蜜月に差す翳り〜悲嘆 2


園子からの誘いを受けた愛理は、波土禄道がコンサートを行う東都ホールへ向かうべくバス停でバスを待っていた(今日は家に仕える運転手が休みなのだ)。波土については少し調べ、オフィシャルチャンネルのMVも見てみたが、ちょっと近寄りがたそうな人だなという印象しか持てなかったし、愛理が好きになれそうな音楽でもなかった。このことといいセロリといい、好きな人の好きなものを自分も好きになれるとは限らない、と実感する。

今日の空模様は灰色だが、愛理は透の目の色を思い浮かべてはいなかった。ブルーグレーとは言えない、黒みの方が強い色合いだったからだ。恋人の勤め先である喫茶店の名前の由来のほうのポアロ、その脳細胞の色、と喩えたほうが良いかもしれない。先日の沖矢との小説談議で盛り上がった余韻に浸りながら、彼女は天から地へと視線を戻した。

園子からRineで教えてもらった情報や待ち合わせ場所をもう一度確認した直後、そこにまた新たなメッセージが。友人の睦美からだった。

流川睦美:ちょっと提案なんだけど。大学生になったら、みんなでルームシェアしたいって思ってるんだけどどう?誕生日に叔母様からマンションもらったから、卒業したらさっさと家出てそこで暮らすつもりなんだ

睦美は、愛理の仲間内では一番成績が良く学年トップレベルだ。だが両親とは進路の問題で数年前から不仲になっているばかりか「親の言うことも聞けないあなたなんてうちの子じゃない」などと言われ「私だってあんなの親だと思うのとっくに止めてる、早く家出て行きたい」と度々泣きながら零していたのだ。両親とも祖父母から続く医者一族に生まれ、唯一の味方で昔から可愛がってくれているという叔母を除き、きょうだいも親戚も、医師になること以外の進路を認めようとはしないらしい。けれど、肝心の睦美は血を見るのが嫌だし、幼稚園の先生になりたいというのに。

与羽カンナ:いいじゃん!前から親のとこ出たがってたもんね睦美
丸子文乃:毎日お泊り会ノリで過ごせるのアリかも〜
又井卯芽華:ありよりのありっ

将来を思い描き、はしゃぎ、盛り上がる友人たちの姿が画面の向こうに浮かんでくる。しかし愛理は同調していいのか迷っていた。「高校卒業したら、透さんに結婚して欲しいって言われてて」そう返信しようかと思ったが、メッセージ欄に打ち込まずにおいた。代わりに「賛成〜!」と言っているスタンプだけを返す――もしかしたら、透との結婚は叶わないような気もし始めていたから。

あと、もう1つ理由がある。母の入院先で偶然見たテレビ番組をきっかけに、公安警察官になりたいと考えるようになってから色々調べて知ったけれど、まず全寮制の警察学校に入るということなのでルームシェアはできないだろう。愛理はこれまで併設の大学へ行くことだけを考えていたが、公安警察のことを知ってからというもの、高校を卒業したらすぐ警察官になることも視野に入れ始めていた。警視庁の3類採用試験の募集時期と試験日もスケジュールアプリに登録してある。一日でも早く、テロの無い世界を実現したいのだ。進路のことをまだ友人や担任にも、透にも打ち明けていないから、このことを知っているのは今のところ自分だけだけれど。

そこにやって来たバスに乗り込み、愛理は席に着いてからスマホをカバンにしまう。電車の中なら平気なのに、車の中でスマホを操作するとすぐに車酔いしてしまうので、こういうときは車窓の景色や車内の広告などを眺めることにしている。

……思えば、透と初めてのデート先は謎解きゲームだったけれど、その開催を知ったのもそもそもはバスで見た広告だった。昔と呼ぶには大げさな過去を懐かしんでから、今とこれからのことだけが載っているあれこれを見やる。

まず、淡い紫色の地が印象的な「月参寺あじさい祭り」のお知らせが目に入った。もうあと2週間くらいは開催されるらしいが、小さな字で「開花時期は予想と異なる場合があります」云々の注意書きもある。それと、何より6月だからか、渋谷ヒカリエのチャペルがリニューアルオープンするとか、錦座の有名宝石店の「愛の証のジュエリーを是非当店で」というものとか。

