来客

 話す機会を奪われた少年が挙動不審な動きで娘から距離を取った。
「あ、いえ、お父さん」
少年の存在を認めて呼び名を訂正した娘だが、どうも情緒が安定していない。少年も戸惑っている。不穏な空気を感じたが、少年の問題があったので後にして貰おうと口を開いた。途端、娘の眼尻から涙か零れた。娘はそのまま此方の胸に顔を埋めて、人目も気にせず泣き出した。
「……悪いな」
仕方無く呆気に取られていた少年に謝って娘の方に付いてやる事にした。少年も暗い顔をしていたが、了承したようで黙って頷いて先にマンションに入っていった。
「よく此処が分かったな」
娘の背を叩いてあやしながら会話を試みる。離婚して妻に育てられている娘には月に一度の頻度で会う事が許されていたが、思春期に突入してから何かと理由を付けて断られ続け、最近は全く会っていなかった。だから此方の住所を知っていた事が意外だった。どうやら毎年出していた年賀状に書かれていた住所を頼りやってきたらしい。だが鍵は持っていないのでエントランスのドアを開けられず、此方が帰ってくるまで待っていたのだと言う。とりあえず娘の頬を伝う涙をハンカチで拭いてマンションに招き入れる。娘は俯いたまま俺の後に続いた。
「私、此処で暮らしたい」
俺の一人暮らしには勿体無い程に広い部屋を見渡した娘が甘えるような口調で言った。よくよく見れば娘は学校の制服のままで、家には帰らず学校から直接此処を訪ねてきた様子だった。
「母さんは何て?」
テーブルにつかせて作り置きの麦茶を出す。十中八九母親と仲違いをしたのだろうと思ったが、彼女の口から事の詳細を聞くべく尋ねた。だが彼女は激しく首を振って、また泣き出した。このままでは埒が明かないと思い、娘から見えないようテーブルの陰に携帯電話を隠して元妻にメールを打つ。娘が此方に来ている事と酷く乱心している旨を書いて送信した。
「そうだな。此処から問題無く高校に通えるのなら、一緒に暮らしてみようか」
メールの返信を待ちつつ、空いた方の手で娘の髪を梳く。話し易いよう都合の良い提案をしてみた。実際、娘が落ち着くまでの間なら吝かではないと思った。だが娘の返答は芳しくない。
「学校も行かない」
理由を聞くが娘は答えない。代わりに答えたのは元妻からのメールだった。
「万引きしたのか」
娘が眼を見開いて此方を見たのは一瞬で、また眼を逸らして唇を深く噛んだ。昔から都合の悪い事を言い当てられた時にする動作だった。元妻のメールによれば、学校帰りに立ち寄った薬局で口紅とアイシャドウを万引きしようとして店員に確保されたらしい。元妻が呼び出されただけで学校へは連絡されなかったそうだが、一緒に居た友達に見られていたらしく、明日には学校中で噂になっている事だろうと危惧していた。だが信じたくなくて、念を押す。
「冤罪なのか?」
顔を上げた娘と眼が合う。元妻に似た切れ長の眼から、また一筋涙が落ちた。大粒過ぎた涙は長い睫にも受け止められず、素早く頬を滑り落ちていく。母子家庭にしてしまったが、金の苦労はさせていない。非行に走ったとも聞いていない。
「盗ってないって言ったら、信じてくれる?」
勿論だと即答する。現場を見てないのに?と戸惑いがちに聞く娘。
「親が子供を信じなくてどうする」
純粋な疑問でもあるのだろうが、同時に此方を試してもいるのだろうと確信した。それほどまでに別居した娘とは疎遠だった。だからこそ今はと力強い肯定の言葉を用意した。娘は出された茶に口を付けて、深く息を吸った。
「父さんは私の何を知ってるの」
此方を正視した瞳は、本当に元妻に似ている。空気が軋むのを感じた。父さんが私を可愛がるのはただ血の繋がりのある娘だからで、私自身なんてこれっぽっちも見ちゃいないのよ。と切り捨てる。
