狗神、人に会う

 冬の初めとはなんと憂鬱な季節だろうか。山の麓に在る村の人間共が毎年この季節になる度に此方の棲まう山に身勝手な理由で人を送り込んでくるのだから。私はどうも人間を好く事が出来ない。人は愚かで身勝手で癇に障る。

 この山の麓の小さく貧しい村、高く険しい山々に囲まれ外部との接触が殆んど断たれたそこは、寧ろ一つの国と言っても差し支えない。閉ざされた環境は人々を教養から遠ざけ、幼稚で短絡的な集団である事を良しとしてしまう。だから愚かにも誰一人実態を確かめぬまま、山には魔物が居り人を喰い田畑を荒らし災厄を招くと村人達は信じている。よって、村民は村を守るべく年一度、荒ぶる山を統べる神に生きた贄を寄越すのだ。此方は贄と引き替えの守護など承諾した覚えもないというのに。臆病で無力で愚かな人間には呆れかえる他に無い。得体の知れぬ神とやらに縋る姿は哀れを越え滑稽だ。第一、村を守るというのに犠牲は村娘たった一人だけなどと随分都合が良い。これだから人間は好かない。彼等の願いとはそのように安上がりな対価で叶えるに相応しいものなのだろうか。

 今年の贄が山の深くまで入ってきた気配を感じて、贄の様子を見に行く。
 私自身は人間を嫌っているが、贄が私に宛てられている手前顔は出さねばなるまい。後は適当にこの山では少なくない人の肉を好んで食べる者達に引き渡せば良い。村の人々は彼等を獣や妖、或いは神と呼ぶ。神と妖は人間が有り難がって奉るか否かというだけの差異で、本質的には同一だ。謂わば益虫と害虫のような、人間が勝手に振り分けて付けた呼称の差だ。私はこの山を統べる立場故に神などと称されてはいるが、人間に何か施してやった記憶も無いので人間の損益という尺度で考えるなら妖と呼ばれる方が妥当ではなかろうかと屡々思う。
 夕日も沈み、木々が鬱蒼と繁る山は月と星以外道を照らすものは無い。雪の積もった地を踏み、白無垢を着た贄がそんな山を歩いて行くのを然程遠くない処に生えた松の上から眺める。ただ死にに行くだけの行為と分かっていながら、神に嫁ぐと体良く言い換えて歴代の贄達は皆白無垢を着せられていた。今回も例外ではないらしい。尤も、白無垢は相手方の家へ嫁ぐ為に生まれた家の子としての死を表す装束らしく、全くの見当違いという訳でもないのかも知れない。
 木の枝を書き分けて来た腕には無数の蚓腫れが付いている。見れば泥で汚れた白無垢の裾も少し切れて、枝も絡まっている。要領が悪いのか、余程遠回りして来たのか、白い衣の裾から覗く膝や脛には擦り傷や切り傷があり、血も滲んでいる。しかし、汚れも傷も気にしている様子は無い。前方に手を突き出して振り回し、雪に足を取られながら一歩一歩進んで行く。成程、人は夜目が利かぬ上に山を歩くには適さない脚をしていたと思い出す。一応は私の贄なので私の許可が出ぬ限り誰も贄に手を出す事は出来ないが、これでは子鼠よりも容易く屠られてしまうだろう。私は嬲り殺されようと喰い殺されようと私の知った事ではないのだが、その余りに不便な身体には憐憫を抱かざるを得ない。
 贄は背の高い樹に凭れかかり、樹の根に降り積もった雪を退けて腰を下ろす。小さな手に幾度も息を吹き掛けている。よく見れば耳も赤い。これ以上進み続けるのは体力的に厳しいと判断したのだろう。此方にも贄の疲労は伝わってくる。人間の何と脆弱な事か。
 ふと、贄と目が合う。声をかける前に贄に気付かれるのは中々無い事だった。贄は緩慢な動作で立ち上がり、頭を下げる。私が人ならざる山の主だと察したらしい。
 それにしても珍しい。こういった場面では大抵の者は逃げる。生きたまま嬲られ、喰われるからこその生贄なのだ。発狂する者も少なくない。例え死を覚悟して来た者でも、私の姿を見れば怖気づいて虚勢が剥がれ落ち命を乞うのが常だ。此方の大きく裂けた口やそこから覗く牙に怯えず、人ならざる瞳が闇夜に光る様を見ても驚かない。
