蜜月に差す翳り〜発端 4


ハロのフードを計量カップに盛り、少しオーバーした分も甘やかさず袋へ戻す。預かり始めたころに比べればずいぶん慣れたよね、と愛理は思う。それからピッタリの量が入ったカップの中身を更にステンレス製の餌皿に落とせば、カラカラと音が立つ。

「ご飯だよー、ハロ」

そう呼び掛ければ、先ほどまでボールにじゃれていたハロは転がるように駆けてきた。そしてお座りして小さく「ワフ!」と鳴く。愛理が愛くるしさにニコッとして「よし」と言うと、ちゃんと聞いてからモリモリ食べ始める。

愛理はしばらくその様子を眺めてから、フードの袋の口をしっかり縛り棚の奥へと収納した。大好きな透さんの大事なハロを預かってるんだもん、管理はちゃんとしなくっちゃ、という思いを込めて。彼によれば、以前ハロが思いもよらない方法を使い、内緒でアイスクリームをつまみ食いして太ってしまったというのだ。「動物を飼うことは、フードをあげて可愛がるだけが全てじゃないからね。嫌だろうけれどそれでもワクチンを打たせたり、食べ過ぎだとかで病気にならないように前もって気を付けたりする。そういう予防も大事なんだ」――透の声を思い出しながら、愛理はスマホを手に、和室に敷いてある布団の上に寝転がった。

聖マドレーヌ女学園は幼稚園から大学までを擁しているが、それぞれ創立記念日はバラバラだ。学園全体の創立記念日は11月ということになっていて、その時には記念ミサが執り行われ出席も取られるけれど、各部の創立記念日ならただのお休み。そして、高等部の創立記念日は4月28日。お待ちかねの大型連休にプラス1日おまけ付き、というわけだ。

高校3年ということで、普通ならもう受験勉強に本腰を入れ始める時期だろう。だが愛理はそうしたことを考える必要が無い。エスカレーター式に大学へ進学する予定だし「跡良さんの成績なら内進に全く問題ないでしょう。でも良いの?お茶の泉や東都大だってもうちょっと頑張れば夢じゃないのよ、もったいないわね」とお墨付きをもらっている。それなら、楽しみがいっぱいの日々に思いをはせる時間を取ろうと思うもの。中間試験と、修学旅行出発前に受けさせられる模試のことは置いておくとして。

愛理はスマホの手帳アプリを起ち上げ、入力してある内容を確認がてら眺めた。今日は「ママ 絵の搬入」「neo左文字 1話 2時間拡大」という表示があるが、5月は……網戸から吹き込むそよ風が、ワクワクした気持ちを運んでくるようだ。

まず、明後日は友人の睦美の家でお泊まり会がある。連休の最終日には、国際会議場で開かれるプレオープンパーティーに行き、母が手掛けた作品をいよいよ見られる予定だ。合気道の稽古も演武会と二級合格を目指して頑張らなくては。

さらに、連休中ではなくてもう少し先だけれど、この度ようやく沖矢と都合が合い、工藤邸を見学させてもらって探偵小説談義をする目途も付いたのだ。そして何より修学旅行も……中等部のとき、カナダにホームステイしたことはあったけれど、愛理は初めてフランスやイタリアに行くのだ。この間のポアロでの話し合いで、自由行動の日の目的地は決まったから、次の話し合いでは経路を調べて学校へ届け出る予定になっている。

ただ。

「ここに透さんとのデートがあったら、もっと最高なのに」

そう零したあとに吐いた溜息をそよ風はさらってくれないまま、愛理のそばによどみ続ける。

今のところ入っているスケジュールの中に、「透さんとどこそこで」という文字は含まれていない。無性に寂しくなって、愛理は最後に彼とデートをした3月のページへとスクロールした。ハロが部屋に入ってきてまた遊び始めたので、餌皿を洗ってやりながらあることを思い浮かべる。恋人の愛犬の餌皿は空っぽで、あの日の光景とは正反対だと。

3月の、春休みに入って間もなくのころ。愛理と透は紳保町を訪れていた。『探偵左文字』シリーズを手掛ける大学館出版など大手出版社が本社を置き、古本屋の町としても知られている地だ。古本屋を冷やかしつつぶらついた後は、彼のお気に入りだというカレーレストラン【Dondy】でランチを食べようということになった。

人気のお店なのだろう、人ひとりすれ違うのがやっとの狭い廊下で待つことしばし。透は中辛チキンカレー、愛理は中辛ビーフカレーを頼み、ようやく頼んだものが運ばれてきた。スパイスの香りが鼻をくすぐる。湯気を立てているライスの上に散らされたチーズがジワジワと溶けていく様子に、目が惹きつけられる。

