解体

 独りの夕食は当たり前だった筈なのに、今では違和感がある。少年と夕食を取る為に早く退社しようと努めていた期間が懐かしい。意味も無くテレビを点ける。雑音が部屋に堆積した憂鬱を誤魔化す気がした。コンビニで買った青椒肉絲を皿に移してレンジで暖めていると、チャイムが鳴った。
「……ニュース見た?」
少年だった。
 近所のコンビニのロゴが印刷された半透明の袋を抱えた少年が玄関に立っていた。窶れてはいるが、生気はある。ニュースは見ていないが今テレビを点けたところだと告げ、少年を部屋に入れる。
「もう外出して平気なのか」
少年が頷く。持参した袋からワインボトルとつまみ類を出していく。久し振りでしょとアルカイックスマイルで此方を見遣る。特別貴重な物ではなく大衆向けの安価な赤ワインだったが、少年との晩酌は嬉しかった。
「最後の晩餐ってやつ」
腹を据えたという風情だった。義父の件を告発する気になったのかと問えば、曖昧に笑った。
「取り敢えずオニーサンに色々話そうって決めたの。そこから考えようと思って」

 少年が栓抜きを使ってワインのコルクを抜く。少年がワインを注ぐ間に彼にも青椒肉絲を装ってやる。随分重大な役目を担わされたと思ったが、悪い気はしなかった。今日は少年も酒を飲むつもりらしく、自分の分まで注いでいた。向かい合わせにテーブルに付き、乾杯も早々に少年が口を開いた。俺に言えなかった事が沢山有るのだと言う。
「オニーサンさ、俺の名前知ってる?」
知らないでしょ、と言われて初めて気が付く。態々他と区別する為に呼称が必要になる程、彼と俺の世界は雑多ではなかった。
「俺も知らないんだよね」
随分呼ばれてないから忘れたのだと告げた。物心付いた時から両親にはアレとかソレという指示語で呼ばれ、叔母夫婦に引き取られた後も碌に名前を呼ばれた事が無かったと白状する少年。どう返事をして良いか分からず、ワインを喉に流し込んだ。
「叔母が死んだ後、パパはポチって呼ぶようになったよ。パパの客もそう呼んでた」
履歴書の件から浮かない顔を見せるようになった訳を悟った。人間らしく扱われて人間らしい行いが出来るのが嬉しいのだと言った嘗ての少年の笑みを思い出す。誰もが当たり前に有するものを殆ど持っていない彼は、懸命に人で在ろうとしていた。学ぶ度、人に近付く度、自分が如何に人から離れてしまったか思い知らされて苦しかったに違いない。調べるにも厄介なのだと少年は続ける。
「パパが言うには、俺は叔母と一緒に死んだ事になってるらしいんだよね」
急にサスペンスじみた展開になったが、同時に社会から完全に隔絶出来た理由について納得した。社会的に存在しない人間なのだ。義父が遺体や葬儀をどう工作したのかは知らないと少年は言うが、彼が社会から消された年数は余りに長い。彼を知る人もとうに死んだものと見ているだろう。いや、義父の他に引き取り手を探す事が難しいと言っていた事を思えば、彼を覚えている人はもう居ないのかも知れない。少年が此方のグラスにワインを注ぐ。少年のグラスはまだ全然減っていなかったが、此方は随分早いペースで飲んでいた。余りに酷い話だ。アルコールと一緒でないと飲み込めなかった。
 どんよりと頭が重く感じて頬杖をついた。
「義父の事を告発しない限り、お前は社会では生きていけないって事か」
少年が肯う。目眩がした。義父が居なくなって直ぐ、彼は義父の客の中から自分の面倒を見てくれる人間を探す事も考えたと言う。社会と隔たって人の手の中しか生きられない事を彼自身が一番よく知っていたのだ。
「オニーサンとおままごとするの、楽しかったよ」
その言い様に反論しようとしたが、実を結ばないと分かりきっている自立支援など確かに戯れに過ぎないのだと思い知った。根本的な社会との隔絶に気付いている彼と、彼が普通の人間として生きていけると温く考えていた俺との温度差を感じた。
「もっと早くに聞いてやれなくて悪かったな」
彼が何かを言いかける素振りをした事は幾度もあった。これらの事を告げるべきか随分前から悩んでいたのだろう。もっと早くに聞いていたら、何か変わっていただろうか。少年が首を振る。