 今年の贄は人間の貴人に対峙した時と同様に振る舞って、礼をしたまま頭を上げようとしない。物珍しさ故、興味が湧いた。しっかり顔を見てみたいと好奇心が頭を擡げる。
「面を上げよ」
贄は素直に従って頭を上げる。黒曜石のように黒く大きな眼はしっかりと此方を映している。結われた髪は長く豊かで、黒い絹のよう。肌の色が然して白くないのが惜しいが、貧しい村の娘なら上玉の部類ではないだろうか。随分と肝の据わった娘だ。面白味を感じてしまい、名前を聞く。
「時雨と申します」
娘は躊躇してみせたが、口を開いた。変声期前の少年のような声だった。冬生まれなのだろうが、涙を落として泣く様にも喩えられる雨の名とは些か変わった名だ。だが冬の雨の澄んだ風情は彼女によく似合っているような気もした。
「歳は」
女子にしては背が高い。しかし、衣から覗く腕はほっそりしていて骨張っている。
「……十、三になります」
ぎこちない声が返ってくる。外見や態度から想像していた年より遥かに若い。年の割に随分しっかりしているものだと告げると時雨は無言で唇を噛んだ。褒めてやったつもりだが、彼女にはそうは感じなかったらしい。人間の価値観はよく分からない。
「狗神様」
今度は娘が話し掛けてくる。此方を妖と認めた上で、全く脅えがない。寧ろ、堂々としている。
「私は此処で死ぬのですか」
短いが、彼女にとっては最も重要な事だろう。頷いて、これから山に棲まう者共の糧になるのだと包み隠さず教えてやった。命乞いが始まるかと思ったが、時雨の態度は依然変わらない。ただ確認したまでという風情だ。益々彼女が分からなくなって、死ぬのは嫌かと問う。嫌だと言われたところで処遇を変えてやるつもりは無かった。元よりこれは人間が勝手に行っている儀式なのだから、今更贄を送り返したとしても居場所は有るまい。
「それは構いません。ただ、日の出まで待って欲しいのです」
何を考えているのやら。やはり人間は、殊更時雨はよく分からない。しかし、眼には強固な意思が宿っていた。
「人間の分際で私に命じるか」
鼻で笑ってやると、更にきつく唇を噛んだのが分かった。 勇敢と無謀は紙一重。しかし、その度胸は好ましい。贄とこんなに会話をしたのは初めてだ。それも、たった十三の小娘と。どうしようかと意地悪く問うてみる。怯えて前言を撤回するのが普通かもしれないが、時雨なら此処で更に提案を重ねてくるのではないかと思ったのだ。
「ただ、最後に日を拝みたいのです」
瞳は逸らされることがない。断固として譲らぬ口調。体の横で拳を握りしめ、確と此方を見ている。
「皆の者。貴様等はどうしたい?」
この地に棲まう獣や妖に問う。彼女を貪り食う時を息を潜めて待っていた者達が一斉に喚く。待ちきれない、今すぐ殺せ、喰わせろ、と口々に叫ぶ。地が鳴り、樹が揺れ、山がざわめく。流石に不安になってきたらしく、大きな眼が潤む。彼女はここで初めて畏れを抱いた。成程、恐怖心そのものは有ったらしい。
 だが私の中では既に答えは出ていた。他の者共が何と言おうと変えるつもりも無かった。しかし、私の知る人間とは幾分ずれたこの小娘が動揺する顔が見たかった。
「良かろう」
水を打ったように辺りが静まり返る。不満が有るものは多かろうが、私の機嫌を損ねてまで反対する者は居ない。
「日が出るまで待ってやる。貴様を妖共にくれてやるのはその後だ」
「有難うございます」
頬を緩ませ礼を言い深々と頭を下げると、脱力しその場にへたり込んだ時雨。
 人間相手に愉快になったのは初めてだろう。 時雨は人間だが泣かないし喚かないし不快でもない。


