黒板にズラズラと数式が並んでいくが、毎回の授業を確り理解できていなかった私にはそれが暗号にしか見えない。

開いているノートはもう1年の半ばだというのに殆ど白に近くて、テストの度にあるノート検査になんて提出できる筈も無い。点数も悪く、私は本当に数学が大嫌いだった。

「苗字さん、貴女が問1の問題を解いて下さい」

「は…?」

頬杖を付いて空をボケッと眺めているのが見つかったらしく、険しい顔をした先生が私にそう言った。つまり、当てられた訳だが話を聞いていなかった私は具体的に何をどう解けば良いのかも分からず顔を顰めた。

クラス中の視線という視線が私に集まっているのを感じて、羞恥心により私の顔はどんどん熱くなりそして赤くなっていく。けれども何処か底冷えしたような寒さを感じつつ怒られるのを承知で私が絞りだした声は、分かりませんだった。そんな私に勘弁してくれる筈もなかった先生は眉を吊り上げてさらなる追い討ちをかけた。分からなくても良いから取り敢えず何か書きなさい。

思わず、ふざけんなよこの野郎分かんねえって言ってんだろと罵りたくなったが、相手は教師でクラスメイトの前。しかも明らかに自分に非があると分かっているのにそんなこと出来るはずも無くて、おろおろと視線を彷徨わせてから静々と席を立って黒板へ歩く。足は鉛のように重くて、気分は憂鬱。回りのクラスメイトは私を同情しているのか嘲っているのかは分からないけどしんと静まり返っている。

苦し紛れに教科書を持っていくが、勿論答えは検討も付かない。黒板の前に立ってチョークを持ち、白い線で大きく(1)と書かれた文字の横にそれを付けた。どうしよう、本当に分からない。暫く黒板との睨めっこが続いたが、先生は私の余りの出来の悪さに待つことを諦めたらしい。一文字も書けないなんて…とかぶつぶつ言いながら私の代わりに神童を当てた。私とは違って素早い動作で席を立ち前に来た神童は、チョークをサラサラと滑らせると一瞬でそれを置いた。

「出来ました」

凛とした声だった。席に戻る暇もなく神童のその顔色一つ変わらない余裕そうな横顔を見つめながら、何で人間同じ生き物なのにこうも違うんだろうと思った。僻みかもしれないけれど、そんな彼を見ているとどうしようもない苛々が募っていき胸糞悪くなってくる。ああ…だから私コイツ嫌いなんだよ。

いつもそうである。坊っちゃん育ちの甘ったれのくせにそれを感じさせずにいつもしっかりとしている神童は何でも出来て、何でも余裕そうな顔で卒なくこなしていく。私には逆立ちしたって出来ない芸当である。

私のせいであれほど顔を歪めていた先生が神童の答えを見ると満面の笑みを浮かべながら赤いチョークで綺麗な円を描き、神童に着席を促す。そして私に言った。苗字さん放課後職員室に来てね、と。ああ死亡フラグたったな…とまるで他人事のようにぼんやり思った。






放課後は思っている以上に早く来て、私はいつの間にか職員室の前にいる。ノックをして扉を開ければ、直ぐ近くの席に座っている数学の先生が待ちくたびれたように私に手招きして入室を促した。それに素直に従って中に入って先生の前に立つと、先生は私にプリントの束を渡した。

「これ、来週の金曜までに全部やってきて」

マジで死ねばいいのにと思った。取り敢えずそれを繕った笑顔で受け取りざっと目を通したが私には解けないような問題ばかりだった。思わず私虐められてるんじゃないかと思う程に。困惑の表情の私に、先生は言った。

「分からないところは神童くんに聞くといいわ、彼には言っておいたから」

何で神童…と思ったが、アイツは先生のお気に入りだし無理もないか…と自分で結論付ける。霧野に教えてもらおーとか思ったのに、それは出来そうに無い。霧野、頭良いし優しいのに。先生は本当に神童がお気に入りで、もう何か彼女の中で既に生徒の枠組みに入ってないんじゃないかって思うほど。

今も神童って言った瞬間にニコッてなったような気がするし。苛々して、アイツに教えてもらうくらいなら無理にでも自分で解いてやろうと思った。分からなかったら…とか言われてる地点で私完全に舐められてるし。

「分かりました、それじゃ」






「苗字、ここは代入するんだ」

神童がxを指差してそう言った。大体代入って何だっけとか思った私は頭悪すぎる。そんな単純なことは聞けなくて、前に解いた問題を見て何とか分かっているフリをした。……ええ、解けませんでしたよ。しかも、1問も。あれだけ決意したのに、結局私は神童に教えてもらっている。

あの日の翌朝に早速神童は私にプリント大丈夫かって聞いてきたものだから、誘惑に勝てなかった。時間が経って頭の冷えた私は妙なプライドよりもプリントを早く終わらせたいという気持ちが勝ってしまったのだ。

そして放課後、神童は部活も休んで私と一緒にプリントを解いている。別に申し訳ないとか思ってないし、こんなことしてもらったって嫌いなものは嫌いだ。樺茶色のウェーブ掛かった髪の毛が神童が下を向いたり上を向いたりするたびにフワフワ柔らかそうに揺れる。意味分からない。何でこんな面倒な奴のために自分の時間を裂いてまでして自分いい子ですってアピールしたいのかな。自然と手が止まっていた。

「苗字…?何か分からないところでも、」

「…ウザイ」

教えてもらっている立場の癖に私のほうがよっぽどウザイだろうと思ったけれど、それは置いていく。神童はびっくりして目を見開いた。キラキラしたビー玉みたいな瞳が私を見つめている。頭痛い。

「…何で?マジで何で?もう意味分かんないから、全部。」

いきなり頭を抱えてそう呟く私に神童は明らかに困惑している。それでもこんな面倒な私を理解しようとしているみたいで、それならまた最初から説明するからなんて言って問題を指差しながら喋りだす。違う。そうじゃなくて。

「神童、神童がウザイ。もう何にも分かんない何をしたいのか分からない」

「苗字…」

「もうやりたくない。他の人に教えてもらうからいいよ帰って」

「……」

神童が何も言わないから、顔を上げた。そしてびっくりした。神童の目には涙が浮かんでいたから。ギュッと食い縛った口の神童は静かに鞄を掴んで席を立ち、教室から出ていった。途端に私からも涙が出てきた。

ごめん、神童。
私は素直になりたいよ。



腐った白葡萄が堕ちる音/title 吐く声
樺茶色はこんな色







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