蜜月に差す翳り〜破綻 そして


工藤邸の客間の、よく糊のきいたシーツの上。そこに寝かされた愛理は眉間に皺を寄せつつも、まだ目を覚ましそうにはない。

「どうかしら?」
「ごく軽傷ですね。痣と擦り傷ぐらいかな」
「それなら良かったわ……」

患者にテキパキと処置を施しつつ、新出智明はジョディの問いかけに応えた(保護したアイリを連れて工藤邸に向かう車の中で往診を頼んでおいたのだ)。この場にいる唯一の同性ということで診察に立ち会いを頼まれていた彼女は、その診断にひとまず安心する。

「それじゃあ僕はこれで失礼します。今日のケガで何か気になることがあったら新出医院を受診するように伝えてもらえますか、ここに名刺と電話番号を置いておくので」「ありがとう」……そんなやり取りがされる中、会話にかき消されてしまうほどの、ごくか細い愛理の声がしたことに彼らは気が付かなかった。

「とおる、さん」

麻酔が切れかけ夢うつつの中、愛理は愛おしい、でも文字通り離れて行ってしまったひとの名を呼んでいた。春にした約束だって、遠い。浴衣を着て夏祭りへ行くのも、結婚も。そしてこうも思っていた。あんな犯罪みたいなこと、してるひとだったなんて。だから私が警察官になるって言ったときにあんなに反対したの……? でも疑いたくない。だけど、あんなところを見ちゃったら。信じたい気持ちと信じられない気持ちとがせめぎあって、それはまるでダブルフェイスのようだった。



「助かったよ、さすが赤井さん」
「何。ボウヤが知らせてくれたおかげだ」
「まあ、愛理さんの持ち物が奪われてなかったのと、発信機を仕込んでおいたトロッピーのマスコットをそれに付けててくれたのもラッキーだったよ……もしリュックサックごとどこかへ投棄されていたり、マスコットを持ち歩いていなかったりしたら気付けなかった」

一方。ドア一枚を隔てた向こう、新出が工藤邸を辞して去っていくその後ろで、 “シルバーブレット”たちは互いの策が成功裏に終わったことを小声で称え合っていた。組織の戦力を削る、という今日の本来の目的を完全に果たせたとは言い難いものの、バーボンと近しいアイリを救い出せたことは収穫と言って良かった。彼女に訊きたいことも多いのだから。

だがそれ以上に、組織の手に掛からずに済んだことだってまた喜ばしい。ベルモットがあの場から逃走していく前、彼女が愛理に何かを向けていたのをコナンは見ていた。組織は行き会っただけの無関係の者さえ、現場を目撃されたなら口封じを厭わない(それはほかならぬ彼自身が、誰よりも身をもって知っている)。何らかのことを偶然目の当たりにしてしまった愛理を消そうとしたのか。ともかくその経緯はどうあれ、助けられたなら何よりだ……シルバーブレットたちは、口には出さなかったけれど、そのときとある同じ女性を脳裏に浮かべながらそう思っていた。

「俺が何かしらのものを撃って安室君の注意を惹き付け、ボウヤがrotten appleにここから去れと言う……悪くない計画だが」
「?」

そこで珍しく言いよどむ赤井に、コナンはどうしたんだ、といぶかる視線を向けた。

「正直に言えば、あれは俺にも読めん賭けでもあったよ」
「どういうこと?」
「俺の気配を察知したら安室君はそれを嗅ぎ付け、居所を探る……しかしあの“白猫”の前では、どうも彼は容易く“らしさ”を失うようだ。彼女を守ろうとすることを優先し、俺に喰らい付かない可能性も50:50といったところだったんでな」
「うん。東都ホールで赤井さんが愛理さんのこと抱き上げたとき、確かにバーボンはすごい形相だったよね……」

そこでガチャ、と客間のドアが空いてジョディが顔を出した。そのまま「起きたわ」と小声で告げ、赤井とコナンを招き入れる。二人が部屋に入れば、緊張した面持ちの愛理と目が合った。「我々大勢に取り囲まれるよりは顔見知りの君たちがより適任ではないかね」というジェイムズの計らいで、ジョディと沖矢とコナンだけが愛理に話を聞くことになったのだ。彼は別件のため、キャメルの運転で既に投宿先へと戻っていった。「証人保護プログラムを受けるかどうかも確認しておくように」とも言い残して。



