蜜月に差す翳り〜悲嘆 3


生まれて初めて思いがけず目にしてしまった、人間の変死体。先ほどの透と梓の様子から受けたものとはまた別の大きすぎるショックは、愛理を容赦なく苛む。

「愛理ちゃん大丈夫?!」

体の力が抜けて、立つのも難しい。なんとか支えようとしてくれたのは、そうしてほしかった恋人ではなく、すぐ近くにいた蘭と園子だった。透は……きっとまだステージの辺りにいるのだろう。

呼び掛けられても愛理は返事をするのもままならない。そばにいるあともう1人である梓はというと、どうしたことか蘭のことを「エンジェル」などと言い、ステージに入らないようにと制止しているのが愛理の耳にぼんやりと聞こえる。当然というか、彼女の今の状態を梓は気に留めてさえもいないようだった。しかも、蘭をさきほどのように呼んだ理由を「天真爛漫だから」と釈明している。

……やっぱり、このひと梓さんじゃない。こんなときにダジャレを言うようなひとじゃないはず……愛理はよく回らない頭で、それだけは確信できた。

「どうしよう、お水持って来たほうが」
「私買ってくるっ」

そんなやり取りが愛理の頭の上を掠めては消えて行く。息が苦しい。頭がクラクラするし、意識は薄れゆくばかりだ。蘭と園子の心配はもちろんありがたい。けれど、恋人のものではない声が、すぐそばにいてほしい透が寄り添ってはくれていないことを突き付けて来くる。

そこへ沖矢が近づいてきた。一通り現場を見て透やコナンと意見を交わし合ったあと、蘭たちのもとへ取って返したのだ。そして、目を瞑って脱力状態の愛理を、いわゆる「お姫様抱っこ」で軽々と抱き上げたのだ――彼の行動を不審に思い目で追っていた透の、目の前で。愛理は、その直前とうとう意識を手放していたからされるがままだった。

「沖矢さん!?」
「マジ?」

こういったシーンに興味津津の年頃ゆえ、蘭と園子は(こんな時なのに、とは内心で思っていたけれど)赤らめた顔を見合わせて小声で言い合った。沖矢は、同じく驚いているコナンの姿を視界の隅に捉え、思惑を乗せた目配せで種明かしをする。

「これは義侠心で覆ったフェイクに過ぎんよ」

沖矢が取った行動は、横恋慕ゆえのそれではない。バーボンがここに姿を現して以来、恋人と思しき少女を不自然に避けていることは見て取れた。もしも初対面を装いたいなら、彼から「そちらの方は?」などと蘭たちに訊ねるはず。だが、そうしなかった。他人のフリをしたい何らかの意図があるのだろう。彼にとって一体、跡良愛理とはどういった存在なのか。彼女が“白猫”だということは掴んだが、しかしバーボンにとってはどれほどの存在なのか?「探り屋」の腹の内を逆に探ってやるべく、この状況と彼女を利用させてもらおうとした次第だった。

すると。ホォー、これは……その瞬間から沖矢に注がれ始めた視線が、その何よりの答えだろう。利害抜きに愛さずにはおれない相手、ということか。バーボンから熱く、そして痛いほど沖矢の背に突き刺さるそれ。実体があったなら貫通しそうだという錯覚にさえ襲われ、ハンズアップをしてみせるジェスチャーを頭の中で思い浮かべたほどに。

「その彼女を連れてどこへ行くつもりです?」

見とがめたバーボン……もとい降谷零の声は、微かに震えている。諸星大=ライは、組織に身を置いていた時期には、嫌と言うほど間近で「探り屋」の振る舞いを見聞きしてきた。彼はいつだって余裕ぶっているのではなく、本当に余裕を見せつつ、涼しい顔でえげつない手段も取って、あらゆる情報を得ていた。それが、このアイリの前ではこんなにも変わるのか。

「なに、どこかの空いている楽屋あたりをお借りできないかと思いましてね。愛理さんも回復次第事情聴取を受けるでしょうが、それまでこの状態というのも酷ですから。蘭さんと園子さんの女性2人といえど脱力している同年代を運ぶのも骨かと」
「一理ありますね。ですが空き部屋よりロビーのベンチあたりが適当では?」
「愛理さんを見舞った災禍の原因はこのステージです。静かな場所へ物理的に遠ざけて、ショックを和らげるのが望ましい。警察も到着したらこの辺りはまた騒がしくなる……この状態の愛理さんを休ませるには不適当ですよ」
「なるほど」

