どうして


部活が終わるやバスに飛び乗り、バスから駆け下り、帰り道を走り、メゾンモクバの階段を駆け上り。このところ愛理は、放課後は用事が終わるやすぐ家路に就くようになっていた。友人たちは「どうしたの愛理ってば最近付き合い悪いよ、また彼氏さんとデートなのー?」なんてからかってくるけれど、残念ながら不正解。透は探偵の仕事中だから。正解は、彼氏と同じくらい大事な相手が待っているからだ。

このペースならあと5分くらいだろう。足をよく動かす分、筋肉が付いてきたような気がする。合気道を習う身としてはやはり筋肉は付いた方が良いのかもしれない。でも、あまり付き過ぎて脚が太く見えてしまうのもちょっと嫌だった。聖マドレーヌ女学園の制服のスカート丈は膝下だから、脚の露出が他校の制服と比べればそんなに多くはなくたって、そういうものなのだ。

ともあれ最上階まで辿り着けば、気温が高いのと階段を上って来たのとで少し汗ばんできた。立ち止まって上がった息を整えがてら、スクールバッグのファスナーを開けて中から鍵を取り出す。

しかし愛理は、そこで先ほどまでの急ぎ足から一転忍び足を始めた。音を立てないようにして、呼吸さえも音を立てないようにして廊下を進む。鍵を鍵穴に差し込むのすら、そろりそろりと。

今日はどう、かな……? 心臓を高鳴らせながら愛理がドアを開ければ、果たして。

「アンアンッ!」
「ただいまー。また先越されちゃったぁ」
「ワウッ」

玄関マットの上にはもう“対戦相手”のハロが待ち構えていた。尻尾を振りながら、愛理の方をどうだ、と言わんばかりの表情で見上げてくる。やはり鼻も耳も優れているから、人間がどんなに頑張っても気が付かれてしまうのだろう。きっと透さんのところに帰すまで全戦全敗になっちゃうだろうな、と愛理は思った。恋人の愛犬であるハロをとある理由で預かって以来、愛理は「ハロに気が付かれずに帰れるか」という勝負を勝手に仕掛けていて――今のところ、負け続けているのだった。

「お散歩、今日はもう少し待っててね。まず宿題しちゃうから」
「アゥン」

自分の予定と、透から教わった手順とを照らし合わせつつハロの頭を一撫でしてやる。そのあと、愛理は鍵を閉めてから制靴のストラップを外して部屋に上がった。

まずはペット見守りカメラを厚手の透けないタオルで覆ったあと、この後の散歩のために制服から部屋着も兼ねたスウエットに着替える(ハロを預かるにあたり、餌皿やフードにトイレやおもちゃなど、普段使っているペットグッズに加え「ハロの様子が見えた方が安心でしょ」と愛理が提案して、ペット見守りカメラもこの部屋に持ち込まれることになった。そして、透は世話の仕方や注意することなどを教えたあと、ちょっといたずらっぽく笑ってこう耳打ちしてきたのだ――「見守りカメラに映らないように気を付けてね、愛理さん。着替えやお風呂上がりの時とかは特に……ただ本音を言えば、僕としてはちょっと見たいな」と。愛理は顔を瞬く間に真っ赤にして「とっ、透さんのえっち!」と叫びながら彼の腕を軽く抓ってやったのだった)。

それからハロのトイレの片付け、手洗いうがいも済ませ、スクールバッグから引っ張り出したるは苦手なフランス語、数学、それから古文の教科書とノートや電子辞書などなど。「よしっ」と小さく気合を入れて、いざ取り掛かった。

ダイニングではハロが遊んでいる。横目で見れば白い塊と、カラフルな丸いものが動いていた。ボール遊びの真っ最中のようだ。できることならずっと見ていたいし、すぐにでも構ってあげたい……でも、そんな気持ちは今しばらくグッとこらえなくては。フローリングの床で小さな足音が立つのをBGMにして仏作文を書き、3次式の展開の問題を解き、古文の現代語訳を進める。

ちゃんと躾けられているからか、フワフワの居候は愛理に擦り寄って宿題を邪魔しようとはしない。とはいえやはり遊びたい盛り、ボールを転がしてはチラリ、しばらく寝転がって骨ガムをガジガジ噛んだ後にもチラリ。そんな風にして愛理の方を時たま見てくる。纏わりつかれては困ってしまうだろうけれど、そんな視線に急かされて、宿題も何となく捗っているような。

