最近、いやに何者からの視線を感じるような事が頻繁に起こっていた。それは度々俺の思考を恐怖や不安で支配し、同時に激しい焦燥感を生み出す。

とてつもなく深い闇の渦の中に沈められるような冷え冷えとした感覚の中に、動物の本能なのだろう、"逃げなくてはいけない"…そう思わせる狂気があった。ただ見つめられるというような甘い視線なんかではさらさらなくて、ドロドロと纏わりつくような、異常なもの。

今朝も、ただでさえ低血圧のせいでとても辛いというのにそのような目に遭ってしまった俺は、現在果てしなく機嫌が悪かった。隣の席に座っている幼なじみのベルは、そんな俺を心配そうにちらちらと見ては話し掛けるか掛けまいか迷うように口を開いては閉ざす。

そんなことを繰り返しているうちに朝のホームルームまでの短い時間は直ぐに幕を閉じ、担任によるかったるい挨拶が長々と始まる。
ウチのクラスの先生はホームルームの際の話が飛び抜けて長く、また熱意がとても籠もっていると有名だ。この日もそれは例外では無くて、ながながと語る内容には相変わらず熱いものがあった。

いつもはそれを、まあ、それとなく聞いておくが、いかんせん今は機嫌が悪い。先生の話が、本来なら五分で終わるものが凡そ10分ほど延長されて終了したときには、もう1日をサボらずに過ごすという気力が根こそぎ奪われていた。

「ベル、俺保健室行って来るよ」

1限目から、勿論堂々とサボりである。授業準備のため教科書や参考書、ノートを机の上に出している途中だったベルは清々しいほど迅速にサボり宣言をした俺に、"分かった、ノートは任せて!"と頼もしくも有難い申し出をしてくれただけで、咎めはしなかったし追求もしなかった。

教室を出て人誰もいない廊下をのんびりと歩くのだが、今は授業中だからだろうが勿論"あの視線"は全く感じられなくて、幾分か気分は安らかになった。

結構離れた場所に存在する保健室に着いた時には既に機嫌は殆ど回復していて、これなら少し寝た後に復帰しようなんて考えながら保健の先生を探す。だがしかし、いない。鍵は開いていたので、きっと何か用事があって一旦職員室に行ったのだろうと憶測をたてた俺は、迷うことなく一直線にベッドに向かった。

少しだけ固めで重い保健室独特のベッドに潜り込みながら、今日も大きな事はなく無事に過ごせたら良いなと思ったのが最後だった。後は深く考えることもなく、ただ惰眠を貪るだけ。

ふわりと、何処かで嗅いだことのある甘ったるい香水の匂いがした気がする。夢なのか、現実なのかは分からないけれど…これは、そうだ。確か、あいつだったような…、














現在高校2年生である俺の学年には、1人…、所謂虐め、というものに遭っている女子生徒がいた。彼女が何故そのような目に遭っているのかどうかの原因は、残念ながら知らないが、虐めというのはそういうものだ。

他者が誰かを虐げているのを、人間付き合いの一環として共に行う場合もあるし、ただ丹に好奇心や優越感からという奴もいる。

そういう奴等は、その虐めの根本的な理由を深くは求めないし真実を見付けだそうともしない。奴等ににとって、"虐めているから自分もやってみた"等というのはそれだけでも立派な理由に成り得る。つくづく最低な奴等だ。

かといって、俺は別に現時点で多分被害者…である彼女を庇っているわけではない。虐める側にも非はあるが、虐められる側にも少なからず非があるのだ。火が無いところに、煙は立たない…という諺のように。多分、俺が知らない場所で彼女は何らかの失態を犯したのだろう。そして、

…一度だけ、話をしたことがある。急な用事でせざるを得なくなった早退のために人より早く帰路に着いていた俺は、登校することを躊躇って泣いている彼女を校門付近で発見した。

その時はそれが"彼女"だとは気付いていなかったけれど、泣いている女の子を放って置くというのが俺には出来なかったから、取り敢えず話し掛けてみたのだ。

今思えば、それが最大の過ち…俺が道を踏み外した、瞬間。




ギシリ、とベッドの軋む音で目が覚めた。自分で寝返りを打ったために立った音ではなくて、他者によって何らかの方法立てられたような音だった。

やっぱり、あの甘ったるい香水の匂いが漂ってくる。まだ朧気な意識の中薄く目を開けば、横を向いて寝ていた俺の視界には一本の腕、正しくは手首が映っていた。

突然すぎてが分からなかったし、何処のホラーだよとか思った。驚いて直ぐ様起き上がろうとした俺を、何かが纏わりつくように押し止めた。寝起きではあまり力が出なかったし、現状が理解出来ていなかったこともあると思う。兎に角、起き上がれなかった。

「おはよう、トウヤ君」

場違いにも関わらずにこやかにそう言った目の前の人は、夢に出てきた彼女…そう、確か名前は…

「あの日出会ったときから大好きだよ、トウヤ君。いっそ、殺しちゃいたいくらい愛してる。ほんとうだよ!ずっと前からずーっといつもいつも、見てるのに…どうして私を見てくれないの」

「は…?」

「ねえ、何で、愛が足りないのかな?これなら殺しちゃったほうが良いかもしれないとか思っちゃう。あの日、助けてもらってから私はトウヤ君がいればこんな糞みたいな学校でも耐えれるって思ったんだよね!もう今更で卒業間近だけど私の人生以外何を捧げればいいのか分からないから、聞きに来ちゃったんだけどさあ…ねえ聞いてる?」

怪しげな笑みを浮かべた表情は不気味で、大きく開かれた目は充血していて少し赤い。一息で大量の文字を吐き出して疲れたのか、少し乱れた呼吸。しかし再び話し出す。

「私は名前だよ、トウヤ君!もちろん覚えてるだろうけど敢えて言っておくね。因みに、トウヤ君なら何度だって呼んで良いからね。むしろ、私は何度だって呼んでほしいんだよ?分かってる?」

不自然な格好で押さえ付けられた体が痛くなってきた。異常に強い力で捕まれている右手の手首の感覚が痺れてしまったため、ない。

不思議と抵抗する気は無くて、ただ相手の興奮が治まるのを待つのが一番の打開策だと思えた。下手に動いて首でも絞められたら人間コロッとあの世におさらばしてしまうのだから。

もしかしたら凶器を持っているかもしれない。

「ねえトウヤ君私のこと好き?」
好きな訳が無い。現にリアルタイムで、もともと無かった好感度がさらに減退していき最早マイナスを突き進んでいってる感じ。ここで嘘でも"好き"だと言ってしまったら戻れなくなる気がした。

かといって正直に"嫌い"だと言ったらどうなるか分からない。

「勿論、好きでしょ?もし嘘でも嫌いだなんて言われたら私トウヤ君のこと殺しちゃう」

ほら、いわんこっちゃない。ギリリと余計に手首に力を入れられて鈍い痛みが走る。ああもう。顔を顰めた俺を見て、狂った彼女は綺麗だと言った。







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