蜜月に差す翳り〜発端 6


透のただならぬ様子に急き立てられるまま、愛理はメゾンモクバを出てタクシーでまず梅濤の本宅へ。一旦ハロや制服、学用品などの荷物を置いた。お泊り会どころではなくなってしまったから、友人たちにも「ちょっと詳しく言えないんだけど明後日ダメになっちゃった!ドタキャンしちゃってホントごめんね!」という断りとお詫びのRineもして。

そのあと母の秘書と合流し、家に仕える運転手の運転で、母が搬送された聖マドレーヌ女学園大学医学部附属病院へ急いだ。彼は国際会議場から数キロの位置で待機しており、時間に余裕をもって出たという。ところが、迎えに赴こうとしたところ、使うつもりだったルートではことごとく交通事故が起きていたせいで大幅に迂回を余儀なくされ、日出子に指定された時間に到着できなかったそうだ。

「私がもっと……早く到着できていれば」

信号待ちの間、街の雑踏やクラクションの音に、老運転手の零した悔恨の声は溶けて行った。「国際会議場で爆発か  警官死傷の模様」と報じるニュースの音声が、秘書のスマホから聞こえる。その画面をじっと見る彼女の横顔は真っ青だ。

こうして駆け付けた愛理たちは、手術室前の待合ベンチへと案内された。冷たく硬いビニル張りの椅子で、時間の感覚が無くなりかけるほど過ごして。そしてようやく手術が終わって扉が開いたが。

「せ、先生……!」
「ママ!」

秘書も愛理も息をのんだ。包帯をほぼ全身に巻かれ、何本ものチューブが色々な機器に繋がれた状態でストレッチャーに横たわっている母が、変わり果てた姿で出て来たからだ。

愛理は母のもとに駆け寄って、震える涙声で「大丈夫?ママ?」と呼びかけた。だが、日出子は愛娘の声に応えて目を開きもせず、いつものように返事もしてこない。愛理ははたと、母が身に着けていたあの形見が見当たらないことに気が付いた。どこにいってしまったのだろう?

秘書は「今後の事務手続きなどについて話し合いたい」と、病院の職員らしき人に呼ばれて別室へ行った。愛理と、ちょうどトイレから戻ってきた運転手は、ストレッチャーを引く看護師らにそのまま付いていき、母が使う個室の病室へと入る。母がストレッチャーからベッドへと移され、医療機器の調整がされてから、看護師らが出て行きドアが閉まる音がした。

規則的で無機質な機械音が、静かな病室にいやに響き渡る。運転手が「奥様がなぜこんなお労しい目に」と呟く。だが、今こうして目の前でする音や声よりも、愛理の耳にはよく聞こえる声があった。

「きっとそんなことは起きやしない」

あれが、正夢になっちゃった……うそつき。透さんの、うそつき。思わず掴んだシーツに皺が寄る。愛理の手にひんやりと冷たい感触がした。

エッジ・オブ・オーシャンの国際会議場が爆破され、母の絵も台無しになってしまうという嫌な夢のことを、3月のある日透に話した。すると彼はそう言い切ってくれたので、愛理は大好きな恋人の力強い言葉を信じきっていたのだ。

そんな一言にさえ行き場の無い気持ちをぶつけてしまったあとにハッとする。いくらこんな事態に不安定に気持ちが揺れ動いていたとはいえ、別に透のせいでもなんでもないことぐらい解っているのに、恋人がああして元気づけてくれたのに、当たる自分が嫌なのに。

それでも不安で、心細くてたまらなくて、色々な思いがグルグル巡って。

「パパ、ママのこと助けてあげて……私のこと、っ、独りにしないで――!」

そんな気持ちでそこまで願った愛理の声は、もう言葉にならない。ベッドに突っ伏して号泣する愛理に、沈痛な面持ちで寄り添う運転手。薄暗い病室に差す冷たい月の光が、部屋を、彼女らを照らしていた。




5月の連休丸々、そして続く平日数日間を、愛理は結局母の入院先に通って過ごした。面会時間の始まる前に病院に着くようにして、食事も予めコンビニで買っておくか、使用人に作ってもらうかして。病院ではトイレもなるべく我慢した。限られた面会時間の終わりが来るギリギリまで、少しでも母と長く一緒に過ごせるように。