そう、あともう少し。シャープペンの芯を新しく補充して、愛理は更にペースを上げた。


それから一時間と少しばかり後。宿題もやっつけたことだし、ハロお待ちかねの散歩へ出発した。愛理は日焼け止めを塗り、リードもしっかり付けている。スマホ、鍵、財布、防犯ブザー、その他散歩に必要な諸々を持ってしばらく歩けば、提向津川の河川敷に到着だ。

4月も半ばになった今、岸辺の桜はもうほとんど葉桜だった。吹いてきた風に乗って、残り少ない花びらが一枚ふわりと一人と一匹に近づいて来る。花弁はじゃれつこうとしたハロの前足をかわしてその鼻先にくっつき、二、三秒して小さなくしゃみの音が。その様子が何とも可愛らしい。
透さんも、ハロの今みたいなところたくさん見たのかなあ。愛理はこうしてハロの世話をすることになったきっかけを思い返した。

そもそもは一週間前、透と一緒の帰り道を歩いている途中に入った一本の電話だった。

「ごめんね愛理さん、ちょっと電話に出るから……はい、安室ですが」

着信音が鳴るやスマホをポケットから取り出すと、発信者を確認した透は断りを入れて話し出す。愛理は横で聞きながら(通話中だけでも彼が通話の相手に意識を向けることに羨ましさも覚えつつ)、多分お仕事の話じゃないよね、と推理した。

透は、探偵の仕事の電話をする間だけは、掛ける時も受ける時も室内なら別の部屋に移ったり、今のように屋外なら5メートル以上距離を取ったりして彼女から離れてしまう。でもそうしていないからには、仕事の話ではないと判るのだ。

ほんの一瞬だけでも彼と離れてしまうのが寂しくて、愛理は前に理由を訊ねてみたことがある。透は人差し指で頬を掻き、困ったような表情を浮かべてこう教えてくれた。

「修行も兼ねて毛利先生から依頼を回していただくことがある、って前に話したよね。ただ、フタを開けてみたら、こう言ってはなんだけれど、ものすごく神経質な依頼人の方が多くて……電話に出たときに僕の近くに誰かいるのを感じ取ったら、周りに誰もいないところからかけ直すように言ってすぐ切ってしまうんだよ。ちょっとしたやり取りだとしても、僕以外の誰にも聞かれたくないんだって」
「Rineにしちゃえば、透さんがそんな手間かけなくて済むんじゃない?」
「そういうものやメールももちろん使うんだけど、なるべくすぐやり取りしたいって言うから……それで結局電話に偏ってしまうんだ。しかもすぐに出ないと機嫌が悪くなるおまけ付き」
「えーっ何それ!透さんの都合もちゃんと考えてって感じ。色々あってすぐ出られないときだってあるはずなのに」

恋人の受ける理不尽な仕打ちを知って、愛理は思い切り顔を顰める。修行のためとはいえ気難しいクライアントに翻弄され、苦笑いを零すしがない駆け出し探偵……を装いつつ、透の手は勝手に愛理の頬に伸びていた。愛おしさに突き動かされて触りたくなったのだ。恋は盲目とはよくいったものだけれど、確かにその言葉通り恋人は何をしようがどんな表情をしようが可愛いくて仕方がないもの。その行動や表情の理由に自分がいるのなら、特に。

「そもそもは毛利先生のお客さんだからね。僕のせいで先生の面子を潰すようなことがあったら一番弟子失格、顔向けができないよ。依頼人の方とのやり取りは楽じゃなくても、あの名探偵の毛利先生の下で経験も積めて依頼料もいただけるし、難しくもあるけど有難くもあるから仕方ないって感じかなあ。あっ、僕がこう言ってたことは蘭さんにはくれぐれも内緒でお願いできるかな?」
「はーいっ」

最後はさり気なく念押ししたら、透は仕上げに愛理の顔を覗き込み、人差し指を唇に当ててウインクしてみせる。果たして彼の思惑通り、恋人はニッコリしながら素直に頷いてくれた。自分のことを何の疑いもなく信じてくれているこの純粋さがたまらなくて、透は愛理の頭を撫でた。こみ上げて来た罪悪感を、また湧き上がって来た愛おしさで打ち消そうとして。

もちろん愛理は知る由もないけれど、先ほど紡いだ言葉は全部もっともらしい出任せに過ぎない。バーボンとしてやり取りしている、ベルモットやラムからの組織絡みの連絡。降谷零として受ける、裏の理事官からの指令に風見からの報告。全て愛理も含め、一般人に聞き耳を立てられるわけにはいかない内容だから。とはいえあまりコソコソしていると不審に思われるだろうし、安室透として受ける電話なら、周りに無関係な誰かがいる中でも出ることにしているが。トリプルフェイスのさじ加減もなかなか難しいのだ。

