欺瞞の牙2

 依然、探偵の口からは少女を慰める言葉は無い。
 彼は共感を重要視しない代わりに、自身の感情についても決しても窺わせなかった。侮蔑も叱責も無い、どこまでもフラットで感情に淀まない語り口。そこが彼を一層被造物めいた存在にしていた。
「生徒役と教師役をペアにして、生徒役に記憶力テストに口頭で回答させ、教師役には不正解あるいは無回答だった生徒に罰として電気ショックを与える役目をさせる。実験という大義名分に守られた教師役は、どこまで非道な罰を生徒役に課す事を許すのか、道徳心に在り処について問う実験でもあった」
静かで冷たく滑らかで、変温動物を思わせる声音だった。澄んでいるが仄暗い、先程まで彼が浸っていた川の温度に似た、平淡な声。
 電気ショックと言い出した辺りで、助手が探偵の隣に腰を降ろした。今日と昨日の経験則から探偵に気の利いた話ができるとは決して思えないヘルゲだったが、あまりに血生臭い話であれば助手が口を塞ぎにかかるであろうと信じる事にした。
「実験は、教師役と生徒役と監視役の3人一組で、他の組との接触を断たせて行った。教師役は、幅広い層の男性40人。思い込みによって結果が左右されないよう、彼等は記憶に関する実験と称した新聞広告を通じて集められた。研究者及び学生は勿論、被験者同士にも知り合いが居ないよう採用した。そして生徒役は、教師役には一般人だと身元を偽った男性の役者40人。監視役も役者で、恰幅の良い男性に白衣を着せて、如何にも権威的な博士として振舞ってもらった」
如何にも権威的で恰幅も良い博士は実際に見繕うのが難しいし、学生じゃ若すぎるからね。と探偵が役者を起用した理由について補足する。生徒役まで役者なのは、激しい電気ショックを実際に流すのは危険なので、教師役の被験者達に「時分が電気ショックを与えた」と認識させるのに役者による迫真の演技が必要だったかららしい。
 探偵は、実験に必要な前提の条件や手続きを丁寧に説明した。子供相手に語る事を目的にするならば端折るべき部分も多いように感じたが、彼は実験を如何に正確かつ公正に観測するための要素として話した。科学の、合理主義の人間なのだ。村には居ないタイプの人間だ、とヘルゲは改めて思った。しかし、第一印象とは違って、今は嫌悪感が薄れていた。自身の帰属する集団に絶望している人間は、こういった遠くの存在に耳を傾けたくなるのかも知れない。アンネに難しい語句を噛み砕いてやりながらも、ヘルゲ自身も探偵の話を真剣に聞く気になっていた。
「教師役である被験者は、電気ショックを与えるスイッチを与えられる前に、このように説明される。電気ショックは、スイッチを押す度に15ボルトずつ電圧の強さが上がり、最初の15ボルトは不快感に呻く程度の軽い衝撃が来るだけだが、375ボルトの段階で死の危険を伴う。生徒役が痛みに喚いても、実験を許可無く止めてはいけない。実験中の出来事に関しては、大学及び監督者たる博士の責任であり、参加者に一切の責任は無いと。そして、体験として45ボルトの電気ショックを受けさせる。単なる想像力や経験の有無が電気ショックの扱いを変える要因になるのを防ぐ為に、実験のリスクと生徒側の受ける苦痛についての認識を統一しておくんだ」
探偵は、ここで一旦アンネに最大の電圧を付加する教師役がどの程度居たかを予測させた。実験とは予想があってこそのものだからだ。しかし、この歳の子供にそこまでの理解を望むべきではなかった。彼女は実験内容の詳細を聞いたくだりから、顔を強張らせていた。
「生徒役の役者は、150ボルトから絶叫し、300ボルトになると壁を叩いて実験中止を求めるようになり、330ボルトで完全に無反応になるよう演技を統一していた。ちなみに、学生達が事前に予想を出し合ったところ、最も悲観的な者でも5パーセント程度であろうと考えていたよ」
ちなみに、最も悲観的な予想者が僕だ、と探偵。他の学生達は40人の内に1人居るか居ないかといった具合の予想らしい。武器で脅されたり人質を取られている訳ではないのだから、簡単に人を殺す選択をする筈が無いと信じていたのだ。ヘルゲやアンネも、先に結論から聞かされ例無ければそう答えたであろう。

 「しかし、実験結果はこうだ。300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人も居なかった。そして、65パーセントの人が最大出力のスイッチを押した」
40人中26人、とヘルゲの頭の中で具体的な数字が弾き出される。中には電圧ショックを与えられた生徒の絶叫が響き渡ると引き攣った笑い声を出す者も居たと、探偵は流れる川のようにつらつら喋った。被験者の中には途中で実験の意図自体を疑い出した者も居たが「被験者に一切の責任は負わせない」と確認させればスイッチ押す作業に戻ったと。絶叫し助けを求める生徒役を前にしても、彼等は実験を継続したのだ。いつか取り返しの付かない事が起こると分かっていながら。
 アンネも、苦悶するサラを眼にしている時はそのような心境だったのかもしれない。直接責任を取らない立場となると、罪に対する警戒心はうんと緩む。
 彼等は、アンネと同じなのだ。そして、給湯室で理不尽な誹謗中傷に相槌を打っていたヘルゲとも同じだ。
 道徳を知っていても、自分が主犯でない事に甘えてしまう。目の前で苦しんでいる人よりも、権威や集団との合意を反故にする事に気を取られてしまう。自身に降りかかるであろう冷めた視線や叱責に竦んでしまう。そうやって、保身と道徳を繰り返し天秤にかけては、悪徳を是認してしまう。体感的にはささやかな看過の積み重ねも、繰り返す内に累積して加速していく。
 己が何に加担しているのか、確かな実感も無ければ責任も曖昧で、手遅れになって漸く自分の残酷さに気付く。賢く保身に徹しているつもりで、とんでもなく愚かな儀式に参加していたと。

