蜜月に差す翳り〜悲嘆 4


ギラギラと照りつける夏の日差しを凌いで寛げるスポットとして、米花町広しといえどもポアロほど適した場は無いだろう。今日も客入りの良い店内は、コーヒーやスイーツはもちろん、もはやすっかり名物になったハムサンドの隠し味である少しばかりの味噌の香り。それにサイフォンから立つコポコポという音、人々のお喋り声で満ちている。WSG−ワールド・スポーツ・ゲームス−のあの種目の選手がああだったこうだった、とか。過去のことになった開会式当日のあの大事件よりも、やはり今日の結果のほうが人々の耳目を集めるのは当たり前だろう。

だがそんなところへ、パリンという音は突然文字通り割って入った。客は一斉にその出所であるカウンターの向こうを振り向く。

やってしまった……しかもまた。透は店内中に聞こえるボリュームの声で「大変失礼しました」と謝ったあと、足元を見下ろした。よくある柳模様のティーカップとソーサーがキッチンの床で真っ二つになっている――こんなことをしでかすのは、今週で3度目だ。

風邪ということでしばらく休んでいたが、〈本業〉でのあれこれがようやくひと段落付いたので、先週からポアロにまた出勤するようになっていた。だが、このハプニングはブランクがあるからという理由だけでは片づけられるものではない。原因は、一昨日、愛理からのいわゆる「誤爆」のRine(探偵の仕事中には、彼女の方から連絡しないように言ってあるというのに、こんなことは初めてだった)。しかもよりによって相手は、あの……それを目にしてしまったときの嫉妬は、まだ透の記憶の奥にしつこくこびりついたまま、消し去ろうとしてもかなわずにいる。

ここぞとばかりにアピールしようとしているのだろう、客の女子高生がすかさず「あむぴ大丈夫?バンドエイドあるよぉ」と声をかけてくる。そんな彼女をあしらいつつ、透はバックヤードの新聞紙置き場に行き、一番上に乗っていた一紙を掴んできて破片を包む。それはモノクロの一般紙とは違う、多色刷りのセンセーショナルな見出しが躍るタブロイド紙だった。いっとう過激な論調や鮮明な反権力ぶりで知られているが、見出しには「国際会議場爆破事件は公安警察の怠慢が招いた!」とかなんとか、書いてあったような。

無意識のうちに、包みを強く握りしめてしまう透。十数秒後、いとも簡単に破れた紙の中から飛び出した中身のせいで手のひらにツキンとした痛みを感じた(ついでに、忌まわしい色が掌に滲む様子まで目にしてしまう羽目になった)。

「安室君、破片の片づけさえ済んだら今日はもう上がって構わないよ。あとはこちらで引き受けるから」

バックヤードで材料の発注をかけていたマスターが、様子を察してそう声をかけて来た。この大らかさには、梓とはまた違う意味で助けられてきたものだ。

「……すみません、マスター。バイト料は結構ですので。食器も割ってしまいましたし」
「もうそろそろ1時間経つから今回はおまけするよ。食器だってまた買えば良い」

怒気を孕んでもいない穏やかな声で言われると、却って恐縮するものだ。マスターは、そこで声のボリュームを落として心配そうに続けた。

「理由は訊かないでおくけど……最近ずいぶん疲れているようじゃないか。せっかく復帰してくれたんだから無理をしないようにね」
「ありがとうございます。失礼します」
「気を付けて」

礼を述べたあと、透は後始末を終え帰り支度を始める。ロッカーの扉を乱暴に閉めないようにするのに、ひどく神経を使った。

店の裏口を一歩出れば、道中の照り返しは容赦ない。それは天気だけでなく、現在透、もとい零を取り巻いている状況にも言えたことだ。ここのところ彼は、〈上〉からの無茶振りに応えつつ、国際会議場そしてIoTテロのあの一件について検察との連携を図り(しかし実態は圧力をかけたのだが)、新たな協力者候補と接触し、〈安室透〉を保つための申し訳程度の探偵業とポアロの仕事、バーボンとしての工藤邸の監視、WSGにあたっての色々な工作……そんなあれやこれやを、疲労を押し隠し、愛理とハロに逢いたい気持ちを抑えつつこなしてきたのだ。

