月の光が私達を優しく照らしている。星が一つも浮かんでいないぽっかりとした群青色の空に、ぽっかりと真っ白な月が浮かんでいる。それは完璧な白ではないはずなのに、目の悪い私にそれはただのぼやけた円にしか見えなかった。

兔の模様だとか、女の人の横顔だとか、見えるはず無い。そもそもそれが本当に満月なのかどうかも区別が付かなかった。というか星だって、私が見えないだけで実は溢れんばかりに輝いているのかもしれない。

しかしそんな曖昧な視界の中でも、今目の前にいる煌めくように美しい彼女は光るように存在して、くっきりと、はっきりと明瞭に見ることが出来た。

彼女が、無邪気にわらう。

こんなに近くにいるのに、手が届くところに彼女はいるのに、何でだろう、とても遠い。近い様で遠い、遠過ぎる。

彼女に手を伸ばしてみても、あと数センチのところで私の手は見えない何かに弾かれて、触れられない。彼女の周りにはきっとバリアが張り巡らされている。きっと、そうに違いない。

せめて、彼女が人間であったならば。目の前の彼女の背中には純白の翼が生えていて、風に吹かれるたびにキラリと宙を舞う羽根は、蒲公英の綿毛みたいにふわふわしている。つまり天使。

静かに地面に落ちた羽根が綺麗で儚くて。丁寧に拾って持ち帰ろうとした。けれど、それは私の指が触れるか触れないかのところで拒むように弾けて光の粒子と化した。

私みたいに穢れた存在は、極めて純粋な彼女のような存在に触れることが出来ないのだ。そう、きっと、だから。

──彼女が、人間であったならば。

しかし、どうだろう。もしそうであったら、きっと私が彼女に惹かれることは無かっただろう。何故なら私は彼女のその穢れない心に恋をしたのだから。

人間とは、薄汚く醜い生き物。だから私は、人間が好きになれない。矛盾している…自分もそれと、同類であるのに。

彼女が無邪気にわらう。

木々の騒めく音と草の匂いに、私は双眸をゆっくりと閉じた。自然の香はこんなにも綺麗なのに、少し都会に出れば匂いは排気ガスやらの嫌なものしかしない。ふわり、私の手首を何かが掴んだ。

温かくて心地のよいそれ、驚いて目を開けると、彼女の端整な顔が極めて至近距離にあった。淡い翠の瞳、縁取る長い睫毛はぱちぱちと瞬きするたびに風が来そうなくらいに量が多い。

彼女が、私に触れている。手首からじんわりと広がっていく甘い痺れに、火照る体。赤くなった顔が恥ずかしくて俯きたいのに、動けなかった。

私が触ることが出来ないのに、あなたは簡単に出来るのね。

白々しく皮肉めいた言葉を吐くと、彼女は心外だというように眉間に皺を寄せた。

だって貴方が、私を拒んでいるんだもの。

いじけたようにそう呟いた彼女は、悲しそうだった。そして、再びわらう。ざあざあと風に煽られて、彼女の亜麻色の髪が持ち上がる。綺麗なそれが揺らめいた時、彼女は消えていた。

後に残ったのは、一枚の羽根だけ。

おそるおそる手を伸ばして拾い上げたが、羽根は消えることが無かった。



もしも、もしもだよ/title 自慰