 ヘルゲは、横目で探偵を見遣った。
 暗がりの中では、白過ぎる肌がよく目立つ。農夫ばかりの村には決して馴染まない、余所者の横顔。整い過ぎた顔立ちは硬さと冷たさばかりが目に付いて、言語外の意思疎通を拒む彫像めいた風情すらあった。この男が他人に阿る様子が想像できなかった。この人は何処に居ても、永遠に余所者なのではないか。そんな考えがヘルゲの胸に過ぎったが、覚えたのは同情や憐憫ではなく羨望だった。
「さて、稀有な人達の話をしようか。権威や集団の空気に屈せず、人間として正しい行いをしようとした人達について」
相変わらず、探偵は何を考えているか分からない。探偵が振りかざす無機質な合理性は無神経と紙一重で、そんな態度で生きていける人間ばかりなら誰も苦労はしないのだと、奔放さに対する嫉妬があることをヘルゲは認めた。
「サラみたいな?」
アンネが聞き返す。そうかもしれないね、と探偵。
「あの実験の中で、電圧が死亡の危険があるレベルに達する前に中止を希望した人達は少数だが存在した。百分率にして僅か10パーセントの人達だ。一人はスイッチを押せませんと泣き出し、どうしても続けるなら生徒役と教師役の立場を交換して欲しいと申し出た。また別の人は、許されない実験だと監督役を説得しようと演説を試みた」
探偵が指を折って数えていく。こんなに明らかな残酷行為でも、その程度の人数しか人命を優先する事ができなかったのだから、決して明るい話とはいえなかった。それでも探偵は、善性を証明した人々の様子を仔細に語った。
「またある者は、この実験のために自分達に支払われている報酬を全額返金してもいいと交渉を試みた。然るべき所に通報すると通告した者も居た」
彼等は極めて少数で、やり口も様々で、中には合理的といえる選択が出来たとは言い難い者も居た。けれどヘルゲは、それらはみな敬意が払われるべき行動であると感じた。ヘルゲは、きっと多数の愚か者の方に属するであろうから。彼等の勇気を眩しく思った。
「君の知るサラも、やはり彼等と同じように愚行を止めようと奮闘しただろうか」
アンネが頷く。小さな頭を何度も縦に振って、尊ぶべき友人の善性を肯った。
「サラはやったよ。止めようとしたの……」
集団が形成した圧力を伴う悪意に逆らったのだと、アンネは告げた。泣き腫らした者特有の鼻声と拙い滑舌で、彼女は懸命に喋った。彼女が如何に善人で、喪われるべきではなかったかを、彼女はずっと誰かに伝えたかったのかもしれない。
「男の子が、ムリヤリ飼育小屋に入れられて、ウサギの真似をさせられたの。だから、サラはみんなにバカな事は止めなさいって怒った。男の子をウサギ小屋から出して、なぐさめてた。でも、次の日には、サラが……」
それは、大人達が初めて聞く情報だった。彼女は自身の持ち得る少ない語彙の中から、個人を貶めずに済む言葉を探していた。それを、探偵が引き継ぐ。
「その男の子に代わって排斥のターゲットにされた、と」
「うん」
アンネは自らの身体を抱きしめるように腕を抱いた。彼女の細い身体が、硬く丸まって一層小さくなった。大人の目の届かない世界で行われたそれは、幼い故に加減を知らない。その残酷さに揉まれるには、少女の心は儚すぎる。
「サラは私に助けてって言わなかった。今度は私がそうなっちゃうから。サラだって、助けてほしかったにきまってるのに」
友人と自分を天秤にかけて、友人を見捨てた。幼い心には、これがどれほどの傷になるか計り知れない。サラは良い子だった。彼女だけが善人だった。彼女が喪われるならば、自分が代わりになった方がうんと良かった。そう言って、アンネは泣いた。

 風に吹かれて飛んだ花弁が、せせらぎの中に落ちていく。
 口を挟んだのは助手だった。
「俺は、最大出力の電気ショックを与える事を良しとした65パーセントの人間と君がまるきり同じだとは思わない。だって、君は相手が死ぬなんて知らなかった訳だし、次の標的が自分になるかもしてないという強迫観念に晒されていた。全然同じ条件じゃない」
君だって人を助けたいと思う心がある優しい子じゃないか、と助手がアンネに声をかける。人の善性を何処までも信じようとする黄金色の眼が、真っ直ぐ彼女を見据えていた。この男は恐らく稀有な方の人種だ、とヘルゲは直感した。探偵も同じ事を思っていたようで、彼は「まあ、君は10パーセント側だろうからね」と呟いた。真っ直ぐで、自身の正義に素直で、悪徳に怒りを表明する勇気を持っている、そういう人間は状況に関わらず主体的に正義を選び取れるのかもしれない。
 ヘルゲはといえば、もし自身が実験に参加したらと考えるだけで自己嫌悪で暗澹としそうになる。善悪の区別をできる頭はあっても、自身の行動が状況に左右される事を経験上良く知ってしまっている。
「まあ、君が自分を稀有な方の善人だと思えなくとも、最大出力になるまでスイッチを押し続けた方の人間であると思う必要も無いさ」
探偵は、稀有な善人と最期まで流された大多数の間に存在する層について触れた。死亡のリスクを伴う出力を超えてしまったが、生徒役が無反応になるなどのより深刻な被害を伺わせる演技に移行した様子を見て我に返り、中止を申し出た人達だ。約25パーセントはその層なのだと探偵が明かした。
「彼等は元々、現実より不利な状況で意思決定をさせられていたんだ。特に、教師役同士が互いの行動を見たり意見交換できないように分断されたのなんて、非現実的なシチュエーションだろう。大抵の人は、周りの判断を考慮に入れて行動するものだからね。他の教師役も実験に疑念を抱いている事が確信できれば、彼等の意思決定はもっと早かったかもしれない」
あるいは、状況に関わらず正義を実行できる稀有な善人達の行動に倣って、実験の不道徳さを叫んでいたかもしれない。現実にはより善の方に流動し得る人間がもっと大勢居る筈なのだ、と探偵はアンネに言い聞かせた。アンネは確かに、サラに倣おうとしていたのだ。だから今、子供達が秘密にしていた具体的ないじめの内容まで打ち明ける事を選んだのだ。
「そして、現実と違って彼等に与えられなかったものがもう一つ。政治だ。そもそも、人命を軽視する実験を敢行する者に権威があってはいけない」
そうしたらスイッチを押す必要も無かったのに、と探偵は前提の条件からひっくり返した。合理とデータをつらつら並べ立てていた男が、急に「人を殺してはいけません」レベルの初歩的な道義を持ち出すものだから拍子抜けである。
「怪物と称すべき人間が居るなら、致死レベルの電気ショックを与えようなどと本当に立案してしまう人の事だ。普通の人々、つまり大多数の行動こそ状況に左右されるが道徳を知る人々は、そういう怪物に主導権を握られないように抑止し、悪意の芽が大きく育つ前に刈り取らなければならない」
それが政治の役割だ、と探偵。悪趣味でデリカシーを欠いた合理主義者とばかり思っていた彼にも、社会を鑑みる機能があった。それに事に驚くと共に、ヘルゲは「肝心なところはちゃんと見てる奴なんだ」という昨夜の助手の言葉を思い出す。彼は自身が余所者であることの意義を知っていた。敢えて余所者として振舞う彼に、この村はどう映っただろうか。

