ファースト・インプレッション


安室透は喫茶ポアロの玄関先の掃き掃除を終え、箒とちり取りを携えて店内に戻った。よく晴れた午後、そろそろ夕方に差し掛かるかという時間帯の店内は今のところ閑散としている。いや、今のところだけでなくここ最近はそんな状態になることが少なくない。なんでも、近くに最近アメリカから上陸したとかいう話題のカフェチェーンが出店したらしいので、客はそちらに流れているのだろう。梓さんは「鶴山のおばあちゃまとか、常連さんは変わらず来てくださるけど、全体的にお客さんが少なくなったから張り合いがなくて」なんて浮かない顔をしていたっけ。あの国にはいい印象がない、そんなカフェはさっさと撤退していってほしいものだな……そんなことを思いながら、ちり取りの中身をキッチン内のゴミ箱に空けたあと店内を見回す。

店内に今いる客は三人、まだまだ長居しそうだ。一人客であるサラリーマンらしき男は、一番奥の席でノートパソコンやら書類やらを広げて黙々と仕事中。残る女性二人組も、落ち着いたボリュームの声で話に花を咲かせ続けている。

「にしても思い立ったら即行動ってとこ変わってないわねー、いくらいいとこ見つけたからってこの辺りに、しかも1LDKに引っ越してくるなんてさ。だだっ広い日本家屋育ちのおじょーさまには狭すぎるんじゃない?それに娘さんの学校とか大丈夫なの?」

少し皮肉っぽい口調で問うてはいたが、やっかんでいるわけではなさそうだ。表情筋も動いているし、おそらく長年の付き合いで気が置けない間柄だからこその軽口なのだろう。

「大丈夫よ、転校するわけじゃないし近くなったくらいなの。だって聞いてよ、何から何まで理想そのもののアトリエでね、もうここしかないってビビッときたんだもの!だいたいうちの本宅は広すぎてかえって不便だったし、一度くらい狭いとこに暮らしてみたかったのよね。私の分と娘の分とで2部屋借りてるんだからまあ十分なはずだし、あの辺りにどこでもいいから早めに部屋を押さえなくちゃって思うとそこしかなくて……」

変わっていない、と言われた女性は見たところ40代に差し掛かったくらいか。首からは変わった形に捻じ曲がった、プラチナでできているとおぼしきペンダントトップのペンダントを提げている。口調は弾んでいて、アトリエ云々の件は彼女にとっては相当喜ばしいことのようだった。

アトリエ。となるとこの女性は芸術家だろうな、ビビッときたと称するように感性に忠実なあたりも実にそれらしい――だが、ジャンルは?喫茶店店員にして探偵見習いは、漂白していたコーヒーカップを手際よく元の場所へ戻しつつ、聞くとはなしに聞いた話から考える。

表の顔の1つである探偵の性だろうか、断片的な話や何やらをつなぎ合わせて頼まれてもいないのについつい推理してしまうのは。しかし、オーダーを取る時やカップをサーブする時、あの女性の横の席の包みから微かにしてきた独特の臭いは何だろう。先ほどからそれがずっと引っかかっていた。油絵具とも違うのは解る。だが、いかんせん少し前から抽出を始めたコーヒーの香りと少しばかりの塩素の臭いが店内中に漂っているので、いまだに正体を掴みきれずにいる。解けないとなれば余計に気になってしまうもの。あれは一体……?

そこにブー、ブーと着信音が店内に鳴り響く。チラッと目をやれば、芸術家の女性の連れ合いが懐から取り出したスマホの音だと判った。それを見るや、慌ただしく帰り支度を始める彼女の会話を耳にしながら店の外を眺める。

「ごめん私行くわ、オペの招集かかって。悪いけどこれお代、支払いお願いね」
「大変ねー、お疲れ。また飲みましょ」
「うん、それじゃ」

オペと言ったからには医者だろう。そして緊急に呼び出されたとなると外科医辺りか。推理のし甲斐が無いな……ついでにすることも。「ありがとうございました」と見送りの言葉をかければ、女医は急いでいるだろうに律儀にも「ごちそうさま、お代は連れに預けましたので」と早口で返して出て行った。

