さくら舞う日のこと


この間の天気予報では、桜は3月中に散ってしまうなどと言っていた。けれど、その予報は外れてついこの間満開だとの宣言が出されたところだった。

今日も少しばかり雲が浮かんではいるものの良く晴れている。外を見た愛理の目に、風に吹かれた桜の花びらが通り過ぎてゆくのが映る。開け放した障子戸から吹き込むそよ風が気持ち良い。少しの間雲の隙間に隠れていた太陽がまた顔を出した。途端に部屋いっぱいに差し込んできた春の日差しに、少し瞬きをして愛理は呟く。

「今日はのんびり日和ですねえ」
「そうだね」
「クゥーン」

すると、すぐそばの1人と1匹からは、全く同じタイミングで返事が返って来た。しかも彼らの顔はとてもリラックスしていてそっくりだ。飼い主とペットは似るって、いつか聞いたけどホントなのかも。愛理は彼らのシンクロぶりにニコッとした。



透と愛理は、何度目かになる部屋デートを楽しんでいる真っ最中だった。いつもはメゾンモクバのお互いの部屋で過ごすデートだが、今日は一味違う。透はハロを連れ、ギターと手作りの弁当も携えて、跡良邸を訪れていた。

2人と1匹が今居るここは、跡良邸の離れにして茶室。愛理が茶道を習い始めるにあたって建てられたもので、今は爪弾く程度になった琴の稽古もかつてはここでしていたものだ。それ以外にも、愛理は母と喧嘩をして気まずくなると、小説とスマホとお菓子を抱えてここに籠もるのがお決まりでもあった。

まずはハロを庭で遊ばせつつその様子を眺めたあと、この離れに上がってからそれぞれお点前を披露した。それから、もうお腹の中へ片付けてしまったが、お花見にはお弁当が付き物。それぞれお互いの好きなおかず、プラスその中に相手からリクエストがあった献立を一品入れて持ち寄る、という約束をしていたのだ。透は出汁巻き卵、愛理は彼がベランダ菜園で栽培した野菜(ただしセロリ以外)を使ったメニューを頼み、遠足でするようにおかずの交換もし合って、あっという間に平らげた。そして容器をしまうだの口を濯ぐだのしたあと、再び窓辺で寛いでいたのだった。

「畳の部屋はやっぱり良いなあ。お招きありがとう、愛理さん」
「透さんにそう言ってもらえて嬉しい」

透はポアロのシフトも探偵の仕事も組織の任務も無い……今のところは。事件はいつ起きるかわからないから、「本業」の方から緊急招集がかからない保証は無い。「今依頼を受けている仕事の関係で、またお客さんから急に呼び出されてしまうかもしれないんだ。もしその連絡が来たらデートはそこまで。そうなってしまったらごめんね」とは断っておいたが、今のところ幸いにも着信は入っていなかった。このまま何事も無ければ、と透は願った。

愛理は春休み中だ。数日後に1学期の始業式を控えていていよいよ高等部3年生に進級するわけだが、受験勉強に励む必要は無いのでのんびりしたものだ。愛理はやはり併設の聖マドレーヌ女学園大学の文学部へ進むことに決め、学校の進路調査にもそう答えていたから。このまま成績を落とさず、問題を起こしさえなければ、面接が行われるとはいえ形ばかりのものだから実質無試験で内部進学できる。強いてするべきことといえば、成績のことや生活態度に気を付けて、残り1年を切った高校生活を目一杯楽しむことだけだ。

そんな春の日のデートに「お花見がしたいなあ」と呟いた透に、愛理はこれまでにないくらいの得意気な顔で「私のお家でできますよ。しかも畳のお部屋付き!」と提案したのだ。愛理は彼といられるなら出かける先がどこだろうと構わないが、部屋デートだって同じくらい好きだ。むしろ最近は後者のほうが良いとさえ捉えるようになっていた。とても顔が良くてどこへ行っても注目を集める恋人を、自分だけが独り占めできるのだから。

そして(見た目とは裏腹に)「畳の部屋は落ち着くから好きなんだ」と日頃から言っている透が、誘いに乗らないはずがなくて。

「探偵をしてるとね、プライベートではそんなに出かけなくなるものなんだ。仕事柄あちこち飛び回るけれど、その分かえって家が恋しくなるから。ハロも待っているし、お隣では愛理さんが待っていてくれるしね」