 この村には政治が無い。
 少なくとも、村人達に探偵が言ったような政治意識は無い。侵略とは縁の無い閑静で閉塞した村の中で、村人達は統治されるだけの存在だ。古い連中の合理に欠けた黴臭い価値観を保守する事を社会性だと思い込んでいる。和を乱さない事だけを美徳として、そこに社会の在り方は配慮されない。
「アンネ、君達は怪物でも何でもない、普通の人間だ。ただし、政治が与えられていなかった。僕にはそう見えるよ」
ヘルゲと探偵の目が合う。ヘルゲには彼が言わんとする事が分かった。彼女達子供こそが、政治意識の無い閉塞した村の犠牲者だと。紫の瞳の中にも、人文の光があった。そこに何故、侮蔑の色が無いのか、ヘルゲには理解しかねる。
 彼女達に政治を見せていくのが大人の役割ではなかったか。彼女達に政治を教えていくのがヘルゲ達教員の役割ではなかったか。なのにヘルゲ達は、勉学ばかり詰め込もうとして、子供達に醜悪な社会ばかり突きつけていた。

 アンネは、新しい言葉に出会った時のように、政治と呟いては口の中で転がしていた。
「いずれ君にも分かるさ。何たって、新しい領主は教育を奨励しておられるからね」
助手と探偵が、揃ってヘルゲを見遣った。簡単に言ってくれる。けれど、怪物に特効薬があると知らされたのはアンネの心を軽くしたようで、彼女の頬に伝う涙は止められていた。

 アンネの涙が乾くのを待って、探偵は彼女を立たせた。
「さて先生、彼女の送迎を任せても? こんなに遅くまで余所者に聴取されていたとあっては、どうにか弁明が必要になるだろうけど」
保護者にどう事情を説明するかは任せると、探偵はヘルゲに丸投げした。
「ううん、いいの。お母さんにぜんぶ正直に話します」
「そう」
アンネは、川の水で瞼を冷やすように顔を洗った。そのくらいで隈は消えないが、泣き腫らした瞼の赤みは若干良くなった。
「君はいい子だ。きっといい人になれる」
助手はアンネの両手を取って、強く握った。その言葉は、激励というより祈りのようだった。

 結局、探偵と助手はまだ川辺を調査する為に森に残った。
 ヘルゲはアンネと二人で森を下り、家まで彼女を送ってから学舎に戻った。
 アンネと二人きりになって、ヘルゲは漸く教員としての失態を彼女に謝る事ができた。



 翌朝、探偵は体調を崩していた。
 約束通りアンデレの家へ向かう一行だったが、探偵の顔色が死んだように悪かった。その上、鼻頭が真冬のように赤い。無表情は相変わらずでも、一目で異常事態と分かる。
「昨夜、川で溺れたんだ」
一体どうしたのかと気にかけたヘルゲだが、早速聞いた事を後悔した。
「上流まで登ってみようと思ったのだけど、水位が胸までくると歩けないんだね」
「馬鹿ですか」
思わずヘルゲの口から暴言が出た。探偵は危機的状況に瀕していたらしいが、けろりとしている。その危機感の無さそうな態度は、反省しているのかすら疑わしい。
「全くだ。返す言葉も無い。俺だって、お前が泳げないと知ってたら、絶対川に入れなかったからな」
助手も呆れ気味に探偵を叱っていた。泳げない人間がよくも夜の川に入ろうなどと思ったものだ。ヘルゲには、自殺未遂と間違われても致し方が無い行動だと映った。
「僕は都市部で育ったからね。自分が泳げなかった事も今まで知らなかったよ」
つまるところ、探偵は水の恐ろしさ自体を認識できていなかったのだ。澄んだ川が流れるこの領地では、まずあり得ない事だった。ヘルゲは、村の大半がそうであるように、大人が教えられるまでもなく勝手に川に飛び込んで泳ぎを覚えたタイプだった。だが助手が言うには、都市部の川や海は工業排水で泳げたものではないらしく、そもそも川で遊ぶ発想自体乏しいという。
 ヘルゲは改めて二人が余所者で、異なる常識を持っている生き物だと認識した。
「そもそも、歩いて上流を目指せば良かったんじゃないですか」
流れが緩やかだから大丈夫だと思ったと探偵が弁明する。
「山で賊に襲われた男爵が見付かったのは、あの川のもっと下流の方だっただろう。所持品と義手が奪われた状態でも、男爵と反別できる程度には原型が留まっていたと聞くし」
普通はもっと打撲と水流で分かりづらい遺体になるんだよ、と探偵が川に見出した特殊性を語るが、やはり一切共感を寄せられるものではなった。
「そもそも遺体が浮いていた川によく入れますね」
この一言に尽きる。


 アンデレは、聞き取りににこやかに応じた。
 犬は完全に愛玩用の小型犬で、一等執拗に痛め付けられていたという。兎や鶏と比べても歯形の数が多く、小型犬のシーズーに似た長い毛が手酷く毟られたらしい。
 アンデレは飼い犬の死にショックを受けていたらしいが、今では穏やかな顔を見せている。兄や両親との仲も良好で、よく笑う。だが彼は、サラの受けていた被害について、一切語らなかった。
「飼育小屋に入れられて兎の真似をさせられた少年については知っているかな」
「いいえ。というか、人狼の件と関係ありますか?」
大きな犬を飼っていた家についても聞いたが、彼は知らないという。協力的だったとは言い難い。
 やはりこの村の子供は、大人を信用してはいないのだ。
「ところで、君は左利きかな?」
「……ええ。探偵さんってそんな事まで調べてるんですか?」
「いや、好奇心だ。靴紐の結び方でそうかと思ったら、確認せずには居られない。そういう性格なんだ。ちなみに、この辺に迷い込んできた猪は括り罠で捕獲する事があるって聞いたけど、罠は子供でも作れるの?」
「これも好奇心ですか? この辺の子はみんな作れると思いますよ」
話題が四方八方に飛ぶ。聞かれたら愛想良く答えるけれど、固有名詞も彼自身の情報も極力少ない対応だった。知らないで済まされる事も少なくない。
「そうそう、サラと仲が良かった子について知ってる?」
「サラはみんなと仲が良かったですよ」
「君とも?」
「もちろん」
「君は誰と仲が良いの?」
「もちろん、皆と仲が良いです」