「わぁ美味しそう!」
「でしょ?」

お気に入りの店を褒められたからか、彼は嬉しそう。つられて愛理も笑顔になった――実はこの店に並び始めた直後「本屋さんに行くと、お手洗い行きたくなっちゃうことあるっていうけどホント?」と何気なく愛理が訊いたら「それは青木まりこ現象だね」と彼が言い出した……までは良いとして。そんなユニークな名前の現象に関する色々な知識を、カレーがサーブされるまでほぼノンストップで披露されたので、少し辟易していたのも忘れることができた。

だが、そう言い合い食べ始めて間もなく、スプーンを口に運びかけた透に電話が入った。ポケットから取り出したスマホのディスプレイを見るなり、彼はスプーンを置いて立ち上がる。流れるような、隙も無駄も無い動作で。同時に、先ほどまでのリラックスした雰囲気はどこかへ行ってしまっていた。

「愛理さん、悪いけれど今日のデートはここまで。僕の分を置いておくから支払いをお願いできるかな、あとまたしばらく連絡できそうにないんだ、ごめんね。それじゃあ気を付けて」

早口でそう告げつつ、透は自分の分の代金(あとで支払いのとき、ちゃんとお釣りが出ないちょうどの額だったことが判った)をさっと置く。そうするが早いか、カレーを口に含んだばかりだった愛理が引き止め話しかける隙も与えず、風のように去って行ってしまった。

透が行ってしまうまでは美味しく思えたカレーだった。なのに、一人残されて食べてみればどうだろう。途端にちっともスプーンが進まなくなってしまい、でも残すわけにもいかないので、愛理は平らげるのに四苦八苦した。彼が注文したカレーは、カレーポットにもお皿にもまだまだ温かいままたっぷり残っている。ライスの上に散らされたチーズもようやく溶け切ったのに。その光景が、愛理をなお寂しがらせてやまなかった。

――透と恋仲になって、早いもので半年が過ぎた。彼はルックスも頭も良ければ物知りでスポーツ万能。おまけに強く、優しく、本当に色々なことが得意だ。愛理が通っている学校はミッションスクールだから「主こそ万能な存在だ」と何かにつけ教わってきたけれど、本当に完璧な人っていうのもいるし、それは透さんのことなんだと愛理は思ってきた。

とはいえ、そんなことはなかった。恋人のマイナスの面がここのところ少しずつ見えて来始めていたのも事実なのだ。

まず、透は喋りすぎることが多い。最初のころは物知りで話が面白いと思っていたし、彼が「愛理さんが聞き上手なおかげで話が弾むんだ」と褒めるものだから舞い上がっていたが、次第にちょっとなあ、と思うようになっていた。

話したいことは愛理にだって当然たくさんある。なのに、透の話題が豊富「すぎる」分、彼はなかなか主導権を渡してはくれないから、愛理は自分から切り出すタイミングをうまく計れない。そしてそんなところへ、お客さん――と読んで「風見」か「上層部」、あるいは「組織」と書くことを愛理は知らないが――からの緊急の連絡が入って残念ながらデート終了と相成り、伝えたかったあれこれを胸の中にしまい込むことも少なくない。連絡が取れない間、伝えたいことがあったら手紙を出していたけれど、そういえば出す頻度は近頃低くなっていることに、今気が付いた……。

加えて、それ以外にもある。透のおしゃべりぶりや、不定期で連絡が付かなくなり、取れるようになるのが確実にいつなのかも判らないこと。あと、彼が赤色を嫌いでその色をしたものを見たり、誰かが身に着けたりするだけで不機嫌になることのほか、愛理にとっていっとう嫌なのは、透が実はああ見えてそんなにデリカシーが無く、恋人が恥ずかしがることをあえてして楽しんでいるような節があることだ。

いつかポアロで愛理は、自分と同い年くらいの女子高生が透にこう言っているのを聞いた。

「あむぴってコミュ力と気遣いの鬼だよねー!イケメンでそれとかマジ無敵じゃん王子様みたい〜好き〜!」

透にもう恋人がいるのを知らないらしい。褒めてお近づきになろうという魂胆だったのだろう、カウンター席で彼をまっすぐ見つめ、目をウルウルさせながら(彼は無難に「ありがとうございます、でもそういうことは是非付き合っている人に言ってあげてくださいね。きっと喜んでくれますよ」とか、目線を合わさずに応えていたっけ)。