さて。ドアベルの音が鳴り止むと同時に、透は顎に手を当ててあれこれ考える。今出て行ったお客様の分の空いた食器を下げたあとはどうするか、と……加湿器の設定だとか観葉植物の手入れだとかいう細々したことやら、明日はオープンから入る梓の負担が少しでも減るよう――持つべきは、早引けだなんだで迷惑をかけることも少なくないのに寛大な先輩店員だ。だから感謝の気持ちを込め、そしてせめてもの罪滅ぼしも兼ねて――前日に済ませておけば楽になるだろう作業も全部済んでしまっているし。あの臭いの謎も解けないままだし、そうだ、ここは気分転換に新しいメニューでも考案してみるのもいいかもしれないな。

だがそこで先ほどのテーブルに向きかけた足は、ドアベルがまたカランコロンと音を立てたので止められた。

「いらっしゃいませ、お好きな席……に……!」
「待ち合わせです……あ!いたいた」

ああ、することができた。梓さんの言う通り暇すぎては張り合いがないものだからありがたい……透が内心そう頷きながら振り返れば、入って来たのはシンプルなデザインのワンピースを着ている10代半ばくらいの少女。彼女を一目見た透は心臓が止まるかと思った。そんな彼の横を、少女は待っている人がいる旨だけ告げ通り過ぎる。そしてきょろきょろと店内を見回しかけたが、すぐにあの芸術家の女性の方へ小走りで寄っていった。

「ママ!遅くなっちゃってごめんねっ」
「大丈夫?迷った?」
「えへへ、ちょっとだけ」

透の意識は、笑い合う母娘のうち娘の方に釘付けになっていた。艶やかな黒髪に長い手足に顔立ちに、挙げていくとキリがないがとにかく自分の理想がそのまま服を着て歩いているのだから。そう、彼に言わせれば、まさしくこの国の美しさ全てを持って生まれてきた子というほかはなかった。

しばし見惚れてから、透は片付けとオーダー取りのために彼女のついたテーブルに行かなくてはと思い立ち、近づきながらさりげなく観察する。歳はいくつだろう?雰囲気からして常連の女子高生たちとそう変わらないくらいのようだが。

「いらっしゃいませ、こちらメニューでございます。ご注文お決まりのころまた伺います」

仕事が片付いたのか、はたまた実は待ち合わせ相手がいて待ち人が来たと思ったのか。一番奥まった席の男が顔を上げたが、すぐに違うと判った。どう見てもこの少女にジロジロと無遠慮な目を向け始めているではないか。

それを視界の端で捉えて……確かにこの子が魅力的だからといって。させるか。透はソファ席に座る男からの視線を遮る位置にさり気なく立つ。そして、あくまで店員としての仕事を全うしているかのように見せかけ、メニュー表をとびきりの笑顔で差し出した。こうしていられるのはせいぜい十数秒間。長くこの位置に留まることはできなくても、せめて今この瞬間だけでも彼女を見つめる異性が自分だけでありたかったのだ。

「ええっと、じゃあ、ホットロイヤルミルクティーをお願いします」
「かしこまりました……おっと」

彼女は割と即決するタイプなのだろうか、すぐに決めてしまった。となれば……。透はズボンのポケットから取り出したペンを手が滑ったふうに見せかけ、わざとテーブルの上に取り落とした。自分の方に落ちてきたからか、少女が「きゃっ」と可愛らしい小さな悲鳴を上げる。が、すぐに柔らかそうな両手で包んでから、ちゃんとペンの握り部分を透の方に向けて「どうぞ」と差し出してきた。

そのおかげで、真正面から見上げられる形になり顔立ちもよく見えた。間近で見た眼は切れ長。その眼の中の吸い込まれそうな瞳を向けられて、いっそそうなりたいとさえ透は思ってしまう。

「失礼しました、ありがとうございます」
「いえ」

背中に嫌な視線が纏わりつき続けているのを感じる。諦めの悪いことに、男性客はまだ彼女の方を見んとしているようだった。透はさっさと目線を外せと男に対して内心で毒づきつつ、普段の数倍ゆっくりと伝票にオーダーを書き入れていく。その間に座っている少女をそれとなく見下ろして、まつ毛が長いことと黒髪に天使の輪が浮かんでいることも発見した。

