蜜月に差す翳り〜発端 2


ピカピカの車で、大好きな彼氏が迎えに来てくれた。その上、言い寄って来る顔見知りに「遠くないうちに結婚する予定だ」なんて宣言までしてくれて、家まで送ってもらえることになった――いつもだったら、絶対に浮かれていたはずだ。

だが。順調に走り抜けるRX-7の助手席で、愛理は浮かない顔だった。合気道の稽古のときはポニーテールにしているが、車に乗ったときにそのままだとヘッドレストにつっかえるので、乗り込んですぐサイドテールに結び直した。その分、もてあそびやすくなった髪を指先でいじりながら思う。

透さんの車に乗せてもらって、居心地悪いなって思うの初めて――知りたくなかった。透さんが、お仕事のためっていうけど、私以外の女性(ひと)を助手席に座らせてたなんて。

強引に愛理の手を引いてあの場を後にした透だったが、ややあっていつも通りの彼に戻りつつあった。先に愛理を助手席にエスコートしてくれてから、彼も乗り込んでシートベルトも締めて。

だが、発車する前に恋人が告げてきた言葉が、ふと思い出されてくる。透さんがまっすぐ私の方見つめてくれてるところだけ思い浮かべられたらなあ、と愛理は思うが、都合よくはいかないものだ。

「愛理さんには、隠さずに言っておきたいから言うけれど……確かに、あの彼が言ったことは本当だよ。この車に外国人の女性を乗せた」
「!」
「でも僕をどうか信じてほしい。さっきの彼が言ったような浮気相手じゃない、本当に依頼人なんだ」
「わかり、ました……透さんはきっとそんなことしないもの。あの人がデタラメ言ってるだけ。私は信じてます」
「ありがとう愛理さん、心配かけて本当にごめんね。それじゃあ出すよ」

そのやり取りを最後に、愛理はずっと黙ったままだった。自分を納得させるのに忙しかったのだ。そんなわけないんだから。無い、透さんに限って……浮気、とか。もし本当にそうしてたら、さっきみたいに素直に包み隠さず話してくれないものだと思うし。日の光が、磨き上げられたガラス越しに差し込む。天気はいいのに、気分はちっともシンクロしない。

愛理を最近悩ませていること。それは、透が浮気をしているのではないか、ということだった。先ほど顔見知りの言ったことを「透さんはそんなことしない」と強く否定したのは、もちろんあの彼に反論したかったからというのもある。でも、もう半分は自分に言い聞かせる目的もあった。

実は、透の浮気疑惑を最初に言い出したのは友人の卯芽華だった。いつものメンバーと修学旅行の話し合いをポアロでしたあの日の帰り道。前を歩く文乃、カンナ、睦美の三人組と、後ろを歩く卯芽華そして愛理の二人組に別れて米花駅に向かっていた最中、卯芽華はそっと愛理に耳打ちしてきたのだ。

「愛理にさ、言うかどうか迷ったんだけど……」
「なあに?」

友人は伝えていいものかどうか、と少し迷った素振りを見せたあと口を開いた。

「この間家族で賢橋行って、信号待ちの時……うちの車の横に並んだ白い車に、愛理の彼氏さんが、金髪の外国人の女の人車に載せてたの見たんだ。人違いだって最初は思ったけどさ、さっきお店で顔見て間違いないなって」
「それなんだけどね」

ポアロにいた時、卯芽華がやたら透のほうを何度かチラチラ見ていたことには気が付いていた。だが、やっぱり透さんがかっこいいからつい見たくなっちゃうよね、他の女の人なら嫌だけど卯芽華だからまあいいか、と愛理は能天気にもそう思っていたのだ。それに、人づてに聞いただけでは浮気を疑ってしまうその話にはオチがある。

「それ多分そっくりさんだと思うよ、透さんもそういう人に実際会ったって言ってたし。知り合いにはドッペルゲンガーじゃないかって言われたみたいだけどそんなのじゃなくて、イタリアから来たマッテオさんっていう人だったんだって」

友人の疑念を打ち消した後、愛理は続けて「ポアロのナポリタン気に入ってくれたんだよ、って透さんが言ってた」と続けようとしたのだが。

「ううん。違うよ、絶対あれ愛理の彼氏さんだった」
「もー!そんなことないもん」

愛理は少し苛立ちながら友人の言ったことを否定した。前を歩くカンナと睦美は何か話し込んでいたが、文乃が「どしたの?」と振り向いた。その表情は不安そうだ。彼女はこういう雰囲気になったときはいつも「ケンカはだめだからねっ!」と、言うより先に顔に書くのだ。末っ子らしく甘えん坊、そしてお調子者な文乃はこの五人の仲間内では一番のムードメーカーであると同時に、友達同士のケンカを何より嫌ってもいる。

愛理たちのグループは、聖マドレーヌ女学園初等部付属幼稚園に入った日からずっと一緒で、高等部三年生に進級した今年で十五年の付き合いだ。これまで雰囲気が険悪になったことは何度もあったけれど、そうなったところに文乃に今のような表情をされて矛を収めたことも同じくらいあったはずだ。愛理と卯芽華は揃って「ううん、なんでもない」と否定して、いつも通りのおしゃべりに戻ろうとした。

「……なんにもないなら、いいけどねー」

少しトゲがある卯芽華の小さな呟きを、街の雑踏や車のクラクションの音に押し付けて気が付かないふりをしながら、愛理は透さんにまた逢いたくなっちゃったな、と別のことを考えて気を紛らわしたのだった。


それに。一旦気持ちに巣食い始めたモヤモヤは、少しずつ愛理を苛んでいく。浮気を疑うのとは少し違うけれど、恋人らしいことをしてくれない……具体的には、透がずっと写真を撮らせてくれずにいるのも、愛理の心に引っかかっていることだった。

あれは告白された日から間もないころ。放課後のお喋りで「彼氏できたの」と親友達に打ち明ければ、まずは口々に祝福の言葉をかけられた。そして次は、お決まりの「彼氏さんの写真見せてよ!」と相成るわけだけれど。

「実は写真は無いの……子供の時から撮られるのすごく苦手っていうし。それに仕事の関係もあるからって。探偵さんってさ、顔知られちゃったら色々まずいんだって」

愛理は透の断り文句をそっくり伝えるほかなかった。卯芽華がすかさず「毛利小五郎って人も探偵だけど顔思いっきり知られてるじゃん。愛理ホントに彼氏できたのぉ?」とからかうように突っついてきたので、愛理は「ホントだってば!」と少しムキになりながら否定した。長い付き合いだから、冗談なのは解っていたけれど(ちなみに、愛理はそのやり取りの翌日にポアロへ友人達を引っ張っていき透に引き合わせ、彼の口から「はじめまして、愛理さんの恋人になりました安室透といいます」と挨拶してもらって疑いを晴らしたのだった)。

それに、先ほどだって。

「あ、そうそう。そこのあなた」

透たちの様子の一部始終をスマホで撮影していた門下生を呼び止め、彼はこう頼んだのだ。

「すみません、先ほどの様子を撮っていた写真か動画、全部消してもらえますか?僕、そういうのがとても苦手なので」

口調は穏やかだった。しかし、愛理に「送らせてもらっていいかな」と訊いたときのように、断りの言葉を言わせまいとするかのような迫力も籠っていた。相手も応じて「えっと、すいません。これで消しました」「ありがとうございました。それじゃ」というやり取りのあと、こうして車に乗り込んだのだ。

「僕が映りこまないようにするなら、ハロを撮るのは構わないよ」とは言われている。勝手に撮られたなら、嫌だなって気持ちは解る。けど、私と透さんはお付き合いしてるんだから、撮らせてくれたっていいはず。ハロももちろん可愛いけど、大好きなひととの思い出だってしっかり残しておきたいのに。

愛理は車窓から外を見るふりをしながら、そんな思いを抱えていた。ボーイフレンドが既にいる文乃と睦美は、Rineのトークでたまにそれぞれの彼氏とのツーショットを送って来るが、愛理はそれが羨ましくてたまらない。どうしたら応じてくれるかとその二人に相談し、もらったアドバイスをもとに透と写真を撮るべく彼にあれこれ提案してはみた。けれど、それでも気が付けばうまくかわされてばかりいて、未だに実現していないのだ。睦美は「彼氏さんが写真撮りたがらないのってジェネレーションギャップってやつ?私も文乃も彼氏同い年だからノリ合うけど、愛理の方は年上だから感覚が違うのかもよ」と分析していたが……そういうもの、だろうか。愛理は何かが違うような気がしていた。

ね、透さん。実は探偵の仕事なんて言って、浮気してるんじゃないの?卯芽華の話に出てきた、金髪の外国人の女の人のところへ行ってるんじゃないの?写真を撮らせてくれない理由、本当に話してくれた通りなの?

――訊きたいことがありすぎる。たくさん、たくさん、ありすぎる。なのに切り出す勇気が愛理には無かった。

メゾンモクバまで間もなく。透はその横で、なんとなく愛理の内心を察しながらハンドルを切る。そして、恋人らしいことをしてやれないことに少し胸を痛めてもいた。

愛理は知らないが、彼女が送って来た写真も、透は記憶のアルバムに載せた(つまり脳裏に焼き付けた)後ですぐに消している。ツーショットも撮らないし、自分のスマホで恋人の写真を撮っても、データは彼女に送るが、見ていないところで自分のスマホに残った元データを消しているのだ。全ては何かの原因で流出した際、愛理を危険に晒さないようにするためだ。あの子は他人のスマホを勝手に覗き見はしないはずだから――いつかのどこかの誰かとは違ってな、と内心で自嘲した――写真を消してしまっていることは知らないはずだ。

「あ」

ちょうど「犯澤」という表札の家の前を通ろうとした時だった。愛理は小さな声を上げた。スクールバッグに付けていたマスコットのチェーンが突然切れてしまったのだ。

2月の入試休み中には愛理が風邪をひいて行けなかったから、春休みにはリベンジと称して今度こそ五人でトロピカルランドにも、それにトロピカルマリンランドにも遊びに行った。その時にお揃いで買ったお土産の、イースターのイベントに合わせて(リスなのに)タマゴで飾ったうさぎ耳を付けたトロッピーのマスコットが、まさしく脱兎のごとく逃げて……ではなく、シートの下に落ちて行くではないか。

「どうかしたの、愛理さん」
「ぬいぐるみマスコットが取れてシートの下に落っこちちゃった」
「今は運転中だから、駐車場に着いてから取るほうが安全だよ」
「はぁい……」

透はそう言うけれど、落ちてしまったものをしばらく放っておくのも落ち着かない。幸い、車は青信号に差し掛かって停止したところだ。透さんはああ言ってたけど、ちょうどいいから拾っちゃおう、と愛理は思い立った。シートベルトはしたままだから動きづらいけれど我慢、我慢。そうしながらも、もうチェーンが切れちゃうなんて、と内心不思議だった。買ってから1ヶ月ちょっとなのに、不良品だったのかなあ……キーホルダーの転がったほうを向いて。

「!」

そこで大きく目を見開いた。トロッピーのマスコットは拾えたが、思わぬものも見つけてしまったから。

金髪が一本。それも、確かに傍らの恋人も同じ髪の色をしているとはいえ、長さからしてどう見ても彼のではない。愛理はもしかしてカンナの抜け毛がくっついてたのかも、とも一瞬考えた。友人のカンナはカナダ人とのハーフである父から金髪を受け継いでいるが、一口に金髪とはいっても、目の前の毛は色合いが異なる。そもそもカンナはボブへアなのでやはり長さだって違うから、友人から抜け落ちたものと言えそうにない。愛理だって理屈では解っていた。でも、どうしても信じたくはなかった。ノロノロと体勢をもとに戻す。

本当、なんだ。私以外の女の人がここに乗ったんだ。手の中のトロッピーは、愛理の気持ちなんて当たり前だけれど知る由もなく、お馴染みの陽気な笑顔を貼り付けている。いいよね、トロッピーは悩まなくて。マスコットにお門違いの感情を抱くことで、先ほど目にしたものを忘れてしまいたかった。愛理はもう付けられないキーホルダーをスクールバッグにしまう。

「愛理さん?駐車場に着いてからがいいよ、って言ったのに」
「ごめんなさい。ほっといたら忘れちゃいそうだなって思ったの」

やんわりと透が窘める。彼の言うことを素直に聞かなかったのは、そういえばこれも初めてかもしれない。

「愛理さんを危ない目に遭わせたくないから、次からはちゃんと守ってほしいなあ……そうだ!危ないと言えば」

また横断歩道で停車したところで、透は困ったように言いながらさり気なく話題を変えた。

「ポアロのお客さんが話していたんだけど、米花二丁目に変質者が出るらしいんだ。茶髪で背が高くて糸目で、首元を隠す服をいつも着ているとか、あと赤い車を意味も無くウロウロ走らせているときもあるとか聞いたよ。愛理さんがそんな奴の標的にされたら心配だなあ。そういう怪しい奴を見かけたらすぐに110番してね、そうすることで防げる犯罪もある……って毛利先生がおっしゃっていたんだ」

全ては、気遣うふりをしつつ沖矢から遠ざけるためだ。もしも頭ごなしに「米花二丁目のあたりに行くな、沖矢とも会うな」などと言ったら、きっと反発を食らうだけだろう。加えて、沖矢と知り合いだということもまだ愛理の口からは聞いていない(いつの間にか沖矢と彼女が知り合っていたということは、ハロに向かって奴の名を出した話をしている様子をペットカメラのマイク越しに聞いた)。いきなり奴の名を出しても不審がられるはず。それよりも、愛理の身を案じているといったふうに促すほうが効果があるはずだ……あと、あの遠隔操作アプリも機会を作ってまた仕込むことも視野に入れようか。

果たしてその思惑通り、愛理は表情を緩めて頷いた。こんなに色々心配してくれる透さんのこと、疑っちゃダメだよね。今言った人によく似た人は思い当たるけど、変質者なんて思えないからそれは気にしなくていいかな。そう考えたあと、恋人らしいこととは、何も写真を撮るのだけが全てではないと思い出したからには。

「ねえねえ、透さん。車停めたらキスしたいなって。ダメ?」
「もちろんいいよ。愛理さんが積極的になってくれて嬉しいなあ」

この席に、私以外の誰かが座ったことは確かでも。透さんがここでキスした相手は、きっと私だけなんだからね……外見の特徴以外はどこの誰かも知らないし、きっと見てはいないだろう相手に、見せつけたくて。

「愛理さん、おいで」
「ん……」

愛理は自分から身を乗り出して、透の唇を求めた。チェーンが切れたマスコットのことも、恋人の浮気疑惑も、自分以外の異性の気配も。そうしたことも全部、唇を何度も何度も重ねさえすれば、その分消し去ってしまえる気がしたから。



そして、愛理のおねだりに透が存分に応えたあと。メゾンモクバに帰り着いた二人は、一緒に階段を昇り「それじゃあ」と手を振り合って各々の部屋に帰った。

だが透は、ものの1分も経たずにまた出て行ってしまった。その直前“またしばらく留守にします”というRineを送ってから。愛理は奥の部屋にハロの姿を見かけたが、今日は出迎えるよりも骨ガムを齧りたい気分のようだった。

そのまま部屋を施錠して、母の部屋へ向かう。お昼に母から、“クレア・エノキドのケーキを外商さんにいただいたから、帰ったら部屋にいらっしゃい。この間『どちらのスイーツでSHOW』にも出てた新商品ですって”とのRineが入っていたのだ。

“また変更ですって?これで何度目……そう、28日10時からで今回こそ確定っておっしゃってるのね、わかったわ。ありがとう。ご苦労様”

ダイニングには既にケーキ皿とフォークが用意されている。愛理が「ただいま」と口の動きだけで伝えると、母も電話に応じながら頷き返してきた。通話相手は口調からして秘書だろう。制靴のストラップを外して部屋に上がったのと同時に通話が終わった。

「早かったわね」
「透さんがお迎えに来て送ってくれたの」
「ふふ、ご馳走様。道理で嬉しそうだと思ったわ……ねえところで聞いてよ、警察の方ったらサミット会場の絵の搬入時間をコロコロ変えてばっかりなの。あちら様にも都合があるとはいってもね、困っちゃうわ」
「こないだもそういう話してなかった?それはそうとして、ママの絵見るの楽しみだな」
「ビックリするようなすごいの描いたのよ、お披露目をお楽しみにね。それはそうと手洗いうがいは済ませたの?」
「してるってば」
「嘘おっしゃい、面倒がらないの。してこないとケーキは無しよ?」
「はーい」

答えながら洗面所に駆け込み、愛理はコップを手に取った。その拍子に覗き込んだ自分の顔は緩みっぱなし。透とのキスの余韻は、自然と笑顔になるには十分すぎるほどで――合気道の稽古が終わった後、デオドラントスプレーに映っていたしかめ面とは正反対だった。



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