倒壊

 それは淫夢だった。
 ベッドに細い体を縫い付けて噛みつくように唇を合わせるところから始まる、あまりに直接的な夢。救えない事に相手は元妻でも嘗ての不倫相手でもあの女教師でもなく、就寝前に見た洋画の主演女優でもなく、彼だった。夢から覚めた後も、夢で見た光景が頭から出ていかない。シーツに金糸の髪を押し付けて、悶える度にランプシェイドの光を反射して珊瑚色のピアスが煌めく、白い肌を晒した少年。骨の浮いた肋に指を這わせて鎖骨の下に唇を落とせば擽ったいと笑う、その声すらも彼そのもので。思わず飛び起きた時にはまだ4時を回ったところだった。
 寝直すのは恐ろしくて、夜風に当たる為にベランダに出た。目を醒ますには生温過ぎる、湿度の高い空気が身体に絡み付いてくる。自己嫌悪に襲われずにはいられない。俺は決して彼をそんな風には見ていない、筈だ。最近御無沙汰だった上に疲れていたから生理的にも心理的にも混乱状態だったのだろう。そう言い訳をする他なかった。所詮は言い訳だ。男を抱く趣味は無いと言い切った身なのに、あんな夢を見ても内容そのものに対する嫌悪感は無かった。寧ろ興奮していた。彼を組み敷いて汚す事に一種の充実と幸福を感じていた。それこそが恐ろしかった。俺自身もまた彼の義父と同じような眼で少年を見ているのだと突き付けられたようだった。彼から自由を奪って性的に搾取する代わりに生存を保障するような義父と同列の存在にはなりたくなかった。しかし現実はどうだ。手こそは出していないが、狭い世界で育ったが故の彼の無垢を尊んでいる。彼の実年齢に対して不相応な幼児性に救われていたのは俺だ。世話をしているような気分でいたが、簡単な事で逐一喜ぶ彼に癒されていた。彼は此方の気に障る言動はしないし、困らせるような事も少ない。
 コインランドリーで一人で待つように言った時だって、慣れない場所で独りにされる心細さを飲み込んで手を振っていた。娘が訪れた時も、重大な告白をしようと意を決したところだったのに彼は黙って身を引いた。結局少年に気を遣わせたままで、未だに彼が言いたかった事も聞けていない。彼は普通の人間と付き合うより遥かにコストがかからない。それを良い事に娘と変わらない歳の少年に寄りかかっている。少年が此方の機嫌を最優先に健気に立ち回るのは、自分より大きくて力の強い大人の男の機嫌を損ねるリスクや無防備な姿を晒す事に対する抵抗感故だろうに。温い夜風が雨を連れて来る前に部屋に戻る。雨音が聞こえ始めても、やはり寝る事は出来なくて自己嫌悪から抜け出せないまま仕事へ向かった。

 この所為で少年にどう接していいのか解らなくなった。このような薄汚れた邪な大人が彼と関わるべきではないとすら思う。だがこのような一方的な理由で突然突き放す事こそ無責任で自分本意でしかない行いだと考え直し、新たに自覚した邪な面を悟られぬよう注意を払いつつ今までと同様に関わり続けた。だが彼を見ていると、どうしても夢の内容を思い出さずにはいられなかった。そして夢は妄想にとって代わって、起きていても彼の痴態を想像してしまうようになった。頭髪と眉と睫以外は脱毛されているという話を思い出して、無防備な脇に舌を這わせる願望を抱いた。夢も日に日に悪化して、フロイトも仰天する程に露骨になっていく。夢は恐ろしかった。妄想と違って強引に意識を逸らしたり距離を置いたりは出来ず、容赦無く己の凶暴な欲求が迫ってくる。夢の中で少年と共に果てて、深夜に罪悪感で飛び起きる。次第に寝る事自体が恐ろしくなった。