それから、今ちょうど信号で停止中だが、愛理の座席の位置からは米花ウエディングホールが真正面に見えている。そしてそこに掲げられていたのは「ブライダルは女が主役!」という文句が躍るものだった(件の広告に出ている花嫁は、新郎に何故か背負い投げをお見舞いしていて、愛理は「なあにあれ、柔道選手のお式っていうこと?」と目をパチクリしながら見送った)。

結婚。車窓の景色は流れ去ってゆけども、愛理の頭の中はその2文字でいっぱいだった。心の中で繰り返しながら記憶を振り返る。透を跡良邸に招いた日に彼が「白無垢が似合うだろう」と言ってくれた春のあの日が、とても遠く感じた。

「おっきくなたら、パパのおよめさんにちてね!」

母によれば、愛理は2歳になったころ、まだよく回らない舌で父にそんな“プロポーズ”をしたらしい。父はたいそう喜んで、その晩は愛理の好きなメニューをたっぷり作ったとか。愛理が通う聖マドレーヌ女学園はミッションスクールだから(幼稚園から高等部までのある敷地とは別の場所だが)、大学のキャンパスにあるチャペルではOGや教職員がキャンパスウェディングを挙行することができる。現に、友人である文乃の姉の1人もここで愛を誓い、新婦妹の友人として参列した愛理もフラワーシャワーに参加したことがある。新郎新婦の輝かんばかりの顔は、本当に幸せそうだった。一生パートナーの隣から離れはしない……彼らがそう確信していたようにも、今の愛理には思えた。

透さんは本当にそのとき、隣にいてくれるの?「僕は、愛理さんとずっと一緒にいられたらと思ってる」って、ママとの挨拶の話のときに言ってたよね?叶えてくれるよね、透さん……?

拳をギュッと握った。涙の泉は、やはりまだ涸れない。ここのところ透に逢えていない寂しさからか、彼のことを思い浮かべるだけですぐに涙が滲んできてしまうのだ。ただ、家ならまだしも、人目のあるところでそうしたくはない。幸い“東都ホールはこちらでお降りください”というアナウンスが、愛理を現実に引き戻してくれた。彼女は慌てて降車ボタンを押し、停まったバスから降りる。少し雨がぱらつき始めていた。流さなかった涙の代わり……というのは、できすぎているだろうか。



かくして時間通りに園子らと合流した愛理は、いざホールへと足を踏み入れようとした。しかし、波土のマネージャーである円城と名乗った女性から「本人が2時間1人にさせてほしいと話している」といったことを伝えられた。彼本人には会えなさそうだ。

「じゃあウチらも帰ろっか?」
「え、帰っちゃうの!?」
「そだね…明日学校だし…愛理ちゃんはどうする?」
「私もそうしよっかな」

髭を蓄えた大柄な男性それから円城の2人が、ハンチングを被り眼鏡をかけた男と何やら口論していたのを横目で見た後、園子が言い出した。蘭に訊ねられた愛理も、もう帰る気になりかけていた(コナンはまだここにいたそうなので、その思惑を知らない愛理は内心で「小さな大ファンってああいうことかも」と微笑ましく思っていた)。

これが応援しているアーティストだったならガッカリして、一縷の望みをかけてもう少し粘ってみたかもしれない。だが、愛理も蘭たちと同じく興味も特に無いから惜しいとは思わない。透がファンだというので、彼とまた逢えたときの話題作りにと誘いを受けたが、よくよく考えてみたら、話すことは何もあのロックミュージシャンについてのあれこれだけではないのだから。

だけどそれならどうして、園子ちゃんは自分も波土禄道っていうひとに興味無いのに、私に声かけてくれたのかな……? 愛理は正面切って訊くほどでもないけれど、ふと浮かんできたその疑問を一瞬だけ考えかけた。透をはじめどんな探偵にも解けない、もしかしたら園子だけが真実を知っているかもしれない謎を。