賛同しているかのように装いつつ、透の口元はひくついた――その手、もしもこの空間にお前と2人だけだったら躊躇なくへし折っているところだぞ。

過去のあの日のこと、今目の前にある光景。そんな2つの忌々しさに駆られて、透はほとんど射殺さんばかりに沖矢の背を睨む。景光の自決を止めなかった奴に、気安く愛理の名前を(しかも2度も)口にされただけにとどまらず、その手が、ああもベタベタと彼女に触れている。愛理を休ませる場所としてロビーのベンチを提案したのは、沖矢が彼女に接触する時間が少しでも短くなるように、それから恋人を自分の目が届く位置に留めたかったからだが、体良くかわされてしまった。

よくも……透は拳を握りしめた。ただ、今は状況が状況だ、抑えるんだ。彼はそう自分に言い聞かせた。ベルモットの手前、愛理が特別な存在だと悟られては非常にまずいことになる。東都ホールに到着してからずっと、思いがけず行き会った愛おしい相手を見つめたい、声を掛けたい気持ちを封じて、まるでこの場に彼女がいないかのように振る舞い続けていたのは何故か。その名をとっくに知っているのに、それでも他人行儀に「彼女」とだけ称するほかなかったのはどうしてか。ひとえに、愛理を危険にさらしてしまいかねないからだ。

これまで透は組織における顔〈フェイス〉……バーボンとしては、ベルモットの「ある秘密」をネタに彼女の協力を得て様々な事柄を探ってきたところだ。だがベルモットが、もしも愛理の存在がバーボンの弱みだと知ったとき、出るはずの行動はきっと――ベルモットの目には、沖矢の意図を図りかねているだけのように映ってくれ。そう願いながら、透は殺したいほど憎んでいる相手であるはずの男をしばし睨んだあと、視線を外した。沖矢の背、それから愛理の順で。

一方その横では、バーボンの様子をしかと見ていた梓、もといベルモットは、とある確信にたどり着きつつあった。あの茶髪の男を先ほどから睨んでいる理由は知らないけれど、あのアイリという少女については女のカンで解ったのだ。バーボンの“Secret”に違いないと。榎本梓に変装したことをやはり見抜いているらしい“シルバーブレット”〈コナン〉が視線を向けてくるのも構わず、ベルモットは口角を上げた。 “Angel”〈蘭〉とは親しいようだから、あの子に免じてしばらく見逃してあげる。でも、この先も利用しないとは言っていないわよ……。

「このエリアは、どうやら愛理さんにとってショッキングすぎたようです。今すぐに消してしまいたい記憶かもしれませんね」

そう沖矢が呟いたのと同時に、ホールの自販機でミネラルウォーターを買った園子が戻ってきた。そばで見ていたスタッフが、空き部屋への案内と、それから愛理の荷物や飲み物のボトルを運ぶのを手伝おうと申し出てくれた。

案内される沖矢は、廊下を進んで透から遠ざかっていく。当然、彼に抱き上げられたままの愛理も……透はその顔色を見て胸が締め付けられる思いがした。いつもの見知った淡い桜色ではなくて青白いし、肌は荒れ、いくらか痩せてしまっているようにも見える。そばを離れざるを得なかった間、母のことだとか、今しがたのことだとかに苛まれたせいに違いない。

十数分後、通報を受けて臨場した捜査一課の面々や鑑識が、現場検証や聞き込みを始めたのと前後して、愛理と彼女の荷物などを安置した沖矢が手ぶらで帰ってきた。彼、それからコナンとともに、透は証拠品や現場を改めて調べていく。血塗られたステージの真相〈フィナーレ〉には間もなくたどり着くだろう。ベルモットに「早く解決してくれない?」などと急かされるまでもない……早く、愛理のもとへ戻るのだ。

ちなみにそのそばで蘭は、かつて謎の女性が自分に向かって口にした「エンジェル」という呼び方と、NYでとある男性に強い口調で告げられた「消えろ!この場〈エリア〉から今すぐに」という言葉にデジャビュめいたものを覚えていた。そして、どうしてそんな言葉を再びこの東都ホールで耳にすることになったのかと少し考えたけれど、その答えは浮かんできそうにはなかった。



他方、空き楽屋にしばらく1人でいた愛理は、先ほど部屋に入ってきたとある女性と向き合っていた。ショートカットの髪型で、キビキビした印象を与えるひとだった。年齢は透とそう変わらなさそうだ。しかし空調の利いている部屋なのに、愛理の顔を一筋汗が伝う。今度は緊張から来るものかな、と考えた。だって。

「私は、警視庁刑事部捜査一課強行犯三係の佐藤です。これからあなたにいくつか訊きたいことがあるから答えてね。あと、この事件について知っている限りのこと、それとどんな小さなことでも構わないから、何か気が付いたことがあったら何でも教えて」