 アンデレとその兄に当たり障りのなさすぎる聴取をした後、探偵は彼等の家を後にした。
 墓まで暴きたがると身構えていたヘルゲとしては、気の抜ける程にあっさり終わった。けれど、探偵と助手にとっては進展があったらしい。
「あの嘘吐き。どうしてそこまで捻くれられる?」
アンデレの家が見えなくなる程に離れた後で、助手は彼を罵った。その荒れように不審な目を向けるヘルゲに、探偵が事情を打ち明ける。
「実は昨夜、兎小屋にメモが挟まっていてね。僕等に匿名で新たな告発をした者が居るんだ」
探偵が見せたのは、一枚の紙を四つ折にした粗末な告発状だった。定規で欠いたと思われる、直線のみで構成された文字が、アンバランスに紙面で踊っていた。
『チャドを殺したのはアンデレ』
特定されない為に定規を使用したのだろうが、アンバランスになった文字は却って書き手の癖を強調していた。書き手が子供で、それも恐らく男子だろうということは、ヘルゲにも予想が付いた。
「もちろん内容については真偽を確認する必要があるが、差出人に関しては明白だ」
探偵が鼻を啜った。
「ああ、紙に膿んだ臭いが染み付いてる」
助手が告発状をヘルゲの鼻に近づける。けれどヘルゲにはいまいち分からない。どちらかといえば、兎小屋の獣臭さが染み付いているような気がした。
「差出人はチャドとアンデレを知っている。そして僕等がチャドを知っている事を知っている。チャドが殺された事を知っている。あと、恐らくは左利き」
首を傾げるヘルゲに、探偵が文面から読み取れる情報を整理してみせた。左利きというのは、書き始めの部分が濃くなる癖や、定規の擦れた跡が左下へと滲んでいる様子から推察らしい。
「一応アンデレの自作自演も検討したが、彼は左利きなだけで差出人ではないだろう。聴取した限りでは、楽しむ様子も無ければ聴取に挑む周到さも無かったから」
あとは消去法で分かるだろう、と探偵。
「アンデレの犬の死に、チャドを殺された報復の意図があるとしたら?」
ヘルゲの頭が追いつくより早く、探偵が推論に仮定を重ねる。理屈で示してくれる分だけ助手よりは親切ではあるが、ヘルゲはその答えを認めかねた。こうも子供達ばかりが人狼事件の中枢に居る事自体、あってはならない筈だと、ヘルゲの良心がざわつく。


 探偵は、更にアンデレやサラと同年代の子供達に聴取して回った。
 サラの本当の事情と、告発状の信憑性を確かめる為である。幸いにも、日中はその年頃の子の大半は学舎に戻れば会って話すことが出来た。女子の中には人狼の騒動が解決するまでは外出を控える事にしたらしい子供も居たが、彼女達にも何とか面会する事ができた。狭い領地で助かった。
 探偵は鼻声になりつつあったが、よく動いた。話題を絞って一人あたりに割く時間を極力短くして、何とか夕方までには学舎に通っていた子供達の証言を揃えた。その処理能力に舌を巻く他に無い。聴取の上手や下手ではなく、坦々と聴取を遂行した探偵の精神構造が特殊だと感じた。大人は子供を純粋で無垢な生き物のように扱うが、人格がある以上は保身に走るし、故に嘘も吐く。ただでさえ子供特有の拙い喋り方と主観性が強すぎる説明は、客観的事実とは乖離しているというのに、更に保身の嘘や余所者への悪意や過ちに対する懺悔まで混じって、非常に混沌としていたからだ。
 アンネの告発を聞いた以上は醜悪な聴取になる事を覚悟していたヘルゲだが、教員としてやっていく自信を失くすには充分な時間であった。


 かくして子供達への聴取を終えた探偵は、最後に再び鶏飼いの元を尋ねた。昨日の彼の証言に納得が出来ないというのだ。
 しかし家主の老人は呼ばず、探偵は表の鶏小屋を眺めていた。
 飼育小屋よりもうんと細かいフェンスに囲われ、雌鶏達が首をしきりに上下させて鳴いていた。甲高くて断続的な鶏の鳴き声は、昨日と変わらない。小屋の前に打たれた杭は、相変わらず番犬を繋ぐ役目を果たしていないままだった。
「老人は向かいの父子家庭と労働力を賄いあって持ちつ持たれつで暮らしていたそうだが、父子家庭から提供できるものといえば?」
探偵が確認するように問う。父親は日中は働かざるを得ず、老人と過ごすのは主に子供の方だろう。そうなると、然して難しい事は期待できない。食事の用意や掃除など、日課を代行をさせる程度ではなかろうか。ヘルゲがそう呟けば、探偵は鷹揚に肯った。
「鶏の給餌や小屋の掃除を任せる事もあっただろう。であれば、向かいの家族が鶏小屋を開けられても不思議じゃない」
探偵は、鶏小屋のフェンスに付いた南京錠を指差した。ダイアル式のものが二つ連なって付いていた。このタイプは鍵を必要としないので、向かいの家族に暗証番号の情報を共有しておくだけで済む。
「もし、犯人が特定される事を恐れているなら、フェンスは破っておいた方が賢かった」
破れ目ひとつないフェンスは、ダイアルによって開錠された事を示していた。
「いくら老化で知能が低下する傾向があるとはいえ、雌鶏を殺したのが誰か見当が付かないほど耄碌していた訳ではないだろう」
そうでしょう、と探偵は声を張った。彼の視線を追って振り返れば、家の窓から老爺が覗いていた。老爺は緩慢な動作で窓を開け、ヘルゲ達を一瞥する。その皺だらけの瞼に埋もれがちな眼には、動揺も驚嘆も無く、ただ目の前の事象を写していた。
「お騒がせしてしまいましたか? もう耳が遠くなってしまった、というにはまだ早いようで安心しました」
探偵が、昨日の老爺の言葉を蒸し返す。彼が人狼の正体を知っていたのであれば、前回の聴取で得た情報の信憑性は変わってくる。だが、人狼の正体が親しく近所付き合いをしている者だと悟っていたとするならば、彼が敬語を断って番犬も無い無防備な状態で暮らし続けられた事にも納得がいった。
「そもそも、大型犬の話を僕等に吹き込んだのも貴方でしたね。チャドがどのように殺されたのか、本当は聞き及んでいたのではないですか」
老爺は、犯人に気付いていて犯行を止めなかった。けれど、この愚行を誰かに止めて欲しいと思っていたに違いない。だから訪れた探偵が核心に近付けるよう、一見では人狼と関わりの無さそうな犬の死についても語ったのだろう。
 ヘルゲ達教員とて、破れ目の無い飼育小屋のフェンスを前にしても、身内を疑う事を嫌がって人狼だなんて未知の生き物の存在を信じようとしていた。老爺もまた、近所の住人との衝突を恐れて何も言い出せなかったのだろう。そうして、身内ではない存在が暴いてくれるのを待っていたのだ。柵に絡め取られて停滞する村の中で、密かに肥大する狂気に怯えながら。

