蜜月に差す翳り〜破綻


一方、米花港へ向かうベルモットを愛理が追っているのと同時刻。やはり件の場所へと通じるバイパスを、赤いスバル360が走っていた。今しがた通り過ぎたところにあった案内看板によれば、目的地まではあと数十キロ。マイルに換算したら、という計算も気が付けば最近はしなくなって久しい。この極東の国に良くも悪くも馴染んだ、ということか。

“……World News today. From Paris, …… insists the cause of the attack in Champs Élysée on July is……”

そしてそんな車内を満たすのは、カーラジオから流れる国際ニュースの音声、そして強い緊張感だった。

「勤め先は大変なことになったようだな」

ハンドルを握る沖矢は赤井秀一の声のまま、傍らのジョディに訊くともなく訊く。この暑いのに首元が隠れる服といういでたちは(そこに「隠された」とある事情から致し方ないとはいえ)なんともミスマッチだった。

「もう大混乱そのものよ……発生した日はたまたま学校で仕事をしてたの。でも帰ろうとしたらマスコミが通用口に張り付いてて、何がどうなってるのかとかマイク突き付けて訊いてくるんだから振り切るのに苦労したわ。まだパリでそんなことが起きたなんて知らなかったころだし、そもそも修学旅行に同行してないんだから知るわけないのに」

思い出すと同時に、辟易した気持ちまで一緒に振り返ることになってしまった。眉間に皺を寄せたジョディは父の遺品である眼鏡のブリッジを押し上げながら答える。すると、タブレットの画面に新着メールが入ったとの表示が。彼女はそれを数秒見るなり指先で素早くタップして開いた。普通のメールなら目を通すのは後回しにするだろう、今のようにミッションを目前に控えているとなればなおさら。だが、差出人はビュロウの国際捜査チーム。それもメールの重要度「高」の設定で送信されてきたとあっては、ざっとでも良いから目を通しておくべきだと考えたのだ。

果たしてそのメールは、たった今カーラジオ番組でも触れられていた、パリはシャンゼリゼ通りで7月に起きたテロ……聖マドレーヌ女学園の生徒らも巻き込まれたそれについての、現在までに判っている事項をまとめたので資料を送付する、というものだった。内容を要約するとこうなる。

“……日本の大物政治家Aが裏で繋がっている犯罪組織は、かの黒の組織だけではない。北米からヨーロッパにかけて暗躍し、某国政府高官らがバックにいるとみられる密輸組織(ただし黒の組織とは、十数年前に発生した取引においてのトラブルを発端として未だ敵対関係にあることが判っている)とも手を組み、国際的組織犯罪を何件も敢行してきた。

だが、Aが何かしらの約定を反故にしたことを契機に、密輸組織は報復に乗り出したと見られる。本人には時限爆弾入り小包を送付したが未遂で、この一件はマスコミには伏せられた。他の親族にも同様の手口で魔手を伸ばしたが、ターゲットが不在だったり、構成員が運搬中に誤爆して負傷したりと未遂に終わるばかりだった。……“

件の密輸組織というのは、今日これから展開する作戦のターゲットだ。そして、ジョディたち訪日中の人員が、黒の組織と並行して動向を探るようビュロウから命じられている対象でもあった。対向車線を黒い車が数台連なって過ぎ去っていく。米花港の埠頭が近づきつつある。ジョディは画面に目を落としつつ、ふと思った――アトラ・アイリは無事かしら。もしかしたらあの子もまた、組織に利用された挙句あの一件で命を落とした……? バーボン、ひいては組織に良いように使われているかもしれない件の教え子をマークするようになって早くも半年以上。そういえば彼女は、今年の冬ごろからジョディが探る視線を向けていることに感付いているかのような素振りを見せることがあるのだ。バーボンは私たちの正体も知っていることだし、狙いに気が付いていて私たちに警戒するように教えたとか。ジョディは考えながらリポートを読み進める。隣にいる元恋人がその独特の言語センスで表現するに、アトラ・アイリは “白猫”……つまり連中に染まってはいないらしいけれど。