だが「では、ここに来ようと言い出したのは…」という沖矢の問いかけの途中で、答えを出したのは。

「僕ですよ……」
「……!!!!」

ほかならぬ、透その人だった。ボトムスをブーツインした、ロックテイストな出で立ちの。

愛理は息をのみ目を見開いた。透さんの声がする……というか、いる。そっくりさんとか見間違いや夢とかじゃない。でもどうして。加えてますますわからないのが、園子が愛理を見て「ふっふっふ、大成功〜!」と満足気に笑っているし、蘭も少し面白そうに様子を窺っていることだ。特に園子は、先ほどまでの波土に興味が無さそうな雰囲気とは正反対ではないか。

「園子ちゃんどういうこと?大成功って」
「実は前に安室さんから頼まれてたのよーこのリハ見学したいって。でもって、跡良ちゃんが安室さんに最近逢えてない……って言ったからには、内緒にしといてサプライズで引き合わせて感動のご対面をプロデュース作戦!ってワケ」

そこまでノンブレスで言ってのけた園子は、笑顔で「イェイ!」とVサインを突き出す。愛理はポカンとしながら「そ、そうだったの……」と答えたと同時に理解した。だから園子ちゃんはあの日「また逢えるから、それも近いうちに!」って言ってたんだ。あれはただの励ましとかじゃなかったってこと。

ただ、愛理は逢えた嬉しさを感じる前に、ひどくショックを受けていた――透が、愛理に一瞥もくれず、彼女がまるでそこにいないかのように振舞っているからだ。あの優しいブルーグレーの目で見つめてもくれない。「愛理さん、しばらく連絡が取れなくてごめんね。逢えて嬉しいな」とか話し掛けてもくれない……おまけに。

「あれ?梓さんも来たんですか?」

蘭と園子が話しかける相手の方向を見て――今度は、頭をガツンと殴られたかのような衝撃を受けた。だって。

「お店じゃ隠してたけど私も大ファン」「安室さんのアトを付けて来ちゃった」とかなんとか言っていたような気がするが……そんなことより愛理にとっての大問題は、透が異性と現れたこと、おまけにそれが榎本梓だったこと、さらに彼女がごく自然に透に腕を絡ませていたこと、彼がそれを振り払うような素振りも見せなかったこと……もっといえば、そうしたことをする仲をそれこそ今まで隠していたということだった。

「えっと。跡良ちゃん……ごめんね、その、なんていうか」
「きっ気にしないで!園子ちゃんのせいじゃないから!」

少し離れたところに寄った愛理に、園子は先ほどまでの様子からまた一転、気まずそうに謝ってきた。彼女とて悪気があって愛理に今日の誘いを掛けたわけではないはずだ。まして透が梓を伴ってやって来る(それも腕を組むところまで見せつけてくる)なんて、このうろたえぶりからして園子にも予想外のことだったのだろう。彼女に八つ当たりするのはお門違いだということは愛理ももちろん解っていた。

目の前にいる愛理に、他の異性といるところをバッチリ目撃されておきながら、動揺する素振りも一切見せない透。彼はそのまま「僕のこと覚えてますか?」と沖矢に問い、何故か「宅配業者の方ですよね?」と訊き返されていた。それから唐突に始まる、波土のベスト1談義……恋人と探偵小説談義仲間が、談笑する程度には顔見知り同士だったのを初めて知った愛理。だが彼女の意識はそんなことより、先ほどの透と梓の様子のことでいっぱいだった。

落ち着いて。透さんが探偵のお仕事の間は連絡付かないの、今が初めてじゃないでしょ。私以外の女の人と恋人同士のフリすることがあるって透さんこの前教えてくれたし、見たこともある。「そういうときに出くわしても知らん顔をしてほしいんだ。僕も愛理さんの前でそうしたくはないけれど、依頼中だけはそうせざるを得ないから……不安にさせてしまって本当にごめんね」って、謝ってもらったし。ああして腕組んだのだって、梓さんが依頼したからかもしれない。そう、きっとそういうことなんだから。

それでも、胸の中からじわじわとせり上がり来る何か苦いものにうまく蓋をできない。おまけに、いつか道ですれ違った他校生のこんな会話まで思い出されてきて。

「ねえねえ、ポアロのあむぴってさぁ彼女いるかどうか知ってるー?」
「あのアズサとかいうひとだよ、一緒に働いてる店員の。このあいだ東都博物館で一緒にいるとこ見たって友達のフォトスタのモノガタリーで見たし!」
「ショックなんだけどぉ……ムカつくから炎上させちゃおっかな、アカウントどれだろ」