 待ってやるとは言ったものの、日が出るまでは暫く暇である。時雨は木の根に座り直し、ぼんやりと星を見る。時折、足を擦り合せ、手に白い息を吹き掛けながら、睡魔と闘う姿は微笑ましいとすら思えた。
 肩を震わせ、赤い鼻を啜ると、小さなくしゃみをした。一度したら、二度、三度と続いた。
「冷えてしまいました」
どうしたのかという問いに震える声で答えた唇は、青紫色だった。冬の山でじっと座って夜明けを待つ時雨には、この寒さは堪えるらしい。人間は弱い。そして、脆い。常々そう思っていながら、全く考えが及ばなかった。
 ただの気紛れだ。強いて言うなら気が咎めたのだ。
「来い。私の屋敷なら、暖が取れる」
山頂付近に位置する私の屋敷なら、屋根も壁も毛布も有る。此処よりは良い。半ば強引に時雨を立たせる。白かった衣の尻の部分は、泥と苔とで汚れていた。歩く内に粗方乾いて落ちるに違いないとは思ったが、見苦しい部分だけは手で払ってやった。どうせ明日までの命なのだから、風邪を引こうと汚れようと放っておいても良かったのかもしれない。だが、最期だからこそ惨めな格好をさせるのは気が引けた。思いの外人如きに情が移ってしまった自覚はある。妖達に引き渡しても、辱める事や甚振る事は禁じて穏やかな死を迎えさせてやろうとすら考えていた。

 ふと、気になった。彼女は何故、太陽に執着したのだろう。
「日輪が好きなのか」
無言で私の後に続いて歩く時雨に問いかける。この聞き方は些か可笑しいとは思い、答えが返る前に問いを重ねた。
「如何して日を拝みたいとなどと言った」
時雨は暫し思案した挙句、何故でしょうと呟いた。此方が聞いているというのに呑気なものである。
「きっと最期だからでしょう」
後ろからやや掠れた声で言った。やっと出した答えも答えと呼べるものとは程遠かったが、人間とはそのように曖昧なものと納得する事にした。


 私の屋敷を見上げた時雨は感嘆した。
 外の季節は冬。しかし屋敷の庭に植わった楓がその道理を無視して紅葉している。人間には受け入れ難いのだろう。口を半開きにしたまま閉じ損ねている時雨を縁側に座らせる。此処なら暖かかろう。
「何故貴方は贄を必要としたのですか」
今度は時雨から問いかけられた。死が怖くなったというような口調ではなかった。責めているようでも、好奇心故という訳でもなさそうだ。
「人が勝手にやっている事。私は存ぜぬ」
時雨のただでさえ大きな眼が見開かれる。しまった。反射的に口を押さえる。後悔した。時雨は贄だ。その贄に意味が無いと言われれば、自身の存在を否定されたも同じ。もしかすれば、村を救うだのと信じ意気込んで来たのかもしれない。異常なまでの落ち着きようから、そう邪推した。
「では、迷惑でしょう」
しかしそうではなかった。それどころか、私に同情すらしてみせる。時雨は本当に奇怪な存在だった。時雨は白み始めた空を見上げながら、至極穏やかに日が昇るのを待っていた。
 弱く脆く愚かで臆病で卑しい、私の嫌う人間。芯が強く豪胆で肝の据わった、贄である時雨。時雨にも恐怖心は存在する。この寒さで風邪を引きかける程脆弱だ。確かに人間なのだ。しかし、嫌いにはなれない。それが不思議でならない。彼女は何故、これだけ死が迫っても落ち着いていられるのだろうか。彼女は何故、自分の役目が意味を成さないと知っても平然としているのだろうか。謂わば無駄死にだというのに。贄になどならなかったら、彼女はもっと人生を謳歌出来た筈なのだ。美女とは形容し難いが、しっかりしていて度胸もある。人間風情に情が移り過ぎていると自嘲的になる半面、人間が皆時雨のようだったら彼等をもっと好きになれたであろうと彼女を惜しむ心が掻き消える事はなかった。

