件、狗神を訪ねる

 冬の朝とはなんと陰鬱な時期だろうか。足の先に冷気が纏わりついて、人の気力を削いでいく。それだも布団から這い出て働かなくてはなるまい。俺の住む貧しい村は四方を高い山々に囲まれている所為も手伝って日当たりは悪く作物は育たず貧しさと惨めさに一層の拍車がかかる。今日明日の心配をするなら、働く手を休めようなどという考えは到底起こりえない。指先に皸ばかり増やしていく。

 村を囲む山々の内、木々が鬱蒼と茂る一際高い山。その頂上ならば村など比べ物にならない程寒く厳しい冬の様相を浮かべているに違いないと思っていた。そんな考えを嘲笑うかのように山の頂上にある人ならざる者の館の庭に根を下ろした楓の樹は紅く色付いて、風も無いのに葉を揺らしている。
 村の悪習によって妹の深雪が狗神の贄などというものに選ばれたのが我慢ならず、妹に成り代わって山に入った俺は狗神の気紛れで生き長らえてしまった。この先俺に待っているのは、下界とは季節すらも隔絶された奇怪なこの屋敷で狗神に飼い殺される人生だ。死ぬよりは生きていた方が喜ばしいのかもしれないが、深雪と離れた挙句安否を確認する術を失った今は虚脱感の方が大きい。
「御館様がお呼びですよ」
垂髪の幼女の姿をとった妖が客間に行くようにと呼びに来た。一見妹と同じくらいの歳に見えるが、断然深雪の方が可愛らしい。彼女はこの屋敷に憑いている座敷童で、館の主である狗神を御館様と呼ぶ。秘密裏に妹が村から離れる時間を稼ぐ為に一晩神経を使っていた反動か、どうも眠気が身体から出ていかない。今日一日無気力に畳の上で庭を片目に微睡んでいたいという思いがあったが、呼ばれた手前起きない訳にもいかず緩慢に立ち上がる。
 言われた通りに客間へ行くと、狗神に向かい合って大柄な男が胡坐をかいていた。座敷童の話では狗神の古い友人らしい。室内だと言うのに笠を被っている面妖な男だが、人間のように見える。しかし人間を嫌い蔑んでいる節の有る狗神の友人が人間では納得できないので彼も何らかの妖にちがいないと推察する。
「おお、見事。人を飼うなどとは俄かに信じ難かったが、やはり予言は絶対」
男は挨拶も無く此方の足先から頭の天辺まで観察してくる。不躾だと思わなくもないが、狗神の気紛れで飼われている立場上黙ってその視線を享受した。それに男の顔が面長で何処か間の抜けた風貌をしている所為か、威圧感は無く不快感も顔に出せる程強くなかった。
「貴様は女子と言ったであろう」
だから予言は正確でないと狗神が指摘するが、男は予言は完璧だと否定する。
「予言は二つ。獣に好かれる性の女子が其方への供物に選ばれる事になり、其方は人を飼う事になる」
男が指を二本立てて予言の内容を確認し、どちらも合っていると主張する。この男の正体や予言の存在など、気になる事は多いが聞き捨てならない文言が出てきた。
「獣に好かれる性とは如何いう事だ」
思わず口を開く。予言が絶対なら、獣に好かれる性というものを深雪が持っている事になる。二人には突然口を挟んだ事を咎める様子は無かった。寧ろ此方の物怖じしない態度を面白がっているような様子すら伺えた。
「所謂霊感というやつか」
狗神と男が顔を見合わせ説明の言葉を探す。何にせよ自分の妹にそのようなものが有るなどとは微塵も知らなかった。そもそも深雪が贄に選ばれたのは親が居なくて村にとって都合が良かっただけの理由ではないのか。そう訝しめば狗神が口を開いた。
「親が居ないから選ばれたのではなく、特殊な性故に親を亡くしたのではないか」
因果が逆さだと狗神が指摘する。妹を身籠ってから見る見る衰弱していった母を思い出し、何となく背筋がざわつくのを感じた。村はその事を知っていたのかと問おうとしたがその前に男が狗神を咎めた。
「人間の事はよく知らん」
深雪を直接見た訳でもないので憶測の話に過ぎないと狗神が訂正する。そう言われてしまえば此方も追及しようが無いので口を噤んだ。