「オニーサンはとっても良くしてくれたよ。大好き」
少年が席を立って、隣に座る。少年の手が太股を這う。初めて少年に会った時と同じ体勢だった。その大好きは義父に対する依存とは異なる種類の好意である事を祈った。
「オニーサンも、俺の事好きでしょ」
年齢に不相応に艶と陰のある笑みが此方の奥底を見透かしているようだった。
 俺はそういうのじゃない。あの時と同じ言葉が出そうになった。だがもうそんな事を言う資格は無いと口を噤んだ。此方が少年に向ける大人が子供に向けて良いものではない邪な執着と欲望を悟られていた。何時から知られていたのだろうかと考えるが、此方がこの想いを自覚するより早く察知していた可能性も有るだろうと考えて、その兆候を探すのは止めた。彼にとって義父とどう違うのだろう。彼の自立を促した事だろうか、売春行為を強要しない事だろうか。だが所詮はどちらも自己満足でままごとに過ぎなかった。義父やその客と同種の欲求を抱える此方が彼に危害を加えないという保障など無いのだ。大人に虐げられてきた彼には自分より大きくて力も強い存在は脅威だろう。俺と少年が過ごした日々の中で、果たして此方が信用に足る人物であると示せていただろうか。妻への背信行為も知られている。娘一人満足にケアしてやれない最低な大人だという事も。駄目なところばかり見せている。何時理性と獣性の均衡が崩れて彼を閉じ込めてその身体を開くのか、彼は此方を伺いながら接していたに違いない。時限式爆弾付の安寧など、何の価値があるというのだろう。
 絶望的な事を考える内に頭が朦朧としてきた。
「ああ好きだ」
自棄になって頷くと、少年の細い腕が首に回る。彼の小綺麗な顔が近くに来て、此方の瞳を覗き込んでくる。少年の日光に弱い朽葉色の瞳が潤んでいた。噛み付くように唇を吸った。少年の唇は荒れていたが、形が良く柔らかい。何時かの夢とは比べ物にならない恍惚を味わう。舌で行儀良く並んだ歯列を確かめ上顎を撫でる。俺の妄想とは対照的に彼は能動的で、舌を絡ませ合いながら片手で此方のシャツの釦を外していく。碌に刃物も持った事が無かったとは思えない巧緻性を披露した。酸欠なのか頭が茫とする。少年が唇を耳に寄せてくる。吐息が耳朶を擽る。擽ったくて身を捩れば少年の口が追ってきて俺に囁いた。睦言に似つかわしくない明瞭で温度の無い声だった。
「別に恨んじゃいなかったよ」
 何の事だと少年を見るが、彼の視線は此方には無い。外方を向いた少年の視線を辿ればテレビでニュースがやっていた。人里離れた山で男の絞殺体が発見されたらしく、発見当時を再現したCG映像まで用意されている。連日の雨が山に埋めた遺体を暴いてしまったのだろう。絞殺した上に無数の刺し傷を作っている事から怨恨を持っている人物の仕業ではないかと口を挟むコメンテーターを少年は冷めた眼で見ていた。暫くして相変わらず色調の可笑しいテレビに被害者の氏名と顔写真が映る。その被害者に似つかわしくない悪人面は見覚えがあった。
 パパ。少年が表情の抜け落ちた顔で呟く。少年は義父が決して帰って来ないと分かっていたのだ。未だ陶酔から抜け出せず朦朧とした頭でも、少年が携帯電話を持っているにも関わらず決して連絡が来なかった事も合点がいった。
「……恨んでなかったって?」
少年が此方に向き直って頷く。恨んでいるから首を絞めて身体中刃物を突き刺して土に埋めたのだろうと問う。少年が得体の知れない物に見えた。警察に怯えていたのは自身の為か。
「あの時はね。恨みとか上等な感情は持ち合わせてなかったんだ」
今は少し恨んでいると言った。少年が俺に頬を寄せて、左手で露出した首筋を撫でた。危機感は感じたものの身体を動かすのが億劫で、彼の冷たい指先が喉仏を確かめるように皮膚を這うのを享受する。当時の少年に恨みという感情が無かったとして、その感情を芽生えさせたのは俺なのだろう。
「パパ、あの人がね、俺を縛った縄を始末し忘れてたから、それを拾ってあの人の首を絞めた」
