蜜月に差す翳り〜発端 3


ビルの林を抜け、コンクリートの道を行き。セダンタイプの、古いがよく手入れされた車は、気が付けば臨海都市エリアを走り始めて数分になっていた。目的地――エッジ・オブ・オーシャンは段々と姿を見せつつある。ウォーターフロントに付き物である倉庫や橋、コンテナの山々。それをも見下ろすかのようにひときわ高く聳えるは、目玉であるカジノタワーだ。

すると、長年仕えている運転手は心得たもので、後部座席の女主人に的確な情報を伝えて促す。

「そろそろご準備のほどを、奥様。サミット会場の外周にはモノレールが走っているとニュースで見ましたので……当分開けないほうがよろしいかと」
「ありがとう。そうするわね」

忠告を受けた跡良日出子は、感謝を伝えてからそっと手を伸ばした。準備とはいっても目的地まではまだもう少しある。降りるよう促されたのではないから、ハンドバッグは手に取らない。

代わりにその手が延ばされたのは、窓に掛けられたカーテンだった。防音・遮蔽効果が高い特注品だ。シャッ、という小気味よい音を立ててカーテンを引けば、少なくとも後部座席から車窓の外の様子は完全に見えなくなった。フロントガラスの視界を遮ることはさすがにかなわないので、あとはしばらく目を瞑ってやり過ごすことにする。

そんな中、日出子が思い浮かべるのは過去と未来を行き来するあれこれだった。

例えば学生時代の夏休み。友人たちと、今はもう運行されていない特急北斗星3号のロイヤルルームを取って青森県を訪れ、現地の風景画を描いた。そのあと帰京して、当時の恋人(つまり亡き夫)とのデートに行ったのだ。何かのツテでベルツリー急行に乗って東都駅に帰ってきたばかりの彼は、探偵小説好きということもあってか、車内で出題された謎解きのことについてそれはもう熱心に語ってくれた。日出子はちっとも解らなかったけれど、目を輝かせる夫の様子を愛おしく思ったものだった。

それと、ここからそう遠くないだろう芝浜駅では、娘の愛理が通う聖マドレーヌ女学園が、WSG開催に合わせてボランティア活動をすることになった、というお知らせが来ていた……そしてそこには“日本の弾丸”とかあだ名される超電導リニアも開通するとか、聞いたような。

――ああ、嫌だわ。そんなことを考えて何になるの。電車に関わるものごとが頭を過るだけでもめまいがするっていうのに。日出子は右手を額に当て、そうしたことを頭の中から消し去ってしまおうと試みる。左手ではペンダントとしていつも身に着けている夫の形見を握りしめて。こうして手がふさがっている分、じっとりと滲みだした脂汗が滴り落ちるのを防げないまま。

どこかへ出かけること、そして電車に関わるものごと。日出子はそういったものが怖くてたまらなくなった。10年以上前に夫を、列車に仕掛けられた爆弾によるテロで喪ったあの日から。

あれ以来駅に近付いたり、電車やそれに関するものを少し見聞きしたりしただけでも影響が出る。めまいや動悸がしたり、あるいは脂汗が止まらなくなったりもする。この前東都環状線に爆弾が仕掛けられる事件があったときは、確か愛理があれに乗ることになっていたはず、もし巻き込まれていたらどうしよう、と動悸が止まらなくなったほどだった。果たして娘は別にその車両に乗ってはいなかったとはいえ。

列車にまつわるものは、思い出も含めて今となっては「楽しかった」ものではなく、日出子を苦しめるものでしかなくなってしまっていた。何より覚悟をする時間さえ貰えなかった突然の別れのあと間もなく、最愛の人の死が遠因になったのか、お腹にいた命がたった3か月で鼓動を打つのをやめていたことを知ったのもまた、原因だと思う。

だから。悲しい記憶になるべく接したくなくて、移動はほとんど車を使い、こうして車内には厚手のカーテンを取り付けている。お抱えの運転手がいるのも、車の方が安全だと思っているから。国内でも長距離を移動する場合は絶対に飛行機を選ぶし、空港へも車で行く。飛行機なら、鉄道よりずっとセキュリティにうるさい分爆弾など持ち込まれないだろうと考えてのことだ。

あれが起きる前は、こんな私じゃなかったわ。少し落ち着きを取り戻した日出子は「遠くへ行った」日々のことを思い出す。

愛理が生後半年になってからは、毎月必ず数日はシッターに娘を預け、夫婦水入らずであちこちへ出かけることが楽しみだった。夫の誕生日を杯戸シティホテルのディナーで祝い、そのあとはもちろん取っておいた部屋で……あるいは軽井沢の別荘で、朝は散歩がてら評判のブーランジェリーの往復の道のりを恋人繋ぎで歩き、ディナーは夫が腕を振るった地元の山の幸の料理に舌鼓を打って……。