「私、本当に盗ったよ。口紅と、アイシャドウ」
酷いデジャヴだ。眼の形だけではない。よく動く滑舌の良い口も、意思の強そうな眉も。
「駅前の薬局に友達と入って、最初は薬用のリップ買うつもりだったけど、友達にね、何でメイクしないのって聞かれて」
離婚を切り出した時の元妻を見ているようだった。
「友達は口紅もアイシャドウもファンデーションも、チークもマスカラも持ってるのよ。遊びに行く時は凄く綺麗な格好してるの。派手な子は学校にだって化粧してくる」
娘が遠い。俺のよく知っている娘は、俺の事をパパと呼んでいて、お洒落よりも身体を動かして遊ぶ方が好きで、よく笑った。娘が憤りを露にした声で続ける。
「何も分からないでしょう。面倒な事は何も見ない。ねえ、私が化粧品なんて欲しがった理由分かる?」
そうだ、俺の知っている娘は、離婚する前の、家庭の居心地がまだ良かった頃の、幼い子供だった。もう彼女は十代も後半で、これからもどんどん大人になって妻に似ていくのだろう。俺と他人になった女に似通っていく。
「お母さんが私が化粧するのを許してくれないからよ」
じゃあお母さんが許さない理由は?と矢継ぎ早に質問を浴びせる娘。
「貴方の所為よ!」
遂に此方を父と呼ぶ事も止めた娘が、飲みかけの茶の入ったコップをひっくり返した。咄嗟に避けたが左肩が濡れてシャツが茶色に染まった。床に落ちていったコップは割れなかったが、フローリングの溝を伝って麦茶が部屋に広がる。
「若くて洒落っ気のある女はお母さんにとって仇なのよ!穢らわしい、妻子持ちの男にも色目を使う、売女!ってね」
娘が肩を怒らせたまま息を継ぐ。化粧などしていない筈の娘の顔はチークを塗ったように頬が赤くなっていた。元妻には恨まれているだろうと覚悟していたが、娘にそのような事を言っていたとは思いも寄らなかった。今更ながら道理で娘も会うのを避けていた訳だと合点がいった。
「……分かるでしょう。お母さんを裏切って、若くて綺麗な女を取った、貴方の所為よ」
言いたい事を言い切った後は駄々っ子のように声を上げて泣いた娘。俺に傷付けられた母の悲しみや怒りが彼女をずっと縛り付けていたのだろう。娘が俺を憎む気持ちは理解出来る。だが本題と逸脱してきている。彼女が犯した罪と今後についての話をしなくてはならない。床に転がったコップを拾ってから、なるべく静かに口を開いた。
「俺の不貞が母さんがお前に化粧をさせたがらない原因だとして、お前が万引きしたのとどう関係があるんだ」
何それ、最低。娘が底冷えした声で呟いたのがしっかりと聞こえた。
「まずお前が犯した罪についてちゃんと考える方が先決だろう」
明日は平日で勿論学校がある。娘は明日から学校へ行けるだろうか。元より彼女は母や学校を避けて此処まで来た筈で、此処で暮らしたいとまで言っていたのだ。此処に居づらくなった今、彼女がどう動くのか非常に気にかかった。
「貴方が犯した罪とやらは向き合わなくて良い訳?」
「そういう事を言ってるんじゃない」
学校はどうする。家に帰るか。店にはちゃんと謝ったのか。友達と連絡は取ったか。母さんに化粧の事は相談したのか。その他色々聞いたが、娘から返ってくるのは罵詈雑言と拒絶の言葉だけだった。遠い昔に離婚して妻と子の信頼も何もかも失って俺の罪など、最早取り返しが付かなくて償いようもないのだ。娘にはそうなってほしくなかった。
「今更父親面しないで」
娘が再びコップを投げた。今度は力強く、明確な破壊の意思を持って投じられたコップは、俺を掠めて背後の壁に当たって砕けた。酷い癇癪を起している。お前はそもそも俺に助けを求めてきたんじゃないのか、と言いたい衝動を堪えて宥める。