今までパパと呼んでいた義父の呼称を他人行儀に切り替えて告白した少年。ショッキングな事を聞き過ぎた所為かもしれないが、思考が鈍く恐ろしい告白をあまり恐ろしいとは感じなかった。
「疎んでも恨んでもいなかったけど、身体が咄嗟に動いたんだ。殆ど衝動。あの人が居なくなったら、知らない世界と出会える気がした」
自由に歩ける外の世界がどんなものか気になったのだと続ける。その時の彼は自分がしている事の恐ろしさも自覚していなかったのだろう。その衝動はある種の本能だったのかもしれない。空を飛んだ事も無い鳥籠の鳥が籠を啄いて外に出ようとするのと、きっと同じだ。
「死んでるってどういう状態か分からなかったから、首を絞めて動かなくなった後も身体中色んな所を沢山刺したよ。死んでほしかった訳じゃないけど、一度牙を剥いたんだから引き下がれる訳もなかった」
確かに中途半端に義父が生きていたら、その報復は恐ろしいものになっただろう。もしかすると、そこで死んでいるのは少年の方だったかもしれない。
「おまえの、つみを犯してでも手にいれたいものって、自由か」
喉が渇いて舌が上手く回らない。喉を潤そうとしてワイングラスを取るが、手が空を切る。
「そうかも」
何かが可笑しい。流石に陶酔でも動揺でもないだろう、と焦点が合わず距離感を見失った視界で考える。揺れ始めた視界の中に少年の右手が映る。その手の中に鈍い銀色の光を見た。ワインコルクの栓抜きだ。少年の左手が首筋を撫でる。それは今までの愛撫や戯れではない、血管を探す動きだった。栓抜きを取り上げようとするが、手が上手く上がらない上に距離感も正しく捉えられず、ワイングラスを倒しただけに終わった。床に流れる血のようなワインを横目に、この中に俺が彼に渡した睡眠薬が入っていたのだと確信した。今更気付いても、もう遅い。少年が向かい合う形で俺の膝に跨がる。
「やっぱり今も、罪を犯してでも自由が欲しい」
少年は社会では存在しない存在で、俺の口さえ塞いでしまえば義父の事件など迷宮入りだ。そう踏んだのだろう。眠気に思考を妨害されながら少年の挙動を思い出す。釦を外すにも愛撫にも彼は一度も両手を使わず片手のみで行っていた。刃物を使った事が無いなんて嘘だ。俺は出会った最初の日から彼が栓抜きを扱う所を見ていたではないか。少年の力で、まして螺旋状の刃ではとても肉を貫けるとは思えないが、きっと今ならそれで充分に殺せる。その尖った栓抜きの先端で昏睡した俺の頸動脈を切ってしまえば良いのだから簡単に違いない。幸いなのは義父を殺めた時より彼に知識がある事だ。死んだ後も滅多刺しにされずに済むだろうし、昏睡した状態の時であれば痛みも少ないだろう。
 朦朧として纏まらない思考の中、今際の際に何か言葉を遺した方が良いのだろうか思い至ったが、呂律が回らない事を思い出して止めた。暈けた視界にはまだ此方の様子を観察している少年が映っている。多分強張った顔をしている。そんな気がした。最期に少年の頭を撫でてやりたい欲も有ったが、今から殺す人間に撫でられる少年の心情を思って止めた。
 重い瞼が下りるその直前まで、ただ少年を見ていた。


 身体に鈍い痛みが走って眼を開けた。テーブルと椅子の脚が横向きに見えていて、自分が倒れている事を知る。
 覚醒から一拍遅れて記憶が甦ってきた。思わず首筋を触って繋がっている事を確認する。俺は地獄の縁から復活したのではなく、寝惚けて椅子から落ちて目が覚めたらしい。しかし何故生きている。慌てて少年を探して辺りを見回すと、少年はベランダに居た。殺し損ねた俺が居るリビングに背を向けて朝陽が昇る前の空を見ている少年の静けさに、一瞬自分はとうに殺されていて化けて出ただけなのではないかと勘繰った。しかし時刻も深夜ではなく早朝と言った方が適切な時間で、何より身体の痛みが生きている事を証明していた。
「何で殺さなかった」
ベランダに繋がる硝子戸を開けて少年に声をかける。
「ろくに抵抗もせず殺されようとした方が何でって感じ」