でも、それももう叶わない。特に夫と連れ合っている誰かを見ると、自分が隣にあるべき最愛の相手を喪った、いや理不尽に奪われたのだと、嫌でも突き付けられてしまう。そのせいで、仕事の関係や友人と会う用事、往診では対応できない通院、愛理の学校行事や夫の墓参り、(それから去年まで娘には打ち明けられずにいたが)産んであげられなかった子の供養以外では、極力出かけないことにしてアトリエにこもり製作に没頭し、外商も美容師も家に呼んで済ませるようになった。娘は「ママってばホントお家にいるの好きなんだから」と笑うけれど。

加えて本音を言えば、日出子は愛理を本当は電車や、あとバスにも乗せたくない(娘の学校では、自家用車での送り迎えは足のケガなど特別の事情が無い限り禁止だ。初等部卒業までは保護者が登下校に付き添うが、夫も亡く自身も出かけられない事情があったので、それは家政婦や運転手に任せるほかはなかった。加えて、愛理には公共交通機関でのマナーを身に付けさせる必要があるから、止めることはできないのがもどかしい)。もしもたった一人の愛娘、生きる意味そのものである存在まで、夫のような目に遭ったなら。日出子は今度こそ絶望に導かれるまま、二人が導かれるはずの場所――天国――へ急いでしまうだろうという嫌な確信があった。

「……様。奥様?ご到着でございますが、ご気分がすぐれませんか」

ドライバーの呼びかけに、日出子の意識は現実に呼び戻され「なんでもないわ」と答えた。長年仕えている分事情をよく知る彼は、頷くでもなく頷いたあと予定を読み上げる。

「お迎えは正午きっかりでこちらに回し、そのまま日本橋逸昇でご友人とのランチというご予定でよろしかったでしょうか」
「ええ。それまでどこかで一休みしていらっしゃいね」
「いつもお気遣いいただきありがとうございます」
「それはこちらもそうよ」

うっすら、恐る恐る目を開けたが、そこはもう通用口だった。日出子はホッと安堵の息を吐き、送られてきた資料を取り出して今一度目を通す。今日は家の都合で休みである秘書から「28日は、10時にこの地点で待ち合わせということで警視庁の方から言づかっております。お迎えの方が待機されているそうです」と報告を受けていたのだ。

ドライバーが先に降り、後部座席のドアを開ける。降りた日出子に向かって彼は「では、お気を付けて」と一礼してから、また車に乗り込んで発進し遠ざかっていった。

遠くに絵の搬入を担当する業者のロゴ入りトラックが見える。既に会場入りしていたようだ。そして周りでは、通用口に佇む日出子をよそに既に何人かが行き交っていた。IDカードを首から提げ、一様にスーツに身を包んだ彼らは、キビキビと無駄の無い動きを見せている。

約束の時間までもう数分。だというのに、迎えと思しき人影は見当たらない。到着したと連絡を入れようにもできない。そもそも日出子は先方の連絡先も知らされていないのだ。搬入のやり取りの際「ねえ、先方のお名前とご連絡先は?」と日出子は秘書に訊いた。しかし「それが、かたくなに担当者とだけしか先方はおっしゃっていないんです。しかも先生のご連絡先は把握したので何かあればこちらから連絡する、だが私どもの連絡先は教えかねると……」と、敏腕を誇る彼女も困惑気味だった。

とりあえず、時間潰しも兼ねてこのカジノタワーを撮って愛理にも見せてあげようかしら。とっても綺麗だし……日出子はそう思い立つ。スマホのカメラを起動して、カジノタワーに向け(モノレールの線路が写り込まないように調整して)、シャッターボタンを押そうとした、ら。

貝殻をイメージしたカジノタワーが写っていたはずが、不意に画面いっぱいに肌色が広がった。故障ではない。いつの間にか日出子の右側に立っていた男性が、レンズを掌で覆っていたせいだ。続いて早口の、かつ抑揚の無い女性の声が左側からする。

「跡良日出子先生。サミット終了までは敷地内の撮影厳禁とお伝えしているはずですが」
「あ」

気が付けば、日出子は男女2人組に左右を挟まれていた。そこでそうだ、撮影はいけないのだったと思い出す。それにしても気配を全く感じさせないまま、足音も立てずに近付いてきた彼らは一体誰なのか。国際会議場の職員ではなさそうな気がする。

この方々がもしかして警視庁のご担当?でもいつの間に隣に、そしてどうして私を御存知なの? 確かに画家としての名前は知られているけれど、顔は出さないようメディアには頼んでいるし、そもそも私はまだ名乗ってもいないじゃない。なのにとっくに確信しているような口ぶり……日出子は先ほどとは違う種類の冷や汗が背中を伝い落ちるのを感じた。