そのとき愛理は「実はそうでもないんですよ」と、件の女子高生に明かしたくてたまらなかった――自分が恋人なのだというアピールをするためではなく、本当に「そうでもない」から。

だって、喫茶店店員として見せている、気遣いのできる男の顔〈フェイス〉は一体どうしたことか、愛理の前ではいたずらっ子のそれに様変わりしてしまうのだ。

前の、前の、もっと前くらいに、家デートをしたときのこと。透は部屋デートのとき、トランプマジックを披露してくれたり、ハロの写真や動画を見せてくれたりといったこともするが、それが済めば後ろから愛理を抱きしめ、手を握って過ごすのがお約束になっていた。

そしてそのまましばらくすると、色々なところに間隔を空けてキスをしてくるのもお決まりのパターンだ。透はどうも耳たぶが一番お気に入りらしい。ちなみに次点は、首筋――愛理の黒髪を、シルクのベールを除けるかのようにそっとかき分けて唇を寄せるのだ。

ただ、愛理は照れて言い出した。

「透さん。お耳と首にちゅー……ダメ。唇とかほっぺなら嬉しいの、でも首や髪だとムズムズして変な声出そうになっちゃうから。もし聞かれたら恥ずかしいし」
「へぇー……?」

だが――解ってない、解ってないよ愛理。透は相槌を打ちつつ心の中で囁いていた。むしろそう言われれば言われるだけ、そうしたくなるというのに。ダメはダメであって、イエスではない。それでも透は息だけの笑い声を、ほんのり色が変わった愛理の耳めがけてしっかり命中させ、彼女をゾクゾクさせる。そして、恋人が今しがたダメと言ったばかりのことを、また繰り返したのだ。

「ひゃん!言ったばっかりなのに」
「愛理さん、いいかい。男はそんなことを聞いたらもっとそうしたくなるものなんだよ」
「それ透さんだけじゃない?」
「ばれちゃったか……」

恋人のものなら抗議の声さえ、自分を甘くとろかす天使の囁きに聞こえる。そう、可愛くて、可愛いすぎて――色々とまずいぞ。透はそのとき「あること」がばれそうになったことに気が付き、一瞬の沈黙を挟んで「あ、ちょっとごめんね」と断ってトイレに立ったので、愛理は解放されたのだった(だから彼女は、腰のあたりに触れていたけれど、透が離れた瞬間に感じなくなった何か硬くて熱いものの正体を掴めなかった。せいぜい気付いていたことといえば、透の息が少し上がっていたようなことくらいだった)。

恥ずかしいといえば、こんなこともあった。

「何してるの透さんハロじゃないんだからっ!」

3月よりもう少し前の、愛理の部屋でのデート。愛理はお茶を淹れてきたところだったが、そのとき目の前の透が取っていた行動に理解が及ばず、引き気味に叫んでしまった。

だって恋人は愛犬よろしく、愛理の枕(押し入れにしまうところ、クッション代わりに出しっぱなしにしていたのだ)を抱きしめ、そこに顔を埋めて何度も嗅いでいたのだから。

しかも咎められたら顔を上げたが、そのまま平然と「うん、確かに僕はハロじゃない。だけど愛理さんの良い香りがするなあって思ったから惹き付けられた。いけなかったかなあ?」と、ちっとも悪びれずに言うではないか(最後には笑顔で小首を傾げ、いたずらっぽくウインクまでしてみせながら!)。おまけにそのまま「相手の香りが心地良いと思うのは遺伝子的に見ても相性が良いということでもあってね……」と、いつもの雑学タイムをつらつら続けそうだった。

だが、臭いを嗅がれるのはなんとも恥ずかしいから、愛理は「いけません!汗臭いでしょっ」と遮ったので、透はそこで一旦謝った。しかし彼は今度はいたずら心がムクムクと湧いてくるのを感じてもいた。涙目になり、少し頬を膨らせている様子の愛理に……要は「キて」しまって、たとえようもなく興奮がやまなかったから。

「じゃあそういう愛理さんはどうなのかな」
「ダメ!」
「いつか言ったでしょ?ダメはダメって」

枕をそっと元の位置に戻し、透は無駄の無い無駄に素早い動きを見せた。愛理を向かい合う形で腕の中に優しく「確保」するが早いか「実況見分」を始めた(雨宿りの日にした妄想が半分現実のものになったわけだ)。

「愛理さんが汗臭い?そんなことは全然……でも。うーん、これは確かに」
「ひどい透さんやだ、やだ!離して」
「もっと嗅がないと判らないなあ」

びくともしない腕の中、愛理は嫌がって身じろぎした。やめて、と何度も言った。なのに透は聞き入れてくれない。これでは、顔見知りにショッピングモールでされたことと何も変わらない……。