 停滞と閉塞の村を、余所者達は切って開く。柵を持たない紫の瞳が、全てを詳らかにしようとする。
「もう一度、人狼について知っている事を教えてくれますか」
解剖台に載せた検体の腹を滑るメスのように、真っ直ぐ滑らかな語調だった。


 老爺から一通りの話を聞いた探偵は、暫く無表情のまま沈黙した。
 それは傍目には動力の切れた機械に似た静止だったが、これは熟考している様子なのだとヘルゲはこの三日で解釈できるようになっていた。遠く深くを覗いていた紫の瞳が現実に焦点を移す頃、漸く白い瞼が数度下ろされる。
「何なら、君は先に帰っても良い。ここから先は捕り物になるが、君にとって不快な事しかないだろう」
探偵は視線を手元にやったまま、助手に囁いた。体調を崩している探偵だけに捕り物をさせるのは不安でしかないが、彼はその覚悟でいるようだった。
「いや、最期まで付き合おう。不快はこんな依頼を受けた時点で百も承知だ」
この場の誰よりも逞しく荒事に向いていそうな助手を捕り物で使う気が無いなら、一体何を助ける助手なのか分からない気もしたが、二人には特に不自然ではない問答だったようだ。


 探偵は老爺からスコップを借りてから、向かいの家に訪れた。
 あの大型犬と子犬を殺された、父子家庭の家だ。犬小屋のプレートに書かれたチロという文字は、告発状の字と同じ特徴を備えていた。告発状には定規で文字が書かれていたが、それでも線画の傾く角度や連続する横画の間隔といった癖は全く同じだ。何より、書き始めの部分が濃くなる傾向や、終筆が跳ねる向きなどから左利きの文字だと分かる。告発状の主は長男のモリスだと、ヘルゲは無言の内に合点した。

 父親は再捜索を渋々ながらも許可してくれた。彼は一旦仕事の手を止め、探偵と助手が庭を掘り返す様子を監視に付いた。その足元で、小さな弟が苦虫を噛み潰したような顔で此方を見ていた。既に父親にそっくりの顔付きだった。モリスの方は、今日も風邪気味らしいが、学舎に行かせるようにしたらしく、再捜索に立ち会わなかった。
「チャドを埋めた夜、向かいの老爺がこの墓が掘り返されているのを見たと証言した。人狼騒動で使われた牙は、チャドのものに違いない、と」
探偵と助手が、庭の盛り土にスコップを入れてく。チャドとチロの遺体が眠る墓が、みるみる掘り返される。糞野郎、サイコパスめ、と父親が小声で悪態を吐くのも仕方が無い光景だった。
 幸い、然したる労力もかからない内に犬の亡骸が出土する。探偵は自分で遺体を検分してから、しかと頷いて、大型犬の首を掲げて見せた。一見して土の塊のような外見のそれは、肉が殆ど分解されて白い骨が露出していた。小さな弟が、小さな悲鳴を上げて屋内に逃げ込んでいった。
「ああ、ほら。チャドの牙が抜かれている。一連の犯行に使う小道具として採取されたと見ていいだろう」
土に汚れた犬の骸を手にして、探偵は確信の笑みを見せる。あの爛々とした眼が光っていた。犬の口を開いて見せた探偵の指の間から、蛆虫がぼとりと落ちていった。そのグロテスクさに顔を顰めながらも、一同は犬の死骸を覗き込んだ。チャドの骸は、生え揃っている筈の歯が殆ど抜かれていた。ほぼ左右対称に取られた歯の列が、人為的な作業によるものだと証明している。
「うちの犬になんてことを! 一体どこの馬鹿だ、チャドと同じ目にあわせてやる!」
死してなお傷付けられた上に悪事に使用された愛犬の惨状に、父親は怒りで顔を赤くして喚いた。血が昇った顔は赤く、憎悪と憤懣で燃えていた。それはチャドを愛していた者ならば当然といえるべき反応だったが、探偵は釈然としない様子だった。
「……貴方、本当に何も知らなかったのですか?」
貴方の庭で、貴方の犬の事なのに、と探偵。その無神経な驚嘆に、父親が血走った眼で探偵を睨めつける。助手も流石に拙かろうという表情で、スコップの柄で探偵の脇腹を突いた。始末の悪い事に、探偵には本当に悪意が無かったようである。
「失礼しました。では、できるだけに順を追って説明いたします」
探偵は殊勝に頭を下げた。確かに父親には失礼極まる反応だったが、真実から眼を逸らし続ける人々だらけの村では単純な無知は確かに失念されがちになっていた。研究や実際の聴取を経て、自身が悪徳に関与した事に気付きつつも正義を実行できない人間の多さを実感している探偵なら、尚更そうだったのだろう。
 痰の絡んだ咳払いを数回した探偵は、何処から話すべきかと真摯に思案を始めた。
 

 白骨に成り損ねたチャドの遺体を撫でながら、探偵は静かに口を開く。
「一連の人狼騒動に、チャドの死も関わっています」
肉の殆ど分解されたチャドの頭部が、土中で経過した時間の長さを伝えていた。鶏飼いの老爺は、チャドの死亡日を詐称していたのだ。チャドの死んだ日が陣狼騒動が始まった頃と離れていては関心を持たれないかもしれないと思い、咄嗟に鶏が殺された日の直前にチャドが死んだように語ってしまったらしい。だが実際は、一ヶ月以上前の事柄だった。
「貴方は、犯人の身元は分からなかったと仰ったが、ご子息は分かっていたのでしょう。括り罠の結び目や巻き方でピンと来たのか犯人自身が直接明かしたのかは僕には突き止めようも無いが、モリス君から告発状を頂いたよ」
告発状という単語に父親が首を傾げるので、実物が提示された。犬小屋のプレートと同じ癖を持った字だと、彼は一瞬で気付いてくれた。
「そもそも、犬に対する悪戯が始まった時期はモリス君が学舎に行き始めてからとおっしゃいましたね。学舎に通う子供達を聴取した結果、彼は学舎で厄介な者達に目を付けられていたそうですよ。犬への被害ものそ一環かと」
「……どうして、言ってくれなかったんだ」
父親は、犬を愛していた。チャドが殴られた分だけブン殴ってやりたいと、復讐に息を巻いていた。それでも、子供が証言を避けたのは、自分がこの被害を持ち込んだのだという負い目があったからだろう。
 父親は怒りに震えながら、どうしてだと繰り返す。だがそれは質問ではなかった。自身が虐めにあっていたので犬にも飛び火したなど、どうして説明できようか。男一人で二人兄弟を養う父親に、どうして自身の情けない境遇を打ち明けられようか。その心情が思い当たるからこそ、彼は父親として肝心な時に頼りにされなかった自身を許せない。遣る瀬無いのだ。どうして、などと理由を求めても、不条理とは理屈がないからこそ不条理なのだ。
「モリス君は、貴方に報復して欲しいとは思わないでしょう。一対多数の虐めでは、少数側が少々抗議したところで悪化を招くだけだと学習してしまったでしょうから」
少なくとも、モリスの父という名義で事を大きくするのは最悪の報復を呼ぶ行為だとモリスは直感していた筈だ。
「というのも、彼を助けようとした少女が居たからです。しかし、少女は次の虐めの標的になって終わってしまった」
サラが助けた少年がモリスであるという話は、アンネの友人を中心とする子供達が証言していた。飼育小屋に入れられ、扉に土嚢を積んで閉じ込めては、出たければ兎の真似をしろと辱めていたらしい。拒めば、フェンスの隙間からホースを入れて水をかける。それは学舎に通う子供達の一部にとっては、定番の娯楽になりかけていた。寄り集まった子供達の幼稚さは、無邪気で無垢な悪意をもって人を踏みにじるから救いが無い。