目の前の女性は、そう告げながら黒地に金箔押しの冊子――警察手帳を、愛理の前で開いて見せた。顔写真の下には【警部補 佐藤美和子】とある。愛理は目を見開きながら、思わず「あっ」と「えっ」が混じった声が出てしまった。来る途中で目にした米花ウエディングホールの広告で、新郎に背負い投げをお見舞いしていた花嫁その人ではないか。おまけに彼女は柔道選手ではなく女刑事、それも警視庁捜査一課という、愛理はこれまでドラマや小説の中でしか見聞きしたことのない肩書の人でもあったのだから。

「本当なら早いところ病院へ連れていくなりするべきなんでしょうけど、居合わせた人は現場検証だとかが終わるまで引き留めて事情を聴かないといけないの。それであなたの体調が良くなるのを待っていたってわけ」

緊張に喉をふさがれて、愛理はコクリと頷くのがやっとだ。交番で道を訊くとか落し物を届け出るとか、小さいころに父を探しに行って保護された日や、福生で誘拐されかけたときにも事情聴取をされたので、警察官と話すのはこれで数回目。とはいえやはり慣れるものではないし、おまけに今回は刑事が相手だから。喉が渇いて、そばにあったボトルの水を一気に半分くらい煽った。

「警察の人と話すの、緊張しちゃって。たどたどしくてすみません」

表情がまだ強張ったままの愛理に、佐藤は笑いかけてやった。

「良いのよ、ゆっくりで。大人はまだしもあなたくらいの歳で慣れっこっていうのもそれはどうかと思うしね。ましてこんなことのあとだし……それじゃあまずは名前から教えてくれる?」
「跡良愛理と申します」
「次に生年月日と年齢と連絡先。えーと、跡良さんは見た感じ高校生かしら?学校名もね」

他にも「この東都ホールにはいつごろどの交通手段で到着したか、誰との繋がりで来たのか、ここでは何時に誰とどこで何をしていたのか、怪しい素振りを見せていた人はいなかったか」などなど。そんな諸々を訊かれ、愛理は生徒手帳なども示しつつ全てに素直に応えた。あと、渡された紙に漢字で自分の名前と、何故か「ゴメンな」という字も書くように指示されたのでそれにも従った。

そして、そうしながらとある考えが浮かんでもいた……お仕事中に迷惑かもしれないけど、本物の刑事さんに訊けるチャンスなんて、滅多に無さそうだから。

「じゃあ話を整理すると、あなたは東都バス杯72系統でここに到着して、波土を発見するまでコナン君たちとずっと一緒にいた、その場を離れてもいない。だけど波土の遺体を見て気絶しちゃって、スタッフか誰かにこの部屋に運んでもらって、それで今さっき目が覚めるまでこの部屋を一歩も出ていないし、不審な人も見かけなかった。これで間違いない?」
「はい」

佐藤は書き留めたあれこれを見返しつつ、確認も兼ねて読み上げたあと、特に目新しい情報は無いと判断して筆記用具をしまった。証言者はまだ顔色も優れないので、ここらで解放してやるのが一番だろう。

「協力ありがと。じゃあこれで」
「あの!すみません」
「え?」

だが、ドアへ向かいかけたところに不意に愛理が呼び止めてきた。佐藤はひょっとしたら、と振り向く。刑事になって数年の経験で解ってきたことだが、とても不思議なことに重要な情報とは、何でもないようなやり取りを通じて得られるケースが少なくないのだ。それに、そのとき思い出せなくても、誰かと話をして考えがまとまり、記憶が呼び起こされる場合もある……警察学校の取り調べと事情聴取の授業で教わる、基礎中の基礎といえる事柄だ。

今日、佐藤は白鳥や千葉と別件に当たっていたが、彼らと別行動を取り始めた直後に応援要員として呼ばれて東都ホールに着いたのだ。コナンたち来場者、スタッフやバックバンドのメンバー(その中にマトリにしょっぴかれたのが一人いたという報告を先ほど受けた)などへの事情聴取は、先に到着した目暮警部たちが済ませたといい、彼女が取り調べを行うよう指示された対象は目の前の少女だけだった。後がつかえているわけでもない。目暮警部と高木君はコナン君たちの頼みで何かすることがあるってさっき連絡が入ったし、まだ付き合っても良いかしら。そう考えた佐藤は再び愛理に向き直り、手近な椅子を引き寄せて座った。

「ほかに言っておきたいことや思い出したことがあるなら聞くわよ」
「言いたいというか。伺いたいことなんですけど……警察官になるのに必要なことって、どんなことですか」
「あなた警察官になりたいの?」
「はい」