「頭を冷やせ」
これ以上娘と話は出来ないと踏んで、今日は彼女を一人にする事にした。金も土地勘も無い娘を外に放り出す訳にはいかないので、此方が家を出る。貴重品や仕事に関する物を纏めて出ていく用意をする俺に娘が逃げるのかと毒吐いた。

 ホテルに行こうと思ったが、娘が現れる前に何か言おうとしていた少年が気にかかって彼の部屋に顔を出した。
「今日はいいや。なんかオニーサン疲れてるし」
俺の事はまた今度聞いてよ、と言って少年は此方が抱えた問題を知りたがった。
「オニーサンが娘さんの話を聞く限りでは、もっと小さい子だと思ってた」
「俺も。もっと子供だと思ってた」
大人に近付くにつれて他人になっていく娘に溜め息を吐く。俺の記憶の中の娘は、髭が痛いと頬擦りを嫌がる無邪気な子供のままだったのに。彼女が酷く遠い。娘が分からない、と事の顛末を少年に話してしまった。育ちにあまりにも違いがあるが、今の俺よりも娘を理解してやれる可能性が有るのではないかと思った。それに少年なら他言される心配もないだろう。そして意外にも少年は万引きの件で共感を示した。
「罪を犯してでも手に入れたいものってあるよね」
衣食に頓着しない少年に、そんな執着があるとは思っていなかった。思わず聞き返せば、より具体的な言葉で言い直された。
「他人からは必要無いって言われたとしても、どうしようもなく欲しい。無くても生きていけたとしても、それが無きゃ死んでるのと同じ。そういうものって有るでしょ」
少年の口調は重くて、罪など犯しようのない環境で生きてきた彼がそう思う程に切望した物に興味を持った。だが今はそこに触れるべきではないだろう。
「それで娘は化粧品を?」
濡れたシャツが肩に張り付くのを不快に思いながら問う。少年は肩を竦めた。
「俺がそこまで知るわけないけど、化粧品が欲しかったんじゃなくて、化粧をしたかったんじゃないの」
前者も後者も同じではないのかと感じている俺に少年は説明を重ねた。元から彼の頭は悪くはないと思っていたが、語彙と知識を得る事で彼は人の機微に鋭くなったと感じる。そうでなければ此方が異様に鈍いのかもしれない。
「物を手に入れる事そのものじゃなくて、化粧をする行為自体に憧れがあったんじゃないのって思ったんだ。それにあの子の場合、化粧が許されるって事は、あの子のママがオニーサンの不倫相手とあの子を重ねるのを止めるって事でしょ?」
ママとパパから自由になる事だよ。そう言った少年の声には棘は無かったが、俺の心臓は何かが刺さったような痛みを訴えた。俺と元妻の不和に抑圧され続けた娘の鬱憤があのような形で暴発してしまったのだとしたら、俺は間違いなく最低の父親だ。
 勿論本当の事は彼女から聞くしかないけど。と最後に付け足した少年は欠伸をして眠気を訴えた。近くのホテルを借りる予定だったが、少年の提案で今日はこの部屋に泊まらせてもらう事になった。少年は一人きりになる時間が減った分嬉しそうであった。彼に懐かれたと思う。風呂を借りて洗面所でシャツの染みを落とした。少年は自分はソファで寝るのでベッドを使って良いとも言ったが、流石にそこまで面倒を見てもらう訳にもいかず断った。


 翌朝、自分の部屋を確かめてから仕事に向かう、筈だった。
「馬鹿じゃないの」
元妻の鋭い平手打ちが左の頬に炸裂した。元妻にも鍵は渡していなかった為マンションに彼女が入ってくるという想定をしていなかったので相当驚いた。丁度ゴミ出しにエントランスまで降りていた女教師と出会い、俺の知り合いであると名乗って入れてもらったらしい。彼女をマンションに招き入れた当の女教師は、俺を見るなり豹変して攻撃的な行動に出た元妻に瞠目している。