一学期最後の英会話の授業以来、ジョディはアイリを見かけていない。指名したときにはちゃんと答えたが、あのとき彼女はあまり元気が無いようだった……それもそうか、彼女の母は4月に何やら事故に巻き込まれたというし。ただ、ジョディはそのことは噂話程度に聞いていたものの、この度学園を見舞った災禍の犠牲者の氏名はまだ把握していない。アイリが含まれているのかどうかも。ともあれ二学期を待たずとも、学校のPCをまたハッキングすれば安否は掴めるだろう。今度サイバーチームに再び依頼することにして、続きを読んだ。

“……そんな中狙われたのが、パリでの一件の犠牲者の一人で、Aに溺愛されていた孫娘だった。彼女のみを単独で狙わず、通う学校の無関係の生徒らも巻き込んだのは逆恨みの線が濃厚である。居場所を特定するに至った要因は、聖マドレーヌ女学園在校生と思しき少女のSNS投稿。同校においてはその利用が校則で禁じられているが、彼女は全世界に向けた公開アカウントで修学旅行の日程、今の居場所について制服を着て顔出しで発信していたのを悪用されたのだ。なお同人もテロに巻き込まれ全治3日の軽傷を負うも、来月には留学の名目で同校のカナダにある姉妹校へ転校することが判明しており、また、その後もSNSへの投稿は続けている模様。

実行犯については、フランス政府やパリ市警は国際的過激派組織の犯行と断定、後刻犯行声明も同組織から出された。なお、ロシアを拠点とする連続爆弾犯も容疑者候補に挙がったが、数年前に極東地域における目撃情報を最後に潜伏中と見られるため……“

そこにジョディの携帯が鳴った……この、バイブレーションは!タブレットを横に置いて素早く応じれば、その相手はもちろん誰あろう。

「Hi,クールキッド!」
“ジョディ先生!今話せる!?”
「どうしたボウヤ」

電話の向こうのコナンの声は、明らかに慌てていた。何かある。ジョディはすぐさまそう察した。傍らの秀一にも聞こえるよう、通話をスピーカーフォンにする。彼が運転にも通話にも同時に意識を向けているのが、雰囲気で判った。

“赤井さん、この間愛理さんに仕掛けた発信機が反応してる!米花港に猛スピードで向かってるんだ、今日そこで組織の取引現場を押さえて戦力を削るっていう作戦があるんでしょ!?”
「ム……!」
「ちょうど私たちも向かってるところよ、で、でもどうして作戦のこと知ってるの?」

アイリが生きていたことを思いがけないタイミングで知らされたこと、それから極秘だったはずのミッションについてコナンが口にしたことに驚いて、ジョディは思わずつっかえてしまった。

“作戦のことはこの間キャメル捜査官から聞いたんだ。それより愛理さんはやっぱり奴らと関わってたのかも!でも追いつけそうにない、スケートボードが修理中だから……クソっ”
「今米花五丁目にいるなら私たちは現地にもう近いからピックアップできないけど、ジェイムズたちがちょうど差し掛かるかもしれないわ。コンタクトしてみて」
“ありがとうそうしてみる!それじゃあ!”

通話が終わった。もう、目的地まで10キロを切っている。

「またうっかり話したのね、キャメル……相手がコナン君だったからまだいいものの。だけど掴んでた取引の始まる時間は深夜って話だったのに!もしもこんな昼日中に繰り上げられてたら他の予定してたメンバーだって半分来るかどうか」
「ならば俺たちだけでも先に向かうだけだ。“白猫”が紛れ込むべき場〈エリア〉ではない……急ぐぞ。舌を噛むなよジョディ」
「OK」

運転手がそう告げるや、アクセルが踏み込まれて赤い車体はいつもの速度の三倍くらい加速する。細い路地を抜け、倉庫の間に張り巡らされた道を縫って。そうして今日のミッションを遂行するため予め目星を付けておいたポイントへ急ぐにつれ、鮮やかな緑色の目は、狙撃手のそれへと変わりつつあった。



――夢で、あってくれ。米花港の、ひときわうらぶれて寂れた一角で、バーボンはある一点を目を見開きながら見つめてそう願っていた。

数秒前までは、こんな展開になると誰が予想できただろう。別件絡みで遅れに遅れて到着したベルモットの気配が背後からした。と思いきや、彼女は「お待たせ。あなたの“treasure”を連れて来てあげたわよ」などと告げて来たのだ。一体、何を言って……? バーボンは訝った。「あるもの」をベルモットから受け取るのも今日の目的の一つではある。とはいえ、モノを「連れて来た」と表現するのは妙だ。そういえば、同時にもう一人分の足音もしたことに思い当たり、誰か潜んでいたのかと拳銃を構えて振り向いたら。