「ええっ!困ったなあ……どうにか……難しいでしょうか……いえ、奥穂町もとても行けそうには……」

透の電話はまだまだ続きそうだ。しかも口先だけでなく、本当に顔全体で「困った」と言っている。

いつまで続くのかな、この電話。心配になってくると同時に、愛理は透に対してではなく電話の相手に対してイライラしてしまう。私だってまた早く透さんとお話したいんだけど……電波が急に悪くなって切れちゃえば良いのに。無意識のうちにそんな意地の悪い考えまで浮かんでいて、愛理は少し自分に驚いてしまった。

「何かあったの、透さん」

やがて恋人が「じゃあ、ひとまずその形でお願いできますか……ええ、はい、よろしくお願いします。では失礼します」と電話を切り、ふうと息を吐いたのを見届けてから訊ねてみた。

「使うつもりだったペットホテルが、手違いで僕の予約をキャンセルした上にもう他のお客さんを受け入れてしまったんだって」
「『そこがそのせいでもう使えなくなっちゃいました、ごめんなさい』みたいな電話だったの?」
「うん。それでお詫びに、系列のところに空きが無いか当たってくれている最中らしいんだ。それでも、今確保できるって教えてもらったどの候補もとても預けに行ける距離じゃなかったし。これから米花市や近くのどこかに、半月預かってくれるところが見つかるかどうか……いつものペット見守りサービスの飛田さんも、もう別の依頼で都合が付かないからペットホテルを取ったのに。弱ったなあ」

透さんも困った顔、するんだ……愛理は思いがけず目にした、恋人のとても珍しい表情に目を丸くする。ポアロでの料理といいこの間のお琴といい、透が様々なことを涼しい顔でやってのけてしまう場面ばかり見てきた分新鮮だった。

でもそんなことより、と思い直す。透さんとハロがピンチなんだから、何かできないかな?透さんにはこれまで色々してもらってきたんだし、その分お返しに、今度は私が透さんたちの力になれないかな?

少しばかり考えたのち、愛理はとあることを閃いた。そうだ、それなら!

「ハロのお世話、私がしても良い?」
「愛理さんが?」
「これまで透さんにお裾分けとか色々してもらってきたでしょ。そのお返しに、私が透さんのためにできることあったらなってずっと考えてたの。ハロのことなら私も知ってるし、お隣だからすぐお世話に行けるもん!いつかお隣さん同士助け合いって言ってたじゃない」
「そうさせてもらえるなら、確かに願ってもない話だけど。でもまずはお母さんに伺ってみないとね」
「うん、でも多分平気。ママも犬のアレルギーとか無いって言ってたし、それに今日アトリエ行かない日だから部屋にいるはず」

メゾンモクバに帰り着いた二人は、一緒に愛理の母の部屋を訪ねて許可を取り付けようとした。話を聞き「自分の秘書にペットシッターを探させる」と言い出した母と「自分が世話をして恩返しがしたい」と主張する娘との間で意見が対立しかけた場面もあったけれど、なんやかんやで最終的にはお許しが出た。

ただ一つ、条件付きで――最初愛理は、透の部屋の合鍵を預かって、餌やりだとかのために都度上がるつもりでいたが。

「でも愛理あなたね、去年うちの鍵を学校に忘れて来て、安室さんにご迷惑をおかけしたでしょ」
「う、うん……」

そのやり取りの間、迷惑なんて滅相もない、と透が内心思っていたのは彼だけが知るところだ。

「あれはうちの鍵だったし、置いてあったのも学校だって判っていたからまだいいわ。よそ様の鍵をお預かりしてまたそんなことをしでかしたら大変よ。ハロは愛理のお部屋に移して、言い出した以上責任をもってお世話しなさい。安室さん、それでよろしいかしら?」
「本当にありがとうございます、今回は愛理さんのご厚意に甘えさせていただきます」

ここに至るまで、透はそれとなく愛理の肩を持ちつつ(見守りサービスの飛田さん、もとい風見のように透の事情を知る者ならまだしも、愛理やペットシッターのように全くの一般人を自分が留守の間に立ち入らせたくはなかったから)、この結論を導き出すよう誘導していた。しかしそんな心の内を見せはしなかったけれど、感謝しているのも本心だったから頭を深々と下げた。そして後日愛理の見ていないところで、当面ハロの世話に当たって発生しそうな額を入れた封筒を、彼女の母に渡しておくのも忘れずにしておいた。