 夕焼けに照らされて、探偵の輪郭が一層鋭く浮き上がっていた。口調に同情は見られない。父親は、この共感性の無い男を冷たい奴だと思うだろう。あまりに救われない話を滔々とする探偵は、全く別の価値観の国から来た者のようですらあった。けれど、探偵はそんな語り方しか出来ない人間なのだ。調査の結果として辿り付いた解だけを、彼は坦々と提示していく。
「その少女というのが、サラという子です。証言してくれた子いわく、優しくて正義感が強い方だったと。最初に人狼の被害にあった個体にして、唯一被害にあった人間です」
例の歯形が容赦無く残されていた幼気な身体について、探偵が出来る限り簡潔に説明した。けれど、遺体の髪に水草が付着していた事や、直接の死因が経口摂取による急性砒素中毒であるという事などを伝えようとすれば、詳細な遺体の状態はどうしても伝わってしまう。同年代の子供を持つ父親としては、耐え難い情報だった事だろう。
「けれど、彼女が人狼に殺されたというには語弊がある。彼女の直接の死因は、服毒自殺です」

 「ち、ちがう。サラは、人狼に殺された」

 探偵の講釈に割り込んだのは、モリスだった。
 学舎から帰宅したばかりで、鞄を提げたままの格好だった。やはり左利きであるらしく、彼の靴紐はアンデレと同じ結び方になっていた。
 探偵の手元の犬の亡骸に気付いたモリスは、一瞬怖気立った表情を見せたが、直ぐに顔を引き締めた。
「サラは強い。優しいし、正しいんだ。あんな奴等のために死ぬなんて事はしない」
モリスは、未だに顔の下半分がマスクで隠れている上、リンパの腫れた下膨れ顔は昨日より悪化しているようにすら見えた。体調が昨日よりも悪化していそうな風情だが、彼の口調は強く明瞭だった。
「サラの遺体が発見された川のうんと上流の岸辺で、毒を入れてあったと思しき小瓶を回収したよ。草叢には吐瀉物の跡があった。吐瀉物といえど殺鼠剤混じりだから、動物に食い荒らされずに残ったんだろうね。他殺とするには不自然な場所だろう」
そもそも人狼は毒なんて使うだろうかと、探偵が反論する。そして、口出しを許さぬまま、推論を紡いでいく。
「きっと、サラを一番に発見した者も、そう考えただろう。サラを死い追いやったのが、連中であってはいけないと」
モリスは探偵の視線を受け、顔を強張らせた。彼は蛇に睨まれた蛙のように後退る。けれど、数歩下がった所で、後ろに控えていた助手にぶつかった。
「だからその夜、チャドの墓を掘り返して牙を抜き取り、人狼になった。彼女を殺した存在を創り上げたんだ。そうだろう」
助手は、冷え固まった表情でモリスを見下ろしていた。黄金の瞳に浮かぶのは、侮蔑の色だ。
「膿んだ臭いに気付いた時、まさかとは思ったんだが、はは。常識的な衛生観念があればできない行いだ」
助手がモリスの退路を断つ。モリスに探偵が正面から近付き、彼のマスクを剥いだ。少年の腫れた頬と浮腫んだ下顎が露出する。モリスは瞠目したが、すぐに観念した顔付きになった。
「痛みも尋常じゃないだろう。もう麻痺しているのかも知れないけど」
モリスは威嚇するように唸った。歪んだ唇の間から見える歯は、あまりに歪だった。異様に黒ずんで、鋭い。犬のそれだ。

 自身の息子が愛犬の牙を歯茎に植えていると知った父親が、短い悲鳴を上げる。
 父親は、掌で口を覆ったままだった。抑えていないと、ひっくり返った胃の中身が口から溢れてきそうなのだ。ヘルゲも、目の前の光景に眩暈を覚えていた。この歳の子供は乳歯が多いとしても、前歯やその周辺は永久歯が生えていた筈だ。
「君一人で施術したなら、大した我慢強さだ」
彼は、人狼になる為にそれを自ら抜いたというのか。その異常性と悍ましさに、大人達が揃って声を失う。腫れて膿んだ歯肉に無理矢理突き刺さっている獣の牙が、少年の口の中で歪に並ぶ。人間の顎に納まるには、犬の歯は高さに差がありすぎる。
「下の歯は殴られた時に取れたんだ。その時に比べたら、みんなマシだ」
彼はこの数日、食事や会話をどう切り抜けていたのだろう。何故、彼がここまで狂っていた事に気付かなかったのだろう。どうして、彼がこうなる前に誰も止めなかったのだろう。そんな空恐ろしさを覚えたヘルゲは、ちらと横目で父親を見る。しかし彼は、息子が歯を失う程の暴行を受けていた事自体が初耳だといわんばかりに青褪めていた。
 先日の聴取では子供を庇う善良な父親の様子だったが、その実、子供にとっては庇護者足り得ていなかったのだろう。本人の善良さも、噛み合わなければ意味を成さない。

 モリスを唯一救えたのはサラだけだったのだ。彼の境遇に気付き、見て見ぬふりをやめたサラだけが、モリスの希望だった。
 その精神的支柱までも奪われた憎悪が、少年を異常なものにしていた。

