訪問

 花の盛りも過ぎた春の晩、マンションのエレベーターで初めて見る顔の少年と鉢合わせた。金色に染められた髪の間から珊瑚色のピアスが見え隠れする、派手で生意気そうな風貌。ヴィジュアル系バンドもかくやという程の白い肌。少年は疲れが滲んだ顔で、欠伸を噛み殺していた。十代後半であろう少年だが、若さに不似合いな色気があった。少し時間が遅いような気はするが、部活帰りの高校生だろうか、有名なスポーツブランドのジャージが泥で汚れている。そう思ったところで考えを改めた。高校生なら平日の朝は登校する彼を見る機会があった筈だ。最近越してきたにしても、引越業者の出入りは見ていない。二部屋隣の住人が高校教師と名乗っていた事を思い出し、此処の住人の客とも予測をしたが、それにしては持ち物が妙だった。少年が左手に下げる紙袋からはワインボトルの頭が数本覗いている。教師の部屋を尋ねるのに酒を持っていく学生が居るだろうか。
「オニーサン、何階?」
そうこう考えている内にエレベーターが動き始めたようで、少年に声をかけられた。ボタンを押そうとパネルを見ると、目的の階のボタンは既に光っていた。
「へえ、一緒なんだ」
少年が知らなかったなあ、と声をあげた。少年は排他的に見える外見に反して随分社交的だった。目的の最上階までは結構時間がかかるので、何となく此方からも声をかけてみた。
「今時未成年にまで酒を売ってくれる店が有るのか」
「まあね」
少年は特に悪びれもせず頷いて見せた。
「パパが御得意様ってヤツなんだ」
成程、家賃も安くないマンションだ。今は汚れているとはいえ少年の服やアクセサリーも同年代の子に比べると随分金がかかっていると見える。家が相当金を持っているのだろう。労働者の立場からすると、いけ好かない子供だ。
「オニーサンさ、ワイン好き?」
少年が紙袋の口を開けて中を見せる。さして詳しいわけでもない俺にも高いと分かる酒が並んでいて、思わず喉が鳴った。少年と眼が合う。丸く垂れ眼がちな愛嬌のある瞳が此方を覗き込んでくる。
「飲んでく?」
小さな音と共に重力が元に戻って、エレベーターの扉が空いた。決まりね、と艶のある微笑を湛えてエレベーターを降りて先を歩き始めた少年の後を追う。少年は此処の住人だったらしく、荷物を持っていない方の手でポケットから出した鍵で西端の部屋の扉を開けた。
「ようこそ、酒池肉林の宴席へ」
少年がふざけた口調で大げさに恭しい動作でエスコートする。同じマンションの同じ階なので基本的な間取りは同じはずだが、物の少ない部屋は素晴らしく広く感じた。招かれた部屋は高級ホテルの一室のような内装で、家具や生活用品は辛うじて存在するものの生活感がまるで無かった。唯一の生活感と言えば、対になった革張りのソファーに挟まれた硝子テーブルに置かれたナッツ類の入った小皿くらいだ。その机の奥側のソファーに腰かけるよう案内され、恐る恐るソファーに座った。ソファーの後ろはベランダに続く硝子戸に掛かる筈のカーテンが開けられたままの状態になっていており、夜景が見えた。最上階の端の部屋だから特別見晴らしが良く、このベランダで下界を見下ろしながら一服する事の許されたこの部屋の主を羨ましく思った。
「よく分かんなくて高そうなのからテキトーに選んできちゃったから、好きなのあったら教えて」
ワインが硝子テーブルに並べられる。皆赤ワインだったが、どれも見事に有名な高級ワインである。金持ちの息子だからという理由では済まされ難い倫理観の欠如ぶりに驚きつつ、好奇心と欲求に勝てず飲んでみたい銘柄を告げた。
「オニーサンって酔わない人?」
食器棚から一点の曇りも無いワイングラスを取って来た少年が、ボトルを開けた。漂ってきた芳醇な薫りに気をとられ、返事を忘れた。緋色の液体がワイングラスの輪郭に収まっていく。
「俺あんまアルコール飲まないけど、今日はパパに怒ってるからカード拝借してヤケ買いしてやったの」
だから遠慮せず飲んで、と続けた少年が向かいのソファーに座った。言葉通り自分は飲まないらしい。