「そうでしたわ。大変申し訳ありません……わたくし跡良日出子と申しますが、もしかして警視庁のご担当の方でいらっしゃいますか」

大人しくそそくさとスマホをしまって詫びたあと、まずは自分から名乗り相手に誰何する。が、彼らはそれに答えないまま、この場の主導権を易々と握った。

「もう一度先ほどと同様の行為をされた場合、速やかにお帰りいただきます。また、我々は既に跡良日出子先生のあらゆる情報を得ていることをご承知おきください。よろしいですね。スマートフォンは敷地外へ出るまで、電源を切り鞄の底へしまってください。今一度電源を確実に切ったか拝見します……これで結構です」

男が矢継ぎ早にそう指示すれば、女も続けて有無を言わさぬ口調で続ける。それは説明というより、ほとんど宣告めいたものだった。

「本日は身体検査と所持品検査を受けていただきましてから会場内へご案内します。絵の掲示が終わるまで私どもが常時誘導します。ご用件に関わる場所以外への立ち入りは禁止です。それから、化粧室についても使用できるのは出入口に近い所定の箇所のみですのでお手洗いは事前にお済ませになってください。個室の扉前までも私が同行しますのでその際はお申し出ください」
「そんな」
「検査室はこちらです」

いくら同性とはいえ、洗面所にまで付いて来るですって?さすがに羞恥心を覚えた日出子は軽い抗議の声を上げかけたが、遮られ気圧されて、「担当者」に促されるまま着いていくほかはなかった。

日出子は早くも気疲れし始めていた。こんなに物々しいのね、国際会議の裏側って。〈和〉をコンセプトにしたというけれど、だからって和やかじゃあまったくないわ。ともあれ、今は絵をしっかり掲示することに集中しなくては。終われば美味しいランチと楽しいお喋りが待っているのだから。

……そう思いながらドアをくぐる直前、日出子は少し顔を顰めた。潮風に混じって、不意に彼女の鼻をつく臭いがしたのだ。この臭い、ガス? どこかで漏れているの? 工事ミスをこんなところでするかしら。だが、鼻をひくつかせるのは止めておいた。そんな些細な行為さえ、傍らの2人に咎められてしまいそうな気がして。




絵の搬入と設置は、果たして予想よりかなり長引いた。

“この位置でよろしいですかー?”
「もう少し右へ。3ミリ動かしていただけます?今度はちょっとずれすぎ……いやだ、また切っちゃったわ」

スマホを使うことが許されない状況なので、日出子と業者は「担当者」から貸与されたトランシーバーでやり取りをしている。だが、彼女がなかなか操作に慣れなかったため思わぬところを押して接続を切ってしまったり、位置が思い描いたとおりにならなかったので、やはり芸術家気質ゆえ何度も動かさせたりしたためだ(傍らの「担当者」たちは宣告通り張り付いて一挙一動に目を光らせていたが、時間が経つにつれ苛立ちを隠せなくなっていたようだった)。

それでも微調整はもう間もなく終わりそうではある……そう、ここだ。“ではこの位置で固定しますか”という業者の言葉に、日出子は「お願いします」と返す。

――とうとう「完成」だ。ベストポジションに収まった作品を見上げ、日出子はエッジ・オブ・オーシャンに足を踏み入れて初めて笑った。我ながら素晴らしい、コンセプトに相応しいものを仕上げることができた。東京サミットの開催が決まり、数年を費やして描き上げたのだ。こうして収まるべきところに収まると、達成感もひとしおというもので。きっとこのいい気分のままランチも美味しく頂けるはず。そうだ、愛理は今日のランチのお店のお漬物が好きだからお土産にしましょう。

そこまで考えたとき。向かいのエレベーターのドアが開いた。深緑色のスーツに身を包み、眼鏡をかけた男性が数人を引き連れて降りてくるのが見える。眼鏡のレンズの奥の目は、日出子を挟む2人組以上に冷徹そのものといった感じで……そこで彼女はひどく驚いた。見知った顔だったからだ。

“モノレールに本日のテスト走行は終日取りやめさせている。それに、……ああ、フルヤさんが……”

トラウマのもとを目にしないで済みそうだとほっとしながらも、注意深く様子をうかがう。あの方、何度かメゾンモクバの廊下ですれ違ったことがある――安室さんが時々お願いしていらっしゃる、ペット見守りサービスのスタッフさんじゃないかしら。確かお名前は、ヒダさんといったような。あの歩き方、身のこなし、声も。間違いない。観察眼には少しばかり自信があるから。「でも、そういうサービスの方がどうしてここにいらっしゃるの?」という疑問に、応える者はいない。

例の男性は、日出子から注がれる視線などまるで存在しないかのように振る舞い続けている。通話を始めたり終えたりしたかと思えば、小走りで寄ってきた数人に何やら二言三言小声で話す。その相手が頷いてすぐさまその場を離れるあたり、それなりの責任者なのかもしれなかった。

踵を返して、ヒダがこちらへ近づいて来ようとしている。日出子はすれ違いざま、意を決して訊ねてみた。

「あのう。ペット見守りサービスの方でいらっしゃいます?ヒダさんっていうお名前の」
「これより見回りがありますので、ご用の済み次第速やかにご帰宅願います。どうだ、進捗は。【はくちょう】絡みなら……」

だが彼はそっけなくそう返すだけ(しかもよくよく聞いてみれば、名前を訊いたのにそれには答えていないではないか)。そして傍らの部下に話しかけることでもって、この会話を続ける意思は一切無いのだと日出子に示した。話の接ぎ穂を失った彼女を、傍らの「担当者」の女の方が見やる。その顔には「余計なことを」と大きく書いてあった。

「ご苦労」

だがそこへ新たに、やはり足音も無く近づいて来る人影が。それに気が付いたほんの一瞬で、傍らの「担当者」もヒダもサッと敬礼を送る。

その相手は、陽に灼けたような肌。金髪、灰色がかった青い目。口調も声色もずいぶん違うけれど、でも。日出子の隣に姿を見せたのは、まさしくお隣さんにして、娘の愛理の恋人だった。

「……安室透さんで、いらっしゃいますよね」
「そうでもありそうでもありません、とだけ」

降谷零として跡良日出子の前に現れた彼は、本来の口調で答えた。これが安室透として振舞う時なら、爽やかな声色で、人好きのする笑みを浮かべて、目の前の女性を「跡良先生」と呼んでいるところだが。

零は今日、警備の下見とその指揮を担当することになったと同時に、日出子とこうして鉢合わせる可能性については当然予測していた。愛理から“ママは28日に絵の搬入するって言ってたの”というRineメッセージをもらうより先に。公安の捜査官であることがごく限られた者以外に露見すると、今後に支障が出かねないリスクも織り込み済み。それでもこうして愛理の母の前に姿を見せたのは、秘密を着飾りすぎても身動きが取れなくなるものだからだ。

「一介の探偵さん、ではなかったのですね。お話できないことと仰っていたのも、この件ですの」
「はいともいいえとも、今は申し上げられません」

透、もとい零はそこで言葉を切った。そして――普段は携帯していない警察手帳を懐から取り出し、日出子に示す。

「えっ」
「まあ……!」

日出子は当然として、飛田、もとい風見も同じくらい驚いた。「いいんですか」と言いたげな驚きまじりの視線で訴える風見に、零は「構わない」と無言のうちに返す。

ガラス張りの天井から降り注ぐ日差しを受けて、表紙に咲き誇る金箔押しの桜の代紋が煌めいている。警部という階級と顔写真、本名が載った中身を示していないからだ。零は、自分の口から自らについて語ることを許されない身分。文字通り代紋に物語ってもらうほかはない。どうかこれを見て察してほしい、守りたいもののためにここにいるのだ……という思いを込めて、日出子を見やる。

さしもの日出子も、愛娘の恋人の真の顔〈フェイス〉には驚いたようで、しばらく何も言えないまま、警察官たる証を見るほかはなかった。だがそのままややあって、ゆっくりと頷く。彼の言わんとすること、自分を信じて正体のほんの一端だけでも「語って」くれたのだと知ったから。

「跡良日出子先生。ここでお目にかかったことは、愛理さんには内密に願います」
「承知しましたわ」
「感謝します。では」

零はそのまま一礼すると、足早に会場の扉をくぐって外へ出た。そうしながらも何やらタブレット端末を操作していて、その次は通話をし始めて。まるで手が何本もあるかのようだ。

お忙しい方なのねえ、いろんな意味で。日出子はそんな感想を抱いたが、そこでハタと思い出す。そういえばこの異臭、収まるどころかむしろ広まってさえいるようだ。どうしてか胸騒ぎがする。ここに長く居たら……愛理に、二度と会えなくなってしまいそうな悪い予感がひどくするのだ。安室さんかどなたにガス漏れなんじゃないかしら、とお伝えしたほうが――。

よかったのかもしれないが、かなわなかった。次の瞬間、日出子は耳をつんざくようなすさまじい轟音と爆風に吹き飛ばされ、続いて勢いよく上がった火の手に焼かれ、崩落した天井に飲み込まれ、そんな考えもかき消されたからだ。



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