国際会議場の近辺で何らかの事故に巻き込まれた(真相は、国際会議場の爆発に巻き込まれたというものだが)母は大ケガを負ったばかりか、昏睡状態に陥っていた。ガラスの破片を全身に浴び、頭を強く打ち、しかも骨折も何か所かしているうえに重度の火傷も負ったのだという。母の長年の友人でもある主治医によれば「今後も体力の回復を待ちながら、何度かに分けて破片の摘出などの手術をする必要が出てきます。気の長い治療が必要です」とのことだ。

「当面予断を許さない状況が続くことは覚悟しておいてください。いつ意識が戻るかはどうにも判りません。もしかしたら、ということもありえます」

そしてその宣告のあと、主治医はこう漏らしてもいた。「それにしても、生きているのが奇跡です。助け出されるのがもし1分遅れていたら……」。

主治医の説明を思い出すたび、愛理は不安に苛まれる。そして面会が終わって病室を出て行く度、亡き父にも天にも祈らずにはおれないのだ。パパ、まだママと一緒にいさせて。主よ、母が「遠くへ行かない」よう……みもとに召されませんよう、お守りください。

別に暮らしに不自由するわけではないから、その面での心配は無い。母の名義のカードは与えられていて、何かあれば当分はそれで対応するように言い聞かされてきた。秘書も保護者の同意が必要な諸々については代理人を務めてくれることになっていて、学校にもそのことは予め伝えてある。家の使用人たちも気遣ってくれている。

ハロも元気だ。あの日に持ち出せなかったペット用品は同じものを用意したし、以前透に連れられて跡良邸に来たことがあるからか、飼い主と離れて1か月以上が経った上に環境の急激な変化もあったとはいえ、愛理の目には特に影響は受けていなさそうに映った――ただ、庭を元気一杯に駆け回っている様子は救いだったが、同時に寂しさを募らせる原因にもなっていた。ハロの散歩をさせている透の姿と、そこに並んで歩いていた自分をどうしても思い浮かべずにいられなくて、その光景が遠いものになったのだと実感してしまうのだ。

それに、離れているけれどこんな言葉を掛けてくれた人もいる。あの一件の数日後には、米原桜子から電話があった。

“お嬢様ですかっ、米原ですが”
「米原さん!?どうしたんですか」

事故のことや、メゾンモクバをしばらく空けるといった事情も秘書が桜子に伝えているし、ほとぼりが冷めたら週に1回の掃除を依頼してある。家は人が手入れしないと荒れるものだから、ということで。

“マスコミが梅濤のご自宅にも行くかもしれませんけど、絶対に応えないで居留守を使ってやり過ごしてくださいっ、顔も見られないようにマスクとかを付けてくださいね!奥様はきっと回復されます。愛理お嬢様、どうか、気を強く持ってください”

爆発発生から数日後にメゾンモクバの様子を見に行った運転手によれば(透の予想通りだが)、周辺にはマスコミがたむろしているという。インターホンを連打しては「日売テレビの者ですがー!国際会議場が吹き飛ばされてしまいましたがここに飾る絵を手掛けられた跡良先生の今のお気持ちは!?」「『週刊夏冬』です、秋の個展を取りやめとされたのは今回の件に何か関係がありますか?一言お願いできませんか!」などと、無神経極まりない質問を投げかけ、近所迷惑な行為を平気でしているという。愛理は運転手に「しばらくあのあたりには近寄らないほうがよろしいかと。奥様のお部屋に出入りするところを見られたが最後、あっという間に取り囲まれてしまいそうです」とも教えられていた。

おまけに、跡良日出子の親族がメゾンモクバを留守にしていることはもう知られたらしい。つい一昨日あたりから、とうとう跡良邸の周りにも取材陣と思しき何人かが来ているのが防犯カメラに映っていて、用事のため外出した使用人がコメントを求めて追い回されたと困っていた。愛理も、母の入院先で看護師たちが「しつこいわよねえ、日売テレビの記者」「跡良って患者さんの取材とか言って押しかけてきたやつ?」だとか話しているのを立ち聞きしていた。愛理は幸いなことに出くわさずに済んだが、こんなところにまで押しかけているなんて……。