(とおる、さん)
「っ……!?」

最愛のひとにして、このフェイスを最も知られたくなかった一人……愛理が、青ざめた顔をしてそこにいた。彼女は透と目が合うと、かろうじてだけれど口を動かして確かにその名前を「呼んだ」。でも、愛おしい相手には届かない――ハンズアップをさせられたばかりか、後頭部に拳銃を突き付けられているというこの状況。そんな恐怖のあまり声が出なかったせいだ。暑さゆえの汗ではない冷や汗が、愛理とバーボンから同時に滴り落ちる。

「そんな顔あなたもするのね、バーボン。珍しいものが見られたし、暑い中来たのも無駄足じゃなかったってことかしら」

千の顔を持つ魔女の声は、全く愉快でたまらないという気持ちを隠しきれない響きがした。

バーボンとして臨んだ組織の取引は、先方の都合で当初の予定から時間をずいぶん繰り上げさせられたものの首尾よくいった。相手も組織の下部構成員らも皆、既にこの場を後にしている(もちろん普通にお帰りいただく……もとい逃がすわけがない、策は打ってある。彼らを一網打尽にするため、この一帯を包囲するように秘密裏に公安と、それから組対から借り受けた捜査員らを展開させ、捕縛も追尾もできるようにしてある)。だがバーボンは一人残った。今後もこの場を利用することになったときに備えて、いざというときに身を潜められそうな地点や「ブツ」を隠しそうな場所、監視カメラの死角などについてひととおり記憶して回っていたのだ。それに、ベルモットを待ちがてらでもあった。少なくとも、愛理を思い浮かべはしても、ここに姿を見せてほしいと期待していたわけではなかったのに。やはり東都ホールでのあの一件で、思いがけず姿を見せた愛理の存在と顔をベルモットに知られてしまったのは痛手というほかない。

ロマンチックとはとても言えない見つめ合いは、まだ続く。米花港に着いた愛理は、タクシー代の決済システムの調子が悪く、追っていた車から先に降りた金髪の女性をその間に見失ってしまった。しかし、それでも諦めきれなくて、降りてしばらくあてどもなく埠頭を歩いていたら、背後から「アイリさん」と透の声がして。やっぱり透さんがいたんだ、と嬉しくなった愛理は咄嗟に振り向いた……のに、そこには何故かあの金髪の女性が(もちろん透の声は本人のそれではない、ベルモットお得意の声帯模写によるものだ)。

驚いた相手のスキを見逃すベルモットではない。愛理をコンテナに押し付け、銃口を口に突っ込みながら「今から私の指示に従いなさい、跡良愛理。妙な動きでも見せたら……解るわよねぇ?」と命じた――調査済みの名前を呼びながら。ついでに、愛理のリュックサックのサイドポケットにしまわれていたスマホを流れるような動きで取り上げ、地面に放るや撃ち抜いて使い物にならなくした。そして、発射したばかりでまだ熱が冷めていない銃口を愛理に向け、ここまで歩かせたのだ。

透さんにはやっぱり逢えた。この女の人に付いて行けばもしかしたらいるかもって思ったの、間違ってなかった。でもこんなことになるなんて。心臓はバクバク、頭のてっぺんからつま先まで震えが止まらない。この状況に加え、親友の命を奪ったものが火を噴くところを間近で見聞きしてしまったせいだ。愛理は救いを求める眼差しで透を見ながら、しかし知ってしまった最愛の相手の顔〈フェイス〉を信じられないまま「叫んで」いた。

――透さん、どうしてこんなところにいて、そんなもの〈拳銃〉を私に向けるての?「銃なんて物騒なものとは縁が無いに限る」って言ってたでしょ?キッドが出て来た夢を見たときの透さんは持ってたけど、でもあれはあくまで夢だったし……あと「バーボン」って呼ばれてたけどどういうこと?何よりママや友達が辛い目に遭ったのにそばにいてくれないし、梓さんとの浮気みたいなこと以外にももっと悪いこんな犯罪みたいなこと、してたなんて。私も文乃みたいになっちゃう?探偵の仕事っていうのはウソ?透さんのどこまでがホント?ねえ、教えて、助けて、お願い!

