理由


暑さ寒さも彼岸まで、とは言うけれど。本当にそれくらいまでに春らしく暖かくなるんだろうか――ハロにリードを付け終えた透は、玄関のドアを開けながらそう思った。

春一番が吹いた雛祭りの日から数日後の3月上旬、時刻はそろそろ7時半。玄関の鍵を閉めながら吐く息はまだ白い。朝食をしっかり摂ったあと、透はトレーニング兼ハロの散歩のため、いつもの散歩コースである提無津川の河川敷へ向かおうとしていた。

厚手のジャージのフードを強く冷たい風が攫おうとする。空を見上げればどんよりとした曇り空。今日の気温は10℃を下回っているし、向こう1週間曇りか雨が続くそうだ。しかも、桜は3月中に咲いて散ってしまうだろうとの予報も出ていた。この国の美しい四季のサイクルが年を追うごとにどこか狂ってゆくような気がしてならないな、と顔を顰める。そして隣の部屋のドアを見遣りその向こうにいる愛理を想いながら、この寒さはさぞ堪えているだろうな、と慮った。

恋人は寒いのが大の苦手で、冬は毎年憂鬱になってしまうらしい。かなり冷える体質だというので、冷え性を改善する方法を色々と教えたら「体がポカポカになりました!」と大いに感謝された。ただ、透としてはウソ偽りない本音を言えば、彼女が成人したらマッサージだとかではない“別の方法”で暖めてやる日が来るのが待ち遠しいな……とも。

朝から何を考えてる、とそんな思いを振り払って透は腕時計を見た。もうそろそろ愛理が家を出る時間だ。現に今は身支度を整えている真っ最中なのだろう、ドアの向こうからは色々な音が漏れ聞こえてきている。

片や社会人、片や高校生。互いの生活サイクルがかなり違う分、確かに隣に住んではいるとはいっても、必ずしも毎日顔を合わせられるとは限らない。愛理は探偵兼喫茶店店員としての透の顔<フェイス>しか知らないが、実はあともう2つそれを持っている彼がとても忙しい分なおさら。

だが、透は今日はランチタイムからポアロに出る予定で、幸いまだ時間に余裕がある。愛理の使うバス停と、彼の車を停めてある駐車場までは同じ道のり。だから愛理と知り合って以来、少しでも彼女と接していたくて、可能な時はわざと家を出るタイミングが同じになるようにしてきた。付き合い出してからもそれは変わらない。デートというには短すぎるひとときだけれど、会えない時間が長くなるにつれ膨らむ寂しさを埋め合わせたくて。

もう少し待てば顔が見られるはず。トレーニングに急いで向かう理由もなし、愛理が使うバス停まで付いて行って見送ろう、と決めて気が付いた――交際を始めてからの期間はそろそろ半年だが、愛理との初対面自体からはもう1年になるのだと。早いものだ。

「クゥーン」
「うん、よしよし。もう少し待て」

足元に何か引っ張られるような感触がした。見下ろせば、雨に備えて念のため犬用レインコートを着せたハロが、早く行こうよとばかりに透のジャージのズボンの裾を軽く咥えて引っ張っている。しゃがんで頭を撫で宥めつつ、愛理が姿を見せるのを待ち遠しく思うように、ハロも僕の帰りをこんな気持ちで待っているのだろうか、と想像した。

するとそこへガチャッ、と待望の音が。すぐにその方向を見れば、ドアノブが動いて隣の部屋のドアが開き、愛理が共用廊下に姿を現した。学校指定のスクールコートに身を包み、春や夏の頃のような三つ折りソックスではなく分厚い黒いタイツを履いている。

「おはよう、愛理さん」
「……おはようございます、透さん。ハロも……おはよう……」
「アゥン」

朝一番に顔を見られるのもまた、お隣さんにして恋人の特権だ。白いマフラーと愛理の艶めく黒髪のコントラストが美しい。朝から良いものを見たな、と嬉しくなる。

……のも、つかの間のことだった。どうしたんだ?透は愛理の様子を見て心配になってきた。いつもの朝ならぱあっと笑ってくれるのに、今朝の彼女は挨拶を返しながらもボーッとしていて顔は青白いし、おまけに目の下には色濃いクマ。そんなもの、赤井の目の下にでもぶら下がっていればいいものを……寒いのが苦手だから気分が落ち込んでいるのか?テスト勉強に疲れているのか?それとも、あのしつこい顔見知り君にまた何かされたか?「良かったらバス停まで見送らせてくれるかい」と申し出たら「はい……」と応えてくれたので、一緒にいたくないわけではないようだが。