少年が振り向かずに答える。少年にこの恥の多い人生の幕を降ろしてもらえるならそれで良いと思ったのだと素直に伝えると、少年が絶句した。此方としては一度牙を剥いた以上引き下がれなかったと言った少年が殺し損ねた俺を放置している方が不思議だった。報復を恐れて確実に死んだと安心できるまで義父の死体を滅多刺しにしたのは彼だ。殺意を向けられた此方が憤って何をするか考えない訳が無い。義父の時とは情緒が成長し過ぎた所為で殺す事が出来なかったのだとしても、俺の目が覚める前に逃げる事も出来た筈だ。
「どうしてお前はまだ此処に居るんだ」
「他に行く所なんて無いよ」
少年は小さな声で言い返した。日の出前の空気はまだ冷たくて、少年の細い首筋が一層哀れだった。
「あの人を殺したばかりの時は、俺は存在しない筈の人間だから、捕まる筈もないと思ってた。でも少し調べたらそれも難しいんじゃないかって思えてきたんだ」
殺されるのだと覚悟した時、彼は俺を殺せば逃げ果せるものだと思って眼を閉じた。その考えの甘さを指摘されたようで気恥ずかしかった。
「あの人を殺した後、買い物にカード使っちゃったから、俺に容疑がかけられるまできっとそう遠くない」
義父が得意先だっただけに此方の顔も覚えられているだろうと少年は言った。そもそも本人はろくに飲みもしなかった酒を買ったのは、解放の昂揚感からだと言う。あのワインは一種のトロフィーだったのだろう。自由に外を歩いて自由に買い物をした証拠だった。
「それにあの部屋には監視カメラが付いてるって、言ったよね。当然俺の顔も映ってる」
それでもやはり少年の存在を示す物は映像記録と目撃証言しか無いのだから、姿形を変えて遠い地に逃げてしまえと俺は考えた。彼が掴んだ一時の自由を手放すのはあまりに酷だと思えた。その考えを先回りして少年が結論を出した。
「俺は逃げられないよ」
そう気付いたのは義父を殺めてワインを買って帰る途中だったと言う。
「俺には外はあまりに広くて、恐ろしかった。折角あの人から解放されたのに、どうして良いか分からなかった」
興奮状態から冷めた少年に現実が一気に伸し掛かっていくのを想像した。飛び方を知らない鳥が鳥籠を壊して外に出ても、飛び立てはしないのだ。現にその日以降、俺が連れ出すまで彼は食糧が尽きても外に出られなかった。名前も無い、人が恐い。戸籍がどうなってるのか分からない。まともじゃない。働けない。彼は何処にも行けない。知恵が付く程に自分が袋小路に追い込まれている実感が強くなっていったと少年は此方に背を向けたまま白状する。緩慢に振り返る少年の髪を湿った風が揺らす。その眼は酷く充血していて、頬にはまだ乾いていない涙の筋が付いていた。先程まで泣いていた跡が残る少年の頬を撫でる。するとまた眼から涙が溢れた。彼の泣き顔を見るのは初めてだった。

 夏が始まろうという季節だが、明け方はまだ寒い。少年をベランダから室内に引き入れて話を聞く。
「少し、聞いて良いか」
死を覚悟した後だからか、妙に冷静に少年の告白を咀嚼出来ていた。そこではたと疑問が浮かんだ。
「共犯者が居るのか」
相変わらず己の洞察力は期待出来ないが、物理的に考えても不可思議な点があった。非力な少年が自分より大きい男を山に埋める事は不可能だ。そもそも滅多刺しで血塗れの遺体を少年が運べるとは思えない。そう指摘すると少年は瞠目して脱力した声を出した。
「……普段の鈍さは何処行ったのさ」
義父を殺めた場には客も居たのだと明かす少年。義父を殺害する凶器となった縄は、その客の趣味だと言う。
「共犯は隣の旦那さん。あの人の常連さんなんだけど、ちょっとSM趣味で」
義父の客の中で、唯一知っている人物を挙げられて動揺する。自分の鈍さに愕然とした。俺のすぐ近くで全てが動いていた。こんなにも少年が独りで抱え込んでいたというのに、何一つ気付かず、自分の問題だけで精一杯だったどころか、こんな状態の少年に救われる始末だったのだから。
「始末され忘れた縄と鋏が目に入って、衝動的にあの人を絞め上げて鋏を何度も突き刺した。それをへたり込んだまま見てたよ」
