転居

 桑子 青葉。それが少年の名だと知らされたのは、彼からの三回目の手紙だった。
 調べてみると桑子とは嘗て養蚕に関する人々が名乗った名字らしく、皮肉なまでに少年の境遇に合っていて思わず閉口したものだ。だが、もう彼の蚕のように白過ぎる肌は人並みに焼けただろう。蚕のように不自由だった彼は、自由に近付けただろうか。
 今日、少年が帰ってくる。

 車を少年院の近くに停めて、退院した少年が来るのを待つ。年末の往来は葉の落ちた街路樹の所為で殺風景だ。今しがた聞いた車内ラジオによると、今日の夜には雪が降る。
 少年の境遇は世間の注目を集めた。義父に飼育されて性的虐待を受けていた少年は女教師の痴情の縺れよりもセンセーショナルで、マスメディアでは名無しの被疑者として犯人として少年Xという怪盗じみた渾名まで付けられる始末だった。極短い期間ではあるが、俺にも少年を出頭するよう説得した男性Aとして取材依頼が来る事があった。世間の同情と話題が集まったお陰で何の後ろだても無かった少年に大手の人権派弁護士が付いたのは幸運だった。その甲斐有ってか少年は一年近い裁判を重ね審議を繰り返した結果、検察官送致を免れ少年院送致となった。世論でも義父殺しは緊急避難とも解釈し得る状況であり、当時の少年の責任能力の希薄さも鑑みれば保護処分が妥当であるというのが大多数の意見だ。正直俺に至っては義父に一切の同情をしていないし、院に送致された彼には反省や更生ではなくただ前向きに生きられるようになる事を期待している。彼が自身の過去や犯した罪に折り合いを付け、また笑って日の下を歩けるようになってくれれば万々歳だ。
 少年は少年院にしては長めの三十ヶ月という入院期間を勧告されていて、月に一度の頻度で近況を報告する手紙を寄越した。面会も手紙の遣り取りは原則三親等以内の親族のみだが、俺が彼に出頭するよう促した事が知られている為に彼の更生に必要と判断され文通を許可されたのだ。少年にまともな親族が居ない事も手伝ったのかも知れない。その中で、彼の名前や戸籍がどう扱われていたのかも知らされた。院では仲良くなった人からアオと呼ばれているらしい。彼にとっては初めての友人らしいので喜びを分かつ手紙を返したが、俺が真っ先に彼の名を呼びかたったというのが大人気の無い本音だった。

 彼のアイデンティティの根幹を成すものから下らない雑談まで詰まった三十通の手紙をダッシュボードから出して眺めながら、少し大人になった少年を思い浮かべる。少年の成長は手紙からも伺えた。読む事は出来ても書く事には慣れていない少年の拙い字が、枚数を重ねる毎に上手くなっていくのは楽しくもあり嬉しくもあった。辞書を引くのが楽しいと書かれていた時は、わざと難しい語句を使って返事を書いた。少年は読書家で、一年を過ぎた頃には名著の引用も理解した。特に俺が何度も読み返したのは三十通目の手紙だった。何度も消しては書き直した跡が残る最も新しい手紙。その手紙には、また一緒に暮らしたいという旨の言葉が並んでいた。絶望に死を決意した少年が、生きていく事を考えている。それも、俺と共に。
 道路に少年の姿を認めて軽くクラクションを押せば、彼は驚いた顔をして此方に駆け寄ってきた。急いで手紙を仕舞って彼が乗る為に助席を空ける。
「迎えに来てくれたの?」
焦げ茶色に戻った髪を掻き上げて、助手席の窓から此方を覗く少年。人懐こそうな表情は相変わらずだが少し背が伸びて、精悍な雰囲気を帯びた。世間では彼のような容姿をイケメンと呼ぶのだろう。
「お前が可愛い手紙を寄越したから」
一刻も早く会いたくなったのだと告げれば少年は照れたように笑って車に乗り込んだ。少年は、よく笑う。

 義父から死んだ事になっていると聞かされていた少年だが、実際は失踪届けが提出され失踪宣告によって死亡扱いになるのを待っている状態だった。少年の話から察するに彼が義父に良いようにされていた期間は五年以上あるが、失踪宣告には失踪したと認知されてから七年の期間を要するらしい。少年が自分は社会的に死んでいるものだと思って苦しんでいたあの日、俺にこういった知識があったら彼をもっと上手に慰められたのだろうか。今でも時々そんなどうしようも無い事を考えてしまう時があった。