お互いの目が、心が、揺れ動く(ついでに、リュックサックに付けてあるトロッピーのマスコットも生ぬるい海風に吹かれて揺れた)。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもの。透は、愛理にいっそ声を限りに詰られた方がまだ救いがあるとさえ思った。おまけに愛おしい相手の目だというのに、充血して――つまりあの忌々しい色に浸食されているのが、こんなときであろうと、輪をかけて嫌だった。

「手荒な真似は控えてくださいよ。確かに彼女は僕の宝物なんですから……ところでそんな振る舞いをするからには、あの秘密のリークを早めてほしいと受け取っても?」

当然バーボン、もとい零とて人間だ。驚くだとか感情の揺れ動きはどうしたってある。しかし組織に潜入を果たしてからというもの、なるべくそれを見せないように振る舞いながら様々なことを探ってやってきた。今だってそうだ。愛理の恋人として、捕縛されてはいるものの彼女に目立った外傷が無いことに安堵する気持ち。バーボンとしての顔〈フェイス〉を思いがけず知られてしまった焦り。沸き上がる色々な感情に蓋をして……だが、この状況は本当に心臓が止まるかと思った。危うく得物を取り落としそうになりつつも、なんとか持ち続けようとしながら続ける。暗に「それ以上愛理に危害を加えるなら……」という意思表示はしたが、さて、次はどう出るべきだ?愛理をここから安全に、傷一つ加えずに逃がしてやるには……。

「まさか。ただあなたのsecretを暴いたのが楽しくて手が滑っちゃったの。でも安心して頂戴、危害は加えていないわ。今のところはだけど」

だがベルモットはというと、愉悦の表情をまだ崩さないまま応える。その言葉には謝る気など一切籠っていない。バーボンの洞察力と情報収集能力は重宝している。とはいえ「あの秘密」のことといい、探られてばかりいるのも癪だった。そこへきてとうとう、この目の前の秘密主義者の弱みを握ってやったことに加え、素晴らしいことをいよいよ実行に移すとなれば、興奮は沸き上がってやまないのだ。

さあ、お楽しみはこれから。愛理が抵抗の意志を完全に失くしたのを確信してはいるが、銃口は抜かりなく彼女に向けつつも懐からピルケースを取り出す。その手が摘まんでみせたのは果たして、赤と白――バーボンが大嫌いな色と好んでいる色の組み合わせの、小さなカプセルだった。彼は怪訝な顔で訊ねる。

「それは?」
「……“ヘル・エンジェル”の忌まわしい置き土産よ。今日受け渡すつもりなのはコレ。あなたは使ったこと無かったわよね」
「!」

宮野エレーナ。零の初恋の相手の、組織でのあだ名のようなもの。それを呼ばわったベルモットの声色は実に憎々しげで、彼は思わず「あの女性〈ひと〉の名前をそんな声で呼ぶな」と言いたくてたまらなくなった。同時に、確かにその効能を彼は知らないが、大事なひとが作ったものとはいえ、どう考えてもろくな結果をもたらさないものであることは間違いないはずだと直感が告げていた。「バイバイだね……」最後に会ったときの優しい顔、優しい声を思い出す。だからこそなおさら、そんなものの開発にエレーナが携わっていたということが、バーボンの中ではどうしても結び付きそうにない。それに、置き土産と言ったか?なら、あの女性〈ひと〉は……!?

「効果の“サンプル”をもっと多く集めるようにってお達しが、さっきラムからあったばかりだから……良いこと思いついたわ。あなたのtreasureなんでしょう、この仔猫ちゃん。せっかくだからキスして服〈の〉ませてあげたらロマンチックじゃない?」

イヤ、イヤ!愛理はそれを聞くや、無意識のうちに首をフルフルと振っていた。「妙な動きをしたら……」と脅されたのも忘れて。透さんとキスするのは嬉しいの、でもあれ絶対ヘンなものでしょ?そんなのロマンチックとかありえない、絶対、絶対、絶対、イヤ――!

そのときだ。「私もロンドンでそうやって葬ったターゲットがいるの。お望みなら実演指導でもしてあげる」とベルモットは続けるつもりだったが、そのセリフは結局紡がれないままになった。パシュッ、という微かな音と、彼女が指先に小さな火傷を負って「っ!」と思わず漏らした吐息に取って代わられたからだ。

「「!?」」

愛理はもちろんのこと、バーボンもベルモットも揃って目を見開いた。その手の中にあったカプセルが、突如一瞬のうちに砕け散ったからだ。ツートンカラーの赤い方の破片だけは、風向きの関係かバーボンのほうにばかり飛んできた。彼は考えるより先に手で払ったが、細かな一片だけが彼の左手に付着してしまい、苛立たしい気分にさせられた。

バーボンは即座に見抜いた……狙撃だ。それも高所から、かつ超長射程の!近くのコンテナにめり込んだ弾痕、加えてその入射角、間違いない。窓ガラスの割れる音がしなかったのは、もう割れている隙間を通したからだろう。とはいえそれは非常に狭いものだから、相当腕の立つスナイパーだろうということは疑いようがない。

「今のは一体」

今度はベルモットが疑念と驚愕混じりに呟く番だった。彼女に思い当たる節は無い……いや、かつてはあった。だがもうこの世の人物ではないのだ(実のところはコナンたちの策略に欺かれてそう思っているわけだが)。一方、バーボンには解っていた。射手には米粒以下に見えるだろうあのカプセルを、寸分たがわず、割れガラスのごく僅かな隙間を通して撃ち抜くという精密な超長距離射撃。それができるのは――まぎれもなく奴だ。近い。

「僕はこれで失礼しますよ、狙撃手の居所を探りますので!」
「ちょっとバーボン!?」

怒気を孕んだベルモットの声が投げかけられるが、もはやそんなものに構ってなどいられなかった。後で彼女には、件の秘密のことをちらつかせつつ「あの薬物を不測の事態で失ってラム直々のミッションに失敗したことは黙っておきますよ。服用させたら体が溶け去ったということで通しましょう」とでも持ち掛ければ良い。コードネーム持ちの中でも最上位のラムはジンさえ従える、もちろんベルモットも。彼女のことだ、内心はどうあれその発言の裏にある意図を読んで条件を呑むだろう……「愛理に近づくな、嗅ぎまわるな、彼女の存在を組織に明かすな」と。

仇敵の「臭い」を嗅ぎ取った透の意識は、にわかにそちらへ向きつつあった。愛理をどこか安全な場所へ退避させてやりたいと、思わなかったはずがない。だが、少し、ほんの少しだけ、赤井の尻尾を今度こそ掴めるかもしれないという思いが勝った……勝って、しまった。バーボンはそのまま狙撃手の死角になるだろう地点に身を隠しつつ、その場から猛然と走り去っていく。

それと同時に、しなくてはならないことができてしまったとも思う。愛理を愛するゆえの、しかしとても辛いとある決断を――ずっと愛理の横で、守りたい。その気持ちはこれからもきっと変わらない、だがしばらくは彼女から遠ざからなくてはならない。それがいつまでなのかは見当も付かない、少なくとも永遠にとはならないようにしてみせるけれど。この状況で愛理に背を向けるのは心が痛むが、今だけはそうしなくてはならないんだ、どうか許してほしい。そう心の中で語り掛けた……つまり、恋人には何も明かさないまま。そのときバーボンのスマホが無音のまま震えた。1秒が2回、3秒が1回。風見からの合図だ。展開していた作戦の結果と撤収を伝えるときの。

「どうして置いていくの、ひどい待って透さん!ずっと一緒にいたいと思ってるって言ったじゃない!」

だが、透の諸々の事情を知る由もない愛理は今度こそ叫んだ。拳銃を突き付けられているという恐怖のくびきさえ忘れて。本当は彼に走り寄ってその手を取りたい。緊張で思うように動かない体で追いかけるのは難しそうだったから、代わりにせめてカラカラになってひりつく喉を振り絞り引き留めようと。それでもやはり透に届きはしない。彼は愛理をチラとも見ないまま、どんどん遠ざかっていくのだから。もう、聞いてはくれないのだと全身で言っているのだから……。

自分を助けてくれないばかりか置いて行ったという透の行動は、愛理にすさまじい衝撃をもたらした。だから、ベルモットがチッと舌打ちをして、銃ではない何かを向けた様子もちっとも目に入らない。