腰が抜けたんだろうね、と少年は遠い眼をして犯行当時を詳細に語った。目の前で少年が突発的に義父に襲いかかったのを見て、次は自分だと思った彼は殺さないでくれと縋ってきたそうだ。
「旦那さんは隠蔽する手伝いをするって申し出た。汚した敷物をホテルから買い取ったり、あの人の死体をシーツで包んで車に積んだり、汚した床を拭いたのも、殆どその人」
元々縛ったり叩いたりとSMめいたセックスを行う前提が有った所為か、血や尿の始末が多少杜撰でも怪しまれなかったのだとも推察する。そうでなくとも元々違法行為の場を提供していたホテルだ、厄介事を嫌って知らぬふりをしたのかもしれない。義父の犯罪行為を隠避する無法地帯は彼の犯行をも隠してしまったのだろう。
「その人の車に死体を積んで、山に行った。客と一緒に死体を埋めた」
買い取ったシーツやカーペットも一緒に埋めた事や、この際に義父からカードと携帯電話を拝借したと少年は何処か他人行儀に語った。事実その時の彼と今の彼では他人と言って良い程に考え方も感情も変わっているのだろう。犯行当時の彼は罪悪の概念すら無く良心の呵責というものも知らなかったというのに、取り返しの付かない罪を犯した後になって人間らしい感性と常識を手に入れてしまうとは、なんと皮肉な事だろうか。
「俺があの人の携帯を持ってるって知られてるから、暫くして旦那さんから電話がかかってくるようになった。自首してほしいって。俺一人が全てやった事にしてほしいって」
死体がいつ発見されるのか怯えて暮らす内に、少年が一人罪を被って出頭してしまえば済む話ではないかという考えが芽生えたのだろう。死体遺棄も売春も無かった事にして、義父殺しを自首してほしいと都合の良い要求をされたらしい。最初に少年に会った日の会話を思い出す。排他的な生活をしていたのにも関わらず、隣の部屋の旦那が不在だった理由を具体的に述べた少年。きっと俺が見逃しただけで、符号は幾らでもあったのだ。少年がネット経由と思われる知識が多い割に俺の前で携帯電話を弄らなかったのは、それが義父の持ち物だと発覚する事を懸念したのと死体遺棄に関わった客からの着信の為だろう。
「自分で死体を隠す事を申し出てきた癖に、殺人鬼に脅されて死体遺棄を幇助しただけだって言い張り出して『何も無いお前なんかと違って、俺には妻も仕事もあるんだ』って怒鳴られた。俺だって、好きで何もかも無い訳じゃないのにって思ったら、腹の底が燃えてるみたいに熱くなった」
少年が初めて彼等に対する怒りを感じたと述べた。初めて憤りを自覚して、沸き上がる不快感に戸惑ったと言う。不馴れで飼い慣らし難い感情への動揺と、それらを抑制しきれない己への嫌悪が蘇ったのか、少年が髪をグシャグシャと掻き回して俯いた。
「売春行為について伏せてやるから話がしたいって言ったら簡単に呼び出せた。家が隣だったのも幸いしたのかな……家庭が壊れちゃえば良いのにって思って、オネーサンの部屋に通ってる男に旦那さんが来る日を伝えたの」
マンションに戻ってきた客と間男が鉢合わせて一悶着起こせば良いのだと考えていたと少年が言った。自分を何も無いと嘲った彼も何かしら失ってしまえと思っただけで、殺人にまで発展すると思っていなかったのだと悔いた。害意が不本意な形で実を結んでしまって混乱すると共に、手を下さずとも客の口を封じる事になって安堵したと言う。しかし人を殺して安堵している己こそが恐ろしいとも。多様な懊悩が怒濤の如く押し寄せて、あの恐慌状態が生まれたのだろう。
少年が今日に至る経緯を一通り聞いたが、咄嗟に適切な言葉が出なかった。あまりに衝撃的な告白の連続に思考が絡まっている。少年の眼からまた、涙が溢れた。
「本当は、オニーサンを殺して俺も死ぬつもりだった」
義父を殺して、間接的に客も殺して、客を殺した少年は自殺した。人間らしい感性と共に怒りも後悔も苦しみも知ってしまった少年には耐えられない。逃げ場も無い。少年が消去法で選んだ「自由」は、死だった。俺に一緒に死んでほしかったと明かす少年。警察に怯えていた時も義父を殺めたと告白した時も決して泣かなかったのに。自分が社会では生きていけないと気付いていても暫くは何も悟らせる事無く独りで抱え込んでいた彼が、懺悔とも悔恨ともつなかい雫を零す。