それにしても、物を渡す時に片手ではなくちゃんと両手で渡すなんて細やかな気遣いもできる子なのか、まだ10代だろうに。何気ない仕草にこそ本当の内面が表れるなどというが、所作と心根の美しさにますます惹きつけられてしまいそうだ。

オーダーを取り終え、先客が使っていた空いた食器もトレーに乗せ、名残惜しい気持ちで母娘のテーブルから離れる。すると、透にとってはなんともいいタイミングで奥の席のサラリーマンが席を起った。彼はすれ違いざま、透に向かって「会計」とぶっきらぼうにそれだけ言い放ち、レジカウンターの方へのしのし歩いていく。

「少々お待ちください」

答えながら透はしめたぞと喜んだ。常連でもない限り、喫茶店に来る客とまた会うことになる可能性はさほど高くない。いや、二度と会わない確率の方がずっと高い。だからこそ、しばしの時間だけでもあの少女の姿を目に、声を脳裏に焼き付けたいのだ。あとは、このまま他のお客が来ないことを願うだけ……マスターに知られたらいい顔はされないだろうけれど。

レジカウンターのカルトンに放られた代金を、素早く計算しすぐに釣銭を返す。ひったくるように受け取られても「ありがとうございました!」と苛立ちをおくびにも出さず爽やかに見送る。これも彼女の前だからできることだ、好いた相手の前では少しでもいい印象を残しておきたいじゃないか?

こんな感情が、僕にもまだあったんだな。捨てきれずにいたのか……レジカウンターから引き返し、少女からのオーダーを作ろうとキッチンに入る。透があの女性(ひと)――エレーナ先生――に対して淡い想いを抱いていたのは確か。だが、それはもう彼女のあの時の言葉に似せて表現すれば“遠くへ行ってしまった”日のことになっていたし、捜査のため、あるいは組織の一員としての情報収集のために、恋心を相手に抱いているかのように振る舞うことこそあっても、あれ以来とうに誰かへの偽らざる恋心なんか捨てたはず、だったから。透はただ自分に驚くばかり。この国を守るという使命のために持ってはいけない、邪魔になるものだからと。どれだけ言い寄られようとすげなく断り続けてきた僕が、一目惚れだなんて。しかもどう見ても一回りは離れている相手に。そもそも僕の恋人は……なのに、そのはずだったのに。

そうこうしているうちにロイヤルミルクティーを淹れ終えた。丁寧な仕事をしているんだ、と思ってもらいたくて、そっとカップに注ぐ。「ごゆっくりどうぞ」という言葉に、本当にそうなってほしいという心からの願いを込めながらサーブしたのは初めてだ。

それから先ほど帰った男性客のテーブルの片付けにかかろうとした時、化粧室から帰って来た母が娘との話を再開した。

「どこ行ってたの……ああそっか、好きな作家のお家見に行ってたんだった?お気に入りの『広島のソーダ水』書いたっていう。ほんと好きねえ、探偵小説」
「もーまた覚え間違えてる、『緋色の捜査官』だってば。とにかく、うん、せっかく米花町の近くまで来たんだし見に行ってたの」

先ほどの彼に感謝するとしたらいろいろ頼んだことだろう。何故って?その間テーブルを拭いたり下げる食器の量が多いのに託けて、長く時間を取りながら近くで聞き耳を立てられるからだ。

「すごかったあ、ミステリーに出てきそうな西洋のお屋敷そのまんまで!でも、中から出てきて車に乗り込もうとした人がいたからひょっとして工藤先生かな、サインもらえないかなあと思ってちょっと離れたとこから様子見てたんだけどね……」
「けど?折角なんだし追いかけてサインもらえばよかったじゃない、恥ずかしかったの?」
「そうじゃなくて……このミルクティー美味しい!」

