胞ノ呪 2
10歳の時、人生で1度だけ、家出をしたことがあった。
その頃、私はもう第二次性徴が訪れていて、身体つきが女性らしくなっている最中だった。すると途端に、担任だった男性教諭から、美人だ綺麗だと言われては、やけにベタベタと触られることが増えてきたのだ。そのことがとにかく嫌で、けれどこんな理由を話すことはとてもできず、両親に「学校に行きたくない」とだけ言うと、酷く怒鳴りつけられた。
今にして思えば、両親の反応は当然だったと思う。けれど、当時の私はとにかくショックで、真夜中になると衝動的に家を飛び出して、じじさまの家に駆けこんだのだ。
「潔子? どうしたんだい、こんな時間に」
「……」
「…とにかく、おあがり。今、お茶を淹れてくるから」
私はとにかく、じじさまと、夕莉に会いたくて仕方が無かった。2人は、私のことを綺麗だなんて言ったりしない。それに、たとえ私が綺麗でなくても、何の見返りも無く受け入れてくれる。そう確信していたから。
「じじさま…夕莉は?」
「……! 潔子、夕莉に会いに来たのかい?」
「うん…。夕莉に、会いたい」
こんな真夜中に、夕莉が起きているわけがないと思いながらも、私は我が儘を言った。けれど、私がそう言った途端に、じじさまの表情が曇った。いつだって穏やかに微笑んで、私たちを見守ってくれたじじさまの、こんな表情は見たことが無かった。じじさまは何か躊躇しているかのようだったが、やがて深く溜息を吐いて、低い声でこう告げた。
「…夕莉はね、ここにはいないんだ」
「え……」
「夕莉がここにいれるのは、昼間だけだ。夜になったら…あの子にはやらなければならないことがある」
やらなければならないこと。それが何なのか、私はそう尋ねようとした。
けれど、じじさまの険しい表情を見てしまったら、私は何も言えなくなってしまった。これ以上、何も聞くべきではない。本能的に、そう理解したのだ。
「…朝になれば、夕莉が戻ってくる。お父さんたちには電話しておくから、今日はうちに泊まりなさい。わかったね、潔子」
「…はい」
「さ、これを飲みなさい。神様から頂いた水で淹れたお茶だから、きっと潔子の心を癒してくれる」
じじさまの言う通り、そのお茶を飲んだ途端に、泣きたくなるほどに心細い気持ちが、すっと薄らいでいった。お茶の温かさのおかげか、心の中が安心感で充ちて行って、私はすぐに眠くなった。その夜、じじさまの隣で眠りについた私は、奇妙な夢を見た。
木々が生い茂る山奥のような場所に、夕莉が1人でポツンと立っていた。そのことに気付いた私が、夕莉のもとへ駆け寄ろうとすると、夕莉はどんどん山奥へ進んでいってしまって、私は必死でそれを追った。
やがて、夕莉は不思議な神社の前に辿り着いた。じじさまが神主をしている、清水神社によく似ているけど、全く異なる別の神社だ。薄気味悪い霧に包まれた本殿に、真っ黒な鳥居が建っていて、まるで立ち入り禁止のロープが張られているように、ボロボロのしめ縄が鳥居に巻かれていた。
夕莉は躊躇せずに、しめ縄の下をくぐって、鳥居の向こうへと消えて行ってしまった。私は、何故かそれを追うことができなかった。夕莉の名前を呼ぼうとしたけれど、何故か全く声を出すことができなかった。
「夕莉……」
「はい、ねえさま」
ふと、夕莉の声が聞こえてきたところで、私は目覚めた。朝陽に照らされた夕莉が、枕元に正座で座っていた。この夕莉は夢ではなく、紛れもない現実の夕莉だ。そう気付いた瞬間、目からボロボロと涙が溢れてきて、夕莉に抱き付いた。
「潔子ねえさま、泣かないでください」
「夕莉……」
「ねえさまは、疲れてらっしゃる。少しの間、ゆっくり過ごしましょう」
それから1週間ほど、私は学校に行かず、じじさまの家で過ごした。夕莉はいつも通り、昼間のうちはじじさまの家にいたけれど、夜になるとどこかへ行ってしまって、朝になるまで戻ってこなかった。けれど、私が目が覚ますと、夕莉は必ず私の傍にいてくれた。
そんなある日、両親がじじさまの家にやってきた。それも、私の学校の校長先生を伴って、だ。ビックリしている私に、母さんは赤くなった眼を擦りながら、優しい声でこう告げた。
「あなたの担任の先生ね、別の学校に行くことになったの。だから潔子、もう何も心配しなくていいのよ」
私は驚いた。担任の先生のことは、誰にも話していなかったからだ。けれど、直観でわかった。これはきっと、夕莉の仕業に違いない、と。
きっと夕莉が、私の涙の意味をどうにかして調べて、私の知らないところで行動してくれたのだ。何の根拠も無いけれど、何故か私にはそれがわかった。
(…そういえば、私、夕莉のことを何も知らない)
そこで初めて気付いた。私は、夕莉がどういう関係なのか、それすらも知らない。初めて夕莉と出会った時、じじさまは夕莉のことを「じじさまの家族だよ」と言っていた。けれど、夕莉も私と同じようにじじさまの孫なのか、それとも血の繋がりは無いのか、そもそも夕莉の両親はどうしているのか、何も知らない。
だからその晩、私はこっそりじじさまの家を抜け出して、夕莉の後を追った。そうすれば、きっと夕莉のことがわかると思ったのだ。夕莉は真っ暗な夜の中、道を照らす灯りの1つも持たず、真っ直ぐに潔世山の方へと向かっていった。不思議とその間、通行人は1人も見かけなかった。
(夕莉、まさか清水神社に…?)