榎本梓。喫茶ポアロの店員で、気さくで明るいお姉さん。同じ職場で働いている分、もしかしたら透の恋人である愛理以上に透の近くに長くいる異性。ただ、不思議なことに彼女は梓にジェラシーを感じたことは実は一度も無い……少なくとも、今しがたまでは無かった。梓が透に対してベタベタするでもなく、割と率直に物を言うところが愛理は好きだ。例えば「また安室さんがこの間早引けして大変だったの!愛理ちゃんからも今度ガツンと言ってくれない!?」と憤るので、愛理も「約束しますっ、梓さん困らせちゃダメって言っておきますので!」と応えるなど他愛ないお喋りに興じるのも(もちろん愛理は梓の言葉をしっかり透に伝え、彼は「面目ない」と済まなそうに言っていた)、それから飼い猫である大尉の写真や動画を見せてもらうのも、ポアロを訪れる楽しみの一つだった。

……ただ。何か、おかしい。愛理にはある直感があった。梓の横顔を睨みそうになるのを抑えながらチラと見る。彼女の何かがいつもと違うのだ、言い表せないけれど。

「あの、蘭ちゃん。今日の梓さんって上手く言えないんだけど……梓さんだけど梓さんっぽくない感じしない?自分でも変なこと言ってるのは解ってるんだけど」
「愛理ちゃんも同じこと思ってた?実は私も……梓さん、この前バンドに誘ったらギター触った事もないって言ってたの。なのに、さっきはギターが上手だから波土さんが好きって話してておかしいなって」
「だよね」
「うん」

愛理はそばにいた蘭に耳打ちした。彼女もちょうど何か思うところがあったのか同意してくれて、2人は頷き合う。

でも、それはそれとして、ポアロに行きづらくなっちゃった、ギクシャクしそうで。依頼かもしれなくても(これも透に教わったことだが「探偵は守秘義務といって、お客さんとやり取りした一切のことを誰か関係の無い相手には教えちゃいけない決まりなんだ。だから、こればっかりは愛理さんにも話せない」というので、つまり想像でしかないけれど)あんなところ見たくなんてなかった。愛理は梓の目の前に乗り込んで物申す気力もわいてこない。

コナンが沖矢の服の袖を引っ張り、屈んだ彼に何やら耳打ちするのが視界の隅に見えた。さすがに飽きが来てもう帰ろう、とか言っているのだろうか。私もそうしちゃおう。愛理は、自分に背を向けたままの透を寂しそうに見た。嫌われちゃうのは嫌だから透さんのお仕事の邪魔しちゃダメ、辛いけど知らんぷりし合わないと……こちらから話しかけられないなら、彼も話しかけてくれないなら、せめてどうか見つめさせてほしかったから。幸い、そうしてはダメと言われてはいない。

するとそのとき。「消防査察に来ましたー!」と言いながら、警察官のようだがよく見ると少し違う、消防官の制服に身を包んだ男性2人組がやって来た。眼鏡をかけた方がホールの出入口扉に手をかけたところを、波土のマネージャーが止めようとした、刹那。

「うわああああああっ!」

尻もちをついた消防官の絶叫が突然ロビー中に響き渡る。ただごとではない。すると、すぐさま透は梓の横からダッシュで離れ――その光景に一瞬だけ愛理は嬉しくなってしまった――ホール内へ猛然と走り込み、沖矢もコナンも負けじとばかりに続く。蘭と園子に釣られる形で、愛理もその後ろを付いて行き……。

思えばそうするのを止しておけば、もっと言えば「リハーサルは見学できない」と告げられた時点ですぐ帰っていれば良かったものを。透たちの後を追いかけ、ホール内に足を踏み入れた愛理は見てしまったのだ。数メートルの高さから括られて、ギターを提げたまま息絶えていたロックミュージシャンの亡骸を。

そこで、愛理は血の気が引いていくのを感じつつ、目の前の光景から逃れたいという本能から意識が遠くなった。だから、隣にいてほしい透に、助けを求めることもかなわずに。



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