見かけによらず探偵小説好きらしい少女は、嬉しい感想を口にしたのち、一息置いてまた話し出す。

「だってその出てきた人っていうのが、メガネかけた細い目ですごく背の高い人で、マカデミー賞の中継で見た先生と身長以外全部違ったから声かけるのやめたの、人違いでしたってなったら恥ずかしいし絶対そうなるし。それに、工藤先生って今ほとんど海外みたいだからいるわけないよねって思い出して……でもじゃあ、あの人って誰だったんだろ?なんで住んでるのかな」
「さあねぇ、ママも解んないわよ」
「そうだよねー」

彼女らに背を向けたまま片付けを進めていきつつも、透は唇をギリリと噛んだ。

……工藤邸……『緋色の捜査官』……応接間のテレビに映っていた、工藤優作がその作品をもとにした脚本でマカデミー最優秀脚本賞を受賞した様子の生中継……沖矢昴が赤井秀一だという確証を得んと乗り込んだのに、その尻尾をあと一歩のところで掴み損ねた……そればかりか、逆に自分の正体を掴まれた、あの忌々しい夜にまつわることを思い出していたからだ。

一方、そんな透の心中を知る由もない母と娘のやり取りは続く。

「そうそう、お手伝いさんは前の紹介所がちょっといい加減だったし、これからは別の会社に頼むことにしたわ。ヨネハラさんって方にお願いすることになりそう」
「そっか。でも料理はできるから別として、それ以外の家の事くらいもう自分でできるようになりたいんだけどな……」
「何言ってるの、高等部に上がってから教科書も増えたし勉強も通学も楽じゃないでしょ?そこに家事までなんてさせられないわ。シャトー米花マンションじゃなくて今のところに決めたのも、学校にもっと近いんだし負担も軽くなると思ったからなのよ?」
「えー、ママったら過保護すぎでしょ。それくらい平気だってば」
「過保護で結構、可愛いアイリのためだったら過保護にだって何にだってなるわ」

なるほど……下げた食器をキッチンシンクに運び込みつつ、透は口角を上げた。あの子の名前はアイリ、か。母親が呼んでいるからには間違いないはず。

そして「シャトー米花マンション」、「お手伝いさん」、「高等部」。この3つから導き出せるのは、経済的にかなり余裕のある家庭のはずだということ。結局選ばなかったとはいえ、米花町でも指折りの高級マンションとして知られるところを新居の候補にして、家事を外注して、私立学校に――私学以外ではまず高校を高等部とは呼ばないだろうから――通わせているからには。シャトー米花マンションが云々というからには、この辺りに越してきた可能性もあるわけだ。米花町から通えそうな範囲の、高校を高等部と呼ぶ学校……ポアロを上がったら調べてみるか?いや、それはさすがにストーカー一歩手前じゃないか。捜査のためなら躊躇なくやるが。大体もう二度と会うことはない可能性の方がずっと高いんだ、そんな相手のことを一つでも多く知ろうとしたってむなしいだけだろう、諦めろ、どこの誰とも知れない年下の子に恋なんて余計な感情を持つものじゃない……諦めたくないという想いを封じようとしながらも。

でも。引越し、か。1LDKに。そういえば、エントランスの掲示板にそんなお知らせが貼ってあったよな。唐突に思い出した。引越し業者のトラックが車道に停まっていたのも。日付も、確か…メゾンモクバもワンルーム……。

いや、まさか。できすぎてる。そんなわけが。透は自分に言い聞かせ、直後に入って来た5人客の対応を始めたから気が付かずにいた。

「……パパのお墓にも、この街ならお参りしやすくなるでしょ」
「うん……」

途端に母娘を包む空気はしんみりしたものになっていて、彼女の母親は首に提げたペンダントのペンダントトップを指先で弄びながらポツリと言ったことに。



翌日。透は今この時ほど、頬を思い切りつねりたいとは後にも先にも思わないだろうと確信した。

「お忙しいところすみません、隣に引っ越してきたアトラと申します。母に代わってご挨拶にと思いまして」
「やあ、これはどうもご丁寧に。ありがとうございます」

日曜日、朝10時。組織の任務で出かけようとドアノブに手をかけようとした直前、インターホンが鳴った。何かの勧誘ならどう角を立てずに速やかなお引き取りを願おうか、と考えながらドアミラーを覗けば、米花デパートのロゴが入っている袋を提げて彼の部屋を訪ねてきたのは紛れもなく見間違いようもなく、昨日の少女……アイリだったからだ。急いで、しかし慌てずにドアを開け1日ぶりの対面を果たしたわけだが。