「どうして娘を独りにしたの」
荒れていて話など出来そうになかったからだと正直に返すと、彼女の切れ長の眼がこれ以上無く吊り上がった。貴方って自分本位で人の事を何も考えてない、と心底軽蔑しきった口調で妻が責める。
「あの子が眼を離した隙に自殺でもしたらどうするのよ!」
酷く取り乱してたんでしょう、と言われて初めてその可能性に思い当たった。頭を殴られたような気分だった。母と学校から逃げた先の父とも上手くいかず絶望的な状況となった娘から眼を離す事の危険さを今の今まで理解していなかった。例え理性的な話が出来なくとも、建設的な事が出来なくも傍に居てやるべきだったのだと痛烈に後悔する。本当に娘が可愛くないのね。とどめを刺すように元妻はそう吐き捨てて、娘が居る部屋のインターホンを鳴らす。娘と繋がったものの返事の返ってこないインターホン越しに、先程まで声を荒げていたとは思えない穏やかな声で話しかける元妻。感情を圧し殺した声で受け答え始めた娘が、次第に涙声になっていく。お母さん、と感極まった声と共に玄関の扉が開いて娘が元妻の胸に飛び込んだ。娘の艶やかだった黒髪が鳥の巣のように乱れて、制服のスカートも皺だらけだった。
「大丈夫よ、一緒に償っていきましょう。学校も、本当に無理なら転校も考えましょう」
胸に顔を埋めて幼子のように泣き散らす娘の背中を擦りながら妻が優しい声で語りかける。元妻の目の下には濃い隈が出来ていて、表情を和らげると酷く疲れて見えた。娘の事を一晩中ずっと考えていたのだという事が伝わる。
「ごめんなさい、母さん、貴女の事分かってあげられてなかった。私の昔の事なんてどうだっていいのに、貴女が何より大事なのに」
化粧を切欠に過去の確執に囚われ娘を抑圧していた事を謝り、娘の髪を梳く。きっとこれが娘の求めていた答えなのだろう。妻はさらさらと模範解答を口にしていく。両親の確執からの解放。昨晩少年が言った事は間違いではなかった。全く関わりが無い上に育った環境も異なる赤の他人の筈の少年ですら彼女の事を理解出来たというのに、父親の俺は何も分かってはいなかった。肉親の筈の俺が一番娘から遠い。俺だって娘が大事だ。だがもう父親面する資格は無いように思われた。
 暫く廊下で抱き合っていた母娘は落ち着きを取り戻すと、エレベーターから帰っていった。俺は娘には何一つ出来ず、去っていく娘には一瞥もされなかった。諦観と侮蔑に満ちた声で見送らなくて良いと言われたので、その場に取り残される形で二人を乗せたエレベーターが降下していくのを傍観した。エレベーターが完全に見えなくなった後、女教師は俺に気不味そうに謝って自分の部屋に帰っていった。打たれた頬が痛かった。父親失格の烙印というのは掌の形をしているのではないかとすら思った。腕時計を見ると仕事に行ったとしても既に遅刻が確定している時刻を指していた。顔に付いた平手の痕を見られるのも、その理由について説明するのも煩わしかったので、会社には仮病を使って休んだ。仮にこれから出勤したとしても仕事は手に付かないだろう。無気力に自分の部屋に戻るが、俺には感傷に浸る事すら許されてはいなかった。
 部屋は娘によって荒らされ放題で、物は壊され床に散らばり、固定していない家具は片端から倒されていた。思わず何だこれはと呟く。独りで此処を片付ける気力も無くて、結局少年を呼んだ。
「娘さん滅茶苦茶アクティブじゃん」
強盗でも入ったかのような部屋を見渡した少年が感心した。その暢気さに何処か救われる思いだった。パソコンや印鑑通帳等を持ち出していたのは幸いだった。床に散らばった硝子片を踏まないよう少年に土足のまま部屋の奥へ入ってくるよう伝える。