 そこで向かったのは睡眠内科だった。最近では睡眠科や不眠科と呼ばれる機関も増えているらしい。隈が酷いと心配した同僚に睡眠内科を勧められたのだ。睡眠薬を服用すると夢を見なくなる事があると聞いて自身でも心療内科に行く事を検討していたが、心療内科の治療はカウンセリングが中心らしく、いい歳をした大人なのに淫夢が恐ろしくて眠れないなどと言える筈もなく諦めていた。だが睡眠内科ならカウンセリングを避けられない事もないらしく、睡眠薬の処方箋を貰う為の口上を同僚に入れ知恵してもらい、睡眠内科に赴く運びとなった。
 待合室で元妻を見付けた。娘の事等色々と聞きたい事があったが、偶然なので態々話しかけるのは躊躇われた。だが、彼女も此方に気付いたようで、意外にも彼女は隣に座って世間話を始める。
「貴方も眠れない事ってあるのね」
待合室に備えられた料理雑誌を捲りながら元妻は感情の読めない声で言った。昔から平常時は抑揚に乏しくて何を考えているか分かりづらい喋り方をする人だったと知っているのに無性に嫌味に聞こえるのは、自身に非が有りすぎるからだろう。
「お前は昔から眠りが浅くて、子供の泣き声でよく起こされていたな。その横で、俺は高鼾」
「何時の話をしてるのよ」
別にそんな話がしたかった訳じゃない、と妻が呆れた。最近になって自身が如何に最低で嫌悪すべき人間なのかを思い知らされる機会が増えた。昔から面倒事から逃げて都合の良い部分だけ享受したがる怠惰と欺瞞に満たされた自身の行いのツケを払う段になったのだろう。元より良い人間ではなかった。その自覚が薄かっただけで、俺は充分に屑だった。詰られる気でいたが、彼女はもうそんな事には興味が無いようで、最近の話を始める。
「あの子、貴方の部屋を滅茶苦茶にしたんですってね」
元妻が娘について触れた。眼を離して悪かったと謝った俺に元妻は弁償すると申し出た。冷静さを取り戻した娘はその事を気に病んでいたらしい。少年の言った通り、娘はそこまで歪んでいる訳でもないのだと分かって安堵した。
「今、学校はどうしてるんだ」
切れ長の眼が此方を向いた。娘と似ているその眼は、意思が強そうで行動力に満ちているように見える。それに甘えて随分と色々な負担を強いてしまった。その挽回をしたいという思いで引っ越すならせめて資金でけでも頼ってほしいと告げる。
「結局現場を見ていた友達は誰にも言わなかったみたいで、何も無かったように学校に通えてる」
良い友達を作っていたみたい、と元妻が言った。娘から更正の機会を奪わずにいてくれた彼女の友達に感謝した。
 それから娘について少し話した。改めて薬局に謝りに行った事。娘の化粧品を買い揃えた事。彼女が看護に興味を持っていて、看護学科がある大学に進学したがっている事。久し振りに元妻と穏やかに会話をした。看護士に元妻が呼ばれて呆気無く話は終わったが、重要な時間だった。着々と立ち直りつつある娘を眩しく感じた。写真を捨てなくて良かったと心底思った。
 程なくして此方も呼び出され、待合室を後にした。カウンセリングを避けて処方箋を貰うのは案外簡単だった。今日は夢を見ずに眠れる希望が有るので少年とも余裕を持って接する事が出来ている気がする。

「オニーサン煙草吸ってた?」
メンソールかな、と少年が首を傾げた。彼は敏い。不眠のストレスと己への苛立ちを紛らわせる為に娘が生まれてから殆ど吸わなくなっていた筈の煙草を携帯するようになっていた。娘が生まれてから煙草を吸うのは離婚に至る前後の時期と父親の葬儀の夜だけだった。
「メンソールは不能になるって本当かな」
少年が悪戯っぽく笑う。変な知識を付けてしまったものだと思ったが、ある意味年相応で微笑ましかった。妙な情報に振り回されないよう、収集した情報を取捨選択する事も教えなくてはと思案する。ケースを見せて煙草が有害である事を警告する文面を読ませてやる。
「昔流行った噂だよ。メンソールが原因なのはデマだが、煙草で不能になる可能性はある」
そう言いつつ本当に今すぐ枯れてしまえばどんなに良いかと思った。少年がケースを開けて匂いを嗅ぐ。メンソールでは誤魔化しきれない苦い匂いを感受した少年が驚いた顔をした。明らかに美味しくはない上に有害な物を好き好んで摂取している事が信じられない、と眼が雄弁に語る。
「吸うと落ち着くだけだ」
直後、言葉の選択を失敗したと思った。少年に知識は乏しくとも、此方の機微には敏感だ。くりりとした垂れ眼に心配そうな色が宿る。
「落ち着かないんだ?」
少年の掌が、頬を包んで眼の下を触る。態度に出さなかっただけで、彼は以前から濃い隈が出来ている事を気にしていたのだろう。寝ているのかと問われる。体温の高い少年の手が心地好かった。
「最近眠れなくて、それで苛立ってた」
嘘は吐いていない。そっか、と少年が相槌を打った。それで納得したというよりも追求されたくないという此方の思いを組んだのかも知れないが、これ以上原因について喋らずに済んだ事は幸いだった。薬を処方して貰ったからもう平気だと告げると、少年は安堵した様子だった。その夜は確かによく眠れた。
 実のところ睡眠薬で本当に夢を見なくなるかは薬との相性や体質にも大きく左右されるようで賭にも近かったが、上手く機能したようで救われた。充分に眠る事が出来れば気力は回復する。これで邪な思いは押さえ込んで少年には今まで通りの態度を貫けると思った。纏わり付く湿った空気も窓を叩く雨も気にならない。昨日一昨日とは比べ物にならない程に身体が軽い。出勤前に心配してくれた少年に確と眠れた事を報告してやろうと考えたが、彼はまだ寝ている可能性を考えて思い留まった。娘の事も夢の事も、少しずつ解決の兆か見えてきていると感じて浮かれた気分でエレベーターに乗った。エントランスで入れ違いに高校生と思われる少年がマンションに入っていく。此処の住人ではなかったが、頻繁に同じ階の女教師を訪ねてくる顔だったので特に気にせず会釈した。浮かれていたのだ。
 まさかこの所為で、惨事が起こるとは露程も思わなかった。