“す、すみません!本当はこんな差し出がましいことを言ったら良くないんですけど、どうしても他人事とは思えなくて……”
「そんなことないです!ありがとうございます、ちょっと元気出ました」

愛理はほんの少しホッとした(あとでうちのお手伝いさんたちにも教えてあげよう、と考えたあとで、米原さんはどうしてああいうコツみたいなの知ってたのかな、とも不思議に思いつつ)。ともあれ気にかけてくれる人がいる。それはこんなにも心強いことなのだ。

ただ、同時にこうも思ってしまう――彼氏って、普通こういうときに真っ先に駆け付けて、慰めたり寄り添ってくれたりするものじゃないの?

「気にかけてくれる人」の中に、透はいないのだ。彼が連絡を寄越さなくなって10日は経っただろう。「当分連絡は取れない」との話を、まさしく願ったわけでもないのに現在進行形で有言実行しているわけだ。まるで、元から存在しなかったかのように。愛理は、透さんの言う「当分」ってもしかしたら「永遠」なのかも、とさえ思い始めているころだった。

あの一件が起きてから月が替わって……いや、それどころか状況が激変してしまっている。なのに、既読メッセージの最新の日付は、4月のあの日のさらに数日前のもの。Rineで透とのやり取りのよすがを遡れば、愛理にいっときの癒しをくれる。だが残酷にも、縋るように画面をスクロールさせ、目を走らせた末に突き付けられるのだ。透が今日まで、そして今日もまた、何の言葉もかけてくれていないことを。

声が聞きたい、「大丈夫?愛理さん」という一言が。抱きしめてほしい、「僕が付いているよ」という囁きとともに。それが叶わないとしても「透さん、どうしてるの?」「不安だからそばにいて」「ママが大変なことになっちゃった」「ハロは元気です」……そんな、たった十数文字を伝えたいし、ハロの画像だとかも送りたい。連絡を取れないと透が伝えた期間は、愛理から連絡してはいけなくて、彼から連絡を再開できるという知らせを待たなくてはいけない、という約束を破ってでも。だが今回は「当分連絡は取れない!」と、今まで聞いたことも無かった強い口調で言われている。

破ったらきっと嫌われちゃう。でも、だからこそ、どうか。

「……せめて、一言くらいくれたって」

病室でポツリと呟いたあと、そんな思いを胸にアプリを閉じれば愛理の視界が滲む。雨、ではない。窓から見える茜色の空は晴れ渡っているから。しかし、日差しが差し込むことさえ今は恨めしい。それと同じ色をした透のブロンドを思い起こして辛いからだ。もし灰色の雲が垂れ込めていたとしても、もう少し青みを足せば透さんの目と同じ色になるのに、と考えていただろう。

愛理の目から水滴がポタリと一粒。また、一粒。伝い落ちていくそれは、リノリウムの床に弾かれて留まる。その雫を拭うために手を伸ばしてくれる者は、啜り上げる彼女に寄り添ってくれる者は、ここにはいない。目の前にいるけれどやはりまだ意識の戻らない母も、ここにはいなくて連絡ひとつ寄越さない透も。



さらに数日後。聖マドレーヌ女学園の景色に、葉桜にかろうじて紛れていた桜のピンクはもう欠片も見当たらなくなっていて、銀杏並木の青々とした若葉がすっかり主役に躍り出ている。

「……ごきげんよう」

廊下を行く足取りが重い。愛理は今日ほど、学年中の視線が突き刺さるのを感じた日は無かった。美術の時間に、画家である母のような画才が全く無い愛理が「傑作」を描いて驚かれたときのそれとは比べ物にならない。

久々に登校した愛理の挨拶に、3年リグリア組のクラスメイトは「ごきげんよう」と返した。だが、みな少しの心配とその数倍もの好奇の目を声の主に向けてきている。しかも授業中は教師だけでなく、教室移動のときに廊下ですれ違うシスターたちや、下級生たちまでも(あと、英会話担当のサンテミリオンも)。