 唯一動揺を顔に出さなかった探偵だが、今まで聞いた声よりもトーンが若干落ちていた。
「それは気の毒に。だが、君が何をしたかははっきりさせよう」
探偵として雇われた以上、真実を明らかにする義務があるのだと、彼は真っ直ぐモリスを見つめた。
「あの日、君は上流の岸辺でサラの遺体を見つけた。自殺と悟った為、中流の森に遺体を運んで隠し、その夜にチャドをの遺体を掘り返して人狼になる事を決めた。君の背丈でを担いでサラ森を下りるのは至難だろうが、川を使えば彼女を運べた。だから彼女の髪に水草が付いていた」
川の下流で田舟が打ち捨てられていたのを発見した、と探偵が補足する。元々は上流で捕った鹿などを運ぶ手段としての方法だが、流れも緩い川だ。少女一人くらいなら彼でも運べるだろうと。昨日、彼が川に入って行ったのはこの検証の為だったらしい。
「アンデレの犬を殺したのは、誰が見ようと報復だ。飼育小屋の兎を殺したのは、そこで君の受けた仕打ちと紐付ければ一応理解は出来る。人狼を気取るなら兎であった過去とは決別しなくてはならないからね。鶏小屋を襲ったのは、チャドの墓を荒している君を目撃した老爺への警告か。そこまで考えたんだが、君がチロを殺した理由だけ分からなかった」
教えてくれ、と探偵がモリスに詰め寄った。チャドの後釜として新しい犬を受け入れたくなかったのなら、子犬に害をなす動機にはなり得るだろうが、モリスはチロの小屋にネームプレートを用意していた。毎朝の餌だって彼がやっていた。モリスはチロに愛着を持っていたのではないか。一連の殺傷の中でも、理屈の分からないものは一等不気味に感じられた。
「そうだ。僕はチロが好きだった」
人は得体の知れないものに恐怖する。ヘルゲは、同郷の少年と対峙しているにも関わらず、此方と文化や常識を共有できそうにない個体に対する畏怖を感じていた。初めて探偵と合い面した時に似た、未知の価値観への違和感が、背筋を湿らせる。
「懐かれてたし、可愛がってた。大好きだった」
だから殺したのだ。

 愛しているから殺したのだ。
 モリスは牙を打ち鳴らして告白した。
「サラもそうだ。サラだけが僕に優しかった。サラだけが僕の友達だった。大好きだった。だから、僕が殺した」
歪みきった思想を吐露する。目の前の少年は最早、被害者の顔付きではなかった。彼は、自身の行いが人として誤っている事を承知していた。人の道徳を自覚的に踏み躙っていた。彼の中には、それを行う理屈が既に形成されているのだろう。彼は露悪的に此方を睨んでいた。
 モリスは、救いの無い世界に対する憎悪を孕んで、獣になろうとしていた。
「僕は、怪物なんだ」
ヘルゲの胸の中に、どうしてこんなことになる前に味方になってあげられなかったんだろうと嘆くアンネの涙が思い出された。
「怪物……アンデレ達や見て見ぬふりを決め込んだ大人達でもなく、君が?」
探偵の確認に、モリスは静かに頷いた。アンネの言う怪物は実に分かり易かった。憎悪の対象とそうでない者を切り分ける符号だった。憎むべき悪徳を怪物というラベルに押し込めていた。けれど、彼が自称するそれは少々複雑かもしれない。ヘルゲは、モリスの言う怪物には憧憬めいた響きがあるように感じた。
 サラが死んで、チロを殺した今、モリスの世界は自身と憎むべきものしかなくなった。悪意を放逐しない政治無き村、残虐な子供達、見て見ぬふりの大人達、気付かない親、無関心と保身。彼は多くの者に裏切られ過ぎた。多くの人々に絶望し過ぎた。

 憎悪すべき有象無象と自身を切り分けた時、異端はどちらか。自分以外の多くが異常だとするよりも、自分一人が道理に合わない者なのだと片付けた方が、うんと楽に決まっている。
「そう、みんなきっと、普通の人間なんだ。自分が一番可愛いに決まってる。何もおかしくない。罰が無いのに誰が暴行をやめる? 次は自分が標的にされると分かっていて、誰が仲裁を買って出る? たった一人に我慢させていればずっと平和でいられるなら、みんなそうする。みんな最初からこういう仕組みなんだろう。もう知ってるよ」
それが世界の仕組ろう、とモリスが嗤う。助手もヘルゲも咄嗟に反論できなかったのは、探偵の実験の話を聞いた後だからだ。政治の破綻した環境下で悪徳を容認してしまう人間の性質を否定できなかった。モリスは、その醜悪さを身を以って知ってしまったのだ。そして、それが我々が生きていく世界だと認めてしまった。
 けれどモリスは、そんな世界の一部になるのは御免なのだろう。だから怪物になりたがる。世界と隔絶して、此の世の道理を拒絶した存在になりたいと願う。
 モリスの知る世界なんてものは、この狭い盆地の、ちっぽけな領地だけだというのに。目にしてきた現実なんて事象も、たかだか十年程度、愚かな大人ばかりの村社会だけだというのに。
 
 幼稚さと、その幼さには不釣合いな深い絶望が、モリスの狭い視野を覆って心まで蝕んでいた。もう戻れはしないところにまで傷を付けて、広い世界を探す前に歪んで潰えようとしていた。
「怪物だから、殺した?」
「そうだ。僕と、みんなは違う」
怪物は自由だ。モリスは、その低い身長から、村の人々を睥睨した。怪物が異端たる証明だとすれば、この村の醜悪な「普通」から逃れた存在なのかもしれない。救いの無い閉塞と停滞の世界で、それだけが唯一彼の希望足り得たから。一種の変身願望。人間と怪物は、紙一重。