「お転婆どころじゃないぞ」
引き裂かれて吹き流しのようになったカーテンと、それを引き裂いたと思われる包丁が本棚に突き刺さっているのを一瞥して嘆く。今日ほどマンションに防音設備が有って良かったと思った日はない。縁が歪んだテレビは薄型なのが災いしたのか、電源を点けても液晶の左側六分の一程が映らず、画面の映っている部分も色調が可笑しかった。猟奇的な内装になってしまった部屋を見れば見るほど、娘の破壊衝動が他人や娘自身に向かなくて良かったと身に染みた。それと同時に情緒不安定な上に自暴自棄な状態だと分かっていながら眼を離した自分に嫌悪が沸く。
「晴れて父親失格だ」
少年が手を止めて此方を見た。
「正直、済んだ事だと思ってたんだ。離婚して、慰謝料を払って、娘の養育費を振り込んで、毎年暑中見舞いと年賀状出して、小学生まではクリスマスプレゼントも送った。そうやって清算されていると思っていた。旦那としての縁は切れてもあの子の父親には変わりないと思っていた」
引き裂かれたカーテンを取り外してゴミ袋に放り込む。済んだ事だと思っていたのは此方だけで、元妻は裏切られて傷付いたまま、娘はそんな母をずっと見て新な傷を作っていた。
「償い方を間違えたんだ。俺の信頼はもう二度と回復出来ないし、彼女達にとって俺は世界一許し難い糞野郎だ」
頁の破かれた本も可燃ゴミとして捨てる。破かれた紙類の中に昔の家族写真が混じっていた。誰がシャッターを切ったのかすら記憶に無い、家族三人が笑っていた頃の写真。俺と妻だった女性の間で、カメラに向かって笑顔でピースサインを作った右手を突き出した小学校に上がる前の娘。その首元で写真は真二つに切れていた。
「娘を傷付けて歪ませたのは、俺だ」
その責任を取る事すら許されるか怪しい。破れた写真から手を離して、ゴミ袋の中に落ちていくのを見ながら懺悔した。
「俺はオニーサンの家族の事は分かんないんだけどさ、娘さんが羨ましいよ。少なくとも俺より歪んでない」
少年がゴミ袋に手を入れて、写真を取り出す。自分が歪んでるって気付いたのは最近だから上手く言えないんだけど、と少年は言葉を選ぶ。
「多分、俺ならこんな事しないって言うか、出来ない」
例え強い憤りが頭を占めていても、感情を露にするという事は難しいらしい。自分より大きくて力の強い大人の男の機嫌を損ねるリスクや無防備な姿を晒す事に対する抵抗感。それ以前に、表現力が追い付かないという精神的な機能の未発達が行動を遅らせ理不尽な仕打ちでも受け入れるのが常だと言う。
「真っ当だと思うよ。とても」
少年と比較して真っ当であると言うのは何ら救いにはならない事は分かっていた。少年もそこは承知しているのだろう。親子関係を修復出来るとは決して言わなかった。拾い上げた写真に寄った皺を伸ばして少年は俺に握り込ませた。
「捨てたらきっと、オニーサンはまた後悔する」
彼には家族の事など分からない。俺にも帰っていった元妻と娘が上手くやっていけるかは分からないし、彼女達に介入する資格はもう無い。ただ、これ以上自分の犯した事とその結果から眼を逸らすような事をしていては同じ事を繰り返してまた何かを失うような気がした。
『そうやって、貴方は面倒な事からずっと逃げてる』