こうして、愛理はハロを自分の部屋に迎え入れ、しばらく一緒に過ごすことになったのだ。


河川敷をしばらくのんびり歩いたり、駆けっこをしたり、ちょっとボール遊びもしたり。少しベンチに座って飲み物を飲みがてら、スマホで時間を見れば夕方6時少し前。もうこんな時間なんだ、と愛理は少し驚いた。ハロと過ごしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。

そこへちょうど母からRineで“もうそろそろ帰ってらっしゃい”というメッセージが。春の日はまだまだ高くて辺りは明るいから、ハロは少し名残惜しそうだ。けれど、透もRineで“夕方でもまだ明るい時期とはいえ、6時半までには家に帰るようにね。それから、行き帰りは遠回りになっても人目のある表通りを歩くこと”とか“散歩の帰り道だけでなく、後ろを尾けてくるだとか不審な人に気が付いたら、大急ぎで距離を取って110番を。道を訊くフリをして近づいて来るパターンもあるけれど、本当に困っている人は高校生じゃなく大人に助けを求めるものだよ”とか、身の安全を守るための色々なアドバイスをくれていたことだし、それに従ってもう帰った方が良い。ハロを促して河川敷を後にして、空を見上げれば。

「見てハロ、空が赤くなってるよ。透さん今頃ご機嫌ななめかなあ」

帰り道の茜空の下、ハロの白い体も空と同じ色に染まっている。愛理にしてみれば可愛く思える光景だけれど、赤色が何故だかとても嫌いなご主人は喜ばないだろう。横断歩道に差し掛かったけれど渡ろうとした直前に信号が点滅し始めたので、大人しく信号待ちをすることにした。

スマホをいじるほど待たされるわけでもない時間、車の行き交う音やハロの小さな呼吸音を聞きながら頭に浮かぶのは、とりとめのないあれこれ。そういえば『緋色の捜査官』の続編が出ることになったんだっけ。というか、工藤先生のお家にお邪魔させてもらう話もあったけどなかなか時間無くて行けてないな……というか、米花二丁目のあたりすら最近近寄ってないっけ。

そんなことを考えながら青信号になった横断歩道を渡って、タバコ屋のある左の角を曲がったら。

「あれ?沖矢さんですか」
「お久しぶりですね、愛理さん。お元気そうで何よりです」

そこで愛理は久しぶりに沖矢昴と行き会った。Rineでのやり取りは時折しているし同じ米花市に住んではいるものの、こうして直に会ったのは実に去年の米花図書館での初対面以来。確かに彼の言う通り久しぶりだ。

「犬を飼っていらしたんですか。可愛いですね、名前はなんと?」
「ハロっていうんです。ただ私のペットじゃなくて、彼氏が飼ってるのをお仕事の間預かってるんですけど」
「ホォー……黒い狼は白猫を愛で白い犬を飼う、か」
「え?」
「いえ。何でもありませんよ」

なんだろう、今の。愛理は驚いて沖矢のほうをサッと見た。声はもちろん彼のそれだったのに、口調が一瞬全然違うものになっていたからあまりの落差に違和感を覚えたのだ。二重人格というのか、まるで、彼の中にもう一人違う誰かがいるような……?

そんなわけ、ないか。ただ沖矢さんって色んな探偵小説のこと知ってて、透さんとはまた違う物知りさんだけど変わったひとだな。愛理は改めてそう思う。初対面の時だって、工藤邸を眺めていたことを「あなたに熱い眼差しを注がれるのがあの邸ではなく僕であれば」などと、良く言えば詩的、悪く言えばゾワゾワさせられるようなことを言っていたし……そういう癖でもあるひとなんだろうな。

愛理はそう自分を納得させてから、最近はあのあたりから足が遠のいているし、それに工藤先生の書斎を見せてもらっていないし、都合を訊いてお願いしてみようかな……そう考えて口を開きかけた。

「ウゥー……グルル……」
「おや」
「ちょっとハロどうしたの?やめなさいっ」

だがその矢先、聞こえてきた低い唸り声に驚いてそんな考えは吹き飛んでしまった。ハロが見たこともない形相を浮かべている。しかも沖矢を真正面から見据えて、今にも飛び掛からんばかりの体勢まで取って。犬についてまだそこまで詳しいわけではない愛理でも解る、威嚇しているのだ。