“愛理さん、今ポアロを上がったよ。予定より早いけどこれから向かうね”

駐車場へ向かう途中、路地裏の日陰で、そんなメッセージを恋人に送信する。瞬く間に既読と表示されたことさえ、待ち遠しく思ってくれているのだと感じられて嬉しい。そこでふと画面から顔を上げた透の目は、反対側の道路に吸い寄せられかけた。恋人を思わせる長い黒髪の女性が、これまた愛犬に似た白い仔犬を連れて、反対側の道路を歩いていくのが見えたのだ。

透はふうっと息を吐く。歩容からして別人だって解っているだろ。僕は相当、愛理とハロに飢えているな……苦笑いしつつ、愛車のキーを取り出した(【はくちょう】のカプセルを止めるための極秘任務から生還し、廃車寸前から蘇ったばかりだった)。

今日は怒涛の日々からようやくひと段落着いた。しかも嬉しいことに、これからようやく数か月ぶりに愛犬そして恋人に逢える。先日彼女に東都ホールで思いがけず行き会ったけれど、諸々の事情のせいで話しかけずにいたから寂しがらせてしまっただろう。それに、ハロのことだって本当に助かった。あの日ペットホテル側の落ち度で予約を取り消されたときはとても困ったが、ああして愛理に預かってもらっていなかったら……満足な世話をしてやれずに、最悪の事態になっていたはずだ。何せあれから1か月以上、多忙とマスコミ避けのためにメゾンモクバには近寄ることさえかなわず、庁舎の仮眠室か、不測の事態に備えて密かに用意してある部屋で生活を送っていたのだ。この先愛理と結婚してからも、そういった事態は十分起きうるだろう。寂しがらせてしまうだろう。それが使命とはいえ、守りたいものの隣にいられない、遠ざからなくてはいけない。皮肉なものだな、と唇を噛んだ。

ともかく、しばらく逢えなかった分、たっぷり愛理に向き合うんだ……ラムやベルモットから何か連絡があったり、〈本業〉のほうから招集がかかったりさえしない限りは。そんな気持ちでハンドルを握って、法定速度を守りつつも気持ちは飛ばし気味に走れば、メゾンモクバ最寄りの駐車場はすぐそば。

“透さん、着きました!お部屋にいます”

契約しているスペースに車体を収め、完全に停止してエンジンも切った。これで「ながら運転」にはならない。運転中に受信した愛理からのメッセージに目を細めたあと、透は車から降りるや否や、長い脚を目いっぱい活かして家まで走った。

メゾンモクバにたどり着いたら、階段を二段飛ばし。汗を拭い、いざ指をインターホンのボタンへ伸ばす。「は、い」と掠れたような声に「愛理さん、僕です」と応じれば、少しの間のあとに、少しずつドアが開き始める。かつて透は愛理に防犯のアドバイスとして「呼び鈴が鳴ったら、まずはドアスコープを覗いて怪しい相手じゃないか確認して、ロックも掛けたままゆっくり開けること」と言い聞かせたことがあった。それをちゃんと守っているみたいだな、と安心する。それでも一方で、息遣いが聞こえるほど近くにいながら、恋人の顔が早く見られないことにもどかしさも覚えてしまうのだった。

「クアンッ!」

開きかけた隙間から白いフワフワしたものが、ほとんど突進と言って良い勢いで透の足元に飛びついてきた。暑さではなく小さな温もりが、彼の右裾をほんのりと温めていく。ドアが完全に開ききるのを待ちきれないと、全身でそう言っているのだろう。