「……」

菓子折りが入っているらしい紙袋を透に渡し終えた彼女は、彼の肩越しに壁の一点を何も言わないままじっと目を見開いて見つめていた。何だろうと一瞬思ったが、そこに飾ってある絵に見入っているようだ。確かに美しい絵ではあるし、自分の感性に近いものを持っているらしいことが判ったのはいいとして。

「ん?僕の部屋に何か?」
「あ!ごめんなさい、ジロジロ見てしまって」
「いえ、ただ随分夢中になって見入っているものだと思いましてね」

見つめるなら僕にしてほしいものだ……が、部屋を不躾に覗かれるのもなんだし、そんなに見入っている理由も気になって身を屈め目を合わせて訊いてみる。すると、ハッとして謝ったのち、彼女は嬉しそうに笑って、思いもよらない言葉を口にしたではないか。

「母の作品、ああして飾ってくださってるんだと思うと嬉しくてつい見ちゃいました…ごめんなさい」
「え?母……って!君は跡良先生のお嬢さん!?」
「はい」

飾ってある絵を描いたのは、透明感と斬新な色遣いが印象的な、滅多にメディアには出ないものの世界的に有名な日本画家だ。透の背後に掛けてあるのは、『あかつき』という題名。海から白々昇る朝日を題材にしているもので、一目で気に入りすぐに買い求めたのだ。

同時に、解けずにいたあの謎もあっという間に解けた。昨日彼女の母の席からしてきたあの臭いは膠のはずだ。日本画家なら画材の岩絵具を定着させるのに欠かせないものだし、どこかの画材店だとかで買ってきたものを持っていてもおかしくはない。

「じゃあ、あの方が。そうだったのか」
「ご存知なんですか?母のこと」
「いえ、知っているというか。昨日、米花町五丁目にあるポアロっていう喫茶店にいらしてましたよね?僕はそこでバイトしているんですけど、そうとは知らずに接客していたなんて」
「……あーっ!なんとなく昨日の店員さんに似てる、もしかして同じ人かなって思ってたんですけど」
「そのもしかしてですよ。僕は君のお母さんの作品の大ファンなんです。光栄だなあ、好きなアーティストがお隣さんになるなんて」

……これは、まったく嬉しい予想外だ。透は叫び出したい気持ちを抑えながら、一番訊きたいことを知りたくて口を開く。

「僕は安室透といいます、お隣さんとしてどうぞよろしくお願いします……名前を、訊いても?」

相手の名を訊きだすにはまず自分から、というからには。まず名前を名乗ったあと、もう昨日耳にして知ってはいても、改めて彼女が名乗るところを聞きたくてそう訊ねれば――。

「安室透さん、ですね。私、跡良愛理っていいます。よろしくお願いします」

少女は鈴を転がしたような声で彼の名前を呼んでから、ぺこりと頭を下げ綺麗な礼をしてみせた。


そうして、挨拶を終えた彼女……愛理の足音が遠ざかり、隣の部屋へ入っていく音を聞き届けてから。

「やっ、た……!」

透は思わずガッツポーズをしながら呟いた。心臓の鼓動はドクンドクンと高鳴りっぱなし。喜びに思わず手を震わせながら、貰ったデパートの袋の持ち手部分を固く、これ以上ないくらい固く握りしめる。

ベルモットには少し遅れるとあとで連絡を入れればいい。一度は諦めかけた相手が、一目惚れするほど強烈に惹かれた相手が、隣に、やってきた。これで想いを断ち切れるとでも?強烈に惹かれたあの子を、この至近距離で接することになって諦められるとでも?無理だ。その喜びを噛みしめるくらい罰は当たらないはずだ。

……諦められるものか。諦めが悪くて何が悪い?歳が離れすぎてる?好きになったものは仕方ないだろう?これだけ物理的な距離が縮まった、アプローチするにも彼女の母の絵のことを口実にするとかいくらでも方法はある。そうだな、まずは……透はこれからのことを思い描き、上機嫌でドアを施錠して出て行った。



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