだ。
「バスケに拘らない方が、円谷は幸せだ」
だから円谷がバスケに愛着を持つ理由をこれ以上作らないでくれと乞う丸山。彼は滝沢と懇意になった円谷がバスケへの執着を強めるのを恐れていた。蝉時雨に滝沢の歯軋りが交じる。
「自惚れんな」
勝手が過ぎている。円谷本人の意思が不明なまま罪悪感を抱え込んで、本人の居ないところで彼の幸福を選別している。そんな丸山の検討違いの善意に憤りを感じて滝沢は遂に中途半端な敬語をかなぐり捨てて啖呵を切った。
「テメエは自分の所為で選手生命絶たれたヤツの前でプレイすんのが後ろ暗いだけだろ」
封を切っていない缶ジュースを丸山に突き返した滝沢は、勢いに任せて丸山の胸倉を掴んだ。滝沢の腕に浮かんだ青筋が彼の腕力と怒りの強さを物語る。
「円谷は誰がシュート決めた時だって自分の事みてえに喜ぶし、誰かに自分を重ねて満足してるだけの小っせえ奴でもねえだろ! 」
滝沢は円谷を馬鹿にされる事が我慢ならなかった。

 キャプテンに怒鳴ってしまった、と滝沢が我に返ったのは自宅に帰った後だった。
 滝沢は自分の立場が悪くなるだろうと危惧したが、謝ったり前言を撤回したりするくらいならそれで良いと一晩寝る内に割り切ってしまった。円谷に対する軽侮ともとれる態度を許したくなかったのだ。それでも滝沢は毎日部活に脚を運んだ。丸山も何も言わなかった。湿度過多な体育館で、気味が悪い程に滞り無く練習は続いた。滝沢だけが感傷と不安に飲まれていた。休憩時間が訪れる度、円谷が選手生命を絶たれた夏もこんなに蒸し暑くて蝉が煩かったのだろうかという知ったところで意味を成さない問いが滝沢の頭を占めた。
 そして大会に出場するメンバーを発表する日の前日、滝沢は部活終了後に顧問と丸山に呼び出された。
 やはり大会出場の夢は消えたと内心舌打ちしたと滝沢だったが、二人が告げたのは真逆の事だった。他校の生徒達の前に出られるよう髪を黒く戻せと顧問は告げて去っていった。西日の差す体育館に残された滝沢と丸山は、どちらともなく眼を伏せた。
「あれは確かに自惚れだ。勝手に円谷を不幸に仕立ててた」
先に気不味さを打ち破ったのは丸山だった。己の非を認めるというよりも告解に来た信者のような面持ちだった。滝沢に円谷について話して以来、ずっと考えていたのだと言った。丸山がキャプテンになったのは、部内で最も優秀なプレイヤーになったのは、円谷に選手生命を守られたという負い目が多少なりとも有ったからだ。活躍する自身に円谷が自己投影する事で慰められれば良いと願っていたのは丸山の方だった。それがいつの間にか彼の中で逆転を起こし、歪んだ解釈が先行するようになっていた。
「……昨夜円谷に電話して話したら、気を使い過ぎだって笑われた」
そもそも円谷が選手でありたいなら、脚が悪くても出来るイスバスなり何なり始めている事だろう。円谷の中ではとうに折り合いが付いていて、諦めや未練といったものは残していないのだった。
「馬鹿だなアンタ」
円谷は良くも悪くも大らかで、彼を許容してしまうのは丸山の予想の範囲内だった。だがそれでは彼の気が収まらないのだ。そんな彼の気持ちを汲んだ滝沢が罵倒の言葉を吐いた。
 その後も丸山の口からは滝沢の知らない円谷の事が滂沱と出てきた。彼らは小学校の時分からの知り合いなので当然情報量も多かった。円谷を知りたいとは思う滝沢だが、他人の口から彼について語られる事が酷く不快だと気付いて、己の欲求の所在を知った。
 滝沢が円谷に向ける感情は、最早信頼や尊敬では済まされなかったのだ。


 「大会に出れることになった」
大会のレギュラーが正式に発表される日の早朝、いつものように誰よりも早く体育館に来て自主練習を始めた滝沢だが、円谷と二人きりという状態になった衝動でつい報告してしまった。円谷はやはり自分の事のように喜んで祝辞を述べた。そのめでたい雰囲気に釣られて滝沢の口は更に動いた。円谷に対する好意が自身でも悍ましく感じる程素直に唇から漏れ出ていく。
「俺、勝つから。アンタの為に勝つから、その、」
続く言葉が好きになってほしいなのか付き合ってほしいなのか逡巡する滝沢を、円谷は首を傾げながら見ていた。円谷は自分より頭一個分以上背の大きい滝沢に腰を屈めるように言うと、いつも通りの生真面目な口調で返事をする。
「滝沢君、そういう事は交換条件や報酬として乞うものではありませんよ」
 そう言って、円谷は滝沢の額に唇を落した。まだアッシュグレーのままの滝沢の髪を梳いて円谷は諭す。
「貴方は自分の為に勝ってください」

 よもやこのような返事をされると思っていなかった滝沢は咄嗟に言葉を紡げなかったが、何とか首を縦に振った。
「ではお友達から」
「いや、さっきキスしてしたじゃん」
「よくよく考えたらまだ知り合って半年も経ってません」
早朝の体育館で我に返った二人が照れ隠しのように言い合う。まずは映画を見て遊園地に行って、と古典的且つ冗長なプランを紡ぐ円谷に滝沢が意義を申し立てる。円谷は滝沢より一学年年上である事を鑑みれば、今二人を繋ぐ部活動という接点など後一年と少しの期間で過ぎてしまうのだが、そのような懸念は端から二人の頭に無いのだろう。

 滝沢は漸く己に欠けていたものを探し当てた。そんな気分だった。



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