 ワインを一杯堪能して好奇心が満たされると、段々非常識な少年の方も気になり始め、つい彼をまじまじと見てしまった。傍若無人な振る舞いと人工的な金髪に派手な色のピアスは非行少年のようだが、不良らしい攻撃性や排他的な様子は無く寧ろ口調や態度は人懐っこい。ナッツを口に運んでいた少年と眼が合う。
「パパは帰ってこないから安心して良いよ」
家主の存在を気にしているのだと解釈されたのか、少年は父について話し出した。
「パパは元医者で、あ、パパって言っても義理だよ」
だから顔は似ても似つかないのだと言って携帯電話で撮った写真を見せてくれた。レッドカーペットが敷かれた高級そうな建物の内部を背景に、ピースサインをする今より少し幼い少年の横には鋭い相貌の格闘家のような体格の良い男が立っていた。確かに、稀ではあるがマンションで見かけた事がある顔だった。
「この悪人面が医者ねぇ」
「元、だよ。今は表舞台から引っ込んでる」
それから色々と話をした。少年は語彙力が乏しいものの頭の回転は速く、よく喋った。それに釣られて此方も饒舌になった。酒が上手かった所為と、俺自身にも吐き出す機会を待っていた鬱憤が腹に溜まっていた所為もあっただろう。
 ボトルを半分飲み終わる頃には少年は俺の隣に移動しており、その間にした会話で、少年は幼い頃に両親に虐待され母方の叔母夫婦に引き取られたものの叔母が早々に亡くなった為に血の繋がりの無い義父との二人暮らしを続けている事や、その虐待の所為もあって高校には行っていない事等を知ってしまった。義父はよくしてくれるらしく、少年が懐いているのが伺えた。その分、彼と離れるのが寂しいのだろう。依存に近いものを感じた。義父に怒って自棄買いした理由も、今日義父が少年を一人残して連絡手段も確保せず遠い地に行ってしまったからだと言った。充分にネグレクトである。少年の保護者や生活環境に対する不信感は増したが、少年自身に対する懐疑的な気持ちは薄れていった。それどころか、俺をこの部屋に誘った理由も人寂しかったからなのではないかと思って、少年を少し可愛く感じた。常識に反する言動も、傷付いた可哀想な子供が傷と寂しさを埋める為に藻掻いた結果と考えればそこまで凶悪なものではない。人恋しさを露わにした表情で酌をしてくれる少年は寧ろ健気で好ましくすらあった。元々酒に強い体質の上に肴は少年の身の上話と此方の愚痴を除けばナッツとのみなので、酒が無くなるのは案外早い。もう一本開けるか問う少年に、つまみの種類を増やせないか問うが、ナッツしか無いと返された。
「お前は普段、何を食べてるんだ」
一瞥しただけで使っていないと分かるキッチンを思い出して聞いた。男二人で暮らしている上に裕福に違いないので家事は外注しているかもしれないと思ったが、義父は帰ってこないという台詞が引っ掛かって尋ねてみた。崩壊した家庭で育ってネグレクト気味な義父に依存している見るからに食の細そうな少年が一人で出前を取ったりレストランを訪れたりする姿など想像がつかなかった。つまみ程度のものが満足に常備されていないなら、義父の留守中、彼は家で何を食べて生きているのだろうかと気になったのだ。
「ナッツだよ」
「それだけか?」
それだけ、と短い答えが返る。
「義父さんはいつ帰ってくるんだ」
飄々としていた少年の眼に陰りが見えた。ふいと眼を逸らして、頼り無い声で知らないと答えた。
「……凄く、遠い所に行って、きっともう帰ってこない」
拗ねた幼児がするようにと小皿に残ったナッツを指で弾いた。流石にそれはないだろうと思ったが、義父が帰るまでずっと家から出ずにナッツだけを齧って待っている少年は想像に難くなくて、つい出張って余計かも知れない世話を焼こうとしてしまった。万が一知り合いの、それもマンションの同じ階の住人が餓死していたら夢見が悪い。
「他に好きなものは無いのか」
なるべく栄養価が高いものを挙げろと補足する前に、少年の手が太股を這った。
「ナッツ、好きだよ」
こっちの方。と少年は年齢に不相応に艶と陰のある笑みを浮かべて唇を舐めた。指の先が股間をなぞる。背筋に冷たいものが走って、咄嗟に股間を手で覆って少年から離れた。
「そんな事は聞いてない」
「動物性蛋白質だって」