拳銃を向けられるなんて、この日本で普通に生きていたらまずしない経験だ。本当に殺されてしまうかと思ったけれど、助かった……目が覚めた愛理は胸をなでおろしたが、しかし今度は別の緊張に襲われることになった。いつもの英語教師としての陽気な雰囲気ではないジョディが、目の前にいたから。「キャメルさんがFBIの捜査官で、じゃああの場に一緒にいたってことは、サンテミリオン先生もそうなんですか?沖矢さんもひょっとしてそうだったりしますか?」……とは、訊いてみたいが今はとても許されそうにない雰囲気だ。

「具合はいかがですか」
「おかげさまで、なんとか……」
「ねえねえ!愛理お姉さんはどうしてあの場にいたのか教えてくれない?ボクといっしょでかくれんぼしてたの?」

無邪気にコテンと首をかしげて、コナンは訊いた。そういうコナン君こそどうして、と問いたい気持ちもあったが、愛理は促されるまま発端から話し始めた。彼――安室透とは、去年の9月ごろから恋人同士になったこと。春先から彼の浮気をぼんやりと疑い始めたのと同じころ、クライアントらしき金髪の女性を車に乗せていたと、本人だけでなくその様子を見かけた知り合い何人かからも聞いていて、実際に件の人物の抜け毛とおぼしきものも彼の車の中で見つけていたこと。4月の終わりに起きた母の事故だとかで辛い思いをしているのに、ずっと彼に逢えない日が続いていて(東都ホールでも遭ったとはいえ、なぜか目も合わせてくれなかったから)寂しくて寂しくて。そして、7月に彼と初めて喧嘩をしたあと、友人たちが犠牲になったあの一件があって、ますます誰かにそばにいてほしい思いが最高潮になったそのときに、あの女性を見かけて……抜け毛と同じ色合いと長さだったからあのひとかもしれない、付いて行ったら、透のいるところに行けるかもしれない。そう思い立って衝動的にあとを尾けたら、あんな目に遭ったこと……。

「なんて無茶するの!あなた一歩間違えたら死んでたのよ!?」
「ひゃっ」
「ジョディ先生、落ち着いて」
「Sorry……ともかくあの彼がそんなことをしているなんて、あなたは本当に知らなかったっていうことね?」
「……はい」

跡良愛理が組織と関りが無いことは確定した。とはいえ、恋人に逢いたいという気持ちは解らなくはないけれども……教え子の無鉄砲さにジョディは思わず大声を上げてしまって、コナンに窘められる。愛理はビクッとなり体を縮こませて頷きつつ、咄嗟に目線を泳がせた――それを受け止めるのはベッドサイドの小机に置かれている、撃ち抜かれたスマホ。透の優しいブルーグレーの目は、当然どこにもありはしない。ジョディの話では、スマホは「クールキッドが抜かりなく回収してくれたのよ」ということだったが、愛理は絞り出すような声で彼にお礼を言うのがやっとだった。弾丸が容赦なくスマホを破壊した痕に、脳幹を撃たれて命を奪われた友人のお骨を思い出させられてしまって辛い。それにRineでの友人や透との思い出ごと、全部奪われてしまったかのようにも思える。データのバックアップはあるから大丈夫とか、そういう問題ではなく。

私、知らなかった。何も。愛理は透の手を握るところを思い浮かべてシーツを掴む。でも、愛おしいひとの好きな色をしたそれは、欲しい温もりを与えてはくれない。探偵にして喫茶店の店員で、素敵なお隣さんで、そして恋人としての顔〈フェイス〉しか、Rineでのやり取りを何度続けても、どれだけ近くにいても、彼は見せてくれなかったのだ。

「しかし、愛理さんと宅配業者のあの彼は、とても仲が良かったと記憶していましたが。春先にお会いしたときには飼い犬を預かっていたとおっしゃっていましたよね?それほど信用のおける相手と喧嘩をするなどにわかには信じがたい。差し支えなければ一体何があったのか教えていただけませんか」
「なりたいものができたって言ったら、ものすごく反対されて、気まずくなっちゃって……応援してくれると思ったから話したのに」
「ホー?どういったものですか」
「えっと、長くなっちゃいますけど……」