そして次に顔を覗かせたのは、もう一人の待望の相手。

「透さん、っ……」
「やあ……愛理さんもハロも、久しぶり」
「さびしかったんですよ、すっごく!わあああん!!!!」
「アゥーン」

夢じゃない。透さんが、いる。声が、聞こえる。チェーンロックを手早く解除して彼を招き入れ、ドアも閉まらないうちに抱き着いたまま、玄関先で声を上げて泣き出した(ご主人にくっついて入ってきたハロも、同調するような鳴き声を上げた)。あの日からこれまでに流してきた涙とは違う、透に逢えずにいた寂しさと心細さから解放された嬉しさとがない交ぜになった涙だった。

「ずいぶん心細い思いをさせてしまったね」

そう言われた愛理は、しゃくりあげながらコクッと頷く。少しやせた肩、こけた頬が痛々しい。去年、彼女の父の死の真相を知った夜は、その涙に寄り添いたくても、ベランダの仕切り板越しにそうするしかなかった。だが今は、あの夜とは違う。透はしばらくの時間を、透明な雫が零れ落ちる度にそれをキスで拭ってやりながら過ごした。沖矢があの日彼女に触れた分を、上書きというか「消毒」してやるつもりもあって。

今日愛理がここへ戻ってきた目的は2つ。ひとつは言うまでもなく透に逢い、彼のもとへハロを返すこと。そして、クリスマスプレゼントにもらったあのブックカバーの回収だ。マスコミももう張り付かなくなってだいぶ経っていたし、「メゾンモクバに当分近寄らないように」と言われていたのもあって、ずっともどかしく思いながらこの日を待っていたのだった。

本当なら、ハロを預かってもらっていた分、跡良邸へ透が引き取りに出向くのが筋だから彼も当然そう申し出た。だが、愛理が「透さんからのブックカバー、あの日メゾンモクバに忘れたまま本宅に来ちゃったからどうしても取りに行きたいの」と言って譲らなかったのだ。透はその意思を尊重したかったし、自分からの贈り物をそんなに大事にしてくれているのかと判って嬉しかった。そんなわけで今日、修学旅行に出発した同級生たちを見送ってから母の見舞いに行った後の愛理と、メゾンモクバの彼女の部屋で逢おうということになったのだ。交際にあたっては、愛理の母が部屋にいるときだけなら、お互いの部屋を行き来して良いという条件だが、今は目を瞑ってもらうほかはない。何せ、彼女はまだ意識が戻らないというのだから……。



十数分後、泣き止んだ愛理は透を部屋に上げて冷たいほうじ茶を振舞った。ハロは既にキャリーに収まり、お腹を見せて寝ているので、透は飲み物を準備している間に自分の部屋へハロと、それから彼女の部屋に持ち込まれたままだったペット用品(見守りカメラはとうにバッテリーが切れていた)を移したが、やはり無人だった期間の長い部屋はどうしても埃っぽい。壁に掛けてある、跡良日出子の絵にもうっすらと積もっている。あとで掃除だな、僕にもハロにも悪影響だ、とくしゃみをしながら思う。愛理もしばらくメゾンモクバを離れていたはずだというのに、彼女の室内は埃っぽさもなくちゃんと掃除が行き届いていたのは、あの通いの家政婦さんに予め頼んでおいたからだろうな、と推理して恋人の部屋へ戻った。

「跡良先生のお加減は、その後どうかな。一日でも早いご回復を祈っているよ」「ありがとうございます。近いうちに大きな手術するんですけど、成功すると良いな。そうだ、今日学校の修学旅行の出発日なんですけど、見送りに行ったときに……」――とりとめのない、着地しない話が弾む。ほうじ茶の冷たい香ばしさで喉を潤して。東都ホールでの出来事を声に出しそうになるのを、飲み物で押しやって。あの日の顛末について、愛理は思い出したくなかったし、透は思い出させたくなかった。思惑は、図らずも一致していたわけだ……途中までは。透は微笑みながら愛理の話を聞こうとするのに、気が付けば段々と、眉間に皺を寄せてしまうのを止められないでいた。

“この間勧めてもらった作品面白かったです!”