貞操の危機なんてものを感じたのは初めてだった。少年の生白い手首を掴んで太股から引き剥がして、眼で退路を探す。座らされた位置が玄関から遠いだけでなく、利き手側の隣を陣取った少年と前面の硝子テーブルが立ち上がる事を阻害している事に気付いて、自分が如何に周到に追い込まれていたかを悟った。
「お前、男が好きなのか?」
好き?と少年が聞き返した。性を匂わせる事に関しては異常に成熟しているのに、まるでライクとラブの分別が付いていない幼児のような首の傾げ方だった。
「男が好きかは分かんないけど、セックスは好きだよ」
非常識なのは金銭感覚だけではなかったのだと知る。
「でも女の人は苦手。オカーサンがシないとご飯あげないって言うから頑張ったのに、ワルモノになるのはいっつもこっちだもん」
不意に語られた両親から受けた虐待の詳細に思わず口を閉ざした。動揺を隠せない此方に構う事無く少年は続ける。
「パパは優しいから、特別大好き」
実母からの性的虐待と擬似近親姦の告白に目眩がした。親愛と恋愛の分別どころか親と子の真っ当な関係すら知らない。自分が喋った事が義父の罪を告白するものであると気付いているのかすら怪しい。此処に居るのは常識を知る前に歪んだ遊戯を植え付けられた子供だと確信する。
「パパの客の中には乱暴な人も居るには居るけど、本当にヤバくなったらパパが止めてくれるしね。男の人とのセックスは良いよ。被害者ぶらないし、腰を振る事しか考えない」
とどめには売春の告白。非道な両親から救ってくれた筈の叔父にも弄ばれた少年に親子愛など理解出来る筈もなく、愛情と肉欲の区別をする事自体が無駄な事だったのだ。少年は同じマンションの住人という事が不思議なくらい社会から隔絶されている。それと同時に今まで彼を見かけなかった事に納得した。警察に通報しようか迷ったが、少年の独白以外に証拠も無い上に余りに非現実的なので信じてもらえるだろうかと不安になった。
「ね、オニーサンは優しい人?」
此方の考えを遮って少年が問う。首を傾げたその姿に先程の幼さは無くて、猛禽が狩猟の際に獲物との距離を測る動作そのものだった。
「俺はそういうのじゃない」
辛うじてそれだけ言うと、隣に座る少年を退かして席を立った。ケチ、と小さく毒吐くのが聞こえたが、振り返らず玄関を目指す。いざ逃げようとすれば少年は簡単に退いた。少年が後ろから悠長に声をかけてくる。
「また来てくれる?」
少年がまだワインが半分残っているボトルを振って見せた。
「期待には添えないぞ」
酒は惜しいが、男とセックスする趣味は無い。正直にそう告げると少年はあっけらかんと諾った。
「いいよ別に」
何となく誘ってみただけ。と返されれば此方が恥ずかしくなる。頭を抱える此方を余所に少年はお土産と称して開封していない方のワインボトルを一本俺に持たせた。素手で触って指紋を付けるのが憚られるような高級感溢れるボトルだが、裸で押し付けられれば素手で持つしかなかった。
「パパが居なくて寂しいんだ」
依存していた義父に突然独りにされた人恋しさを埋めたかったのだと彼は言った。彼一人では満足に出来ない衣食の面倒を見てもらおうという打算も有り、セックスが出来る事を知らしめておけば可愛がって貰えるであろうという悲しい自身の経験則に基づいて動いただけで、セックス自体が目的ではなかったのだと。
 だからまた来てねと手を振る少年が立つ部屋の扉が音をたてて閉まれば、見慣れた日常の風景だった。不似合いなワインボトルを抱えて廊下に立ち往生する訳にもいかず、狐に摘ままれたような気分で自分の部屋に帰る。少年と自分の部屋には二部屋分の距離しかなかった。何だか途方も無い疲れが襲ってきて、ワインを小型のセラーに入れると今日の記憶を洗い流すようにシャワーを浴びた。だがそう簡単にはあの異様さは忘れられない。僅か二部屋経た所に社会の常識が抹消された異世界があると知ってしまった俺は何とも不可解な気分で布団についた。


 それから貰ったワインのボトルを空にした後も、少年の部屋を立ち寄る事は勿論なかった。それどころか、少年と廊下やエレベーターで会う事もなかった。時々あのナッツしか無い部屋で義父を待つ少年がその痩身を更に貧相にさせているのだろうという想像が脳裏を過る事はあったが、態々異常な世界に脚を踏み入れる程愚かではなかった。理解の範疇を越えるものには触らないに限る。