清水神社は、年末年始の度に家族でお参りにいく神社だから、私もよく知っている。じじさまが神主を務める、水の神様がいる神社。私の予想通り、夕莉は山道を進んでいくと、清水神社へと辿り着いた。
けれど、不思議なことに夕莉は神社の拝殿を通り過ぎ、本殿の裏へと回って、さらに山の奥へと進んでいった。清水神社は山の麓に社を構える神社で、神社の最奥にはさらに山中へと繋がる道がある。けれど私は昔、両親とじじさまから「この神社より奥へは進まないように」と言いつけられていた。
あまりにも躊躇なく山奥へ進む夕莉に、私はいつだったか見た奇妙な夢を思い出した。夢の中であの子は、ちょうどこの山のような木々の生い茂る場所で1人立ち尽くしていた。それを思い出した私は、昔からの言いつけなど忘れて、夕莉を追った。
けれど、山の中は当然暗くて、そして寒い。道も舗装されていない獣道で、まだ10歳の子供が真夜中に歩いていけるような場所ではなかった。足元の草むらや小石に躓き、少しも進めていない私に対し、夕莉は淀みなく流れる水のように、すいすいと山の中へ進んでいく。
(このままじゃ、追いつけない…!)
私は必死で夕莉を追いかけた。このままでは、あの子を見失ってしまう。こんな真っ暗闇の中で1人になるのは、とても耐えられない。
だが、夕莉を見失いそうになりながらも、ある地点まで進んだその時。「ゴォォーッ」という轟音が鳴り響くと、嵐のような風が吹き荒れて、木々が揺れた。
「ヒッ……!?」
その瞬間、私の背筋を強烈な寒気が襲った。一瞬にして身体が竦み上がって、一歩も前に進めなくなった。するともう一度、突風が木々の間を吹き抜け、風に煽られた私はその場に尻餅をついて転んだ。
「きゃっ……」
「!」
しまった、と思った時にはすでに遅く、私が上げた小さな悲鳴を聞いた夕莉が、素早く振り返った。夕莉には気づかれまいとしていたというのに、自分の失敗を悔いつつも、私はなるべく平静を装った。ただでさえ、転んだところを見られたのは恥ずかしかった上に、黙ってついてきたことに一抹の後ろめたさがあったのだ。
「ねえさま、何故ここに…」
「…ごめん、私、どうしても気になって…」
夕莉は軽々とした足取りで私に駆け寄ると、その小さな手を差し出して、私を立たせてくれた。けれど、私を見るその目は、今まで見たことがないほど険しいものだった。
「ねえさま、こんなところにいてはいけません」
「え?」
「一刻も早く、ここから離れてください。清水神社まで、お送りします」
夕莉は、その小さな手から考えられないほどの強い力で、私の手を引いた。慣れたように山を降りていく夕莉に、私は困惑しつつ、辿々しい足取りで着いていく。けれど頭の中では、夕莉から言われたばかりの言葉が反芻していた。『こんなところ』というのは、どういうことなのだろう?
「夕莉、もしかして…。いつも、ここに来てるの? 私が眠った後、毎晩?」
「…はい。それが、私の役目ですから」
「役目? なんなの、それ? どうして、こんな真っ暗な場所に、たった1人で来なきゃいけないの?」
矢継ぎ早に質問する私に、夕莉は重苦しい沈黙で答える。その静かさに耐えきれなくなって、私は夕莉の手をギュッと握り、その場に立ち止まった。不安と恐ろしさに苛まれ、心臓が早鐘を打つように鳴り響くのを感じながら、私は震える声で再び尋ねた。
「答えてよ、夕莉…!」
「……」
「じじさまも、夕莉も、私に何を隠してるの?」
再び、重い沈黙が山中に広がる。その時、私の背から強い風が吹き荒れて、私と夕莉の黒髪が舞い上がった。夜の暗闇の中、私を見つめる夕莉の瞳が、不思議と光っているように見えた。
「…昔々の、今でも続くお話です」
「え…?」
「ねえさまにだけ教えてさしあげます。他の人には、決して話してはいけませんよ」
「…うん」
そうして、あの子は教えてくれた。この身体に流れる血と、あの山に流れる神様の水、それから夕莉の存在に関わる、世にも悍ましい話を。
昔々、お菊さんという女の人がいました。
お菊さんは潔世山の麓に、お父さんと、お姉さんと一緒に住んでいました。
お菊さんには、好きな人がいました。
その人は、お菊さんのお姉さんと、結婚の約束をしていた人でした。
そしてその人も、婚約者のお姉さんではなく、お菊さんのことが好きでした。
ある年、お菊さんの住む村が、酷い水不足に襲われました。
たくさんの人が死にました。たくさんの人が不幸になりました。
村の人たちは、みんなが救われる方法を探し、そしてついに見つけ出しました。
1人の清らかな乙女を、山の神様に捧げれば、神様がみんなに水を与えてくださる。
そして、その乙女とは、お菊さんのことでした。
けれど、お菊さんの想い人は、そのことを決して許しませんでした。
その儀式を行えば、お菊さんが死ぬことを、知っていたからです。
どうすればお菊さんを救えるのか、考えに考え抜いて、そして1つの答えに辿り着きました。
“お菊さんが『清らかな乙女』でなくなれば、神様に捧げることはできない”
2人はその夜、契りを交わして、1つになりました。
それはそれは、幸せな夜でした。この夜がずっと続けばいいとさえ、思いました。
けれど、2人の様子を、こっそりと見ていた人がいました。
お菊さんのお姉さんが、真っ赤になった眼を光らせて、2人が愛し合うのを見ていました。
次の日、お菊さんは潔世山に連れていかれました。
お菊さんが、自分はもう清い身ではないと言うと、みんなが驚きました。
けれど、お菊さんのお姉さんが、それを否定しました。
「死にたくないから嘘をついているだけ」
「なら一体、どこの誰と契ったというの?」
「その男を連れてきて、串刺しにして殺してやる」
「村のみんなより、たった1人を優先するような男、死んだって誰も悲しまない」
お菊さんは、彼の名前を言うことはできませんでした。
愛しい人を死なせることが、できませんでした。
お菊さんのお姉さんは、高笑いを浮かべながら、お菊さんを井戸へ突き落としました。
そして、お菊さんにこう言いました。
「どうしても、あの男と一緒に生きたい?」
お菊さんは頷きました。強く、大きく頷きました。
「なら、あと7日、その井戸の底で生き延びてごらん」
「私の男を盗った女だけれど、お前は私の可愛い妹」
「あと7日、何も食べず、飲まずで生きていられたなら、お前にあの男をあげる」
お菊さんは、お姉さんの言葉を信じて、それから7日間も生き延びました。
耐え難い飢えにも、喉の渇きにも、屈しませんでした。
大好きな人との未来を夢見て、あの幸福な夜を糧にして、死を退き続けました。
それから7日後、お姉さんがお菊さんを迎えにきました。
約束を守ったお菊さんに、お姉さんは微笑んで、井戸から引き上げてくれました。
痩せ細り、渇き切ったお菊さんが、お姉さんに水を求めました。
お姉さんが水の入った筒を差し出し、お菊さんはそれに手を伸ばしました。
その時、お姉さんが、静かな声でこう言いました。
「ねえ、お菊」
「お前は私に嘘をついた」
「なら、私が嘘をついたって、私のことを恨まないよね?」
呪われて死ね、この穢れ巫女
それから、何百年経ったことでしょう。
生涯、お姉さんはお菊さんのことを呪い続けました。
やがて、潔世山に取り残されたお菊さんも、自分を死に追いやった人たちを、呪うようになりました。
それ以来、2人の子孫である清水の家には、必ず姉妹が生まれるようになりました。
姉は、お姉さんによく似た、きりりとした美貌と聡明さを持ち。
妹は、お菊さんによく似た、夜の闇を閉じ込めたような黒髪と瞳を持ち。
そして、妹に生まれた者の身体のどこかには、不思議な星型の痣が現れるようになりました。
その痣は、儀式を行った時にお菊さんの身体に、お姉さんが墨で書いた、神様の印なのです。
その印を持つ者は、潔世山の神様の加護を得られると同時に、お菊さんの呪いを最も色濃く受けることになる。
だからこそ、今でも潔世山の頂上で全てを呪う、お菊さんの心を感じ取れる。
その悲しみを、苦しみを、憎しみを、一身に背負うことができる。
その印を持つ者には、水無瀬という特別な姓が与えられ、『水無瀬の巫』としての役目が与えられます。
そして、お菊さんが非業の死を遂げた17歳になると、お菊さんの首が埋められた山の頂上に行き、ただお菊さんの為に祈り続けるのです。
そうすることで、この地を覆わんとするお菊さんの呪いを、鎮めることができるのです。
そして、それができるのは、水無瀬の巫である私だけ。
「だから、ねえさま」
「私は、その為だけに生まれてきたのです」
「お菊さん…いえ、『オキクサマ』からみんなを守る、その為に」
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