久々に直に感じられる、愛理の声、香り、仕草。それを堪能すべきこのひとときに、頭に「誤爆」の内容が浮かんできてしまうのは何故だろう。

おまけに実に間の悪いことに、目の前のテーブルの上に置かれた愛理のスマホには、たった今沖矢昴からのメッセージが入ったことを告げる通知が入ったのだから。眉間の皺が1本増えたことが、鏡を見なくても解る。奴からの連絡を心待ちにしているから?愛理に限ってそんなはずがないだろう。例えば母親の容体が急変しないとも限らない、そうした連絡をすぐに受けられるように手近に置いているはずだ。蒸し返さないつもりでいた東都ホールでの顛末を思い出し、透は険しい顔になった。しまった、と思ったときには遅かった。

「愛理さん。ひとつ訊いて良いかな」
「な、なあに、透さん」

先ほどまで浮かべていた微笑みをきれいさっぱり消し去って、透は訊いてしまった。

「なぜあのリハーサルの場にいたのかな」
「園子ちゃんに声かけてもらったから。それに透さん、前に波土禄道っていうロック歌手のファンだって言ってたでしょ。どういう感じのひとなのかって気になって」

せっかく逢えたのに。透さんがなんだか怖い。気圧されながら答えた愛理だが、内心で「それ、おんなじこと私も言いたい」と少しずつ不満が燻り始めてもいた。

「梓さんと、どうしてあんなに仲良く腕まで組んでたの?」

結婚したいって言ってくれたの、ウソじゃないなら。私以外の女の人に、私の知らない透さんを見せないで。お願い……そう続けたい。でも、勇気が出ない。口に出したら、全身嫉妬にまみれて飲み込まれて見苦しくなってしまうはずだ。透さんにそんな顔、向けられるわけない。

そんな気持ちで、愛理は話題を変えてしまおうと思い立つ。そうだ、うってつけのものがある。透には逢えたときに直接、友人たちには修学旅行から帰って来たら明かすつもりだった、将来の新たな目標のことだ。

「透さん、私、なりたいものができたんですっ」
「司書から進路変更かな?」
「公安警察を目指すの」

ガチャン。耳障りな音が部屋中に響いた。透が先ほどポアロでしたように、食器を取り落としたせいだ。グラスはプラスチック製だったし、店の陶器製のもののように破片が飛び散ってはおらず、倒した場所もトレーの上だったのがせめてもの幸いだった。

――今、愛理は何て言った?
透さん、どうしちゃったの……?

部屋が途端に静まり返る。セミの鳴き声だけがいやに響き渡る室内。心の中でそんな疑問を口にしたあとは、透と愛理は呆然としてお互いを見つめた。だがそうはいっても、そこにロマンチックな雰囲気など欠片も見当たらない。相手の言ったことが、したことが、にわかには信じられなかったのだ。こぼしたお茶の波が、トレーの淵でせき止められきれずに少し溢れてしまったところだった。

「愛理さん。今、何て言ったんだい」
「こ、公安警察になるって」
「小説の影響かな。でも辛いことを思い出させてしまうけど、この間、波土禄道の遺体を見て気絶しちゃってたでしょ」
「……そうです、けど」

透と梓(もっとも、愛理はベルモットの変装だったことなど知る由もないが)の様子、人間の変死体……何より、助けてくれなかったし、あのあとも心配するRineを数日後になってようやく寄越した透。嫌なものばかり目にする羽目になった日の出来事を蒸し返され、愛理は眉根を寄せた。

それに、とても不可解でもある。これまで透は、愛理が少し嫌がったり、むくれたりするようなことをわざと言ってからかうこともあったが、それとはどうもベクトルが違うとでもいえばいいだろうか。