前に透がそう話していたのを思い出しながら、愛理は外を眺めた。少し離れたところに、父が生前愛理のためにと植えた桜と桐の樹がある。親友達とワイワイお喋りをしながらのお花見なら何度もしてきた。でも、彼とこうして眺める桜は、大袈裟でもなんでもなく、今まで目にしたどんなそれよりも美しく感じられる――プロポーズにも等しい言葉を贈られたばかりで、気分が高揚してやまない今はなおのこと。


「愛理さんが高校を卒業したら、僕と結婚してほしいんです。他人のままでは、いたくないから」

透は、少し前に跡良母娘にそう申し出ていた。愛理を手放したくないからという思いももちろんある、でももう1つ……そう簡単に死ぬ気など無いし、この真意を明かすことはできない。けれど、それでも万一を考え、殉職した時に愛した人に――「死人に口無し」とはいえ――ちゃんと“別れ”を告げることが叶うようにしておきたいからでもあった。

「自分を過信しておっ死んだりするなよ、降谷」

あっけなく逝ってしまった友の1人にそう忠告されたほど、透は様々なことに長けている自負がある。探ることは言うまでもなく、二手三手先を読み器用に立ち回ることにも、もちろん、生き抜くことについても。

だが。警察官を拝命した以上、命の危険は常に付きまとうもの。テロ事案は世界各国で連日のように発生していて、この国でもいつ起こるとも知れない。組織でも、またNOCと疑われるリスクもゼロでは無いわけで。何とも癪なことだが、あの時は赤井に救われた形になったけれど、次は切り抜けられずそのまま……という可能性も考えなくてはならない。

もし婚姻関係を結ばず他人同士であり続けたら、透が命を落としたという悲報が、公安部から愛理の耳に入ることは無い。でも、家族でありさえすれば。そうすれば、ちゃんと報せが届くから。消息が途絶え、生きているのか死んでいるのかさえわからなくなった相手を、いつ逢えるだろうと不安に思いながら待ち続ける必要は無くなる。残酷かもしれないが、それが透もとい零が唯一取りうる、せめてもの思いやりの形なのだ。

「ちょっと早すぎるんじゃないかしら?」

愛理の母もさすがに驚いてはいたが「時期については良く考えてはどうか、ただし結婚そのものに反対するつもりは無い」といったことも言った。愛理だって、透のプロポーズを拒むなんてそもそも考えもつかないことだから――つまり、彼と一緒に歩んでいくのだと、信じて疑っていなかったのだ。



手を伸べて触れてみれば、愛理の左右の手には違う感触がする。左手には日差し色のブロンドのサラサラした感触。右手には、青空に浮かぶ綿雲色のフワフワした感触。色も感触もそれぞれ全然違うけれど、どちらもとても温かい。

両膝、というか両腿に感じるのは幸せの重みだ。左腿には恋人が、右腿には彼の愛犬が、それぞれ頭を乗せている。透が膝枕を望んだ直後に、ハロもご主人の動きを真似するように愛理に寄りかかった(彼女が喜んだのと愛犬可愛さもあって引き剥がしはしなかったが、その時透が内心でハロに向かって「君だから許したんだぞ……」と言ったのは彼だけが知るところだ)。

「透さん、寝ちゃった?」
「起きてるよ」

愛理の独り言に、透は軽く瞑っていただけの目を開けて答えた。彼のブルーグレーの瞳が、愛理以外には目もくれずに向けられる、自分だけが映される。それだけのことが、こんなにも嬉しい。

「目がトロンってなってる透さんも可愛いですね」
「ふふ……ところで頭は重くないかな?足も痺れてない?」
「心配してくれてありがとう、透さんとハロだけは重くないから平気ですよ。正座もあと1時間くらいならいけるかも」
「さすが、お茶と合気道とお琴の経験者なだけあるね。それじゃあお言葉に甘えて、しばらくこのままでいさせてもらおうかなあ。そのあとで約束通りギターだったよね」

普段なら身長の関係で必然的に見下ろす立場になる透だけれど、今は膝枕をしてもらっている分愛理を見上げる形になっている。この格好も新鮮でいいものだ。トリプルフェイスを使いこなし、いつも尖らせ、張りつめている神経がほぐれていくのがわかる。

「あっ!またそういうことするー」
「愛理さんが可愛いからつい」

畳の部屋で、恋人に優しく見つめられながら彼女の柔らかさとぬくもりを堪能して。それだけでなく、愛理の手を優しく捕まえてやってちょっとの間放してやらないとか、艶やかな黒髪を指先で弄びクルクル巻き取ってみるとか。でも、愛理の艶やかで滑らかな髪は、すぐに透の指先をすり抜けてしまうから、その感触が何度も恋しくなって同じことをして……。

年甲斐もなくちょっかいを掛け、年下の恋人がしょうがないなあ、と反応したり照れたりするのを見ては楽しんで、癒されて――これ以上安らげるひとときなんて、あるとでもいうのか?