まだ幼いころに、父をテロに奪われていること。そんなことを起こさせないために公安警察を目指すのだと言ったら、何故か透が猛反対したこと……「きみまで喪いたくない!」と大声を上げた彼の様子を思い出して言葉に詰まった。けれど、訥々と、時には悲しみにしゃくり上げながら話す愛理を、目の前の三人は一度も遮ったり、数分にわたり沈黙した彼女に続きを催促したりすることもなく、じっくりと話を聞いた。そしてそのあと、沖矢が口を開いた。

「素晴らしい夢じゃありませんか」
「! ……ありがとう、ございます」

愛理は目をパチクリしながら、そういえばと思い出す。(意識が戻らないのだから当然として)母にも、それに修学旅行のあとで伝えるはずだった友人たちにも、公安警察を目指すという目標はまだ明かしていないから、背中を押してもらう以前の問題。学校の進路調査には「併設の大学に行く」と答えたまま。東都ホールで会った佐藤という刑事は、警察へのスカウトはしてくれたけれど公安志望だと言ったら、不仲とされる部だったからかその点については喜んでいなさそうだった。そのうえ何より、透には何故か猛反対されてしまって。だからその目標を肯定してもらえたのは、思えば実は初めてだ。

「どうして、透さんはあんなところであんな格好で、あんなもの持ってたんだろう……」
「……」

ひとしきり話し終え、恋人(と、今でも呼んでいいのだろうか)を思いながら零した愛理の独り言。それに先ほど聞き出した、彼女の生い立ち、恋人との喧嘩に至る経緯と、将来目指すもの……跡良愛理のそんな過去から未来への話は、沖矢にとある閃きをもたらすものでもあった。

「お話いただきありがとうございます、愛理さん。ところで……あの彼の真実が知りたいですか?」
「それは、はい」
「でしたら“最適解”がありますよ。東都大を卒業して、警察庁にキャリア警察官として就職なさることです」
「え」

愛理は思わずポカンとしてしまった。傍らのジョディとコナンも「どういうつもり?」と顔に書きながら沖矢を見やる。

警視庁なら言うまでもなく知っている、なんならそこに就職したいと思っているのだから。でも、警察庁ってなんだっけ? 刑事ドラマの『相方』シリーズの主人公が確かそこに勤めていたような。おまけに東都大に入って……って言われても。沖矢の口ぶりはまるで「近所のお菓子屋にジャムでも買いに行けばいい」と、それがごく簡単なことであるかのようだ。しかし途方もない目標を示されてしまって、愛理はそれこそ途方に暮れた。

日本最難関、東都大学。地理的な意味であればとても近いのは確か。梅濤にある跡良邸からは、東都大の狛場キャンパスまで卯の花線信泉駅から1駅。何ならウォーキングがてら行けてしまう。だからといって、イコール学力で届くということに繋がりはしない。併設の大学に進学希望を出したとき、担任からは「もうちょっと頑張れば東都大も夢じゃないのよ」と言われているし、亡き父もOBとはいえ。

「ただ私、高校を卒業したらすぐ警察官になりたいんです。警視庁の採用試験の受験申し込みももうしちゃいましたし」
「警察官になろうと思い立ったら、確かにこの東都に住んでいる以上は警視庁を思い浮かべるもの。ですが……聡明な愛理さんのことですから既に調べておられるかもしれませんが、高卒と大卒とでは昇進に差が出るようです。それに金髪の女性がメンバーにいるようだというからには、国際的な規模のグループである可能性も考えられますね。そういった関係の捜査に関わる部署には大卒が優先的に配属される傾向にあると、警察OBの本で読みました。夢に近づくための遠回りと考えてはいかがでしょう」
「どうして東都大って限定なんですか?そんなトップのところに行かなくても良いんじゃ」
「愛理さんにはぜひ僕の後輩になっていただきたいので」
「そうですか……ふふ、っ」