「警察官になったらきっとそういうことが嫌でも多くなるよ。だけど僕は愛理さんにそんな辛い目に遭ってほしくないんだ」
「……」
「お願いだよ、考え直してくれない?危険な仕事だし。司書になりたいんじゃなかった?僕は愛理さんにはその方が似合うなって」

畳みかけようとした透だが、愛理はキッと彼を見て。

「似合うとか似合わないとかじゃないの、パパみたいな目に遭うひとを、ゼロは難しいかもしれないけど減らしたいの!」
しかし。

「俺は愛理まで喪いたくない!ダメはダメだって言っているだろ!」
「!」

「俺」。透もとい零の、素が出たときの一人称。彼が初めてそう言ったことに、愛理は驚いて目を見開く。透、もとい零も、思わず素が出てしまったことにほんの一瞬だけ動揺してしまった。

安室透やバーボンだったら、今口をついて出たような物言いなど絶対にしない。終始柔和な口調と態度を崩さず、笑みも浮かべつつ、相手の身を案じているかのように見せかけて、だが思い描いた通りの自身に有利な状況に持っていくよう言いくるめ、誘導し、ついでに探ってやっているところなのに。愛理の前では「らしくなくなる」自覚はあったけれど、それをこんなときに出してしまうなんて。

頼む、解ってくれ、嫌なんだ、俺に守られていてくれ。警察官、しかも公安になりたいだって? 危険に晒されるんだぞ、それにあいつらだけでなくて、もしも愛理まで僕の目の前からいなくなったら。正体が露見することに負けないくらい、怖い。そんな気持ちのまま、仮面を焦って被るべきではなかった。こんなにいともあっけなくヒビが入り、粉々になって、うまく繕えないままじゃないか。明かしたいに決まっているだろ、できることなら。透は唇を噛んだ。この真意だって、正体だって、過去だって。愛する君になら全部。でも、できないんだよ。

「どうしてそんなに反対するの?」
「……どうしてもだよ。とにかく」

「君まで喪いたくない」って、どういうこと。それじゃあまるで透さんが私と知り合う前、そういう目に遭ったみたいじゃない。愛理がそう思っているところへ、透のスマホが鳴り始めた。思わずその方向を見ようとする彼女だが、視界に入る前に透がサッと手にして「僕です」と応えながら流れるような動作で靴を履き、廊下へ出て行ってしまった。ということは、きっと仕事の電話なのだろう。

閉じてゆくドア一枚を隔てた彼が、遠い。気まずい。愛理はまた泣きそうになった。今までのように、通話が終わるのを今かまだかと待ち遠しく待つ気にはもうなれない。むしろこの場を離れる良いチャンスにさえ、今は感じられてしまう。

愛理は素早く動き出した。まずはこぼれたお茶やコップをサッと片付け、洗ってからカバンを手に取り――ちなみに中には、もちろんあのブックカバーも入っている――スマホを入れるや、自分も部屋を出て鍵をかけた。ハロやペットグッズは透の部屋に移されたし、彼の荷物も今手にしているスマホ1つだけだった。締め出されて困るようなことはないはずだ。

「! え?ああ、……その件は……当然探っていますよ……米花港の埠頭で……」

慇懃無礼な、敬っているようで全然そんな響きの無い口調。透さん、また私に見せてくれない、知らせてくれない顔、してる……愛理は一滴涙を零して、階段を駆け下りて行く。仕事の電話を受けたり発信したりするとき、透はいつも愛理から距離を取るのが常なので、彼女が接近してきた気配に振り向いた。そのまま「離れていて」というジェスチャーを示そうとした彼だったが、その横を、愛理は駆け抜けたのだ。透の顔も見ずに。

“バーボン?その耳はやっぱり飾りだったのねえ?”