「あら、おはようございます」
出勤前、エレベーター前で高校教師の女と出会した。ストイックな肩書きに反して大胆で豊満な身体をタイトなスーツに身を包んだ彼女に会釈を返す。短いスカートから伸びる薄いストッキングに包まれた脚を盗み見て、やはり自分に男をどうこうする趣味は無いと再認識した。当たり前の事なのに、何処か安堵している自分が居て、少々気持ちが悪かった。
「この階に高校生の男の子が住んでいるの、ご存知でした?」
この前初めて会いました、と女が言った。喋る度に彼女の口許の黒子が上下する。
「金髪で痩せ気味の子なのですけど、会ったのが平日の昼でしたから、ちゃんと学校に行っているのか不安になって」
エレベーターを待つ間の世間話に過ぎないのだろうが、彼の話題となると居心地が悪かった。高校には通っていないそうですよ、と馬鹿正直に返せば何故それを知っているか追及されるのは明白なので適当に返事をして話題を逸らす。
「自分の生徒じゃなくても、やっぱり気になりますか」
非常勤教師と聞いているが、生徒とは親密らしく彼女の部屋まで訪ねてくる学生は多い。大半が男子生徒なので生徒側には思春期特有の下心があるのだろうが、この人は子供自体が好きなのだろう。弁に熱が入る。
「ええ、あれくらいの年頃の少年って出来上がりつつある身体に反して精神的にはまだ未熟な事が多いので」
女が言い切る前にエレベーターが来た。その後に続くのは不安や心配といった言葉なのだろう。そのまま会話が途切れて二人とも自然に黙ったままエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの稼働音を数秒聞いた後、下の階の住人も乗ってくる。乗員が増え彼女の顔が見えなくなっても、彼女の言葉は頭の中を渦巻いていた。ただ、彼女が思う以上に実際の彼は身体と精神の成熟の差が大きくて不安定だ。常識と擦り合わない分、予測出来ない要素も多い。俺だけはその懸念を知っている。その危機感は日に日に大きくなっていった。

 膨らみ続ける不安を針で突いて爆発させたのは、テレビのワイドショーだった。休日は付けたままにするのが習慣となったテレビから、如何にも清楚そうなアナウンサーが未成年犯罪のニュースを読み上げる声が耳についたのが発端だった。一瞬彼の事かと思ったが、顔を隠してインタビューに出た同級生と名乗る少女の訛りで遠い地の出来事だと分かって一応は安堵した。しかし、いつ彼が彼女のようになっても可笑しくはないのだと思わせるには充分だった。心理学者や犯罪研究家等専門家の意見を交え、被疑者の行為について解釈を試みるコメンテーター。街頭インタビューの主婦達は教育の不足だとか保護者の責任だとか喚く。
『現在少女は身柄を確保され、自身の売春の他に売春を斡旋した容疑を認めています』
淡々と現行を読むアナウンサーの声が嫌に室内に響いた。顔面がモザイクで覆われた少女の写真が液晶に大写しになる。画面右上には売春斡旋・脅迫・傷害・公務執行妨害の文字が並ぶ。キャスターのわざとらしい驚いた声。
『同年代の少女に売春を斡旋していたのですか?』
『はい。彼女が全て取り仕切っていたとは思えませんが、デートクラブのオーナーとして登録されており、実際に同級生を含む同年代の少女達を管理し彼女達に何度も脅迫めいた売春を強要する文面のメールを送っていました』
宛先と送信元を伏せたメールの映像に切り替わったところでチャンネルを変えた。しかし他局でもこのニュースは大きく取り上げられているようで、チャンネルを変えた意味は無かった。
『身柄確保の際、少女は通行人や警官に向かって刃物を振り回す等の凶行に及び、計三人が軽傷を追う事態に』
レポーターからの中継が終わらない内にまたチャンネルを変える。
『少女は幼少期に実の父親に性的虐待をされていたとの情報がありましたが、こういった経験はやはり人格形成に影響を及ぼすのでしょうか』