一体どうして?こんな吠え方、今まで見たことない。ええと、他の犬とか人に吠えそうだったらどうしたらいいんだっけ、透さんは何て言ってたっけ?彼とのRineのやり取りを遡れば判るかもしれないけれど、とにかくまずは抱き上げて沖矢から引き離すことにした。唸り声は小さくはなったけれど、まだ漏れ続けている。

「どうも僕は、白い犬には好かれないようでして。ついでに言えばその飼い主にも……煙草を吸っていますので、その臭いが嫌いだったのかもしれません。お騒がせして失礼しました。それでは愛理さん、私はこれで。お気を付けて」
「は、はい……あ」

工藤先生の書斎、いつ見に行って良いですかって訊くの忘れちゃったな。思い出したころにはもう、沖矢の姿は背が高いので遠くから見えるけれど、追いかけて行くには遠すぎる距離になっていた。


「待て、まだまだ……はい!食べていいよ」
「ワウッ」

十数分後、愛理とハロは無事家に帰り着いた。今夜はオムライスにする予定だ。タマネギを使うけれど犬には猛毒だと透に教わっているから、材料を触るより前にハロに餌をあげてしまうことにした。ガツガツと元気よく餌を貪る様子は何度見ても飽きないものだ。ついつい透が決めている量より多く与えそうになってしまって、これまでも何度フードの箱に手が伸びかけたことか。

やがて満腹になったらしいハロは、さらに「おねだり」をしてきた。でもそれはお気に入りだというジャーキーでも、ましてセロリでもなく。

「これね?」
「クアンッ」

愛理がスクールバッグから取り出すのが待ち切れないように、ハロがピョンピョンと跳ねている。どうやらハロは、透が去年クリスマスプレゼントにくれたブックカバーに強く惹かれるようなのだ。愛理が目の前に差し出してみれば尻尾をブンブン振りながら喜んでいて、床に置いたら嬉しそうにその上に乗り、お腹を見せて寝そべった。

この部屋に移ってすぐの頃、ハロはソワソワしていて落ち着きが無かった。いくらご主人の隣の部屋で、見知った相手と一緒にいるとはいえ、愛理の部屋に上がったのは初めてだから戸惑ったのだろう。透を探しているのか、クンクンと小さく心細げに鳴きながら行ったり来たりするものだから胸が痛んだけれど、どうしてやればいいのか解らず様子を見るしかなかった。

だがそのさなか、突然ハロがスクールバッグの方へ猛ダッシュで近寄り、しきりに前足で触り始めたのだ。何がハロの注意を引いているのか……愛理はその時もしかして、と思い当たることがあった。バッグを開けてそれを取り出せば、ハロは先ほどの様子から一転、尻尾をブンブン振り始めた。多分、嗅覚が良い分それに移ったご主人の臭いがまだ嗅ぎ取れるのだろう。いつか愛理が真似をして臭いを嗅いでみても、やはり革と紙の臭いだけしかしなかった。

「ハロ、透さんの臭いがわかるの?」
「アンッ」
「すごい。良いなあ」

もし人間の言葉が話せるなら「そうだよ!」とでも答えているに違いない。得意げに鳴くハロを羨ましく思いながら、愛理はスマホを手に取った。ハロのように、透の痕跡を辿ってみようとして。

流れるように指は動いて、トークアプリを起ち上げ透とのトーク画面を開く。最後のやり取りの内容は“餌はパピーマンのフードを何時にどれくらいの量で”とか“愛理さんの用事が最優先だからね”とか。それからハロのかかりつけの杯戸ペットクリニックの情報などなど、彼からハロを預かるにあたって教わった色々な事柄だ。

新着メッセージは……やはり、ゼロ。愛理は小さく溜め息を吐いた。

透が探偵の仕事をしている時は、メッセージのやり取りはしない。そういう約束がある。解っているし、ちゃんと守ってきた。愛理もメッセージを送りたいのをぐっと堪えなくてはいけない。

だからこそ、不安はなお募る。

「……ハロ。時々ね、私すごく不安になるの」
「クゥン?」

呼びかけに反応したハロが近くへ寄ってきた。かつてこれも透に教えてもらった抱き方で抱き上げ、愛理は腕の中の小さな温もりに向かって、ぽつりぽつりと胸の内を話し出す。

「透さんが、ちゃんと帰って来てくれるかなって。どこかで無理してないかな、探偵さんって危ない目に遭うかもしれないし……って。お仕事中、どこでどうしてるのかもわかんないのって、すっごく不安なの……パパみたいに、なっちゃわないかなって」
「クゥー!ワフッ!」
「だよね。きっと大丈夫だもん」