「クゥン」
「よしよし。こうするの好きなんだった?」
「ワウッ!」

自分も忘れないで、とばかりに声がする。ハロももうすっかり愛理に懐いた。お腹を見せたまま、彼女を見上げ甘えるように鳴いてみせるこの声は……そう、撫でてほしいんだ。愛理は前に透に教わった通り、顎の下をそっと撫でてやる。するとすぐに満足気な一声が。正解だと教えてくれたのだろう、愛理は目を細めた(彼女は犬を飼った経験が無かったので、ハロが初めてお腹を見せてきたときはとても驚き「透さんどうしよう、ハロが大変!いきなり引っ繰り返っちゃって……どこか具合悪いのかも」と慌てたものだ。でも、すぐに透が「大丈夫だよ、愛理さん。この仕草は相手をとても信頼しているサインなんだ」と誤解を解き、ついでに撫で方のコツも色々教えてくれたのだった)。

遊んだあとで心地良く疲れたのか、ハロはうつらうつらしている。今日はひとしきり跡良邸の庭をリード無しで駆け回って思う存分探検し、犬好きの庭師に遊んでもらったからかとても満足気に見える。好奇心旺盛なところは相変わらずで、鯉の泳ぐ池に顔を突っ込み、驚いたらしい鯉が跳ねた時にはキャンキャン鳴きながら透の足元に駆け寄っていったところまで、愛理はしっかりスマホのカメラに収めておいた。

恋人の華奢な手を優しく包み、なぞって。透はいつもよりずっとゆっくりと呼吸する。そこへハロが欠伸をするときの微かな声も加わって。幸せで、嬉しくてたまらない。透も愛理も何も言わないまま、しかし内心では同じ思いを分かち合っていた。愛おしい相手と過ごすひとときを誰にも邪魔されない。恋人が目の前にいてくれる、体温が感じられる……そんな喜びから、お互いニヤニヤ笑いでもデレデレした表情でもなく、微笑み以外何も浮かんではこなくて。

「嬉しそうだね、愛理さん。何か良いことあったのかな」
「はい。透さんが嬉しそうだから、私も嬉しいの」



そして、しばらくのち。

「ここがこうで、えっと」
「Fのコードはもうちょっと右を押さえて……そう」

ギターの弦の上、愛理はたどたどしいながらも透に教わったことをしっかり守って指を動かす。横では透が綺麗な正座をして、ギターの音に起き出してきたハロも飼い主を真似たのかきちんとお座りをして、キリリとした顔で見守っている。そのうち最後の一音に辿り着き、響いた音色がやがてフェイドアウトしていく。

「はい、良くできました」
「わぁー……弾けた!」

透が送ってくれる拍手と褒め言葉で、達成感に浸りながら愛理の声は弾む。ハロも尻尾を振り振り跳ね回っていて、拍手ができない代わりに全身で感想を送ってくれているかのよう。

ここは集合住宅とは違って、音を立てても迷惑にはならない。母屋にいる愛理の母も、この程度の音ならまあ大目に見てはくれるはず。今日のデートが決まったとき、愛理はこんなおねだりもしていたのだ。「透さんがギター弾くところ前から見てみたかったの!絶対かっこいいだろうなあ」と。顔を輝かせる恋人に期待たっぷりの眼差しでお願いされたら、拒む理由などありはしない。

まず『故郷』を披露した透は、そのまま「教えるからちょっと弾いてみるかい?」と水を向けた――少しばかり邪な本音を言えば、それをダシに密着したいという目論見があったのは否定できないけれど――。果たして愛理はすぐに乗ってきたから、スマホで検索して表示した楽譜を見ながらコードの押さえ方も伝授したのだ。

「さすが、愛理さんは飲み込みが良いから上達が早い。そういえば愛理さんはお琴を習ってたんだよね?」
「うん、最近弾いてないけど……そうだ!透さんに一曲弾いてもらってギターの弾き方も教えてもらったでしょ、今度は同じように私が一曲弾いてみせてから透さんにお琴の弾き方お稽古したいなって。すぐ出してこれるけど、どうします?」
「本当かい!願ったり叶ったりだよ」
「じゃあ決まりですね、持ってくるからちょっと待ってて」

そうと決まれば。愛理は早速、母屋の自分の部屋へ一旦小走りで戻ると、数分して琴や、譜だとか見台だとかの道具類を持って来た。透はその間に、また寝入ったハロを(日なたから動かしてしまうのは少し申し訳ないと思ったが)そっと隅の方へ寝かせておいた。