沖矢さんってやっぱり変わったひとだな、と愛理は思いつつ、今日初めて、いや久しぶりに笑う。同時に、言われたことをなぞりながら、今まで誰にも話さなかった分、自分一人で決めてきたからそういうこと全然知らなかったなあ、と改めて知ることになった。遠回りといえば確かにそうだ。大卒で警察官になるには短くてもあと4年。でも、透に「近づく」チャンスが掴める可能性が上がるなら……そう考え始めた愛理の様子を見抜いた沖矢は、更に畳みかけてゆく。

「一口に警察官になると言っても、色々なルートがありまして。それに、やはり東都大はキャリア官僚になりたいなら有利に働きますし、警察キャリアとて例外ではない。転勤も頻繁だと聞きますが、裏を返せば様々な部署が経験できる可能性が高まる分、彼の真実に様々な角度からアプローチできるかもしれません。それと提案ですが……この工藤邸をサードプレイスとされるのはどうでしょう」
「サード、何ですか?」
「家でも学校や職場でもない第三の場所のことです。ここで過ごしがてら、東都大を目指して勉強に励まれるも良し、工藤先生の書斎の蔵書を楽しまれるも良し。僕はアメリカ国籍ですし理工系の研究科にいますから、英語や理系科目も教えられますよ。そこにいる彼女もご存知のように英語のエキスパートですからね」
「Yes……」

ジョディは一瞬「私も?」と言いそうになった。だが、傍らではコナンが「きっと赤井さんのことだから何か考えがあるんだよ」と言いたげに目配せしてくる。同感、きっとそうよね……と思い、沖矢に同調するように頷いてみせた。

「来たいときには前もって私にRineで連絡をいただけますか。スマホがあのような状態ではしばらく先になるでしょうが、お帰りになる前にIDのメモをお渡ししますので……私たちの都合や愛理さんのお母様のお見舞いなどもあるでしょうから、毎日とはいかないかと思います。その点はすみません」
「いえ、とんでもないです!それじゃあ……お世話になります」

こうして、愛理のサードプレイスが工藤邸に定まったその晩、沖矢が彼女を無事に跡良邸まで送り届けて帰宅したあと(白いFDは、今日はお出ましにならなかった)、ビデオ通話会議システムで話し合いが持たれた。

“証人保護プログラムは結局、適用を望まないと?”
「母親の具合も心配だから日本を離れたくはないと言っていました」
“わかった”

ジョディが今日の次第をジェイムズに報告し終えたあと、キャメルが訊ねる。

「しかし赤井さん、何故FBIにスカウトせず、日本警察を目指させたんですか?」
「将来的に我々の日本での活動が長引く場合も想定してのことだ。コネクションは早いうちから長く機能するよう作っておくに限る。築くのに時間を掛ければその分だけのものを齎す……あの“白猫”を無垢なものと捉えて闇へと近づけさせまいとはしていたが、あれを暴くことを彼女自ら望むのならば別だ。こちらはそれを後押ししてやれば良い」
「じゃあ、サードプレイスとして工藤邸を提案したワケは?」
「跡良愛理とのコネが途切れんようにな」

投宿先のホテルの部屋は高層階で見晴らしも良く、霞ヶ関の界隈も見える。会議の途中、キャメルは窓の外をふと見る。Tokyo Metropolitan Police Departmentと、National Police Agency of Japan……警視庁と警察庁の庁舎は、今宵も煌々と明かりが灯っていた。



こうして愛理の二学期は、思っていたよりずっと忙しくなった。スマホを新しく契約しに行ったり、勉強に本腰を入れるようになったり、合気道を再開したり(去年しつこく絡んできた顔見知りはとうとう退場させられたらしかった。なんでも、総師範を怒らせる何かをしでかしたとかなんとか聞いた)。併設の大学に進学するという希望を取り下げて、受験勉強に励む毎日。けれど、学校生活は寂しくなった。友人たちとの寄り道もしなくなった(というより、できなくなった)から。その分を埋め合わせるかのように。

その合間を縫って、いまだ意識の戻らない母の見舞い。父、文乃と睦美……それから、卯芽華の月命日参り。生還したものの脚と、バレリーナになるという夢を奪われた彼女の絶望は計り知れないものだったのだろう。あの言い合いをした登校日の数日後に自ら命を絶ってしまったのだ。遺書には「愛理へ あんなこと言ってごめん ほんとごめん」という一文と、「愛理には伝えてほしい」という書き置きがあったと、卯芽華の両親から知らされた。