通話中ということもあり、愛理を引き留めることもかなわない。どうせ聞くなら、遠ざかってゆく愛理の足音の方が断然良いのに、電話越しのベルモットの声はそれを許さない。聞くからにいら立っている声に、透の神経は削られてゆくばかりだった。

そして、遠くないうちに計画している一件についての通話がようやく終わった。透は力なく自室のドアを開ける。懐かしの我が家の郵便受けには、かなりの数のDMやチラシがひしめき合っていた。

少しでも目立って顧客の目に留まろうとする、けばけばしいほどの鮮やかさ。先ほどのタブロイド紙を思い出して目を逸らしそうになったが、対照的に控えめな桜色をした封筒が、他の郵便物の山に押しつぶされかけながらもかろうじてその下から見える。無意識のうちに引っ張り出せば、愛理からの手紙だった。かすれかけた消印と、封筒の四隅のくすみ加減が、読まれないまま日々を重ねてきたのだと静かに抗議している。彼はたまらず手紙を開封した。そこにはたった一文、こうあった――。

「透さんへ お元気ですか。逢いたいです 愛理」



数日後の夕方。今日は、母の数回目の手術の日……もとい、修学旅行の参加を見送ることにした要因でもあった。幸い手術は無事成功。その付き添いと見舞い、それから父の月命日参りを終えて帰宅した愛理は、スマホのアップデート完了を待っていた。ピロン、という音に反応したが、WSGの結果速報が表示されるだけ……透からのRineは、数日前に来たこの1つだけだ。

“ごめんね愛理さん、またしばらく連絡はつかない。あと、その期間が空けたら話したいことがあるからそれまでどうか待ってほしい”

ブックカバー、取りに行くんじゃなかった。公安警察になりたいってこと、言うんじゃなかった。愛理は帰り着いた本宅で、沖矢から勧められた小説を読んだ後そう思った。それでも、今読んでいる本に件のブックカバーを掛けているのは、つまりそういうことだ。

追いかけてきて、「ごめんね」って、抱きしめてくれたら。なんなら、Rineや電話でそう伝えてくれたって。震える気配の無いスマホさえ、恨めしかった。

「だけど……そうしてくれないっていうことは、そういうことなんでしょ?」

愛理は呟いたあと、小さく洟をすすった。透さんへの想いがしぼんでいくばっかり。私、透さんのこと嫌いになんてなりたくない。それなのに、透さんはどうして嫌いになっちゃいそうなことするの?

「私、待ちくたびれちゃいそうなの。透さん」

ポツリと零した呟きを、夏の風は受け止めてくれない。この間までのようにハロがいたら「クァン!」とか鳴いて反応してくれただろうか。池にいる鯉に吐き出したところで、応えてくれるわけがない。使用人はそういうことを打ち明ける相手ではない。友人たちは……修学旅行を楽しんでいるところへ、そんな相談をしても困るだろう。

“パリでテロ発生 邦人ら多数巻き込まれたか”

通知に愛理はハッとした。また、テロ。嫌いな二文字だ。それに次の瞬間、サーッと血の気が引いていく……邦人ら多数?修学旅行は、そういえば今日、パリに入る予定だったはず……!!

「ウソだよね?」

アップデートでオートインストールされた、ニュースアプリ。そのプッシュ通知を震える指先でタップすると、リンク先には信じたくない現実をこれでもかと愛理に突き付けてくる。動画のサムネイルに表示された画像に愛理は見覚えがある、ありすぎる――聖マドレーヌ女学園のスクールバッグ。それも、友人の一人である卯芽華のものに違いない。春先に買ったうさぎトロッピーのぬいぐるみチャームを付けたままなのは、同級生全員を見回しても彼女だけだから。だが、同時に理解が及ばなかった。

――一体、何がどうなったら焼け焦げ、ボロボロになって、おまけに正面にあしらわれた校章に点々と血が付くというのだろう?



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