 仕事から帰ると、警察が居た。まだ黄色の立ち入り禁止線をマンション入り口付近に張っているところで、野次馬が見守る中で警察に名刺と運転免許証を検められた。警察が一緒にエレベーターに乗ってきて、部屋まで同行される。住民に成り済ますマスコミを防ぐ目的らしい。殺人だと言われたきり事件については詳しく語られなかったが、彼等の様子や立ち入り禁止の指定から同じ階の女教師の部屋で事件があった事は明白だった。彼女の旦那が亡くなったらしい。最初は少年の事が明るみに出たのかと思って戦々恐々としていたので不謹慎だが少し拍子抜けした。初めての聴取にアリバイ等を証明しなくてはいけないのかと気を揉んでいたが、犯人は既に取り押さえてあるらしく此方に容疑がかかっている訳ではないと言う。ただ確認の為に被害者や加害者との関係を聞かれているという印象だった。だが加害者の写真を見せられた時は驚きを禁じ得なかった。よく女教師を訪ねて来る少年だったからだ。今日も朝、エントラスですれ違っていた事を思い出して思わず頭を抱えた。
『もし最中に旦那さんが帰ってきたらコトだよね』
少年の言葉が頭の中を反響した。旦那が帰っている所に彼が来たのか、彼が入る所に旦那が帰ってきたのかは知らないが、少年が冗談混じりに危惧していた痴情の縺れが最悪の形で発生していた事を知る。背筋を直に扱かれているような不快感が押し寄せる。御存知ですね、と警察が言ったが、どう説明していいのか分からなかった。このマンションのセキュリティ上、エントラスは外からだと鍵が無くては開かない。来客は住人にインターホンでエントラスのドアを開けてもらうのが常だ。この加害少年を招き入れたのは紛れもなく自分だった。住人が出入りする隙に住人ではない輩が入って来るのは悪質な訪問販売や宗教勧誘の常套手段だとも知っていた。加害少年が住人ではない事も知っていたが、よく訪ねて来る顔と認識していたので手順を踏まずにマンションに入ってきても気にしなかった。常習的に訪ねて来るとはいえ、間男を家主の認知しない状態で来訪させるのは修羅場の素だ。不用意に少年を入れてしまった上に能天気に会釈までしていた自分の愚かさを呪った。
 何か知っているというリアクションをしてしまった為、警察には話せる限りを話したが、女教師と加害少年の関係については少年から聞いた事で、何故女教師の性事情を知っているかを問われたら芋蔓式に少年の事も話さなければいけなくなると思い、知っていた事を伏せた。すると必然的に「ただ彼女の教え子が訪ねて来ただけだと思った」という文脈が出来てしまうので、彼を不用意に侵入させた事を咎められる事は無く寧ろ警察からは同情的な扱いを受けた。此方もまさか近隣住民の教え子にそんな爛れた事情が有ったとは想像も付かなかったという態度で過ごす他に無かった。被害者である女教師の旦那は死んでいるが、少年の客であった事を思えばそこまで憐れに思えなかった。