愛理の母である跡良日出子が、国際会議場の爆発に巻き込まれた……といったニュースは一切報道されていない。愛理をはじめ国民の大多数はもちろん知らないが、当局上層部が「民間人の被害者はいなかった」という体で報じさせたために。

とはいえ、そうした事情を知らなくても、誰の親が何という名前でどのような仕事をしている人物なのかは、同じ学び舎で共に過ごすうちに嫌でも耳にするものだ。加えて、跡良日出子が国際会議場に飾る絵を手掛けたことは、数年前に公に発表されていることでもある。

その上、スピーカーがばら撒いた噂話が愛理の行く先々で彼女を囲んでいた。

「……だっけ?」
「え、事故ったって聞いたよぉ」
「笑えるー」

また、あの子たち……愛理の方をチラチラ見ながらの聞こえよがしの声がして、彼女は身を固くした。危うく落としかけたペンケースを、何でも無いフリをして手元に引き戻して握りしめる。

スピーカー、もとい声の主は、リーダー格も腰巾着たちも初等部からの付き合いではある。だが彼女らと愛理たちのグループは、初対面から12年間ずっと、大きな喧嘩こそ無かったものの折り合いが悪いままここまで来た。おまけにリーダー格は情報屋気取りで、しかもゴシップが大好き。二言目には「私のパパ、『週刊夏冬』の社長なんだけど?」と触れ回っているし「中等部1年エーゲ組の誰それの親戚には、去年旦那に殺された女優の永倉勇美がいてね」とか言い出す。あと、校則で禁止のSNSもこっそりアカウントを持っていて、フォロワーが何人もいるとか……。

そんな噂はともかく、愛理の母が巻き込まれたことも親のツテか何かで知り、学園のインフルエンサーとしてさらに注目を集めるには格好の話題だと拡散したのだろう。同じころに起きた大事件という共通点があるのに【はくちょう】のカプセルのあれこれやIoTテロの話題はお眼鏡にかなわなかったらしい。

それでも。卯芽華と文乃が、クラスは違うのに休み時間のたびにそばにいてくれたから。カンナが愛理の姿を見つけるなり駆け寄って「愛理!寂しかったぁ!」と抱きしめてくれたから。睦美がヒソヒソ話の聞こえてくるところに「ねえ私も混ぜてよ、なんか楽しそうだし?」と言って蹴散らしてくれたから、顔を上げていられた。そうしてもらえなければ、きっと泣いていたし俯いて丸一日過ごしていたか、なんだったら耐えられずに早退していたかもしれない。

だからこそ、かけがえのないそんな友人たちには、母に何が起こって今どういう状況なのかは自分の口から伝えられても、この決断を口にすることは少しためらったけれど。

「修学旅行、行かないことにしたの。主治医の先生が集中して手術できるのが修学旅行3日目だけだっていうから付き添いたくて……先生には明日言う」
「わかった」
「そっか」
「りょーかい」
「うん」

放課後、いつものお喋りのため集まったとき。卯芽華も、文乃も、カンナも、睦美も。愛理の気持ちを尊重して、四者四様の言葉を口にしながら頷いてくれた。

「ホントみんな、ごめんね。一緒に行けるはずだったのにワガママ言って……」
「そもそも愛理が謝ることじゃなくない!?」
「そうだよ!それワガママって言わないし」
「愛理と行けないのは確かに残念だけどさ、おばさまのそばにいてあげて。早く良くなるといいね」

涙ぐむ愛理に、卯芽華は首をこれでもかと振って否定する。カンナも同調するように続き、睦美も気遣ってくれた。

すると同時に、文乃が「はいはーい、ひらめいたー!」と言い出して。

「いつかおばさまの具合よくなったらさ、愛理、ホントの修学旅行しようよ!」
「ホントのってどういうこと?」
「決まってるじゃん、うちら5人揃ってって意味!絶対だよ!おじいちゃまにおねだりするから任せといて」
「さっすが旅行会社相談役の孫娘っ」

