幸せに息が詰まるなら









「…ただいまっスー」

「お帰りなさい」


貰っていた合鍵でドアを開けると、ぱたぱたと小さな足音がして、エプロンを着けたままの名字さんが玄関でローファーを脱ぐオレのことを見上げていた。

まるで新妻のようだ。
あまり表情をつけずにこちらを見上げてくるので、少し笑って見せると、困ったような下手な笑いで返される。
なんか、少し切ない。



「お疲れさま、黄瀬くんは何か部活をしているの?」

「そうっスよ、バスケ部。名字さんとこ強いっスよね、秀徳」


「あ、うん、そうみたいだね」


まあ誠凛には負けちゃったけど。
つか、名字さんって緑間っちのこと知ってるのかな。
でも学校にあんな大男の変人がいたら嫌でも知ってるんだろうな。
…今度聞いてみよう。

腰を屈めて、少し低いリビングへのドアを開けると、ぶわりと空腹をつつくような香りが広がる。
目に入ったテーブルに置いてある、まるでテレビから出てきたかのような料理の数々に思わずバッグを放り投げて声をあげてしまった。


「、凄い、これ全部名字さんが?」

「え、う、うん」


凄い。
その一言に尽きる。
オレがリクエストした肉じゃがからサラダ、味噌汁、ご飯の盛り方まで。
同年代の女の子とは思えない。
空腹をピンポイントで突かれ、思わず椅子に座りかける。

そこで着替えていないことに気付き、鞄を掴んで自室に慌てて戻った。
何をそこまで焦っているのか、ボタンを外すのに随分と手こずってしまう。
適当なジャージをはくのにすら足を引っかけ、ずるずると滑りながらリビングに戻った。


「お待たせしましたっス」

「いえいえ」


目の前に並ぶ食欲をかき立てるそれらに思わずそわそわしてしまう。
今ならお預けを食らっている犬の気持ちが分かるような気がする。

ふ、と息をついて席に着いた名字さんを見上げてみる。
名字さんは一瞬きょとんとしてからあ、と言ってどうぞ、と手を伸ばして促してくれた。


「やった、いただきまーす」


まず肉じゃがに手をつける。
口に運んだ瞬間、思わずん、と言葉に詰まってしまった。
え、美味しい。
凄く美味しい。

食べるのはあまり早い方でないつもりだったのに、これは。
まあ箸の進むこと進むこと。
普通に美味しい。
味から舌触りから。


「名字さんて料理上手いんスね」

「え、いやあ、それほどでも」


「えー、充分凄いっスよ。見た目もなんかテレビに出てるやつみたいだし、味も美味しいし」

「いや、そんな、」


ははは、とぎこちなく返されたが、名字さんがなんとなくにやけているのが分かってしまってこっちまで少し恥ずかしくなる。
この人意外と分かりやすいんじゃないか。
にやけを隠しきれずにご飯を食べている名字さんに気づかない振りをして味噌汁に手を付ける。

あ。
味噌汁も美味しい。
美味しい、という旨を伝えてみると、名字さんは余計に焦ったように箸で掴んでいたじゃがいもを皿の中に落とした。
ここまで分かりやすいと少し面白い。




「ごちそうさま」

「いいえ」


短く返事をして立ち上がったかと思うと、名字さんはオレの食べていた分まで流しに持っていこうとしていた。

あ、と言って思わずその腕を止める。


「あ、片付け手伝うっスよ」

「え、いいよ。モデルさんの手にそんなこと」


さて、どう説得したものか。
名字さんはこちらを見上げながらぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、さも自分が全てやって当たり前という表情をしている。


「気にしないでください。あんな美味しいの食べてなんもしないわけにはいかないっスよ」


とりあえずこれくらいしか浮かばなかったので取って付けたような営業スマイルを浮かべてみた。

名字さんは面食らったような顔をして少し押し黙ると、じゃあ、と食器を半分ずつ持って流しに向かった。


「私洗うから、黄瀬くんは拭いてもらってもいい?」

「了解っス」




聞こえるのは水の音だけで、淡々とした時間の中、気になっていた洗濯やゴミ出しのことを切り出してみた。
案の定答えは予想通りだったけど。

何とか押しきると、名字さんは困ったような、苦笑いのような、頬を緩ませるような、柔い笑い方をする。
ああ、もう。

本当にこの人でよかった。



「…黄瀬くんがいいならお願いするけど」


「お安いご用っスよ」


思わずこちらまで頬を緩めて笑ってしまうと、名字さんは少し驚いたような表情をしたかと思うと、小さく笑う。


「ありがとう」

「うん」


会ってから間もない人にほだされたような感覚は、どこか恥ずかしいような、こそばゆいような。
ぼんやりと浮かんできたこの人とのこれからを、溢すように綻んでいく目元と同様に押さえきれず、ゆっくりと口が開いた。


2012.1010
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