 此方が大人しくなったのを見計らって男が改めて挨拶をしてきた。それだけで狗神に比べれば随分と柔和で常識的な男だと感じる。本当に人かと疑ったが、笠を取った男の額には角があった。鬼かと問えば奴等と一緒にしてくれるなと即座に否定された。
「件だ。読んで字の如く、人に牛で件」
男ではなく狗神が答える。字は知らないが、件なら知っている。確かに男の頭から生えている角は牡牛の物である。しかし件とは予言をして間も無く死んでしまう妖ではなかったか。此方の疑問を見透かしたように件が問う。
「もし、人間等が予言の出来る獣と出会ったとしたら如何する」
捉えて死ぬまで手放さず出来るだけ多くの予言を搾り取ろうとするだろうと忌々しげに言った。
「人に予言を告げたならが早々に姿を眩ますか、いっそ死んでしまった方が楽だ」
狗神に至っては人になど何も教えてやらずとも良いといった態度である。成程、人間嫌いの友人もまた人間嫌いか。
 人間の身で人間嫌いに囲まれて居心地が良い訳がないが、呼ばれた手前勝手に引っ込む訳にもいかず件を見遣る。此方の鬱屈を察した件が漸く本題に入る。
「して、今日は其方に折り入って頼みたい事があって来たのだ」
狗神の長く尖った耳が厄介事を察知して小刻みに動いた。件はこれだと言って懐から茶色の塊を出した。子狐だった。毛皮が一定の間隔で上下して、眠っているのだと分かった。冬毛の子狐は大人しく件の腕の中に納まっていて愛嬌があったが、その尾は三つに分かれていてやはりただの獣という訳でもなさそうだった。独特の獣臭さが鼻に付いたが、狗神は人間臭いと顔を顰めた。件は頷いて、狐の出生について語った。

 罠にかかっていたところを人間の男に救われた妖狐がその男に恋をし、人に化けて夫婦となった。子供を身籠る頃には男に自身の正体を打ち明けめでたく受け入れられた妖狐だが、妖狐の腹から生まれる子は妖狐。男が認めてもその親族を説得して回るのは無理があった。そこで一旦里に帰ると親族に嘘を吐いて、生まれた子供が人に化けられるようになるまで元の山に妖狐は帰った。しかし、人と妖の生きる時間は同じではなかった。妖狐が子供を無事産み落とした時にはもう、男はこの世の何処にも居なかった。男の面影を僅かに残した彼の遠い子孫を見付けてしまった妖狐は悲しみに暮れ月が三度太って三度痩せるまで泣き濡れた。だが男をどうしても忘れる事が出来ず、彼の子孫に僅かにの残る愛した男の血に縋った。狐に憑かれたその家は莫大な富を得て、狐筋として繁栄するようになった。その妖狐の子供こそが、今件の腕の中で眠る子狐だという。

 俺の曾祖父が生まれるよりも遥か昔からこの子狐は生きているらしい。一体何時になれば成獣になるのか俺には想像もつかないが、恐らく件や狗神には短い時間なのだろう。
「旦那の面影に浸っている母狐に付込んで良いように使役する人間どもに危機感を覚えたらしく、独りで逃げてきたところを私が拾ったのだ。だが狐の子に私と同じように草を食ませる訳にはいくまい。其方で預かってくれ」
人や狗の方が子狐に合った暮らしをさせてやれるのではないかと件は言った。人間臭さに顔を顰めていた狗神だが、意外にも小言の一つも漏らさず了承した。そもそも本当に人間の匂いが駄目ならば俺を屋敷に上げているのが一番可笑しいのだ。狗神は件から上着を一枚剥ぐと、それで子狐を包んで抱いた。子狐は相変わらず眠っている。
 子狐は件に懐いているらしく起きると面倒なので件は今の内に屋敷を出るらしい。
「送ってくれ」
狗神ではなく俺に向かって件は頼んだ。狗神は子狐を抱いていて、座敷童は家に憑くもので外に出すのは酷だというのが彼の弁だ。外は屋敷の周辺と違って酷く寒い上に獣も出る。一番俺が見送りに不向きではないかと思ったが、渋々外に出る用意をする。