卯芽華が囃すと、文乃はどうだ、とばかりに得意げな顔になった。友人たちのそんな気持ちが嬉しくて頬が緩む……が、愛理はそこでふと時計を見てハッとした。そろそろ母の入院先へ向かわなくては面会時間に間に合わない。スクールバッグを持ち上げ「じゃ、私そろそろママの病院行ってくるね。ごきげんよう」と言えば、愛理の挨拶に4人は揃って「ごきげんよう」と返して。

「そうだ、うちの厨房で使ってた圧力ポットがいきなり爆発して壁に穴開いちゃった話したっけ?」
「何それ怖っ」
「こないだインペリアル東都ホテルでディナーしてたらさ、カプセルがどうとかでなんかいきなり避難させられたんだよね、カジノタワーに。食べかけだったんだけどなあ」
「ぴえん〜もったいなーい!」

そして、お喋りに溢れたいつもの放課後へと戻っていくけれど、愛理はその輪から遠ざかっていくほかはないのだった。



走って、走って。聖マドレーヌ女学園大学医学部附属病院に愛理は急ぎ足で駆け込み、ナースステーションに申し出て病室に入った。透と交際するにあたり「勉強も部活も習い事もおろそかにしないこと」という約束を母と交わしているが、こんな状況なので当分は休むことにしている。勉強は、同じクラスのカンナがノートを撮った画像をRineで送ってくれたおかげでなんとか追いつけるだろうか。

「ママ、来たよ」

そう声をかけたあと、赤い花が生けられた花瓶の水を替えてから、スツールを引き寄せて座った。やはり、返事も反応も無い。人工呼吸器はしていないから、呼吸音だけが母の命がまだここにあり続けていると教えてくれる。

――だが。正直に言って、愛理はとても怖かった。最初の面会から何回かは、あれこれ話しかけていれば、それに応えて意識を取り戻してくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたのだ。だが、そんなものは見事に打ち砕かれた。反応が本当に何も無いのだ。娘から学校であったことを聞いては笑い、時に憤り、透と過ごしたときのあれこれをノロければ「お熱いわねえ」とからかい……そんなやり取りを、母とずっとできるものだと信じて疑っていなかった。もう二度とできなくなってしまうのだろうか。

母の様子を見やったり、カンナからもらったノートの画像を見たりしているうち、面会時間が終わるまであと5分になっていた。家の運転手に迎えを頼んでいるが、「渋滞に巻き込まれてしまっていまして、15分ばかり遅れてしまいそうです。申し訳ありません」というメッセージが今しがた来たところだ。今日はもう病室にはいられなくなるが、外来の待合室はまだ解放されているので、そこで待たせてもらうことにした。すっかり習慣になった、父と主へのお祈りのあとお手洗いを済ませてから、ベンチに腰を下ろす。そういえばふと、父の月命日のお参りで上げるお線香を切らしていたかもしれない、と思い出し、アプリに「お線香あるか確認!」と入力して閉じた。

そのあとなんとなく壁に目をやれば、様々な広報ポスターが貼られている。やはり病院らしい内容のものばかりで、愛理の目の前にあったのは「予防接種の予約受付中です」というもの、さらにその左には「感染症予防のために、手洗いうがいをこまめにしましょう。小さな対策大事な一歩!」という内容のものもある。

それから連想して愛理の脳裏に過るのは「予防も大事なんだよ」と、透がいつか言っていたことだ――予防接種や手洗いうがいみたいな小さなことからでも、病気を予防する効果があるなら。どうやるのかなんて想像もつかないけど、テロもそういうふうにできたならどんなに良いか。そうできたら、パパはあんな目に遭わなかったかもしれない、今でもママと私と、生まれてくるはずだった弟か妹と幸せに暮らしてたかもしれない。愛理の頭にはふとそんなことが思い浮かんできたが、できるわけないよね、もうそんなの超能力とかでしょ……と打ち消した。