 問題は少年である。警察が帰った後、少年の部屋を訪ねると、警察にすっかり怯えていた彼は電気も付けずに部屋の隅で丸まっていた。ずっと居留守を使っていたらしい。何度もインターホンが鳴って怖かったと震えていた。殺人という大きな事件だが加害者は捕まっている上に犯行の現場を見ている通報者の女教師は生きているので証言に困る事もないだろう。だから少年が態々執拗に調べられるような事態にはならないだろうと宥める。
「逮捕されたらどうしよう」
「お前の場合は保護だって言ったろ」
震える声で不安を口にする少年の背を軽く叩いて落ち着くよう促すが、反応は芳しくない。恐慌状態だった。落ち着かせようと色々と話しかけ慰めたが少年の言葉は文としての纏まりを失い、会話が成立しなくなっていく。やがて時折脈絡の無い単語を譫言のように発するだけになった。
「ごめんなさい……許して……パパ……嫌だ……ごめんなさい……」
祈りのような謝罪の言葉が耳に付く。情緒が不安定な上に混乱している時に独りにするのは避けるべきだと考えて、彼が落ち着くまで付き合う事にした。つい最近の反省を生かす機会がこんなにも早く訪れるとは皮肉である。彼は一晩ずっと震えていた。
 少年とまともに会話をする事が出来るようになったのは翌日の早朝だった。
「もう落ち着いたから、大丈夫。オニーサンは仕事行って?」
また眠れなくさせてごめんなさい、と謝った。少年にも隈が出来ていて憔悴している様子が見てとれた。結局は此方の方が気を遣われている。本当に平気なのかと問うと、当分外には出たくないと返された。外に居るかもしれない警察への恐怖は消えていないが、居留守を続ける事で平静を保つつもりなのだろう。また引き篭もりの生活に戻ってしまった。
「オニーサンがあまり出入りすると不審に思われないかな」
そう警戒して俺の出入りは二日に一度仕事帰りの夜に保存食やインスタント食品を配給するだけになった。少年が憔悴していく姿は初めてだった。殆どナッツしか食べていなかった時とて、痩せてはいたが飄々とした態度だった。押し寄せる不安で眠れていないのだと言う。あまり良い事ではないと分かってはいたが、憔悴していく少年が可哀想で、処方されている睡眠薬を分け与えてしまった。数日の内に女教師は引っ越して行き、ニュースでは事件が報道され始めた。そこで加害少年が事件後程無くして自殺していた事を知った。警察は早々に撤退したが、美人教師と教え子の痴情の縺れという昼ドラじみた事件は人の興味を唆るらしく、エントラスでマスコミに遭遇する事はよくあった。それを考えると少年の外に出ないという選択は正しかったのかもしれない。


 女教師とその旦那が居なくなった今、少年が此処に住んでいると知っているのは俺だけなのではないかと思う。彼の義父は何時帰ってくるのかも分かっていない。と言うよりも、連絡も無い上に行き先も知れない状態があまりにも長いので、もう二度と彼の前に現れる気はないのだろうと感じている。少年は再び社会から隔絶されて、俺だけが世話をしている。暗い欲望が頭を擡げる事があった。独占欲が満たされていた。俺が与えなければ少年は生きてはいけまい。だが同時に虚しさもあった。好奇心旺盛でよく笑う、虚弱な癖にタフな彼の生命力に溢れた部分を最も愛していた。今は蚕を飼っているようだと思う。嘗ての快活さが嘘のように、少年は部屋の隅で白いブランケットに包まって過ごしていた。飯を食べる時だけ虚ろな眼で緩慢に動いた。少年の白い儚くて柔らかな肌は蚕のそれだった。自然界に馴染まない白い虫は外に出た途端、鳥に餌食になる。飛び方を忘れ、自分で餌も取りに行けない自立の望めない哀れな虫。人の手が無ければ直ぐに死んでしまう、人の手にあっても繭から孵る事無く搾取され死んでいく、不自由な生き物。なのに、こんな姿になった少年相手にも執着心が不条理に膨れていく。嘗ての無邪気な少年を懐古しながら、彼を完璧に独占している現状に悦びを見出だしている。それが自分でも悍ましかった。
「オニーサン俺の事嫌いになった?」
人に依存しなければ生きられない彼は、人の機嫌に敏感だ。彼が睡眠薬の効果で舟を漕ぎながら尋ねた。虚しさと倒錯感で正気を見失いそうになることは有ったが、それだけは無かった。首を振って否定してやると少年が口を開いた。
「あのね、俺……ううん。また今度、ね」
頭を撫でてやると、ゆっくり眼を閉じた。結局何を言いたかったのかは分からなかったが、それでもその日は饒舌な方だった。


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