天邪鬼な紫煙3

 俺達のファーストコンタクトに思いを馳せている傍ら、敷島がまた口を開いた。
「煙草は猛毒だ。多数の有害物質と一部の麻薬を上回る依存性持っている。こうしている間にも肺から蝕まれて、緩やかに死んでいくんだよ、僕達は」
 最初にこの類の言葉を聞いた時は、何も深く考えてはいなかったけれど、最近になってこれは自傷行為の一種なのではないかと思うようになった。確かに喫煙は緩やかな自殺だとは、よく耳にする受け売りだ。俺が煙草を吸って、その副流煙を敷島が吸うのなら、これは緩やかな殺人だろうか。
「差し詰め緩やかな心中といったところだろう」
敷島が思考を読んだように結論付けた。敷島の遠回りな自殺に付き合っているだけにも感じるが、どうせ一人でも喫煙はするのだから間違っても俺が被害者なんて事にはなり得ない。それどころか主流煙より副流煙の方が有害物質の含有量が多い事を鑑みると、俺が積極的に敷島を害しているようにも感じられる。そこに倒錯的な悦びを覚えているのだから、もう末期だ。
「一人で勝手に死んでくれ」
そう言って次の煙草に火を付けると、敷島は眼を細めて白い歯を見せた。拒絶を歓迎するのも自傷の一環に違いない。恋愛感情を実装していないらしい敷島が頻繁に性交して他人の恋愛感情を観察するのも一種の自傷なのではないかと思う。
「非情だね。僕は君の吐くニコチンに侵され君の吐く一酸化炭素に溺れ君の吐くタールに蝕まれていると言うのに、随分と他人行儀じゃないか」
俺の仄暗い悦びを暴かれたような錯覚がして、思わず敷島を見た。しかし敷島は相変わらず煙を眼で追う事に夢中で此方に大した関心は無いようだった。
「他人だからな」
他人、と鸚鵡返しに言葉を咀嚼した敷島。クラスメイトの誼だとか所属に頼って好意的な言い方に訂正する事も出来ただろうが、敷島は暫く俺の言葉を反芻していた。
 窓から吹き込んだ風が、また桜の花びらを運んできた。風に従って宙を舞う花びらは緩やかに床や調理台に着地した。
「ところで、君は僕以外の他人の近くでも黒煙草を吸う事はあるのか」
漸く口を開いた敷島は新たに質問をしてきた。喫煙者でも嫌う事が多い上に身近に同じ銘柄の愛煙者も居ないので、敷島という物好きを除けば当然喫煙は一人の時しか出来ない。この前提を確認した敷島は煙草の箱を手に取った。青いパッケージが敷島のただでさえ白い指をより儚く見せた。
「煙草は香煙とも言って、香る煙と書く」
匂いは記憶に留まり易いと言っただろう。と少し前の台詞を蒸し返した敷島。敷島の指の間から紫煙の中で舞う踊り子のイラストが覗いていた。
「匂いの記憶は情動や生理欲求と密接に絡み合って記憶に巣食う。君は少なくとも在学中の約三年間、煙草と僕がほぼセットとなった状態の喫煙習慣を営む。君はジタンと僕を結びつけられずにいられるだろうか」
パブロフの犬のように君は僕が居なかろうと僕の面影を思い出しながら煙を吸う事になる。と悪戯な笑みを浮かべて此方を覗き込んだ敷島は、その刷り込みがとうに完了している事を知っているのだろうか。何処か他人事のように思いつつ敷島が在学中ずっとこの曖昧な関係を維持する気があるのだと知って安堵を覚えた。
「じゃあ、テメエはタール、ニコチン、一酸化炭素に並ぶ猛毒になるわけだ?」
上手い事を言う、と何処が気に入ったのかは分からないが敷島は少し感心したように頷いた。
「悪くないな。黒煙草が薫る度に、その匂いに絡み付いた記憶として強い依存性を纏いまやかしの快楽物質と共に脳を蝕んで、より忘れ難い記憶として刷り込まれていくなんて。感傷的な浪漫があるだろう」
敷島は一拍分の間を置いて俺を見るのを止めて手元の青いパッケージに視線を落とした。感傷だ浪漫だと言う割りに感情の読めない無表情がそこにあった。きっと視線の通りにジタンのパッケージを眺めている訳でもないのだろう。その先の、俺には見えない黒煙草に絡み付いた記憶を見ているのだろう。
「何が浪漫だ。ただただ間抜けなだけだろ」
「そう、滑稽だ。これだけ蝕み合って、互いに爪痕を残し合おうとしておきながら、他人でしかないだなんて」
敷島が相槌を打った。他人と言われた事への揶揄だったのだろうが、元より此方は本心から他人と言った訳ではなく寧ろ他人から逸脱する事を密かに望んでいるのだから、その冗談は質が悪かった。敷島の言う通りの刷り込みと侵蝕が既に始まっているのだから、尚更笑えない。
「俺は馬鹿だし、それに煙草って確か記憶力も悪くさせるんだろ」
今回もだが、敷島の言葉は常に俺があくまで他人で在りたがっている前提がある上で発せられている。だから敷島が俺に擦り寄るような言動をしたとしても喜ぶべきではないし、喜べる筈がないのだ。敷島は自称異性愛者の俺に自己否定を代弁させる自傷に興じているだけで、こういった好意や接近は謂わば拒否と否定を引き出す為の方便だからだ。他人行儀を繕った俺に擦り寄って鬱陶しがられる事を楽しんでいるのだ。俺の方から手を伸ばすのは敷島の目的から逸脱してしまう行為で、そうした途端敷島は俺に一切の関心を無くしてしまうのだろう。
「だから覚えねえよ、お前の事なんて。万一覚えたとしてもそうなったら銘柄変えるまでだろ」
それは残念、と微塵も落胆を感じさせない口調で敷島が返事をした。敷島が俺の好意を知ったらどう思うだろうか。
 俺は黒煙草を吸う度に敷島を想起して、ニコチンへの依存と敷島への執着が喫煙習慣を加速させ、その悪循環の中で敷島がより忘れ難い存在になっていく。けれど、敷島は俺の肺腑から吐き出された紫煙に俺ではない記憶を重て感傷に浸るのだろう。敷島の自傷に付き合う体で、その実何も共有される事はなく、各々が独りで感傷に溺れている。言葉を交わしながら手を伸ばせば届く距離に身を置いて、何一つ届かない。いや、届かないのではなくて、意図的に手を伸ばす事を避けている。敷島が自分対し過度な関心や好意を寄せる相手を煙たがり詮索される事を拒んでいるというのも大きな理由だが、それは所詮言い訳だった。結局俺は手を伸ばした先にある敷島の反応を、知りたくないのだ。だから大した意味もない本物とは程遠い好意の紛い物を得るために、実の無い交信だけを積み重ねるのだ。壊そうと思えば壊せない事もない不明瞭でもどかしいこの苦行めいた関係を意図的に曖昧なまま維持していく。この先もずっと。短くとも、卒業までは。許されるのなら、敷島が俺に飽きるまでは。