 「狗神はどのようにして生まれるか知っているか」
屋敷を出て雪に足を取られながら山を下る途中、不意に件が聞いた。当然知る由も無い。狗神からそんな話を聞いた事も無い。素直に否定すると、件の大きな掌が頭を覆った。他人に撫でられるのは何時ぶりだろうか。
「飢えた白犬を頭部のみを出して生き埋めにし、その鼻先に食物を見せて置き、餓死せんとする時その頸を切る。すると頭部は飛んで食物に食い付き、これを焼いて骨とし器に入れて祀る……此処より南の土地で行われた蠱術だ」
そう教えられてもどう答えて良いか分からない。元は此処より遥か南の地で猪除けとして山に祀られていたのだと件は更に淡々と語った。
「山を切り崩して鉄を作るようになって、人々は狗神を祀っていた社を取り壊した」
人間など身勝手で好かないと言う狗神の言い分が、重みを持って胸の裡で蘇る。件は気の遠くなるような昔の話だと言うが、狗神はこの恨みを忘れはしない。件は歩みを止めないので、話を聞きながら山を下りる。凍てた空気が鼻や耳の感覚を鈍くしていく。だが件の声はよく聞こえた。
「可哀想に。あれは人に捨てられた悲しみをずっと背負っている」
俺にこんな事を話すのは牽制か。狗神にこれ以上人が近付くべきではないという警告だろうか。屋敷から離れた此処で件は俺を始末する気なのではないかとすら思った。身構える俺に件は違うと首を振る。
「捨てられて悲しいのは、情があるからだ」
人の勝手で造られた挙句捨てられて、人に情を持ってしまっているなんて、到底理解に苦しむ。だが同時に嫌いだと言っておきながら俺を屋敷に置いた理由が分かった気がする。狗神はまだ人間に期待しているのだ。下手に沸いた情が彼の落胆を深くして恨み辛みを大きくするというのに、それでも尚希望を捨てられないのだ。犬は情が深くて困る、と件は頬を掻いた。
「あの子と狗神を頼む」
荷が重過ぎると言い返したものの、件は笑うだけだった。確かに、子狐が人嫌いになってしまえば、自身の中に半分流れる血をも憎んで自棄になってしまうだろう。そういった懸念からも件は子狐を此方に預けたに違いない。
「もう見送りは此処までで結構。もうあの子が起きて私が居ないと言って火が付いたように泣き出す頃だ。手に負えなくなった狗神が時期に其方を探して飛んでくる」
これも件の予言なのだろうか。件はそれだけ告げて雪で霞む景色の中に消えて行った。

 件の予言通り狗神は迎えに来て第一声、子狐が手に負えぬと嘆いた。狗神に手を引かれて屋敷へと急ぐ。件の予言が絶対ならば、狗神と子狐は俺がどうにか出来る相手なのだろうと思う事にした。その方が気が楽だからだ。それに妹の面倒を見てきた経験則があるので、恐らく狗神より子守は得意だ。
「面倒見の良い友人を持ったものだ」
此方の腕を掴む手に力が入ったかと思えば、狗神の白い毛がぶわりと逆立った。一目で狼狽えていると分かるのは面白い。


 御館様と二人きりだった屋敷がこんなにも騒がしくなってしまった、と小言を漏らす座敷童と一緒に子狐の世話をする。それが俺の新しい仕事となった。




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