▼少年Tの独白
彼女、名字名前に対しての第一印象を持ったのは、入学してから一週間ほど経った、初めての美術の授業の日であった。
出席番号が前後の人と二人組を組んでお互いの肖像画を描くというまあ新学期には有りがちな授業内容。
みんな適当にペアの奴と話したりなんだりして、交流を深めるはず。
かくいうオレも初めて話した普通に可愛い女の子とアドレスを交換してしまった。
だが。
気がかりなのはあのいかにも偏屈そうな我が部の新エース。
まだ実態は謎。
しかし、少し話してからに、どうもストイックすぎるということ、熱烈なおは朝占い信者であるということ、オレの密かな張り合いに気付いていたから特に鈍感ではない、のか?
いや。
まさか。
なら奴の目の前にいる女の子はあんなテンパってないはず。
オレからも他のクラスメイトから見ても黙りこくったままぴくりともしない緑間と目の前で何やら早口で捲し立てる女の子のその姿は異様で、思わず奇異の眼差しを送りたくなるほどであった。
緑間は変人。
新学期早々、その噂はじわじわと至るところに蔓延っており、そこから根暗そうな女の子とそれをひたすら無視する変人の噂は授業中ぽそぽそとさざめかれた。
オレの横にいた女の子もくすくす笑いながら名字さんてねー、と楽しそうに、かつ聞こえるように話し出す始末。
部活もクラスも一緒で、同じレギュラーだし。
恐らく付き合いも長くなるんだろうし。
なんかあの子まで恥かいてるし、これは助け船でも出してやろうか。
それから随分とんとんと。
真ちゃんは変人だけどいい意味で偏屈で面白くて、名字は思ったより良い奴でよく弁当に入ってる名字母作の卵焼きはうまかった。
それなりにお互いのことも知っていって、それなりに仲も良くなったような気がして。
その空間もそれなりに好きだったりして。
少し経って、インターハイ出場権のかかった大会が開催される頃、なんとなしに名字に来てみないか、という旨のことを尋ねてみた。
「え、行っても良いの?」
「うんうん。大歓迎。ね、真ちゃん」
「…別に。嬉しくはないが来たいなら勝手に来れば良いのだよ」
「もう。素直じゃないんだからー」
「あはは。何か差し入れとか持っていくね」
名字もオレも、緑間のこういうのには段々慣れて、受け流すようにすらなってきた。
それから練習ばかりしていたらあっという間に大会当日。
当日、迎えに行くか、と聞いたところ、名字は平気、と豪語していた。
しかしメールで聞いてみれば朝から迷って結局予定より少し遅れたらしい。
控え室の側でうろうろしていたらしい名字は大坪サンに連れられて少し不安そうにしながらひょっこり顔を覗かせた。
「緑間、高尾」
「おー、迷子ちゃん」
茶化すように言えば名字は少しむっとしてだって、とごにょごにょ口ごもっていた。
「じょーだんじょーだん。で、例のものは?」
「…あ、すっかり。待って、少し減っちゃったし、口に合うか分からないんだけど…」
にこにこしながら促すと、やはり忘れていたらしく、慌てて鞄から少し大きめなラッピング袋を取り出して、おずおずと差し出してきた。
あ。あまいにおい。
鼻先を掠めたその香りに頬を緩める。
「よ、よかったら皆さんも、どうぞ。あの、が、頑張ってください」
「ん。ありがとね」
名字が普段では考えられないようなことを言うと、他の部員からも礼の言葉や、高尾の彼女か、とかいう声が飛んで来て、名字は困ったような、少し喜んでいるような、微妙な表情をしてから深く頭を下げて小走りで控え室を出ていってしまった。
それから試合が終わるまで名字の姿は見かけなかった。
多分客席の中にいるんだろうけど、負けてから探す気にもなれない。
電話でもしたら出てくれるだろうし、帰りは送ってってやろう。
それにしても自分から呼んどいて負けるのは流石に格好つかねぇってかなんつうか。
「高尾ー、彼女二人はどこ行ったんだよ」
「えー、だから名字はそんなんじゃないッスよー。つか二人ってなんですか」
「お前がいっつも後ろに乗せて甘やかしてる奴に決まってんだろ」
「げっ、そっちか。やめてくださいよ!なんか緑間は外出てくるって」
まあ負け慣れている訳じゃないんだろうしな。
宮地サンにその辺探して呼んできます、と言ったらあんまり遅かったら先帰ってるわ、と返され、はーいと適当に返事をしてまずどこかで感傷に浸っているであろう緑間を拾ってから名字に連絡してやろう、とジャージとタオルを掴んで走って控え室から飛び出した。
トイレから水道から売店から見て回ってもあの嫌に目立つ緑は見当たらない。
ロビーのガラスから見える大雨にまさかな、とは思いつつビニール傘を掴んで見回してみると案の定。
外って本当に外か。
汗も乾ききってないだろうに。
タオルでも持っていってやろうか、とため息をついていると、裏口の方からバシャバシャと音を立てて青地の見覚えのある傘を持った女の子がずぶ濡れのその緑に駆け寄った。
「…緑間!」
「名字…!」
息を切らしながら緑間に駆け寄った名字に若干驚く。
何してんだ、あの子。
「…お、おつ、お疲れ…、う、さま…」
「な、何なのだよいきなり!」
徐に泣き出した名字に動揺する緑間。
いや、こっちとしてもそりゃ当然びっくりなんだけど。
名字は傘を放り出していて、涙だか雨だか分からないくらいに顔を歪める。
「す、すご、かった。どっちも、秀徳も、相手も…、バスケは、よく分からないけど、でも、凄くて、」
「わ、分かったのだよ、しかし何も泣かなくても」
「み、緑間の、シュートが、あまりに綺麗で、ぼ、ボールがね、ゴールに吸い込まれる度に、い、意識まで吸い込まれそうで、び、びっくりした、すごく」
「な…」
「緑間の言っている人事と、あのテーピングの意味が、少し、分かった気がする」
そう言って、いつもとは違った何も巻かれていないその左手に、まるで壊れ物を扱うかのようにして触れる。
その時の彼女の瞳には、紛れもなく目の前の光しか写されていなかった。
あ、と小さな疎外感。
存在感の大きすぎる光しか写っていないその瞳に、自分が写る余地はけして無いだろう。
傘とタオルを持って佇みながら、ほんの少しの虚しさを感じてしまう。
緑間は、オレは、
「…名字、俺は、」
「もー、二人して風邪引いちゃうぞ」
「わぷっ、」
「な、何をする高尾!」
流れをぶった切るかのようにタオルを二人の頭に被せてやった。
喚く緑間の言葉を聞き流し、帰るから中入るよ、とその大きさの違う二つの背中をぐいぐいと押す。
名字はまた何か高ぶったのかぶわあ、と泣き出して、緑間は少しおろおろしていた。
それをオレは横から見てからから笑う。
今はまだ、この居心地の良い関係性でいたい。
だから、誰かに、緑間にも、まだこの子を渡したくはない。
せめて、後もう少しだけは。
なんて。
少し笑ってから、涙と雨粒でびしょ濡れの名字の顔を袖で拭ってやった。
2012.1117