「ベルモット!愛理さんから離れろっ」

するとそこへ、また別の聞き覚えのある声が。人の気配を察知して、透さんが戻って来てくれたのかも、淡い期待を抱いた愛理だったが、それは儚くもあっさりと散った。声の主は、せいぜい小学校低学年の少年だったから。もしかして助けに来てくれたの? でも、小さな子供をこんな危険に巻き込んでしまうなんて。あと、本音を言えば現れたのが透ではなかったことに、彼女は心のどこかで落胆していたのも事実だった。

しかし。そんなあれこれはきれいさっぱり吹き飛ばされた。次の瞬間には、ベルモットと愛理の間に割って入るように、今度はサッカーボール大の何かが掠めていったからだ。猛スピードで轟音を立てて通り過ぎて行ったそれは、後ろにあるコンテナに激突しこれまた大きな音が響き渡った。その衝撃で舞った埃が気管に絡みついて、むせる。もう、何がどうなってるの……!? 目まぐるしく変わる目の前の状況に、愛理は目を白黒させるのがやっとだ。

「あぁら?クールガイもお出ましなんて。解ったわよ、ここは退いてあげる」

シルバーブレット……もとい、江戸川コナン。とある経緯から彼と、そしてエンジェル〈蘭〉を傷付けることはできないベルモットはここから退避することにした(FBIのネズミならとっとと始末しているところだが)。彼女は濃い煙幕ガスを発生させるボールを胸元から素早い動きで取り出し、コナン目掛けて投擲した。あっという間に辺りは煙が充満する。「待て!」というコナンの声を聴きつつ、とはいえ警察までドライブする趣味など生憎無いので、予め近くの物陰に停めてあったハーレーダビッドソンに跨りエンジンを掛ける。大型とはいえ車よりは小回りの利くバイクである分、埠頭の入り組んだ小道を抜けるのにそう時間は要らなかった。

「クソ、取り逃がした」
「えっと、コナン君よね?蘭ちゃんのところの。どうしてここに」
「愛理おねーさんこんにちは!ボクここでかくれんぼするの好きなんだぁ……ジョディ先生こっちこっち!」

催涙ガスの類かもしれないと考えて咄嗟に身を低くしてやり過ごそうとしたが、ただ視界をしばらく奪うだけの無害な物質だったようだ。悔し気に呟くコナンに愛理は恐る恐る訊ねたが、彼は一転、無邪気に子供らしく答えた。かと思えば、また入り口の方を見て誰かの名前を呼ぶ。ジョディ、って。愛理は同じ名前のひとを知っているけれど、まさか。

「立てる?」
「さ、サンテミリオン先生ですよね?」
「話はあと!いいから乗って」

そのまさかだった。近寄ってきたジョディは、半ば引っ張り込むように愛理を車の方向へ引き立てていく。彼女の頭の中は?マークを詰めに詰めた状態だった。学校で週に一度会うだけの英会話の先生。だというのにここにいる理由も判らない(少なくともコナンのかくれんぼに付き合っているわけではないはずだ)が、学校では語尾に「〜でーす」と付けるなどいかにも外国人らしい喋り方をするのに、ほとんど日本人のように流暢に話すところなど見たことが無かったからだ。

混乱に次ぐ混乱のなか、それでも足をなんとか動かし、そのまま乗せられたのはメルセデスベンツ(車に詳しくはない愛理だが、さすがにあのエンブレムは知っている)。助手席に座っていた男性が愛理の方を見る。髭をたくわえた、英国紳士のお手本のような男性だ。そして更に愛理を驚かせたのは、運転席に座っていた人物だった。

「アイリさん、しっかりシートベルトを締めておいてください!飛ばしますよっ」
「キャメルさんまで!?どうしてサンテミリオン先生と一緒に」

夏休みの登校日が、悲しみと衝撃と驚きの連続だらけのとんでもない一日になってしまった……愛理の張り詰めた緊張の糸は今にも切れそうだった。が、それよりも先に彼女は「ふぁ」と小さな声を上げるや、そのまま力なく体が傾いで、後部座席で熟睡し始める――「キャメル捜査官、よろしく」。おとなしく工藤邸へおいでいたたくために、コナンが腕時計型麻酔銃を発射して眠らせたからだ。



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