「最近弾いてないから鈍っちゃったかも。一昨年まで付いてた先生はお歳でお辞めになっちゃって。ほかに良い先生もいらっしゃらなかったし……よしっ」

テキパキと袋から様々なものを出しつつ調弦しつつ、愛理は独り言めいたそんなことを喋った。だが腕は鈍るかもしれないが、一旦馴染んだ手順というのは体が覚えていてそうそう忘れないもの。すぐさま準備を整えた愛理は、琴の正面に正座した(琴を爪弾く時にはいつもなら緋毛氈を敷くけれど、今日は恋人の赤色嫌いを思い出して敷かないことにした。彼が不機嫌になってしまうのは嫌だったから)。透もそれに倣うように、楽器を挟んだ正面に少し間隔を開けて正座する。

「少し近くで見ても良いかな?ありがとう。なるほど、爪を使う弦楽器っていう共通点はあってもやっぱりギターとはまるで違うな……」

テレビや写真で見たり、BGMだとかで演奏を聞いたりしたことはあるが、透はこうして琴の実物を間近で見るのも生演奏を聞くのも実は初めてだ。糸や道具類、愛理の指の爪先に付けられている丸みを帯びた爪。ブルーグレーの瞳に好奇心を浮かべ、道具一つ一つの隅々までためつすがめつする彼が愛おしい。愛理はその様子をニコニコしながら見守ったのち、いよいよ演奏を始めようとした。

「愛理さんはお琴の正面に座るし、爪もこの形だから……山田流かな?」
「うん、透さんってやっぱり物知りですごい!曲は何にしよっかな。透さん、何かリクエストありますか?」
「『さくらさくら』をお願いしたいな」
「はーい。じゃあそれにしますね」

透の拍手を受けながら一礼した愛理は、少し深めの息を吸い姿勢を正してから演奏を始めた。

ツン、テン、トン。ツン、テン、トン……恋人の白くて細い指が軽やかに弦の上を舞い、お馴染みの旋律を奏でていく。とっくに夢の中のはずのハロも、無意識のうちに反応するのか「ド」と「シ」の音がすると体が軽くピクッとしている。

愛理の演奏中、一度だってよそ見も瞬きもしたくない、できやしない。透はそんな気持ちで全ての神経を集中させながら彼女に目を凝らし、音色に耳を傾ける。やがて演奏が終わり、また一礼する愛理に、透は今度は曲が始まる前以上にもっと力を込めて拍手を贈った。

「本当に素晴らしいね!どうもありがとう」
「こっちこそ聞いてくれてありがとうございます。じゃあ、今度は透さんも弾いてみますか?」
「うん……じゃなくて、はい!」
「いきなりどうしたんですか透さん、改まっちゃって」

言い直した透に愛理は首を傾げた。付き合い始めてから半年が経った今でも、愛理は恋人同士になる前と同じように彼に対しては「ですます」調で話している(最近は少し砕けてきつつはあるが)。その一方で、透はただのお隣さん同士だった頃こそ丁寧語で話しかけてきていたが、付き合い出してからは前に比べれば砕けた口調になっていたのに。

「だって、教えていただく生徒が先生に利く口じゃありませんからね。お稽古の間はちゃんとですますで話しますよ……では愛理先生。不束な弟子ですが、今日のお稽古どうぞよろしくお願いします」
「ふふっ、よろしくお願いします」

透が改まった口調で、綺麗な正座から三つ指をついて頭を下げる。挨拶の日もそうだったけれど、彼の礼の仕方はとても美しい。透さんはボクシング以外にも何か剣道とかの武道を習ってた経験があるのかも、と愛理は推測した(彼の正体が警察官だとは知らずに)。愛理だって、習っている合気道で道場に出入りする時だとか、それから学校の茶道部でのお茶席だとか、礼やお辞儀をする機会はそれなりにある方だ。けれど、透のそれには到底及ばないはず。愛理はお稽古を後回しにして少しの間見ていたいくらいだった。

ともあれ、透が武道を嗜んでいたかどうかは後で訊くとして、教えると言ったからにはちゃんとそうしなくては。愛理は爪を外して置いてから立ち上がり、透を先ほどまで自分が座っていた位置に入れ替わる形で座らせる。彼がまた正座した横に愛理も座れば、いよいよお稽古の始まりだ。