「……やだって、言ったのに〜〜〜、っ、うぇ」
「!? ご、ごめん!本当にごめんね、愛理さん。僕が悪かったよ、調子に乗ってしまって」
「ヒック、うぅ、やだ」

愛理が俯いてボロボロ泣き出したことで、透はようやく〈釈放〉して謝りながら頭を撫でてくれたが、愛理はそれでもなかなか泣き止まなかった(このやり取りは壁ごしに漏れ聞こえていたらしく、あとで母には「安室さんと何かあったの?」と心配されてしまった。泣いたあとの顔だったのでなおさらだったのだろう)。恥ずかしい思いをさせられた以上に、密着した分、向き合いたくなかったことを突き付けられてしまったせいだ。

――また、私の知らない臭いがした。愛理はひどく悲しかった。自分の知らないところで、自分の知らないうちに、自分の知らない誰かの前で、自分の知らない表情と振る舞いをしている彼が確かにいるのだ、と突き付けられたから。

透は、当然隠そうとはしているだろうけれど、それでも色々な臭いを微かに纏って帰ってくるときがある。

ポアロに漂うコーヒーやスイーツの香りなら大歓迎だ。なのに、そこには時々、花火をたくさんしたあとのような臭い――愛理は知らないが、バーボンあるいは降谷零として拳銃を発砲した際に浴びた煙だ――が混ざることもある。愛理はまだ、料理用のみりんやワインでしか知らないお酒の匂いも。多分、外国ブランドの香水を思わせる、きっと大人の女性からの移り香も嗅いだことがあるし、整った顔にガーゼを貼ったり、体のどこかに包帯を巻いたりしているときには消毒液独特のそれが鼻をつく。愛理はそんな「お土産」なんて欲しくはなかった。無事に戻ってきてほしいのは彼だけなのに。

これまで透と連絡が付かない間、愛理は彼が探偵の仕事をしているのだと信じて疑っていなかった。同時に、会えない間に自分以外の誰かにどんな顔を見せているのかについては考えないようにしていた。恋人のフリをする依頼もあると聞いていたし、現に多分そのせいで自分以外の女性と一緒に見かけたことも一度や二度ではない。探偵の仕事中は、彼から連絡が入るまで愛理からコンタクトを取ってはいけない。これは交際を始める前からの取り決めだし、その後さらに「万一探偵の仕事中に出くわしても他人のフリをしてほしいんだ」という約束も加わった。

もちろん、全部守ってきた。ワガママも言わなかったはずだと思う。だって、ひとえに好きだったから。困らせたくなかったから。

だけどじゃあ今は?もちろん、透さんのことは好き……でも、不安。愛理は自問してから呟いた。

「浮気っぽいことしてるっていうし、デリカシー無いし、連絡付かないことも多いし……透さんにプロポーズしてもらったのは嬉しいけど。結婚してやっていけるの?」

稽古事の顔見知りや友人の卯芽華が透を見かけたという話が、また愛理の頭の中でやたらと響く。「金髪の、ハリウッドスターみたいな外国人の女の人」なんて、あれは顔見知りの悔し紛れのデタラメだとばかり思っていた。卯芽華が教えてくれたことだって、そっくりさんを見ただけだろうと捉えていた。だけど、透はそのことを認めた……思い出すと胸が苦しい。

やっぱり、私、透さんのこと大好きなんだ。だから、こんなに苦しいんだ。

「ママは、パパとこういう思いしたのかな?」

こういう話の相談相手は、彼氏のいる友人たちよりも母のほうが良さそうな気がした。現にたった今文乃が「聞いて〜かれぴと喧嘩したぁ泣泣」とのRineを送って来たからには、タイミングからして選ばない方が良さそうだ。ママが帰ってきたら訊いてみよう……。

すると、続いて電話の着信が。文乃に慰めの言葉でも送るつもりでスマホをタップしていたのに、つい反射的に〈応答〉のボタンを押してしまった。ディスプレイには〈透さん〉とある。

だが、透からの連絡なのに愛理は嬉しくなる前に戸惑った……いや、そうする猶予すら与えてくれないまま、まず聞こえてきたのは、鼓膜に突き刺さるけたたましいサイレンの音に怒号。

「愛理さん!今すぐ僕の言うとおりに!」
「え? どなたですか」

誰が思うだろう?「愛理さん、僕です」といういつもの挨拶もなしに聞こえてきたのは、確かに何度でも聞きたい愛おしい相手の声。なのに、初めて耳にする口調でのコールだったなんて。



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