「でも殺せなかった。だって、俺が手に入れた自由は皆オニーサンから貰ってた」
オニーサンは自由の匂いがした。そう言って俯いた少年は一層幼く見えた。空き腹に沁みるカップ拉麺、干したての洗濯物の匂い、コンビニで選ぶ惣菜、日焼け止めの滑り、二束三文の帽子、デザイン性に欠くサングラス。彼が掴んだ僅かで細やか過ぎる自由が羅列される。どうしようもなく安っぽくて、くだらなくて、愛しい。俺が破かれた娘の写真を捨てられなかったのと同じように、彼もまた俺を殺せないのだ。眩しい記憶の証拠を自らの手で壊すのは、酷く恐ろしい。

 「俺を殺してほしい。オニーサンに殺されたい」
俺が少年になら殺されても良いと思ったように、彼もまた幕を降ろす相手に俺を選んでいた。相思相愛という場違いな単語が脳裏を掠めてしまい顔を顰めた俺に少年が言い募る。
「大丈夫だよ。オニーサンは俺が殺人鬼って知らなくて部屋に入れちゃって、一緒に見ていたニュースから偶然俺の正体に気付く。通報しようとしたオニーサンは逆上した俺に殺されかけて、咄嗟に手が出た……ね?大丈夫、正当防衛だよ」
妙な知恵が付いてしまったものだと辟易する。自分が犯した罪について調べていく内にこういった事にも詳しくなったのだろうか。少し前まで不倫や売春という単語に首を傾げていたとは思えない成長ぶりを見た。感心すると同時に、少年はもっと色々な事を吸収出来るだろうと益々此処で死なれるのが惜しくなる。彼とてもっと色々な事を知りたいだろうとも思った。
「お願いだよ。俺の為に、ほんのちょっとだけ手を汚して」
少年俺の手を取って、自身の首に導く。その顔はこんな時だというのに、昨日今日の中で一番穏やかな顔だった。
「最期は我儘を叶えさせて」
死にたいだけならとうに彼は此処から飛び降りているだろう。少年は俺の手で終わる事を望んでいる。それも分からない程野暮ではないつもりだ。正直、義父や客については殆ど同情していなかったので、彼の「我儘」を聞くか逃げ場を作れないか模索する方向に思考が動いていた。だが、彼の最期の我儘を叶えるにしても、彼に俺が殺せないように俺も彼を殺せないのだ。

 彼に救いは無いものかと、思考を巡らせる。
 ふと頭を過ったのは、俺の幸せだった頃の記憶だった。俺は面倒事から逃げて目を逸らし続けた挙げ句償い方も間違えて、大切だった筈のものを自ら踏み躙ってしまった。逃げて何になったのだろう。償うのは被害者の為だけだろうか。罪から逃げて償ったフリをしても自身に芽生えた良心の呵責からは逃げられない。膨れ上がった罪悪感は何処までも絡み付いてくる。少年は不安気に吐き出した紫煙が換気扇に吸い込まれていくのを見ていた。硝子戸越しに見る空はもう白んでいる。
「自首しよう」
提案に少年が眼を剥く。彼がこれからの身を振り方を考えた時、真っ先に棄却した考えだというのは承知だ。警察がマンションに来ていた時だって酷く怯えていた。少年の唇が嫌だと動く。
「冗談じゃない。狭い所も管理されるのも、もう懲り懲り。俺の名前は何?アレでソレでポチで、今度は囚人番号?」
掠れた声で懇願する少年。折角手に入れた僅かな自由を奪われる事を彼は何より恐れていた。個として尊重される事が無かった彼のトラウマと綯交ぜになったコンプレックスが噴き出す。
「人を殺した事に罪悪感が芽生えてるんだろう。お前は自分の行いを恐ろしいと思い始めてる」
恐慌状態に陥った時、義父に謝罪をしているような言葉が聞こえていたのを覚えている。その時は被虐者としての癖のようなものだと思っていたが、彼に備わってしまった良心が嘗ての彼の行いを許せないのだろう。少年が俺の首に手を回して縋ってくる。細い腕が頬を擽って、少年の潤んだ瞳に下から覗き込まれる。場違いにも朽葉色の瞳が俺だけを映す甘美さに目眩がした。好意とは時に毒だ。下心が出ないよう注意を払いながら、出来るだけ幼子にするような手付きで背を軽く叩いて宥める。