運転手を待つ愛理を置いて、待合室にいた人は一人また一人と家路に就いていき、人影もまばらになってきた。その一角にある吊り下げ式テレビは、今日も今日とて平和に番組を垂れ流す。高校生かるたクイーン(ネイルが豪華だった)に密着取材のあと、懸賞の当選者発表の「クリヤマミドリ様、コバヤシスミコ様他4名の方々、ご当選おめでとうございます!」というテロップ。沖野ヨーコが出ている視聴者参加型スポーツ番組『HANZO』の番宣、天気予報、それから。

“さあ始まりました、あなたの知らないお仕事バラエティー『発見!わくわくワークガイド』!今回は警察特集、お馴染みの交番のおまわりさんに白バイ隊員、美人の婦警さん!そして番組初、警察の中でも知られざるヒミツが多いと言われる公安部特集です!”

司会者が拍手のSEをバックに声を張り上げ、番組は進行していく。どうやらバラエティー番組が始まったようだ。母を案じつつ、愛理は聞くでもなく見るでもなく画面を見やる。まずは『交番の一日ウォッチ!』なるVTRが始まり、お巡りさんが道を教えたり落し物を受け取ったりする様子が流れたあと、この回の目玉らしいコーナーへ移った。運転手はあと数分で来るようだ。

“ではAさんよろしくお願いしまーす!”
“よろしくお願いします、Aです。早速ですが公安部の仕事は、読んで字のごとく公の安全を守ることです”
“あのーそうゆうのってー、さっきの町のおまわりさんもやってるじゃないすかあ、どういうとこがどう違うんっすか”

元公安刑事という人物――音声は加工され、全身は不透明なモザイクで隠されていて性別さえも判らず、しかも別室からビデオ出演という形だった――は、淡々と応じる。ドラマの番宣のため出演した男性アイドルが、間延びした口調で読み上げる台本のセリフにつられもせず。そろそろ出ようかな、と愛理が席を立ちかけた、そのとき。

“公安警察の務めの第一は、国を脅かすテロを未然に防ぐことです”
「!」

思わずハッとしてその画面を見上げた愛理は、しばらく釘付けになった。その間に「テロを云々」の説明から他の話題に変わっていたが、Aと名乗るその人物は二言目には「教えられません」とか「機密事項です」とか応える。時折「えーっ」というブーイングめいたSEが聞かれたし、スタジオの空気は目に見えて盛り下がっているが、愛理の心はそれとは反比例するかのように昂っていた。

テロを防げる?そういう仕事がある?それも公安警察がそういうことをしてる?愛理は先ほど聞いた言葉を、頭の中で繰り返す。

探偵小説を好む彼女は、公安警察の名前を耳にしたことはある。今まで読んだ作品には、振り返ってみればそこに所属しているという設定の人物が何人か出てきたからだ。

だがそのキャラクター造形はというと(公安警察が出てくる作品全てを読んだわけでは当然ないからたまたまかもしれないが)、冷徹な悪役としての側面ばかりが描かれていた。例えば、主人公である探偵の捜査の妨害をしたり揉み消し工作を仕掛けていたり。また別の作品では主人公たちに友好的に協力していた、と見せかけて、実は逆に主人公らをスパイ(作中では「エス」とか「作業玉」とか呼ばれていたっけ)に仕立て上げていたり。セリフでも例えば「公安の仕業だろうよ、陰険な連中にはお似合いさ」とか、明らかに悪く言われている……。

フィクションとはいえなりたくない、自分がなるならやっぱり探偵でしょ、と愛理は思っていた。ただ、テロを防ぐことも仕事だと知った今。もしもなったら、なれたなら。私みたいな気持ちになる人が、ゼロになるまではいかないかもしれないけど、減るかもしれないってこと……!?

「予防も大事なんだよ」

透の声が、また響いた。『わくわくワークガイド』の公安部特集はもう終わっていて、次のコーナーについてのナレーションが流れている。“美人の婦警さん特集!続いては神奈川県警ホワイトエンジェルスのハギワラ隊員……”とか聞こえていたような気がするが、愛理の意識はもうそちらには向いていなかった。運転手からの「到着しました」という連絡に返信するのも忘れて、検索エンジンの検索ボックスに「公安警察 なるには」と入力するのに忙しくなったからだ。



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