いくらか体調が回復し始めていたのと、意気込みを示したいという気持ちもあって、愛理は事情聴取中よりは力がこもった声で返事をする。佐藤は少し表情を緩めた。自分と同じ仕事を志す若者がいるのは嬉しいものだ。この事件の直接の手がかりは掴めなさそうだが、未来の後輩のスカウトに繋がるならまるっきり無駄とも切り捨てられないだろう。現に、警視庁ニュース(本庁に朝9時に流れる放送のことで、内容は前日の特殊詐欺犯人の検挙状況や交通事故の件数、所轄の検挙事例、各部からの伝達事項などだ)では、募集時期には人事部が「各職員にあっては、当庁職員に相応しい人材を確保するため、積極的な採用広報ならびに受験勧奨をお願いします!」としきりに呼び掛けている。

だから佐藤はもちろん「じゃあ是非刑事部に」と、自分の所属へ誘おうと言いかけたが。

「私、公安警察になりたいんです」
「そう。公あ……公安っっ!?」
「きゃっ」

2人はお互いの反応に負けないくらい驚いた。外の廊下からも、スタッフか誰かが「うわっ」と声を上げるのがかすかに聞こえた。そういえば刑事部と公安部は仲が悪いとか、何かで読んだことはある。あれって嘘じゃなかったんだ……現に「公安」と口にするときに、佐藤は顔に「ウソでしょ!?」と思い切り書いていた。愛理はそう考えつつ「だ、ダメでしょうか」と訊いたので、佐藤はひとまず「驚かせてごめんなさいね、えーと……もちろん警察官になりたいって気持ち自体は応援するわよ。だけど」と謝ったあと続けた。

「公安!よりによって!あんな秘密主義のいけ好かないとこに……そこ一筋って最初から決めるのももったいないじゃない、もうちょっと他の部も考えてみるのはどう?やっぱり刑事部とか交通部、あと地域部ってとこも人気よ」

ドラマでおなじみの刑事部でもなく、警察組織の中では恐らく愛理くらいの若者にも身近だろう(それに親友の由美も所属している)交通部や、いわゆる「お巡りさん」のいる地域部などでもなく、刑事部と仲が悪い部を志望先として挙げられるとは思わなかった。

ったく、なんの影響なんだか……目の前の自殺志願者ならぬ公安志願者に、説得を試みる佐藤。だが彼女は、決然とした表情でああ言った愛理に昔の自分を重ね、どこかで解ってもいた――きっと、この子は良くも悪くも聞かないタイプ。私と同じね。

「刑事になる」と、亡き父の後輩である人物の前で敬礼をして宣言した。そのあと邁進し、言葉通りの目標を叶えた。きっと目の前の跡良愛理という少女もそうすることだろうという確信が、何故かあった。こんな若い身空で“あの”公安志望というのが佐藤としては残念でたまらないが、まあこれから考えが変わることだって十分あるでしょ、と思い直す。

「それで、警察官に必要なことね……まずはひるまない、折れない心かな。聖マドレーヌみたいないいとこに通ってるあなたからしたら信じられないでしょうけど、警察の言うこと素直に聞く奴らばっかりじゃないのよ?感謝されることの方が少ないし、やっぱり危険は付き纏うものだし。それでもそれが仕事だから。何より」

真剣に聞き入る愛理は「ひるまない、折れない心」と、心に刻むかのように言葉をなぞったあと、佐藤がそこで一度言葉を切ったので改めて視線を彼女に向けた。

「仲間が死にかけたり……殉職といって、仕事中に亡くなったりしたことだってあった。それも目の前で」
「……!」

佐藤は目を瞑り軽く俯いた。だから愛理が息をのんだ様子は見えなくても、かすかな吐息の音は聞こえる。続きを口に出したいが、少し間が空いてしまった。脳裏に過ったある2人を思い浮かべながらというのは、やはりまだ、スムーズにはいかなくて。

「できたばっかりの後輩は、観覧車のゴンドラの中に仕掛けられた爆弾を解除しに1人で乗り込んだ。彼、刑事になる前は爆発物処理班だったから『こういうことはプロに任せな』って。でも頂上近くの位置まで昇ったところで止まって、逃げ場が無い状態にされたところで爆発した。私は今でもそのせいで観覧車には乗れない。多分この先も。それと私の父も刑事だったけど……私が小学生だったころに、犯人を追いかけていた最中に。おまけに捕まえて判ったけど、父の友人で私も子供のときから知っていた人が、関わっていた」