かろうじて、カンナとはメッセージのやり取りを続けている。だが、彼女は留年することにしたという。「当分、家から出るのも厳しそうでさ。愛理を先輩って呼ぶなんてねー」と笑っていたが、きっとその陰にはいろいろな感情を隠しているに違いない。あの一件はカンナにPTSDと顔の火傷、そんな心身両面に深い爪痕を遺したのだ。

そんな寂しさの埋め合わせといってはなんだが、愛理は今日も工藤邸の門をくぐるのだ。阿笠博士のダジャレクイズに大笑いしたり(彼は愛理が笑い転げるたびに得意満面といったふうだったが、灰原は「ったく……」と言いたそうな顔だった)、沖矢や阿笠博士と料理をしたり……。

「Let’s have an immersion time from now」
「今からですかぁ!?」
「Communicate only in English, OK?」
「お、OK」

それから、勉強の一環として、ジョディや沖矢(たまにキャメル)と英語だけで話すこと。イマージョン・タイムといって、これが始まればその時間は英語だけで会話をしなくてはならない。内容はニュースのこととかホームズ作品のどこが好きかを述べるとか、今日あったこととか、多岐にわたる。愛理は英語の読解ならできる自信は割とあるが、会話となればまた勝手が違う(カナダにホームステイしたときは、ホストファミリーはとてもゆっくり話してくれていたのだと今になって知った)。ネイティブスピーカーたちの自然な速度での話に、最初は付いて行くのがやっとだった。でも、やはり継続は力なりということか。続けるうちに、東都大の英語リスニングの過去問は最初はボロボロだったのに、段々と手ごたえを感じられるようにもなってきた。

あと、その傍ら「少年探偵団」を名乗る子供たちの相手をしてやったり。なんでも、彼らの知り合いの刑事(どこにでもいそうな小学生たちにそんな知り合いがいることに愛理は驚いた)が近々渋谷ヒカリエで結婚式を挙げるという。生まれて初めて参列する未知の場に、彼らが興奮するのは無理もない。

「愛理姉ちゃんも来いよ、その代わりうな重が結婚式のごちそうに出てきたらぜーんぶ俺にくれよな!約束だぜ」
「勝手に決めちゃあいけませんよ元太君!」
「ねえねえ、愛理お姉さんもウエディングドレス着たいでしょ?歩美もお嫁さんになったらぜーったい着るのっ」

賑やかな子供たちに癒されつつ、愛理の表情はふと翳った。結婚。あの人――透――が約束した二文字はもう、叶えてくれないんだろうな。そう寂しく思いつつも、彼らが帰っていったあと、ペンをケースにしまい、呼んであった運転手の迎えで帰宅の途についた。

家のある梅濤へと続く道路は少し混んでいるが、後部座席からはその分周りの景色もじっくり見える。

そんな中、愛理は歩道を歩く女性と目が合いそうになった。深紅のライダースジャケットを纏い、銀色のペンダントを付けた彼女は、顔立ちからして東欧系か。この渋谷に外国人の姿など全く珍しくもないが、愛理がその女性に目を留めたのは、スクランブル交差点を珍しがって自撮りに勤しむ他の多くの観光客とは違ってそうしていないばかりか、何か思い詰めたようなとげとげしい目つきをしていたからだった。あと、顔に残った火傷の痕も痛々しいからというのもある。

……あんまりジロジロ見ちゃいけないよね。件の人物と視線がぶつかりそうになる直前、愛理はサッと目をそらす。そして道玄坂の道路の上を横切るように飾られたとあるデコレーションに気が付いた。

「あれ?カボチャなのにオレンジ色じゃないんだ、あの飾り」
「今年からのようですよ。宮益坂通りでは同じ形の水色のものを見かけました」

この時期には、ハロウィンにちなんだ無数のデコレーションが渋谷の中心地のそこかしこに設置されるが、今年は万国旗よろしくカボチャのランタンがあった――特徴的だったのは、普通はカボチャといえばオレンジと黒のツートンカラーが定番だろうにピンク色をしていたことだ。何故か不安になるほど、毒々しいまでの。



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