何故かキリリとした顔になったハロが応えるように鼻を鳴らす。

「ご主人がそんなことになるわけない!」

……そう言ってくれているのだと、愛理は勝手に捉えることにした。それから、効果があるかはわからないけれど、口に出せばもしかしたら聞き届けてもらえるかもしれないから。

「あめにおわします、わたくしの父よ。えーと……透さんが無事でありますようどうかお導きください。アーメン」

別にそこまで信心深くもないけれど、何か願いたいことがあるときはやはり何かにつけお祈りを唱えてしまう。本当はお祈りの言葉はもっと長いし、こんなに砕けてもいない。学校のミサではお祈りを省略したり、決められた表現以外を口にしたりすればシスターに怒られるけれど、家だから良いのだということにしておいた。

――その時、愛理は気が付いていなかった。お祈りを唱えた直後のタイミングで、透が見守りカメラを起動させたことに。そして、ハロに向かって「そういえば、どうして沖矢さんにあんなに威嚇してたの?」と問うたのを聞かれていた(ただ、ハロは欠伸をするだけだったので、もうそろそろ寝たいのかな、と考えた愛理が離してやれば、果たしてその通り寝床へ向かって行った)ことを。

直後に、Rineの合気道の道場のグループにも新着メッセージが入った。多分今度の演武会のことだろう。それから、友人たちとのグループのメッセージにも返信しなくては。でも、まずはご飯……愛理はスマホを置きブックカバーを拾い上げると、キッチンの方へ向かった。


来る東京サミットのような行事や、もう少し先のWSG―ワールド・スポーツ・ゲームス―のような大規模イベントの際にはもちろん、警備の司令塔となる警備対策推進室が立ち上げられる。場所が有り余っているわけではないので、警視庁の裏手に位置する警察総合庁舎の空き部屋の一角に、その都度臨時で構えることがほとんどだ。

「東京湾周辺の巡視艇は千葉県警からも応援を……」
「【はくちょう】の着水予想地点周辺の警備と交通規制に当たる人員の兼ね合いは……」

この部屋は、昼間は調整に次ぐ調整、二転三転なんて可愛いもので四転五転、あるいはそれ以上する決定に振り回される騒がしさと慌ただしさで満ちていた。今はそうとは思えないほど静まり返っているけれど。

「沖矢、だって?」

だから、思わず出た独り言はいやに室内に響くのだ。

他の人員が会議か何かのため出払っているところに、零はポアロのシフトを終え「本業」の職場に出勤してきたところだった。今晩も徹夜だろう。その前に、愛犬と恋人の様子を見守りカメラでせめて少しだけでも見て活力にしようとしたら――!

「奴め……いつの間に」

零は呆然としながらごちた。彼はつい今しがた初めて、恋人と沖矢が知り合いだったと知ったのだ。何故、愛理の口から奴の名前が出る?いつの間に愛理と接触したんだ?どうやって彼女の存在を知った?バーボンとしての自分を、愛理を通じて探る魂胆か……!? 黒の組織の一員としての焦りに加えて、恋人に他の異性が近づいていることへの、一人の男としての怒り。そんな感情が、零の心の中でゴーゴーと音を立てて渦巻く。

パソコンに繋がれた大きなスクリーンには、サミットの警備警衛に関する情報が映し出されている。通行止めになるルートや各国のスパイ、そして警察庁が公示している国際テロリストの出没情報、警戒重点区域のリアルタイム映像などなど。

「くそっ」

社会情勢の情報収集のため、テレビはいつもならNNKにチャンネルを合わせたまま点けっぱなしだ。だが、零は苛立ち紛れにテレビのリモコンを手に取りチャンネルを回した。裏で動く誰かのことなど知る由もない世間は、全くもって呑気そのもので。

“いよいよゴールデンウイークが近付いてきました!東京サミットの行われるエッジ・オブ・オーシャンからどこよりも早く一足お先にお伝えします!”

笑顔を貼り付けた赤縁眼鏡の女性レポーターが、エッジ・オブ・オーシャンのカジノタワーについての話題をつらつらと述べていく。サミットにあたって参加国の国旗のプロジェクションマッピングを行うことも計画されているが、そのトライアルが無事に成功したことを伝えるニュースだ。丁度、この国の国旗がプロジェクションマッピングで映し出されたところで、中継は終わった。



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