不器用


行った、か。

松田陣平は、機動隊寮の談話室に戻って安堵の息をついた。先ほどまでそこにいた親友、萩原研二の姿は無い。寮母に外泊届を出すためだろう。あれを書くときの親友の横顔を……「愛理に逢えるのが嬉しくてたまらない」と大きく書いてあるそれを目にしたくなくて、タバコを口実に部屋を出ていたのだ。

出せなかった、伝えたかった。メールを。口に。思いを。

スマホを取り出す。タップ、スワイプ、スクロール。「松田はすごいねえ、どんな操作だって滑らかにできて」……いつかスマホを操作しているところをじっと見たあと、心底感心したふうの愛理にそう言われたことを思い出す。「ったりめーだろ?俺は他人より器用なんだよ」と、さもなんでもないことかのように、だけど密かに想いを寄せていた相手に褒められた喜びを隠しながら応えた記憶も。

あの声色が懐かしい。けれど、人は誰かを忘れていくとき、まず相手の声からそうなるものだという。それなら、記憶の中にある彼女の声と、実際の声は果たして同じだろうか?

指が動くに任せるうち、無意識に呼び出したのは「俺じゃ駄目か」と入力したメールの下書き。掛けたかった言葉、本心。どうして声ではなく文字にはできるのだろう。そして、萩原千速には会う度に臆することなく伝えられた「付き合ってくれよ」ではなく、こんな、伺うような言葉になってしまうのは何故だろう。

出せたわけ、ねえだろうが。このメールだって思いだって。心の中で呟いて、ガシガシと頭を掻く。その手に癖っ毛がチクチクと煩わしいことになおさら無性に苛立って、ニコチンで紛らわせるのはいっときだと知ってはいながら、新しいタバコの封を切ろうとした……ところで、目が覚めた。



アラームアプリの無機質な音のけたたましさは、起きぬけの頭に容赦なく突き刺さってきた。松田は素早く手をスマホに伸ばして「消す」ボタンをタップする。お世辞にも厚くはない壁の寮住まいだから、3回鳴るまでに止めないと先輩隊員にどやされるので、素早く消すのが習い性となっているのだ。

液晶画面に表示された今日の日付は、ハロウィン。それに合わせてか、昨日は見当たらなかったので今日限定のデコレーションらしいカボチャは、そんなことはつゆ知らずのんきに笑っている。その気の抜けた口元にすら、愛理を思ってしまう。今晩は機動隊も渋谷や池袋のハロウィンパーティーの雑踏警備に投入されることになっている。彼女のいた少年課もきっと補導でてんてこ舞いだろう。

でも。そういや今日、一周忌か……愛理の。

日が昇って、沈んで。当たり前のサイクルの中から、当たり前にいた萩がいなくなってもうそろそろ3年、その恋人だった愛理が姿を消してちょうど1年。松田にとっては、想いを伝えられなくなって1年ということでもある。

器用――笑わせんな。どこがだよ。思いを俺以外読まない文字にするのがやっとのくせして。バカじゃねぇの。松田はスマホを握りしめたまま、いつかの自分を嘲笑う。

自分がありふれた三角関係の、選ばれない方になるとは思いもしなかった。松田は幼なじみにして親友かつ同僚の恋人を、好きになってしまったのだ。別の教場だった愛理が、体育祭の教場選抜対抗リレーで大逆転のごぼう抜きをしてのけたところから気になって、仲良くなって。愛犬である柴犬の写真を見せながら自慢してくる様子とか、「私は生安の特に少年課志望なんだけどハンドラーも興味あって。ただドーベルマンは小さいころに吠えられたからちょっとまだ苦手なんだよね、克服しとかないとな」とか、他愛ない話をするうち、ただの仲良しでは終わりたくなくなって。まずは食事に誘うとかすりゃいいのか、と思い立って、だけどそうしたことに仲間内では一番長けた萩に聞いてからその誘いをかけようとしたのに。

「陣平ちゃんには、言っときたくてよ」

まるで先制アッパーを食らった気分だった。ガラにもなく照れた萩原の声と口調は、彼が愛理にどれだけ本気なのか、いつものように滑らかに言葉が出てこない分、ああして打ち明けてきた分、かえってよく解ってしまった。隣でシンクロするように照れ笑いする彼女が、ただただ、眩しかった。

いつしか松田は、とめどない愛理への思いを、ただひたすらにメールの下書きに書き続けては保存するようになった。アイツに可愛いだの何だの伝えていいのは萩だけだ、と自戒して。「お前の好きな芸人出てたぞ」とか、「あのスカート似合わなくはねえが短すぎんだろ」とか。声に出せないけれど、無かったことにしようとしたらどこかでいつか爆ぜてしまいそうな思いを、文字にして保存した。そうやってやり過ごそうとした。あるとき煙をくゆらせながら、なんでこんなに目に沁みやがる、とひとりごちて。また別の日、3人で呑んだあと、自然に2対1に分かれて家路に就く帰り道でこっそりと。洞察力の高い萩のことだから、親友のそうした思いはとっくに見抜いていただろうが、彼は何も言わなかった。

この長ったらしい下書きはきっと読まれない。出さないのだから。いつだったか、喫煙スペースからガラス越しに、連れ立って庁舎のほうに戻るところを脳裏に浮かべる。

萩原が殉職した日、もうあいつの心には萩しかいないだろうからと、松田は思いを封印することに決めた。メールの下書きは、ゆく宛を亡くしても削除できなかったけれど。彼が逝った翌々年のハロウィンには、愛理も若い命を散らした。「一番の自慢は超健康体なことかな。小学生のころから毎年健康優良児だったんだよ!健康診断の結果の要精密検査とかさ、一度でいいから見てみたいなー」と笑っていたのに。恋人の四十九日が過ぎたあたり、若年性のガンだったかが発覚したらもう手の施しようがない状態だった。休職して治療に専念したけれど悪化するばかりで、そのまま……恋人を喪ったことが追い打ちをかけたのか。お前〈愛理〉が好きだ、たった数文字の一言が言えないままだった。



だから――あれから数年後の、水銀レバーのスイッチが入った今。松田は観覧車の中から、下で待っている佐藤美和子に向けて、もう一つの爆弾の在り処と「あんたのこと、」を追伸に載せたメールを出した。最期に伝えたいことをこの世に遺して。口に出せなくなるのは、そうなったままなのはもう、ごめんだから。

すべての区切りを、終わりを告げるカウントは、もう……。



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