 車が走り出して一つ目の信号待ちで少年が口を開いた。
「俺さ、ただいまって言わせてって、言ったよね」
言ったなぁ、と懐かしげに返事をして見遣れば少年は拗ねていた。どうやら俺があのマンションで待っているというシチュエーションに憧れていたようだった。拗ねると口が尖るのは相変わらずで、正直可愛い。欲目八割だとしても庇護欲と加虐心を擽る顔は詰問には向いていない。
「今日の朝引き払ってきたんだ。あのマンション、来年中には取り壊すらしいから」
立体駐車場になるらしいと言えば少年が瞠目する。だが無理も無い話だった。事件が二件も起きたマンションだ。俺が退去を決める前に大勢の人々が出ていった。以前よりエレベーターが来るのが早いだなんて喜んでいたのも最初の内だけで、ネットで事故物件として話題になってからはそれに怪談紛いの尾鰭がついて変なマニアが彷徨くようになって治安も悪くなった。死んだ女教師の霊が出ると聞いた時は事の顛末が捻れ過ぎていて頭を抱えたものだ。梅雨前になると少年のドキュメンタリー企画と称したマスコミが未だに数人は来るのも困りものだ。
「俺、あそこら辺しか知らないんだけど」
出不精の人見知りは相変わらずなのか少年が困った顔をしてしまった。
「お前の順応能力の高さならやっていけるだろ。もう新居に荷物届いてるし」
「ん。オニーサンと一緒なら、何処でもやっていける」
少年があまりに健気で可愛いので頭を撫でようとするが、するりと交わされて外方を向かれてしまった。耳が赤い。照れているのだ。残念だがここで信号が青に変わったので、前に向き直ってアクセルを踏む。
「もうオニーサンって歳でもないけどな」
次の信号を右折する為にウィンカーを出しながら雑談を続ける。元居たマンションとは反対方向に向かって走る車のエンジンは快調だ。
「前からオニーサンって歳じゃなかったよ」
辛辣になったなぁと笑えば、こんな俺ですが今後ともよろしくと返る。嘗ては遠慮がちだった少年が辛辣な言葉を吐けるようになった事に、信頼されているような気がして頬が緩む。此方こそ、オッサンですがどうぞよろしく。そう軽口を叩けば車内は二人分の笑いで満ちた。
「オッサンではないよ、まだ」
「お前な、娘と同い年なんだぞ。もうオッサンでいいよ」
「誠嗣サンって呼びたい」
手紙の宛名としてなら何度も見てきた自分の名前だが、呼ばれるのは初めてだった。いいよ、と返した声は情けなくも掠れていた。運転中なのに、眼が潤んできた。

 情緒不安定なまま安全運転を全うした自分を褒めたい。新居のガレージに駐車するや否やエンジンも切らずに少年の唇を吸った。いや、もう少年じゃない。もう青年の域だ。刷り込みや義理でも強迫観念でもない、少年が三十ヶ月考え抜いた結論として彼は今此処に居る。その事実のどんなに素晴らしい事か。
「ちょっと、俺、車ん中は嫌だよ」
感極まった俺に青葉が焦った声を出す。そこまでするつもりはなかったけれど、慌てる彼が愛しくて額にも口付ける。
「今部屋に行っても段ボールだらけだからどっちにしろ無理だ」
「計画性の無い大人!」
そういう事を期待していたのは青葉の方で、明らさまにがっかりされてしまった。宥めるように顔中にキスを降らせる。
「でも、誠嗣サンの、そういう狡猾じゃないトコ、好き」
確か、狡猾でも器用でもないのならとことん誠実になるのが幸せになる最善の方法なのだと述べていたのは、彼の二十四通目の手紙だ。嘗て己の不誠実さに全てを失った狡猾でも器用でもない男に当てた手紙だった。少年が過去と向き合ったように、成長していこうとするように、俺も変わらなくてはならない。幸せを壊さない為に。
 今度こそ、幸せな家庭を作る。彼の愛する誠実な大人になろう。そう宣誓したならば、まずは約束を守ることから始めなくてはならない。
「お帰り、青葉」

 「ただいま、誠嗣サン」

 二階建ての2LDKの新しい住居、そして俺の隣。そこが青葉の寛げる場所である為に。



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