そこまで言いおいてから佐藤はまた目を開けて愛理に語りかけた。半分は、自分に言い聞かせるように。

「だけど、辛さや悲しみに立ち止まりかけても、逃げたりはしないわ。事件を、許されない奴らを追い続けて、いつかはきっと解決すること、諦めたりなんかしないから……そういう気持ちでいるの」

爆弾。父親〈パパ〉。愛理はこんな話を通してではあったけれど、この女刑事に少しだけ自分との共通点を見出した。だが彼女が目にしてきた、経験してきたものごとの辛さは、自分とはきっと比べ物にならないのだろう。愛理の父は目の前で亡くなったわけではないし、そのとき彼女はまだ2歳だったので理解が及んでいなかったから。

……やはり、華々しい仕事ではないのだ。小説のように筋書通りに事が進み、ドラマ化されれば人気俳優が華麗な逮捕劇を繰り広げて評判になるようなフィクションとは、違うのだ。

「辛い思いをしても、立ち止まらない覚悟が要るということですか」
「そう。あともう1つ、本当の正義は何なのか……それを振りかざさず、いつも考え続けることかな。警察官になるには警察学校に入るけど、最初の日に服務の宣誓をする。『何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず』っていう……実を言えば、憎まずっていうのはやっぱりすごく難しいけどね」
「わかりました。お話、ありがとうございました」

愛理は立ち上がって、佐藤に頭を下げた。

「どういたしまして。ところで、どうしてなりたいのか訊いても構わない?」
「私、日ノ本号の爆破テロで父を亡くしてて……テロを防いで、そういう目に遭って悲しむ人を減らしたいって思ったんです」

佐藤も当然その事件のことは聞いているし、未だ手配中の幹部の顔写真は、管轄外とはいえ刑事部のフロアにも一応貼り出されている。とはいえやはり他の、しかも不仲の部の扱う事件〈ヤマ〉だから関心も低いので、位置は掲示板の隅だし、他の掲示物が上から貼られることもよくあるので画鋲の穴だらけだ。四隅を留めている画鋲だってすっかり錆びついていて、紙も年々色褪せつつあるけれど。

佐藤は納得した、というふうに頷いて「さっき“いけ好かないところ”呼ばわりしたのは、そういう事情を知らなかったとはいえごめんなさいね」と詫びた。

すると、愛理が「いえ……」と言おうと口を開きかけたそのとき、廊下をパタパタと走ってくる足音がした。次の瞬間にはノック音と「失礼します佐藤さん!」という若い男性の声がする。佐藤が「高木君?どうぞ」と応えるや否や、声の主が部屋に入って来て。

「マルヒ護送しますので応援お願いします!」
「オチたの!?」
「はい、コナン君たちの追及で波土のマネージャーが」

現れたのは、佐藤より少し年下らしい男性だった。とてもお人好しというか親しみやすそうというか、優しくて気の良い近所のお兄さんといった雰囲気だ。しかし、彼女と同じ赤いバッジをスーツの襟元に付けていて、そして刑事ドラマなどで聞く用語でやり取りするところからして、やはり彼もまた佐藤と同じく刑事のようだ(ちなみに、愛理はよくよく彼を見て「もしかしたら背負い投げされてたお婿さん!?」とまた驚くことになった)。

用件を伝えた高木はすぐに部屋を後にしていた。それに続こうとした佐藤は、出ていく直前顔だけは愛理の方に向けてこう言い残した。やっぱり、将来有望そうな彼女をみすみす公安部にくれてやるのは悔しいから。

「それじゃあ気を付けて帰るのよ。いつか警視庁で待ってるから、あとやっぱり刑事部も考えといてね跡良さん!よろしくっ」
「は、はい」

自分のいる部へのスカウトをちゃっかりした佐藤に、愛理は困ったように笑って返した。そこにちょうど蘭から「大丈夫?」とメッセージがあり、愛理はそれに返信しようとスマホの操作を始める。

「佐藤さん、さっきの子に刑事部もなんとかって言ってましたけどどうしたんです?」
「あの子未来の後輩なの!だけど公安なんかに行きたいって言うから、あんなとこに取られる前に念押しってヤツをちょっとねっ」
「はぁ」
「そういえばなんで直接伝えに来たの?電話くれれば楽だったでしょ、電池切れ?」
「ええと。そのー、佐藤さんの顔がまた見たくなってしまったのでつい。事件も解決したことだしと思いまして」
「……ったく!」

そんな嬉しい言葉に照れながら、佐藤は後輩兼恋人とともに東都ホールの正面エントランスを目指す。いつか跡良愛理が、桜の代紋をいただく桜の門をくぐる日を待つことにしながらも、歩みを止めることなく。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -