蜜月に差す翳り〜悲嘆 5


お土産が待ち遠しくない、とは言わない。けれど愛理がそれ以上に待っていたのは、友人たちの無事の帰りだった。

――少なくとも、赤黒い血が染み付いて焼け焦げたスクールバッグやボロボロになった制服、トロピカルマリンランドに遊びに行ったときにお揃いで買ったイベント限定デザインのケースもろとも粉々になったスマホ……そして、お棺に納められ、お土産話をしてくれるどころか、無言の帰宅を果たした文乃と睦美をはじめ、同じように変わり果てた姿になってしまった同級生や教職員ではなかったのに。

8月半ば、高等部3年生だけの登校日が来た。愛理は自家用車の後部座席で何度となく目をこする。ショックでよく眠れない日が続いていたし、ふとしたときに涙が止まらなくなるせいだ。バックミラーに映った目は真っ赤で、透さんには見せられないなと思う。瞼の腫れぼったさもなかなか引かないまま。彼と7月に逢ったときに起きた初めての喧嘩のあと、友人たちの悲報がもたらされた日以来、ずっとこの有様なのだ。横の座席に置いた花束を見やる。文乃の好きだった鈴蘭、睦美の好きだったカーネーションの小さな花束も携えているのだ。

交通量の少ない道路を順調に走り、やがて聖マドレーヌ女学園の駐車場に通じる通用門がフロントガラス越しに見えてきた。だが、何やら黒山の人だかりができている。

「マスコミの連中……こんなときにまで押しかけるとは」

少し手前の横断歩道で停止した運転手は、ハンドルを強く握りしめて忌々し気に呟く(状況が許すなら、続けて罵詈雑言を吐いていただろう。女主人とその令嬢の前での言動には当然注意を払っているから、こうして抑えているのだ)。愛理もその言葉に目を凝らして顔を顰めた。彼の言うとおりマスコミのクルー、それから動画配信者と思しき人々が、カメラあるいはスマホを取り付けた自撮り棒を構えて張り付いているではないか。東都テレビのスタッフが一番乗りでフラッシュを焚いたとき、運転手が忠告してきた。

「お嬢様、カーテンは隙間なくお閉めになりましたね?それでは私がもう大丈夫ですと申し上げるまで、後部座席の隅でブランケットを顔を覆うようにして被っていらしてください。お嬢様にはご不便をおかけしてしまいますが、あのような連中にお顔が知られるなどあってはならないこと」
「は、はい。でも眩しくないですか?すごいフラッシュ焚かれそう」
「お心遣い痛み入ります。ですがあれしきサングラスで防げますとも」

果たして車が人だかりの間の道路へ進入し始めると、バシャバシャという音が耳をつんざいた。シャッターが連続して切られているのだろう。その激しさといったら、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り始めたのか、という錯覚に陥りそうだ(透さんは写真を撮られるのが嫌いだから今乗ってたら困りそう、と愛理はほんの少し考えた)。

跡良家の車の後部座席には、跡良日出子のとある事情からカーテンを巡らせてある。それを予め閉めておいたことや、先ほどの運転手の指示で取った行動のおかげで、側面からの写真は撮られなくて済んだ。それでも、警察OBである守衛たちのほとんど怒号めいた制止も聞かず「修学旅行で大事件が起きましたが今のお気持ちを一言!」と投げかけられた言葉は、さすがに遮ることができずに愛理をひどく苛んだ。

「止めてお願い、もう止めてっ」

ブランケットを被ったまま、思わず出たそんな小さなほとばしりは、誰の耳にも届きはしない。コメントをしつこく求め続ける声にかき消されてしまったし(愛理には見えなかったが)、運転手の方は、動画配信者がフロントガラスに今にも触れそうな近さにスマホを近づけて来たせいで、ジェスチャーで「退いてくれ」と示していたからだ。母が4月の終わりに見舞われた事態のようなことが、またも……おまけに、あのときは運よく出くわさずに済んだが、今度はとうとう愛理本人へも向けられている。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様。下校時間まで待機所におります」
「ありがとうございます……行ってきます」
「どうぞお気を付けて」

そしてどうにかこうにか人だかりを抜けて、駐車場で下ろしてもらった。運転手もさすがにくたびれているようだ。保護者の待機場所として開放されている会議室の方向を示す表示に従い、彼もその方向へと進んでいき姿を消した。

登校するだけでクタクタになるなんてこと、あの日まではありえないと思ってた。なのに……本当に、ありえない。友達や同級生がテロに巻き込まれて、しかも親友二人までパパみたいに、お星様になっちゃったなんて。携えた花束の持ち手を包むアルミホイルに、さらに皺が寄った。

いつもの日常。愛おしい大事な人。いつか来るはずだった明日……それをテロは、いきなり奪い去ったのだ。

聖マドレーヌ女学園高等部の修学旅行は、惨禍に見舞われた。予定通りパリに入った日、白昼のシャンゼリゼ通りで銃が乱射され、爆弾を満載した車数台が無差別に突っ込むというテロに巻き込まれ、現地住民や観光客に大勢の死傷者が出てしまったのだ。運悪くその場に居合わせた、というだけで。

そして、学園関係者の重軽傷者は150人以上……犠牲者は、愛理の親友である文乃と睦美も含む13人の生徒、それからあの口うるさくて嫌われていたシスターと、ベテラン教員が1人ずつだった。

愛理の仲間内では、カンナと卯芽華は一命を取り留めることができた。カンナは生徒全体の中でも、身体的な傷は軽傷で済んだという。発生から数日後に帰国を果たし、愛理に“ただいま!”のスタンプを送ってきて、そう教えてくれた……が、当分登校しないつもりだそうだ。治ったなら出て来てくれたら良いのにと思いながら、愛理は“OK”のスタンプを返す。グループトークの既読人数を表す数字は、これまでの「4」から「2」に減っていた……もう、欠けた二人が戻ることは永遠にないと突き付けられる。

一方。カンナとのやり取りは続いているものの、卯芽華はメッセージにずっと既読無視をし続けている。カンナに個別に「卯芽華のこと何か聞いてる?」と訊ねたがやはり同じ状況らしい。何もリアクションが無いので、帰国したのか、具合はどうなのかも把握できていないのだ。学校に確認しても個人情報を理由に教えてくれないので、その点でももどかしかった。だから、今日もしかしたら会えるかもしれない、と一縷の望みに賭けることにしたのだ。

今日の登校日の名目は、慰霊ミサと、今後のことについての学校からの説明ということになっている。オンラインで参加することもできるが、愛理はどうしても実際に登校したかった。ローファーで踏みしめるアスファルトはひどく熱い。でもきっと、パパやママや、睦美たちのほうがこの何倍も辛かったはず。ニュースで見た映像では、赤紫色をした火の手がシャンゼリゼ通りのそこら中で上がって、人も散乱した遺留品も焼き尽くさんばかりだった。

逃げ惑う人々の怒号、悲鳴、緊急車両のサイレンの音。静けさを塗りつぶすみたいに、不意にフラッシュバックする。大事な人たちを襲ったものや、それにまつわる光景を思い浮かべて苦しくなる。同時に、そんなことをしでかした犯人がとても憎い。父親(と、あのとき母のお腹にいた命まで)を奪った一件の犯人にも、今回の件の犯人にも、もしも会ったなら詰め寄って「家族と友達を返して!」と声の限りに言っただろう。

だがそういえば、東都ホールで佐藤という刑事と話した際、彼女は服務の宣誓の内容を踏まえて「何者をも憎まずっていうのは難しいけどね」と打ち明けてくれたっけ。愛理は自問自答した。警察官になったら、そう思うのを止められる? ううん、とても無理そう……。

思い出しつつマリア像の横を通り過ぎたとき。愛理の顔のあたりから、鈴蘭を包んだ透明なセロファンの表面を、同じ色をした雫が一滴ツーと伝い落ち、やがて地面を濡らした。汗なのか涙なのかは判らない。そのどちらもが混ざり合ったものなのかもしれなかったから。



今や学園は、深い悲しみと沈黙の底にあった。その理由は、今日ここにいるのが高等部3年生の一部だけだからというだけでは決してない。生徒たちは皆「ごきげんよう」を力なく口にするのがやっと。それを合図に始まるのが恒例だったお喋りを忘れたばかりか、そうする気力も失くしてしまったかのようだ。

その分、お御堂の鐘の音とセミの合唱だけが耳障りなほど響く。特に後者は、静けさの埋め合わせにならない埋め合わせをしようとして空回っているばかり。教員らも私語に辟易している様子を見せることはあったのに、教え子たちのかしましくも愛おしいざわめきに満ちた日常が戻ってきてほしいと、どこかで期待しているふうでもあった。