「では始めます。爪の付け方と音の出し方から始めて、最後は『さくらさくら』を弾いてみましょう。まず、爪をこうして嵌めます」
「こうですか、愛理先生?」
「そうそう、お上手です。そしたら指はこの位置に置いて、姿勢は……」

やっぱりさすがだなあ、透さん。愛理はあれこれ指導しながら内心舌を巻いた。色んなことたくさん知ってるし、どんなことも小さなヒントからあっという間に言い当てちゃうし。それにかっこよくてギターも弾けて、お料理もできてしかも飲み込みが早い……お琴に初めて触るのにすぐにコツを掴んでるんだから。もうそろそろ弾けちゃうんじゃない?それにしても、お琴が弾けるって言ったらすぐ聞いてみたいって言ったあたり、和風のものがすごく好きなんだよね。お裾分けしてもらったのも煮物とかだし、前に「畳の部屋って落ち着くんだ」って言ってたし。浴衣とか和服も着るのかな?今年の花火大会やお祭りも一緒に行けたらなあ。きっと似合うだろうな……愛理は横顔に見とれそうになりながらも教えつつ、外見とは裏腹に和風好みな恋人について考えていた――と。

「愛理先生?」
「ひゃんっ」

先生って呼ばれるの新鮮で良いな、だなんて思いかけた時だ。透に耳元で囁かれて、愛理は我に返る。

「よそ見をされたら寂しいですよ。愛理先生のご指導のおかげで結構弾けるようになったと思うので、ご覧に入れたいのですが」
「う、ごめんなさい……それでは透さん、弾いてみてください」
「はい!」

見下ろしてきた透はいたずらっぽく笑ってみせたが、琴に向き合うや真剣な表情に様変わりする。私、こういうギャップに弱いな……愛理は彼の横顔に、美しく保たれた姿勢に、またときめきを覚えながらカウントする。

「いち、に、さん」

今度は透の長い指が弦を弾く番だ。ゆっくりだが愛理が教えたことをしっかりと守りながら、曲が始まって――すると、どちらの口からともなく『さくらさくら』の歌詞がこぼれ出し、自然とデュエットになった。

この国を象徴する花……桜。日本警察の代紋でもあるそれは、カタカナになるとき、特に透もとい零にとってより特別な意味を持つ。サクラ。“四係”として出発し、今では “ゼロ”だとか“チヨダ”だとかあだ名されるその秘密部隊だが、かつての呼び名の一つに「サクラ」というのがあるのだ。

……窓の外を飛んでいく花びらに重ねるのは、その職務に殉じて桜の花びらのごとく散って逝った、友らのこと――一瞬だけ降谷零としての意識になって脳裏に浮かんだことをおくびにも出さずに、安室透の仮面をしっかりと被ったまま口ずさみ続けた。



「さっきは何を考えてたのかな?」

演奏を終えたあと、透は琴を片付けた愛理に訊いた。「ですます」調で話す、言うなれば“生徒モード”は「卒業」したようで、また丁寧語を使わない口調に戻って。

「透さんには教えてもらうことのほうがずっと多いから、私が教える側になるって新鮮だなって。あとね、着物だったら雰囲気もっと出るなあ、透さんはどんなお洋服着てもかっこいいから和服もきっと素敵だなって思ってたの。ね、今年の夏祭りには浴衣着て行きませんか?」

ありふれた、言われ慣れた褒め言葉さえも、愛理の口から聞けば特別な響きがするのだから不思議だ。「もちろん」と頷いてから、透は自分だけ褒められるのはフェアじゃない、とばかりに切り出す。

「そういう愛理さんもね。浴衣もそうだけど成人式の晴れ着姿、綺麗だろうなあ。今から待ち遠しくて仕方ないよ」
「実はもう着るもの決めてて、おばあちゃまもママも着た大振袖にするんです。今は仕立て直しに出してますけど」
「その言い方からすると、代々受け継いできたものかな?素敵だね」
「えへへ」

お互い口々に和服を着る機会を挙げながら、相手の和服姿がいかに素晴らしいものだろうと想像していくうちに思いつくことがあった。そう、最高の晴れ舞台には、あの白い――透はそのことを口に出そうとフッと表情を緩める。少し照れた様子からして、愛理にも同じ考えが浮かんだようだ。

「いっそ、式は神前式にしようか?お母さんから受け継いだ大振袖も素敵だろうし……白無垢、愛理さんにきっと似合うから」
「……はい!約束ですよっ」

透が顔を近づけてくる。愛理は受け止める準備をしながら、ゆっくり目を閉じる。

ほどなくして、桜色の唇に、まだ少しだけ遠い未来を誓う口づけが捧げられた。



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