 約束の時が迫る。空の東の方はもう赤みが差してきている。
 不思議な事に、時雨の表情は時間が経つにつれ、柔らかいものとなっていた。結局時雨が日輪を拝みたいと言った理由は曖昧に濁したままだったが、彼女の最期の希望を叶えてやれた事に満足感を抱いていた。庭の木々の影が徐々に伸びていく。麓の村はまだ山々の陰に遮られて太陽の光が届いていないが、幸い此処は一際高い山の頂であったので、日輪が遥か遠くの地平線から昇ってくるのが良く見えた。村で育った時雨には、こんなにも早い冬の朝は初めてに違いない。縁側に座ったまま地平の彼方を見つめる時雨の背は凛と伸びていた。
「行くぞ」
日の出次第時雨をくれてやるという妖共との約束を守る時が来た。時雨も潔く頷き、とうに乾いた泥を払って立ち上がる。先を歩く私に続き、二、三歩歩く。
 背後で、恐らく転んだであろう音と「あっ」という微かな声がした。振り向くとやはり時雨は尻餅をついたらしく、折角綺麗になった白無垢をまた汚していた。ずっと座っていたから、足に力が入らなかったのだろう。
 しかし、そんな事は問題でなかった。豊かな黒髪が地に転がっている。そして、時雨自身の頭は襟足で大雑把に切られた自毛が露出している。
「鬘か」
言われて気が付いたらしく、右手で鬘の乗っていない頭を撫でる。何故鬘を被る必要があったのか。―転んだままの体勢の時雨の衣から見える骨張った膝。十三の小娘にしては高い背。変声期前の少年のような声。
「もしや、男か」
時雨は、会った時のように唇を噛んだ。しかし今回は眉間に深い皺が刻まれていた。そして暫くして、静かに頷いた。申訳ありません、と私を見上げた格好のまま短く謝る時雨。十三とは咄嗟に答えた例年の贄の歳で、自分は十五の男だと言う。
「何故」
何故娘のふりをして贄に成り済ました。何故私を騙した。時雨は応えず、ただ黙って首を振った。

 私は激しい怒りを感じた。贄か否かは重要でない。そもそも私が贄を要求したのではないのだから。問題はただ一つ。私を欺いた事だ。
「人間風情が私を愚弄するか」
私は時雨に対し珍しいと、愉快だとすら感じていた。情さえ移りかけていた。何という屈辱。何と忌々しい。私を裏切り欺いた。やはり薄汚い人間だというのか。妖共にはやらず、々に脳髄を散らしてやろうかと酷く凶暴な気分になって、時雨に掴みかかる。胸倉を掴んだまま馬乗りになるが、時雨は瞬き一つしない。
 下腹部に黒炎が渦巻いていくような、憎悪。奥歯がぎりりと嫌な音を立てて鳴るのが分かった。
 時雨は人間。やはり、脆弱で臆病で卑怯で愚かな、私の忌み嫌う人間には変わりないのだ。