いつもなら、隙あらば他愛ないあれこれの話に興じ始める少女たちの声、それを「ご静粛に、みなさま」と窘める先生やシスターたちの声がしたはずだ。この日の目的だってそう。例年なら修学旅行の研究発表を文化祭で展示することになっているので、その打ち合わせも兼ねて設けられているものなのだ。

しかし、既にいつもとは違うことだらけになってしまった。例えば自家用車での登校も特別な事情が無い限りは許されないが、これが許されるようになったのは公共交通機関で好奇の目に晒されることを防ぐためだろう。身に着けている服や靴だってそうだ。今日の愛理のいでたちは、定められた盛夏服である水色のワンピースに、白い三つ折りソックスとストラップシューズに校章入りのスクールバッグ……ではない。白いポロシャツに紺で揃えたカーディガンにスカートとソックス、黒いローファーと同じ色のリュックサックというものだった。ただ一つあの日までと同じなのは、最後に五人でトロピカルランドへ行ったときに買った、トロッピーのマスコット――そして愛理は気が付いていないが、コナンがその中に盗聴器を仕込んだものでもある――を付けていることぐらいだった。周りの皆も制服を纏ってはいない(ついでに言えば、一様に制服らしく見えるコーディネートをして、そして沈んだ顔でいた)し、思い思いのカバンを持っていた。いつもなら許されないことだし、口うるさいシスターに目ざとく見とがめられ、即刻お御堂の反省室行きを言い渡されただろう。しかし、そんなことはもう起こらないのだ。件のシスターも犠牲になったし、マスコミや野次馬避けのために学校が「制服以外の、かつ、本学の生徒としての品位を損なわない私服を着用して登校すること」と指示したから。特徴的な制服のデザインから、あの惨事に見舞われた聖マドレーヌ女学園の生徒だと露見しないように、という目的なのだ。

自分のクラスである3年リグリア組の教室に、人影はまばらだ。カンナの姿はやはり無い。卯芽華のいるティレニア組も似たような様子だった。カバンを下ろさないまま廊下へ出た愛理は、窓越しにあの二人がいた他のクラスを覗いてみることにした。アドリア組は睦美、イオニア組は文乃……。

「ごきげんよう、文乃、睦美。最近……暑い、ね」

軽いリュックサックを体の手前に引き寄せ、プラ製の花瓶を取り出す。そうしながら無意識のうちにそんな言葉が口をついて出ていた。返事が来ないのは解っているのに……そういえば文乃の誕生日は明後日。用意しておいたプレゼントは、お棺に納めさせてもらうという形で渡した。「おめでとう」とはとても言えなかったけど、喜んでくれてるかな。睦美が提案してくれたルームシェア、もうできないな――そんな様々な思いが去来する。机を軽く拭き、持って来た花を生けたあとのゴミを片付けながら、涙がまたじわじわとせりあがってやまなかった。

数時間後、説明会が終わった。月命日には「平和を祈るミサ」が執り行われること。さらに学園の隅に「友の碑」が建立され、犠牲になった生徒や教職員の御霊が祀られ当番制で整備すること。加えて、今年の文化祭をはじめ、向こう一年の学校行事も喪に服すために全て中止が決まった。在校生はもとより、父母もOGも、内心はどうあれ、表立って異議を唱える者などいようはずもないだろう。

終礼のお祈りも、挨拶の「ごきげんよう」も、消え入りそうな声で済ませた後。愛理は一学期までの放課後や休み時間のように、親友たちのもとへ行こうとしてしまっていることに気が付いた。そういった時間が訪れるが早いか、お互いの視線を受け止めたら競争みたいに席に近づいて。フランス語の教師を指して「ピエールってばまたハゲたんじゃない?」とか。独特のファッションセンスを持つ国語教師を話題に出して「数田先生の今日のネクタイってナマコ男柄だったよね!」だとか。あと、お手洗いに行ったり、こっそり持ち込んだお菓子を交換したり。休み時間がたったの10分しか無いことについて、何度文句を言い合っただろう。

でも。ああして過ごした時間はもう、永遠に秒針を進めはしない。視線を受け止めてくれるのは文乃と睦美ではなくて、空っぽになった机と、その上にある花瓶だけ。学園の方針で、犠牲になった生徒たちの机も卒業までそのままにしておくことになったから、机は持ち主を喪っても片付けられることなくまだクラスにあるのだ。

お喋りの相手がいないだけで、こんなに時間を持て余してしまうなんて。睦美の席の花瓶に生けたカーネーションの花びらが、早くもはらりと舞い落ちる。これから花盛りを迎えるはずだったのに、という無念の涙のようにも見えた。



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