脳裏を過ったのは、離婚が決まって慰謝料の相談をした際の妻の言葉だった。その言葉の通りだった。父の介護から逃げた。心細さを露にする義母を疎んだ。元妻がセックスを拒んだ原因に興味を持たなかった。眼を逸らし続けて家庭に問題が蓄積したら、今度は家庭から逃げた。面倒な事を言わず煩わしい柵も無い年下の女性の若さに付け込んで、逃避した。離婚は弁護士を通して金で解決して、金で償ったつもりになった。娘が面会を断る本当の理由についても聞く事はなく、思春期の父親離れだと都合良く片付けていた。そうして今度は助けを求めに来た娘の話をしっかり聞く事をせず、冤罪に違いないだとか希望的観測で追い詰めた挙げ句、情緒の不安定な状態で独りにした。そういえば娘を置いて部屋を出る時、娘もまた『逃げるのか』と口にしていた。俺の卑劣さは自身より彼女がよく知っていたのだ。それもその筈だろう、俺の欺瞞の犠牲になるのは何時だって彼女だったのだから。
「そうだな。捨てたら後悔する」
写真を扉が凹んだだけで比較的無事な冷蔵庫の扉に磁石で張り付ける。これを捨てる事は今まで犯し続けた過ちや今日の悔恨を省みる事無く捨ててしまう行為のような気がした。それは自ら父親としての己を貶める事に繋がるだろう。少年が言った通り、後悔するに違いない。彼女達に父親として見放された今、俺が父親である事にしがみ付くのはただの自己満足だろうが、娘に対して出来る事があるなら出来る限りの事をしたかった。それに彼女達が俺を拒否したがるのは当然だとしても、俺の方から目を逸らすのはお門違いと言うものだ。
 少年の頭をグシャグシャと掻き混ぜるように撫でる。彼が居て良かったと心底思った。そういえば此方が彼の部屋に上がった事は沢山あったが、少年を此方の部屋に上げるのは初めてだった。少年の傍らは心地良かった。無垢で柔軟な彼が沈んでいく思考を引き上げてくれる。
「片付けというよりも、大掃除だな」
少年が俺に倣って切り裂かれて綿が飛び散ったクッションをゴミ袋に突っ込んだ。しゃがんで床に散った綿も回収する少年。彼の頭頂部には地毛と思われる焦茶色になってきていて、随分髪が伸びたものだと感じた。その焦茶色の髪が示す時間は彼が義父と離れていた時間であると同時に彼と俺が共にいた時間でもあるのだろうと思い、少年の目まぐるしい成長に感心した。彼を支援しているつもりが此方が救われている。
「最早リフォームでしょ」
確かにリフォームと考えた方が良さそうだと頷いた。そう考えれば踏ん切りがついて、家電製品と一部の大型の家具を残して殆どを捨てる事になった。殺風景になった部屋に新しい家具を置く方が早かったからだ。それでも床に散った陶器や硝子の破片を始末してネットで家具を注文する頃には日が傾きかけていた。

 その夜は流石に外出する気分になれず、早めに少年と別れてから買い置きのインスタント食品を食べた。少年も残念そうに部屋を出ていった。彼の事を考えれば今日も外に出て食べに行った方が良いのだろうとは分かっていたが、もう一人でも外食なり中食なりして栄養バランスの取れた食事を確保出来るだろうと期待しているので申し訳無さは感じなかった。空になったインスタント焼蕎麦のカップを片してテレビを点ける。丁度天気予報がやっていて、日本列島のイラストに傘のマークを貼り付けながら天気予報士が明日は全国的に雨だと告げているところだった。もう直に梅雨が来る。画面が全体的に赤い上に九州の西側が映っていなかったが、慣れれば見れるものだと思って、テレビの購入を先送りにする事を決める。天気予報が終わって古い洋画が始まるが、内容が全く頭に入ってこない。肉体的にも精神的にも疲れていた。銃撃戦の派手な音だけが部屋を満たした。こういう時こそ酒が欲しいと思ったが、アルコールの力が無くとも独りで色調が変になったテレビを見ている内に眠りに落ちた。

 そして、酷い夢を見た。


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