 「いいや。お前は怪物になる為に殺したんだ」
ずっと黙って聞いていた助手が、重々しく口を開いた。平たい拳は関節が真白くなる程に強く握り締められ、吹き出さん激憤を辛うじて握り潰していた。嫌悪や憎悪では、言葉が甘く感じてしまう、泥のような眼差し。声となって空気を震わせる殺気に、息が詰まる。ヘルゲは、助手の片手に握られたスコップの柄が純粋な握力で静かに速やかに変形していく様子から、思わず目を背けた。
「村の阿呆と同種じゃ嫌なのは同感だ。だが結局、お前は怪物じゃない。有象無象の糞みたいな人間と同種だ」
正義感の強いこの男には、如何なる事情があろうと人狼の行いは耐え難い悪徳だ。そう思いながら啖呵を聞いたヘルゲだが、助手の顔を直視できなかった。獣の牙を携えた子供よりも、うんと獰猛な双眸がそこにあったからだ。理性や正義だとか、本当にそのような優しい燃料から発せられた怒りなのだろうかと、ヘルゲは探偵を見遣った。
「……だから先に帰っても良いと言ったのに。ルドルフ、君は僕と違って人を詰ると後悔する性質だろう」
だから続きは僕が言う、と探偵は熱っぽい喉を上下させた。
「君がやったのは、君がやられた事と同じ弱いもの虐めでしかないって事だよ。檻の中の弱い小動物や、首輪で繋がれた畜犬が君に何をした? その肉に張りぼての牙を埋めて、人狼の誕生を知らしめて、怯える村人達の様子は面白かったかい? 君は愛しているから殺したんじゃない。人狼になろうと決めた時、不要になったから葬ったんだ」
助手の手の中で、割れたスコップの破片が肉に食い込んでいた。指の隙間から伝う血が、庭の土にひたと落ちる。ずっと口を抑えていたモリスの父親の我慢は限界に達したようで、ゲェと音をたてて胃液を吐いた。饐えた臭いと死肉の臭いが、血腥さと交じり合う。
「君は大勢の悪意と悪徳から決別したかった。しかしサラにはなれなかった。サラのような、人間らしく勇敢で稀有な善人の方には」
残された異端は、サラとは対極の方しかなかった。だからモリスは怪物の方を選んだのだと、探偵が糾弾する。
「大勢の悪意と悪徳と、君。世界を二分するには、君の味方は余ってしまう。怪物は異端であり、異端たる君には味方が要らない。だからチロを、愛するものを、殺してしまった」
ヘルゲには、よく分からない理屈だった。正確には、理屈を呑む事ができたが、愚か過ぎて眩暈がする気分だった。
 単純な引き算と、幼稚なカテゴライズの話。余りに狭くて、愚かで、稚拙な選択肢。けれど、そうだ。生まれたばかりの自称怪物は、まだたった十年程度しか人間をやっていないのだ。そのちっぽけな身体と教養を詰め込む途中の脳味噌で弾き出した答えが、成熟している筈もない。この村に居てその脳味噌に充分な思慮が詰め込め切れるかはさておいて。
 ヘルゲが彼の出した答えを蔑めるのは、経験と思慮の差であって、年の功だ。人間と怪物の断絶じゃない。

 少年の牙がカチカチ鳴った。
「……そうだ。先生は理由までちゃんと分かっているじゃないか。何も分からなくなんてない」
理解を求めて早口で動く口からは、膿と血が滴る。
「いや、分からない。君が簡単に他人に理解される理屈しかない事が。そんな羨ましいまでに普遍的な人間でありながら、わざわざ怪物になろうとしたのかも」
一種の変身願望。いわんや、現実逃避。人間が人間らしい道徳の為に苦しむのは、人間だからだ。人間である事から目を背けて怪物になりたいと願うのは、人間だからだ。蝋人形のように整った青白い顔の男は、紫水晶の瞳を伏せて少年の自己欺瞞を否定した。
「お前は人間に戻るべきだ」
助手が唸る。その地を這う声に、モリスは怯えて薄く息を呑む音を出した。怪物でも狼でもない、恐怖に縮み上がった子犬の悲鳴だった。

 そして、モリスは弾かれたように父親を押し退け、庭を飛び出した。
 それは人間に戻る事への拒否だった。最期の抵抗だった。
「連れ戻さないと」
行くとすれば、民家は無い。恐らくは森。それも、サラの居たところではなかろうかとヘルゲが探偵を仰ぐが、彼は動かなかった。曰く、探偵の職務は犯人および犯行動機と犯行手段の究明。
「あの口では、手当てが無ければ感染症か飢餓で近々野垂れ死ぬだろう。よって再犯の恐れも薄い。正体を知っていれば村の大人で捕獲できる」
夜警が結成されているなら、それに任せてもよろしい。そう突き放した声は、やはり共感性の欠片も無い変温動物を思わせる声音だった。そんなことは出来ない、と父親が飛び出していくが、誰も後には続かなかった。

 小さくなる父親の背中を見送って、探偵が助手に囁く。
「最期くらい望む形で死なせてやる事も優しさかもしれないのにね」
彼は、掘り出したままの犬の骸をせっせと埋めていた。助手もそれに習って、素手で土を除け始めた。掌の出血は平気かと聞きたいヘルゲだったが、傷口が見当たらないことに気付いて止めた。
「優しさ?」
助手は、ささくれ立った口調で吐き捨てた。憎悪と憤怒の煮凝りのような嫌悪感を隠しもしない。ただ不快は百も承知だと宣った手前の意地で、大人しくしているといわんばかりの風情だった。
「正直分からない。だけど、人間の世界で生きる怪物は、怪物であることに苦しんでいるというのにね」
「全くだ」

 狂った少年を羨ましいまでに普遍的な人間と称した探偵は、助手の態度を嫉妬と称した。怪物に憧れてしまう程に怪物を知らない人間が羨ましくて仕方がないのだと。
「領主にどう報告しようか」
「教育を奨励するなら大人達からやれ、でどうだ」
「そこから話すべきかな」

 今になって思えば、ヘルゲも身内ではない存在が暴いてくれるのを待っていたように思う。柵に絡め取られて停滞する村の中で、密かに肥大する狂気に怯えていた。
 この余所者達を、どこか羨ましく思う事がしばしばあった。それはモリスと同じ変身願望に繋がる逃避だろうか。
 しかし、ヘルゲはアンネに謝罪してしまった。それは、大人としての債務を自覚した合図であり、その債務を履行する約束であった。
「……もし、悪意を放逐できないこの村を軽蔑しながら生きていく気があるならば、怪物じゃなくて改革者になるべきだった」
口に出してみると、狭い領地が嫌に壮大に感じた。
「はは、大人ならではの選択肢だ。先生ならできそうでしょうか」
できなかったらどうしましょう、とは聞かなかった。多分、彼等がまた村に呼ばれるようになるだけだ。今度の怪物は、ヘルゲか次代の子供達かの二択ではあるだろうが。だが、せめて介錯くらいは彼等に願いたい。特にこの探偵なら、何の共感も無く断罪してくれるだろうから。


 余所者達が領地を発つ日、見送ったヘルゲに探偵は密やかな口調で明かした。
「実は僕も10パーセント側の人間じゃない」
何の話か聞き返すところだったが、その澄んだ仄暗い変温動物の声で思い出した。彼が最も悲観的な予想をした学生として参加した実験の話だ。如何なる状況下でも正義を実行する稀有な善人とやらは、そうそう居ないから稀有なのだ。
「僕は、実験の立案者だった。だが幸いにも、僕の実験計画に目を通した教授が、実際の電気ショックの変わりに役者を使うよう訂正してくれた」
お陰で人件費は嵩んだが慰謝料が不要になったので研究コストが減った、と探偵。似合わないジョークだった。そもそも、ヘルゲは探偵をユーモアに理解がある人種と思ってはいない。第一、致死レベルの電気ショックを与えようなどと本当に立案してしまう人こそ怪物だと言ったのは、彼自身ではなかったか。
 瞠目するヘルゲの手を取って、探偵は「もう二度と、僕達がこの村に呼ばれる事がないようにしてほしい」と脅迫した。恐らくは、激励だった。
series top

prev← →back




back
top
[bookmark]



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -