蜜月に差す翳り〜発端 1


稽古が終わって更衣室を満たしていたざわめきは、少しずつ小さくなっていた。来月は昇級試験が実施される予定だ。それに向けて熱の入った稽古に励んだ後、お喋りをしつつ道着から着替え、他の門下生たちは愛理を残し出て行こうとしている。この分では、ペースが一番遅い彼女が最後になりそうだ。

「んじゃーねー跡良っち、また来週―」
「ごきげんよう……じゃなかった、またね」
「あはは、また言ってるー」

一緒に遊びに行くほどではないけれどそこそこ仲の良い一人が、愛理に挨拶して出て行った。右手でドアを開けつつ、左手では左肩に掛けてある口が開いたままのカバンからお菓子を取り出しながら。開いたドアの隙間からデオドラントやら様々な臭いが入り交じった空気が少し流れ出る。そして閉まる直前、彼女は身体を動かした疲れを少しでも早く癒したかったのか、包装紙をバリッと破り中身に齧りつく様子も見えた。

早いもので、合気道を始めて三年になろうとしている。愛理はこの道場に入門するまで、他校生との接点に乏しかった(それまでの彼女にとって、習い事とは跡良邸に家庭教師が訪れてマンツーマンでするものだったから、そこに当然他の生徒の姿はない)。

そのせいで、他校の様子をほとんど知らなかったから、愛理は自分が通う聖マドレーヌ女学園はどこにでもあるごく普通の学校だと考えていたし、入門したてのころも学校でするのと同じように「ごきげんよう」と挨拶したのだ。

だがまさか「なんか変」「ってか今の何語?」と笑われてしまうとは思わなかった。少しばかりショックを受けながら「どこの学校でも言うでしょ」と答えたが「聞いたことない」とのことだったから、道場では浮きそうだと考えて周りの話し方を真似することにしたのだ。それでも幼稚園からの癖は抜けきらないもの。つい今しがたも言ってしまったし、去年少し遊んでいたスマホゲーム『怪物コレクション』でもそうだった。うっかり使ってしまい、他のユーザーに怪訝そうな反応を返されたことを思い出す。とはいえ、REIというトップクラスのプレイヤーが広めてくれたおかげか、あのゲームではすっかり定着したようだったが。

「……はぁ」

更衣室は静まり返っていた。だからその分、愛理が零した溜め息はいやによく響いてしまう。

最近、愛理の胸は不安やモヤモヤなど、とにかくマイナスの気持ちでできたものでいっぱいだった。原因に心当たりはある。まず、件のスマホゲーム絡みではない、乱発されるイベントだとかに付いて行けなくなったし、去年の花火大会で良い観覧席に招待してくれた園子への義理立ても済んだことだし、とうにアンインストールしているから。合気道が嫌になったとか、母や学校の友人達と何かあったのでもない。月に一度訪れる憂鬱な期間ももうこの間終わっている。3月に見た、エッジ・オブ・オーシャンが爆破され、母の手掛けた作品もろとも台無しになってしまうなんて縁起でもない夢は……ほんのちょっと関係しているような気がする。なんとなく。

しかし愛理を何より悩ませているのは、夢よりも今現実に起きていて、だがそして直視したくないことだった。握ったデオドラントスプレーをじっと睨みつけるように見つめる。金属製の缶に反射して映る自分が、当たり前だけれど睨み返してくる。いつも愛用している商品が売り切れだったので、その横の棚に並んでいた新商品を買ってみたのだ。ただ、思っていた以上に効きが良くなかったのも相まって、無意識のうちにもう一度溜め息が零れた。

だけどずっとこうしててもしょうがない、よね。愛理はノロノロと帰り支度を済ませた。そして見送りに立つ師範に挨拶をしてから道場を後にし、十数メートル進んで表通りのあたりに出た時だった。

愛理はそこでふと足を止めた。何かあったのか、ちょっとした人だかりができているのだ。取り囲んでいるのは道場の門下生ばかりで、見たところほとんどが男子で女子は数えるほど。騒然とした雰囲気は感じられないので事故や事件ではなさそうだけれど。男子は「あの車すっげー!」とか「かっこいいなあ」だとか興奮気味に言い合いながら、何かに羨望の眼差しを向けている。愛理もつられてその方向を見て――。

「あっ」

小さな驚きの声を上げた。そこに停まっていたのは、白いRX-7。洗車したてなのかピカピカで、ナンバープレートは「新宿0731」見間違えようもない恋人の愛車だったからだ。

すると、とても絶妙なタイミングで、白馬に乗った王子様、ではなく、白いスポーツカーに乗った恋人……そして彼女の悩みの原因である透が、スマートな仕草で降りて来た。まるで愛理の視線が合図になったかのように。今日はポアロのシフトが入っていたというから、探偵の仕事で着るスーツ姿ではなく、エプロンさえ着ければいいだけの割とカジュアルな出で立ちだ。見物の男子が夢中になっているのは、あくまで車のフォルムなどについてであって、そのドライバーにまでは興味が向かないらしい。一方で女子は車よりも透のルックスに注目したらしく「誰あれ!?」「芸能人?」などと囁き交わす。しかし、彼は特に気に留めるでもなく周囲を見回して。

「お疲れ様、愛理さん」

そして恋人を見つけるや、ニッコリ笑って名前を呼び手を振ってみせた。周りの門下生たちが一斉に愛理に注目し、彼女は一瞬のうちに周りからの視線を思い切り浴びる。透が一歩踏み出せば、見物人は自然と道を譲ってスペースが空く。彼の長い脚ならあと数歩の距離だ。

「跡良っち彼氏いたんだ!しかも年上の外人とかすごっ」
「いいないいなあ、イケメンじゃーん」

先ほど更衣室で話した門下生が驚きの声を上げる。どうやら透の外見から外国人だと勘違いしているようだ。小学生クラスの女子たちも、おませなことに冷やかしてくる。

「と、透さん!どうしたの」
「愛理さんの顔がすごく見たくなったんだ。もう帰ったかと思ったけど逢えてよかった。ねえ、このまま家まで送らせてもらってもいいかな」
「え……」

愛理は咄嗟に答えられなかった。「いいかな」と訊ねてはきたけれど、透の言葉には有無を言わさず「はい」と答えさせようとしているかのような強引な響きがしたので戸惑ったのだ。

その間に透は更に近づいて来る。とうとうお互い手を伸ばせば届くほどの距離になって、大きな褐色の手が愛理の頬を優しいタッチで撫でた。彼女の頬は少し濃いめの桜色に染まる。男子はひとしきり車を眺めて満足したのか半分くらいが既にその場を後にしたようだったが、残った女子は全員、目を皿のようにして彼女と透の一挙一動を見つめている。

「合気道の後には用事を入れないことにしてるって話じゃなかったかな。それとも今日は例外?」
「そういうわけじゃないの。宿題と、あと……ハロのお世話」

透が声を掛けてきた時から同じ位置に立ったまま答えながら、愛理は自分を不思議に思っていた。

きっといつもなら、透さんが来てくれて嬉しいって思ってるはずなのに。こっちに来てくれるのが待ち切れなくて、私の方から走って行ってるはずなのに。みんなの前だからそうするのが恥ずかしいとか、お稽古で疲れて脚を動かすのもつらいとか、汗臭いと思われるのが嫌とかじゃない。でも。

うまく言えないけど、どうして私、透さんに会いたくなかった、なんて思ってるの……?

するとその時、透の背後十数メートルの距離のところに、ある人物が姿を見せた。愛理は今抱えている憂鬱の種とはまた別のそれが芽を出したことに気が付かないわけにはいかなかった。透と付き合い始めるきっかけになったショッピングモールでの謎解きデートで、しつこく絡んできた顔見知りだ。一応まだ道場に籍を置いているとは聞いていたが、顔見知りの稽古の曜日は別のはずなのに、どうしてここに……しかも。

「跡良、その浮気ロリコン野郎から離れろ!」

オーソドックスな学ランの制服をこれでもか、というほどだらしなく着崩している彼は、愛理が目を逸らすのよりも先に彼女を真っすぐ見つめ、耳障りな声でそんなことを叫んだのだ。愛理は二重の意味で気分が良くなかった。彼に出くわしてしまったこと以上に、気にしないでいたかったことをこの知り合いがありがたくも思い出させてくださったから。

だがそんな愛理を慮ることもなく、彼は全く不躾なことに透を指しながらまくしたて続ける。腕力で彼に適わないことはショッピングモールでの一件で理解しているからか、小賢しくも距離は保ったまま。

ギャラリーのうち、愛理と更衣室で話していた門下生は、いつの間にやらスマホを取り出していた。その表情はどこかワクワクしているというか。レンズを透たちのほうへ向けているのは、SNSに上げるネタを取るためだろうか。小学生女子たちは、ただならぬ雰囲気が漂い始めたのを幼いながらに感じ取ったらしい。目配せして小走りで透の横を駆けていく。

「俺この前見たんだってマジ、そいつがハリウッドスターみたいな外人の女車に乗せて賢橋らへん走ってたんだよ!跡良、俺にするなら24時間年中無休受け付けてるぜ?我が江古高にはマジックすげえ奴とか、タカ連れてる奴とかそりゃいろいろ揃ってるけどやっぱ江古高イチイケメンな俺には勝てねーし?」
「何それ。あなたなんて選ぶわけないし、というか透さんがそんなことするわけないでしょ!いい加減にしてくれる!?」
「愛理さんの言う通りですよ。人聞きの悪いことを言わないでくれませんか?」

愛理は思い切り打ち消してやった。透もきっぱりと慇懃な口調で言い返すが、顔見知りのほうには向き直らないまま。愛理を見つめていたかったし、顔見知りは背後にいるとはいえ、透にとっては距離や実力差からいって恐るるに足らない相手。それに謎解きのあの日、嫌がる彼女に汚らわしい手で触れていた奴を視界に映す価値なんてゼロだからだ。

「それにしても君も懲りませんね。愛理さんに近づかないよう指導されていたはずでは?」
「残念っしたー、言っとくけど跡良のストーカーとかじゃねえから!忘れ物とっとと取りに来いって怒られたから来ただけでーっす」
「へぇー……」

この顔見知りにショッピングモールでされたことの顛末について、愛理はその後透のアドバイスのもと、母や、母を通して道場にも伝えた。道場の方も、顔見知りが夏休みの合宿で愛理に付き纏っていたのは把握しているから、彼本人にも必要もなく愛理に接触しないよう厳しく指導して保護者にも伝えるとともに、もし彼が愛理の通う曜日に移りたいと希望を出しても受け付けないし、今後もしまた愛理に迷惑をかけるようなことをしたと報告があったら強制退会させる、という回答を得ていた。それでも舐めたような態度に加えて、まだ愛理のことを諦めていない、悪い意味での執念深さは健在のようだ。

「それを、何故僕の恋人の稽古の日にする必要があったんです?」
「だっ……だからそれはその」

透は、話し方こそ丁寧でも、先ほどとは打って変わって思い切り低い声で訊いた。軽く追及されただけで、顔見知りは言葉に詰まりしどろもどろになった。わかり易いところは、唯一の彼の長所かもしれない。

やはり、そういうつもりだったか……透は相手の魂胆を見抜いて、ここはもう一度お灸を据えてやるほかはないなと決めた。そう、あの言葉でも出して。

「行こうか、愛理さん。こんなことに巻き込んでごめんね」
「! だ、大丈夫です。透さんのせいじゃないでしょ」

愛理は透の迫力に気圧されながら目の前のやり取りを見ていたが、不意に手に感じた感触にとても驚いた。透が、引っ張るように手を取ったことに。

二人は手をつなぐ時、透がまずニッコリしながら自分から手を差し出し、彼女が重ねてくるまで待ってくれる、というパターンが多かった。それか、愛理がおずおずと透の手にそっと触れるか。今のように、強引にしたことなんてなかったのに……。

今日の透さん、どうしたのかな。愛理が心配になりながらも、彼に手を引かれるままRX-7の近くへと近づいた。そして顔見知りとすれ違う際、透は初めてそのほうへ顔を向けて、こう宣言してやった。

「二度と愛理に近付くな。それと、この子はそう遠くないうちに僕と結婚する予定だから。ねっ、愛理さん」
「う、うん」
「え……!?」

結婚。それも、自分の好きな相手が、この男と。あまりにもショックだったのか、顔見知りはその言葉に愕然とした表情を浮かべていた。愛理は思わず吹き出す寸前までいったけれど、それは結局かなわなかった。透の歩調が速くなり、いきおい愛理もそれに引っ張られたからだ。



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