 一体、どれ程睨み合っただろうか。不意に時雨が笑った。
 達成感すら湛えている酷く場違いな笑みだった。その顔のまま唄うように時雨は言った。
「もう殺してくれて構わない」
私に掴みかかられたままの状態だというのに、時雨は私の背中越しに空を見上げている。眩しそうに目を細めて充分に時間を稼いだからもう良いのだと続ける。
「俺を殺しても気が済まなければ、村も焼き払うなり好きにしていい」
自身の命にまるで無関心で刺し違える気概もなく、村にも愛着が感じられないどころか偽悪的な台詞すら吐いた時雨。その目的が読めない。拘束と威嚇を兼ね、右手で細い首を掴めば時雨は苦しげに呻く。しかし眉を寄せたのは一瞬だけ。笑みは絶やされない。こんな首、力を入れたら直ぐに折れてしまうというのに。
「目的は何だ」
人間は嫌いだ。しかしこれ程までに人らしくないと、逆に苛立つ。己も村も可愛くない。では何の為、何を企む。返答によっては容赦などしない。皮膚の上から見える血管にゆっくりと爪を立てる。
 聞きたいかと時雨が問う。返答代わりに首を這う指の力を緩めてやれば、どうせお前には分からぬ事だと言いたげな表情で白状する。
「妹が今年の贄に選ばれたが、俺は妹を生かしたかった。それだけの自己満足だ」
笑みは剥がれ落ちて感情の読めない顔がそこにあった。
「俺には父母は居らず歳の離れた妹しか、深雪しか居ない」
父の存在は希薄で母は妹を生んで直ぐに亡くなったと言う時雨。確かに私には理解し難いが、兄弟愛というものなのだろう。時雨からは同情を買おうという魂胆は見えない。私の反応を伺おうとせず、ただ喋る。首筋に当てられた私の鋭い爪の生えた指の上を、時雨の細い指が撫でる。その指に押され、私の爪が時雨に食い込んでいく。
「贄にさえ選ばれなければ、俺と深雪は懇意になった商人の養子として都に行く筈だった。こんな盆地の雪ばかりの貧しい村を二人で出られる筈だった。なのに、深雪は贄に選ばれた」
だから自分が妹の代わりに山へ入ったのだと時雨は言った。妹が村を発ったのは昨日、今日の明け方には我々や村の者共の手の届かない処だと踏んで時間を稼いでいたらしい。男と発覚した時、激昂した此方が村に何をしようと妹の居なくなった村なら時雨には何の価値も無い盆地だ。
「何を犠牲にしようと、誰が犠牲になろうと。深雪の方が大事だ」
勿論その中には、時雨自身も含まれていた。寧ろ時雨は妹の為に死ぬ事こそが本望なのだろう。だから、時間さえ稼いでしまった後なら殺される直前であろうと満ち足りた顔で笑えるのだ。妹への愛情の裏で、理不尽な村の制度の所為で彼女の成長を見守れなくなった悔しさや怒りが混じり合った声だった。なかなか喜怒哀楽が表情や態度に現れなかった時雨から見せる激しい感情に少し驚く。
 時雨はもう一度微笑んだ。女と偽っていた時の表情に乏しい笑みでもない。殺せと宣った時の達成意識に脱力しきった笑みでもない。一つの目的の為に凡てを受け入れる覚悟をした者の幸福がそこに在るのだろう。慈しむような、温かい眼差し。
「深雪を贄にやってしまったら俺は生きていけない。どう転んでも俺は死ぬんだ。なら少しでも、深雪の為に死にたい」
偽善的なのは嫌いだ。時雨は妹の為に死ぬ事が出来るなら嬉しかろう。だが時雨が犠牲になったとて、妹が無事に都に着いたと知る方法は無い。仮に妹が無事に都に着いたとして、兄を犠牲に生き長らえた妹は笑っていられるだろうか。妹の幸せは時雨の願望の中だけで完結する独り善がりだ。それを時雨も分かっているからこそ先程も自己満足と称したのだろう。
 しかし時雨の醜悪なまでの妹に対する執着は嫌いではない。強かで潔い。首から手を退ける。怒りは何時の間にか小さくなっている。
「貴様はど中々愉快な奴だ」
「お前には不愉快でつまらない話だろう。さっさと殺せば良い」
その強情さも気に入ってしまえば愉快なだけである。それに気付かず意地を張り通そうとするのだからなお面白い。ふと意地の悪い事を思い付いて、提案の体を取って耳元で囁く。自分の生死にはてんで興味の無い時雨が慌てふためいて取り乱す様子を期待して揶揄う。
「貴様を殺めるのがつまらないなら、妹の方を殺すとしよう」
時雨は眼を見開いて動揺の色を見せたがそれは一瞬だけだった。直ぐに平静たる顔に戻った挙句、挑発的な態度で此方の出方を探る。
「広い都で一人一人捜すがいい。因みに深雪と俺はあまり似ていないから、俺の面影とやらは当てにならないだろうな」
時雨はわざとらしく鼻で笑ってみせる。お前が殺したいのはこの俺だろうと言わんばかりの態度だ。しかし妹が手にかけられる懸念を全くしていないように装う技量は無いらしく、気を抜くと眼が頼りなく泳いでしまう時雨。
 その様子はやはり愉快で、殺すのが惜しくなった。
「死ぬ覚悟でいる貴様を殺めたところで私への侮辱の罪は消えぬ。だがこれが貴様の独断なら、妹に報復するのも酷な話だ」
滅茶苦茶になった白無垢の襟を正してやりながら同意を求める。時雨は妹に手を出されない可能性に分かり易い関心を示す。交渉の人質が居場所どころか人相も知らぬ話に出て来ただけの人物というのは些か滑稽だが、恐らく時雨には最も有効な手段だろう。
「そこで、貴様から望む死に方を奪うというのはどうだ」
時雨は私を怪訝そうに見上げる。妹に手を出さない事を条件にこの屋敷で時雨を飼い殺す。そう告げると時雨が呆気無く提案を呑んだ。
「煮るなり焼くなり好きにしたら良い」
どうせ死ぬつもりで此処に来た身だ。嬲り殺される覚悟も有った。そう言って時雨が降伏する。
 時雨の上から退いてやり、立たせる。楽しませてくれるのなら、妹に会い行くくらいの散歩は認めてやらなくもないと考える。もう空は明るい。私の横で時雨は深い溜息を吐いていた。



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