更に不穏な言葉が聞こえてきて、ついにテレビの電源を切った。
 冷蔵庫をや戸棚を漁り直ぐに食べられそうな物を袋に詰め、部屋を出た。歩いて十秒もかからない距離に居る少年を訪ねる。インターホンを鳴らしても返事が無かったが、ドアノブを捻ると簡単に扉が開いた。
「パパ?」
少年が全裸にブランケットを纏っただけの状態のまま出迎えた。やはり以前見た時よりも痩せている。
「な、訳ないよね」
肩を落としたまま少年が挨拶する。
「要求通り来てやったぞ。取り敢えず服を着ろ」
それから酒を出せ、と付け足す。少年の存在や彼の境遇への戸惑いを隠蔽するように横柄な態度を演出する。
「遅いよオニーサン、寂しくて干からびちゃうかと思った」
カッターシャツにスラックスを履いてから少年はワインを持ってきた。
「今日はつまみが無いよ」
この前と同じ銘柄で、中身は半分残ったままだった。味は落ちているだろうと思ったが、高い酒には変わりない。つまみが無い事を軽く謝りながらグラスにワインを注ぐ少年。相変わらず自分は飲まない。
「持ってきた」
硝子テーブルにつまみを出す。ビーフジャーキー、チーズ、茎ワカメ。全部コンビニで買えるスナックで、ビーフジャーキーに至っては封が切れているが少年は感嘆した。
「ソレ知ってる。テレビで見た」
一人で高いワインを買い漁った癖にコンビニには入った事がないと言う。それどころか一人で外に出たのはあの時が初めてだったのだとも。少年によると、あの時は気分が高ぶっていたから特別に行動力があっただけで、普段は保護者同伴だったとしても外出など殆どしないらしい。というよりも軟禁されていたというのが客観的に正しい状態だろう。暇な時は専ら独りでテレビを見ているらしく、繰り返しコマーシャルで目にする商品を一度は手に取ってみたかったのだと眼を輝かせた。彼がつくづく浮世から離れた存在であると実感すると共に、今回の目的はこの少年の様子を見る事だったと思い直した。
「お前はこっち」
一旦ビーフジャーキーを取り上げてインスタント食品を出す。憧れていたビーフジャーキーを取り上げられた彼は動揺の色を見せたが、次の瞬間には出されたインスタント食品に目移りしていた。インスタント食品も物珍しいらしく、少年はカップ麺を上下に振って容器の中で乾いた音が立つのを訝しげに観察する。
「これも知ってる」
お湯を注ぐヤツだ。とテレビ経由の実体験の伴わない知識を確認するようにパッケージに書かれた調理の手順を読み込んでいる。幸いにも文字は読めるようだが、生活力は小学生に満たないのではないかと不安になる。
「そんなんだから最近何も食べれてないんじゃないのか」
他のインスタント食品をテーブルに並べていく。幸い料理に無関心な男の一人暮しなので、インスタント食品もスナック類も豊富だった。少年は熱心にパッケージを見た後、豚骨拉麺を選んだ。一応封を切る商品を一つに絞ったものの少年が残った商品を余りに未練がましそうに見るので、今日食べなかった食品は此処に置いていくと告げてやる。
 カップ拉麺に熱湯を注いで三分待つ間、少年が感心したように言った。
「オニーサンって面倒見良いよね」
「隣の先生さんが心配してたんだよ」
東側の壁を指してこの部屋の隣に住む教師の女に心配されていた事を告げてやる。流石に未成年犯罪のニュースで危機感を覚えたとは言えなかった。
「あのオネーサン?そんな慈悲深い人じゃないよ」
少年が苦い顔で舌を出す。そういえば女は苦手らしいが、こんなにも嫌悪が混じった顔になるのだろうか。
「あの人、教え子と乱交三昧だよ」
この前誘われたもん、と言う言葉に思わず噎せた。折角の高いワインが変なところに入っていった。
「成長しきってない身体で、ちょっと社会規範から逸脱した感じの男の子が好きなんだって」
そういえば彼女の部屋に通う学生達は真面目と言うよりも擦れた印象の少年ばかりだった。てっきり勉強を見たり人生相談とかしている熱心なタイプかと思っていたが、検討違いだったようだ。
「通りでエロい訳だ」
マンションの防音設備が悔しいと素直に思った。
「アレがオニーサンのタイプなの?」