「そうだよ。もう耐えられない。殺してほしい。できたら、アレでもソレでもポチでも囚人番号でもない、一人の人間として終わらせてほしい」
オニーサンが呼んでくれる「お前」のままが良い。と頬を擦り寄せる少年。俺と彼の間には名前が必要ではなかった。その時が一番彼にとって幸せな時間だったのだろう。彼には俺だけ、閉じた世界で二人きり。独占欲が満ちる。けれど、安直にその提案に乗る訳にはいかなかった。少年を殺める事自体も忌避したいが、それしか道が無いと信じる少年が哀れだった。この閉じた世界でしか彼は存在する事が出来ないのだろうか。誰よりも人間らしい扱いを望んだのは彼だ。初めて行ったコインランドリーで聞いた鼻唄。日焼けが辛いくせに、すぐに眼が痛くなるくせに誰よりも外に憧れていたのは彼だ。
「事件が明るみに出ればお前の名前も調べて貰える。お前には償い方を間違えてほしくない。お前は現行法に基づいて罪を償って、改めて外に出るんだ」
彼はまだ少年法で守られる年齢だという打算もあった。更生施設には入るだろうが、そこで本を読んだり資格を取ったり出来るだろう。これが彼にとって最良だと思えた。
「お前なりに色々考えたって事は分かるが、お前はまだ何も知らないんだ。外の世界の事も、お前自身の事も」
少年のしがみ付く力が強くなる。抱擁に慣れない幼子のそれだった。

 「もしも、改めて外に出た時まだ死にたかったら、俺が殺してやる。一緒に死んでやる」
本末転倒かもしれないが、彼の人生に責任を持ちたかった。彼が此方を好いているのは半ば刷り込みだ。彼が知る僅かな人間の中で一番待遇が良かったからだ。だが少年が正しい判断力を身に付けた後でも、まだ俺に愛着を持てるというのなら何を犠牲にしたってどんな罪を負ったって構わないと思えた。
「……そんな事したら、娘さんは殺人者の子供になっちゃうんだよ?」
殺せと再三せがんだその口で否定の言葉を紡ぐ少年。その事を考えなかった訳が無い。だがたった一人の娘と比べても、少年の方が大事だったのだから腹を括る他にない。
「ああ。だから出来れば生きてくれ」
殆ど縁の切れた娘には母がいるが、少年には俺だけで。少年が俺にくれたものは余りに多くて。少年の為に何でもしてやしたいと思う俺の我儘だと分かってはいる。
「オニーサンって本当、自分勝手」
そうだ。どんなに愛しかろうが大切に思おうが、相手の気分すら察せない。如何に重篤な隠し事も見抜けない。俺はそんな男だ。
「だが、もう逃げない」
例え、冷静になった少年が俺への執着を全部刷り込みによる錯覚だったと導き出して、彼の中で俺が無価値な物になっていたとしても。俺も憎むべき汚い大人の一人だと結論付けて、仇を討ちに来たとしても。それはそれで受け止めようと思う。少年が拾い上げてくれた写真に誓って金輪際逃げるのは止める。そう告げると少年は戸惑いがちに口を開いた。
「もしも、出所して、俺の髪が全部地毛に戻っても、背が高くなっても……」
声が低くなっても、万が一髭が生えてきても……と中性的で美しい今の少年の姿が損なわれたと仮定する条件が続く。俺の方こそ、後は老いていく一方だというのに。時間の経過によって愛想を尽かすとするなら、少年の方ではないのかという考えが過る。だが少年の不安は理解出来た。此方は少年の外見に惹かれた訳ではないが、少年は今まで出会った大人達がこの姿に価値を見出している事を苦しい程に知っているのだ。
 そんな彼を癒せる存在になりたい。俺の傍を彼が安心して居られる場所にしたい。

 「ただいまって、言わせて」

 オニーサンの隣を俺の帰る場所として空けておいてほしい。そう言った少年が出頭したのはその日の内で、マスコミが名無しの殺人犯に騒ぐのは翌日だった。名前が分かったら、真っ先に俺が呼ぶのだ。


prev← →next




back
top
[bookmark]



×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -