▼ビギニングオブシング
「涼太くん、今度の撮影長引きそうだから、一月こっち住んでくんないかなぁ」
「こっち?」
「このスタジオの側なんだけど、どう?」
「一月っスか…ううん」
「アパートだけど部屋も一応も用意したし、ね!この通り!」
部活、とか通学、とかいろいろ考えていたら部屋まで用意した、と言われどうも断りにくくなってしまった。
ま、大会も無いし、一月ならどうにかなるか。
「分かったっス」
「マジで!助かる!やー、スケジュール的にハードだったからさぁ」
おお、これは、念願の独り暮らし。
一月だけどやりたい放題っスね。
この辺って誠凛の近くだし、黒子っちとかも呼べちゃうかも。
なーんて、ね。
そのくらいの軽い気持ちで承諾し、地図を渡されて辿り着いたそのアパートは、外観こそ古いものの、どこか昭和レトロな雰囲気を出していて、非常に風情があった。
あのスタッフさんそういうとこ凝るもんなぁ。
まあ外観は満足だ。
次は取り合えず大家さんに挨拶して荷物と中のチェックもしないと。
そう言えば、外観にそぐわずキッチンやら電化製品は備え付けらしい。
あとベッドや適当な家具などは昨日のうちに運んでおいてくれたらしいので自分が持ってきた荷物は段ボールやキャリーに収まる程度の服や小さな生活用品のみだ。
オレンジでエナメルのキャリーを引きながら管理人室である101号室のチャイムを押してみると、最近ではあまり聞きなれないビー、という鈍い笛のような音が鳴って、肩が跳ねた。
「…ハイハイ、あら、どちら様?」
「201号室に越してきた黄瀬です」
「ああ、201…201、あら?」
中から出てきた60代半ばくらいの白髪の女性は書類と俺の顔を見比べて困ったような顔をしていた。
どうかしたのか、と尋ねると、大家さんは困ったように唸って書類と睨みあってからもう一度此方を見る。
「黄瀬くん、だったかしら?」
「?はい、そうっス」
「いえ、そのね、私が不動産屋さんから受け取った書類だと、今日ここに越してくる予定なのは女の子の筈なのよ」
「、え?」
すっとんきょうな声を出してその書類を見てみると、確かにそこには見ず知らずの女性の名前が記されていた。
あのスタッフさん、ではない。
何かのミスでは、と指摘してみれば、空き部屋はあの201号室しか存在しないらしい。
そんな、
「で、でも、荷物とか運んでもらったっスよ、昨日」
「…昨日。荷物は当日って聞いていたのに、変だと思ったのよ」
ばかな。
硬直しつつ冷や汗を流していると、背後からばたばたと誰かが慌ただしく走ってくる音が聞こえた。
大家さんと共に振り返れば、息を切らした女の子が一人、息も絶え絶えに小さな声ですみません、と漏らす。
その子は書類を持っているオレと目を丸くしている大家さんを見比べながら不思議そうな顔をした。
「あ、きょ、今日からここに越してくることになった名字名前です」
よろしくお願いします。
その声を聞いて恐る恐る書類に目を落とせば、フリガナの欄には一字一句間違わずにその名前が記されていた。
ああ、そんなばかな。
2012.0701