趣味悪いよ、などとはパパ大好きと宣い擬似近親姦に興じる少年だけには言われたくなかった。携帯電話にセットした三分間が経過した事を告げるアラームが鳴る。少年が容器に書かれた説明に従ってカップ拉麺の蓋を開けると、成熟したワイン特有の杏子の香りに豚骨の風味が混じってしまって豚骨拉麺なんてものを持ってきた事を内心後悔した。尤もワインは随分劣化してしまったし、純粋に酒を楽しむ事は目的でないので諦めは付き易かった。
「もし最中に旦那さんが帰ってきたらコトだよね」
出張中らしいけど、と言い捨てて拉麺を啜る少年は実に飄々としていたが、此方には充分衝撃的だった。
「あの人、既婚者なのか」
少年は眼だけで肯って拉麺を咀嚼した。
「非常勤教師の給料だけでここに住めると思う?」
そういえばそうだと頷いた俺に呆れた顔を向ける少年。
「というか、滅多に外に出ない割には詳しいんだな」
「まあ、旦那さんがパパの客だったし」
何度か相手した事があるよ、と告げられたら最早何処から驚いて良いのか分からなくなった。
「可笑しいのは俺の方な気がしてきた」
「まさか。可笑しいのはこっちで合ってるよ」
オニーサン案外流され易いんだね、と少年が笑った。普通に口を開けて笑う顔は案外年相応の悪戯っぽさと快活さがあった。
「ついでにもっと可笑しい事教えてあげる」
少年が丁寧に間を置いて、俺がワインを嚥下するのを待った。
「パパはこの部屋の其処ら中に監視カメラ付けてるよ」
トイレにまで付けてるんだから、可笑しいよね、とカップに箸を突っ込んでスープを掻き回しながら少年が平然と告白する。これは口の中に液体を含んでいる時に言われなくて本当に良かったと思った。
「……じゃあ勝手に買った酒を見ず知らずの俺が殆ど飲んでるのも皆パパとやらに知られてる訳か」
動揺を悟られぬよう言葉を紡いだつもりだったが、頭の中は嫌な想像でいっぱいだった。美人局とかボッタクリバーとかいう単語に脳味噌を撹拌されている。やはり慣れないお節介なんて焼くものじゃないと後悔した。アンダーグランドに完全に脚を突っ込んでしまったと深く溜め息を吐いた。
「俺はどうすればいいんだ」
「別にパパも俺も何もしないって」
本当だよと再三言われたが、監視されている事を知ってしまったら居心地は悪くなる一方だった。グラスににワインが半分程残った状態で席を立つ。この状態では味など分かる気がしないので惜しくはなかった。
「取り敢えず、もう此処には二度と来ない事にする」
それは駄目、と少年が間髪入れずに言った。俺の服の袖を引っ張って引き留める。
「オニーサンが来なかったら俺、一人になっちゃうじゃん」
大人しくパパを待てと言い返すが、いつ帰ってくるかも分からない上にまともに外出した経験も無く自分の面倒すら見れるか怪しいのは事実らしい。
「この監視カメラに看取られて、ゆっくり孤独死していくしかないんだ……」
少年が悲壮感を滲ませた声で訴えた。人間はそんなに簡単には死なないと言い返したいところだが、彼に限ってはそうは言いきれなかった。それどころか完全に家畜化され飛ぶ事は愚か餌が無くなっても逃げる事すらない蚕のように、人の手が無ければ直ぐ死んでしまうのではないかすら思えた。俺が死んだら、異臭がするまで誰にも気付かれないだろうなあ、と少年は気味の悪い事を言い始める。
「異臭がし始めて漸く隣のオネーサンに通報されて、やっと気づいてもらえるんだろうなあ。そんで監視カメラにはオニーサンが俺に会った最後の人として記録されてるんだろうなぁ」
同情を引く姿勢から脅迫めいた話題に移る。少年は少年で形振り構っていられないらしい。此方としても少年の存在は不安だった。仕方がなく両手を挙げて降伏の姿勢を取った。
「分かった。仕事帰りに飯持って来てやる」
「やった!」
渋々頷くと俺に少年は満足気に頷いた。諦めて残った酒を呷る。
「飯食って酒飲むだけだからな」
念を押すが少年は分かっているのかいないのか、少年は一安心といった表情でチーズを口に運んでいた。 現金な奴である。


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