 吸いかけの煙草を敷島の唇に挟んでから、長椅子から降りる。こんな事をされるのは全くの不測だったようで、敷島はくぐもった声を出した。その反応に少し気分が良くなった。
「やるよ」
僕は吸わない、と言いたげな眼で敷島は煙草の火を消した。空のヨーグルトのカップを回収して退散の準備をしつつ口を開く。
「そもそも、そこに居ない奴の事を永遠と考えてんのなんて無駄だろ」
俺が渡した煙草を指で弄んでいた敷島の両の眼が確とこちらに向いた。そう簡単に割り切ってしまえないからこそ苦しいのだという事は重々承知しているが、声に出すと妙なカタルシスがあった。敷島と会う事が無くなったとしても今後一生煙草に火を付ける度に敷島を想起するであろう自分への嘲りなのか、俺が吐く紫煙で俺ではない誰かを懐古しようとする敷島への文句なのか自分でも分からない。ただ口に出しておかないと何時までも胸に残りそうだという確信があった。
「……尤もだ」
敷島が茫と零した声はあまりにも朧気で、少し不安になって声をかけようと考えたが、そうしている内に鐘が鳴った。随分調理室に籠っていたから何限目のチャイムかは分かりかねたが、長机に乗ったままの敷島が手をひらひらと振って別れの挨拶をしていたので、このまま調理室を出る他になくなった。
 ポケットに手を突っ込んで自分の教室を目指す。調理室から遠ざかる程喧騒は大きくなっていった。敷島はこの後、あの吸い殻を塵箱に放り込んでから帰るのだろう、と当たり前と言えば当たり前の事を想像した。あの白い手で塵箱に入れられる吸い殻に自身を重ねている自分を相当気持ちが悪いと思った。


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