「この間は雛人形の写真をどうもありがとう。本当に綺麗だった」
「どういたしまして……」

ハロを抱き上げ愛理のペースに合わせて階段を降りたら、彼女を守るように道路側に立つ。そうしてバス停へ歩き出しながら透はお礼を言ったが、応える恋人の声にはまだ、元気が無い。

先日の雛祭り、愛理は本宅で友人達と雛祭りパーティーを開いた。毎年恒例で、彼女が言うには「学年末テスト前の景気づけ」なんだとか。実はその際、透は愛理に「もし良かったら、雛人形の写真をRineで送ってくれたら嬉しいな」と頼んでいた。

日本を愛する者として、透はこの国の伝統行事に纏わるものには強く興味を惹かれる。とはいえ雛人形に関してだけは縁が無かった。自分は男だし姉妹はいないし、この時期たまにどこかの店先にディスプレイされているのをちょっと眺めてみるぐらいしか触れる機会が無い。愛理の家では祖母から受け継いだ8段飾りを飾るというので、さぞかしあの純和風の家に似合うのだろうなと予想していたが果たしてその通り、さる人形職人に依頼したものだそうで、それはもう見事だった。

原則写真を残せない公安だが、それは人物が写っているものに限っての話。周りの景色が写り込まず、どこにあるか特定が難しいモノならば問題ない(万一ハッキングなどをされ写真も含めてデータが流出し、それが巡り廻って公安のマーク対象に渡った場合、写り込んだ景色を手掛かりに行動範囲を読まれ、逆に尾行されかねないのだ)。透は雛人形の全体の写真を1枚だけパソコンに取り込み、同期達の写真――これだけは人が写っているものだけれど消さずにいる――と同じように鍵を付けて保存しておいた。愛理本人の姿は写真に収められないし、彼女から写真を送ってもらっても十分に目と脳裏に焼き付けてから消すしかないけれど、これがあれば、彼女を思い起こせるから。

すると、その時また風が吹き――透の鼻を、愛理からしてくる独特の臭いが擽った。同時に彼女は少し顔を顰めたかと思えば、お腹に一瞬手をやりさするような仕草を見せて。

なるほど……そういうこと、か。透は恋人の体調が良くない理由を察して一人納得した。

これまで持ち前の観察眼と洞察力、あと何より隣同士に住んでいるのを活かして、透は愛理の様々な様子を間近でつぶさに見てきた。だが、彼女に“その期間”がいつ訪れるのか……そんな女体の神秘、こればかりは透の能力をもってしても見抜けるものではない。割と不規則で、それが原因の痛みもそれなりにあるようだということぐらいしか。十代なので周期がまだ完全には安定していないのだろう。愛理は恥じらいもあってか言い出そうとはしないし、透もデリカシーの無い男だと思われたくないので本人に直接訊いてはいないが。それに、彼女はこれまでそういうことはなかったが、体臭がきつくなるとも聞く。

あの忌々しい色をしたものが愛理を苦しめているのが許せない、やはりいつか僕が280日だけでも止めてみせるぞ……とも意気込みかけた透だったが、そこまでにしておいた。

「ねえ……透さん」
「どうしたの、愛理さん」

そこへ愛理が今日初めて自分から話しかけて来て、透はすかさずそちらへ向いた。ハロも飼い主の動きを真似るかのように彼女の方を見上げる。

「昨日、怖いっていうか嫌な夢見ちゃって。眠れなくなっちゃったんです」
「そうだったのかい?可哀そうに……僕でよければ話を聞かせて、不安は誰かに話すと楽になるっていうよ」
「実は……ママの絵が、大爆発のせいで台無しになる夢見ちゃって。今度できる、えっと……エッジ……」
「エッジ・オブ・オーシャンかな?国際会議場とかが建設中だっていう。すごいよね、愛理さんのお母さん。そこに飾る絵を手掛けるなんて」

愛理の母である跡良日出子が、来る東京サミットの会場に飾る絵を手掛ける――これは既に、2年前に報道発表で公にされていたので、安室透が知っていたとしても不自然ではないこと。

だから、まだ愛理と交際を始める前、透は彼女にアプローチする際の話題として「跡良先生、サミット会場になる国際会議場の絵を手掛けられるんですよね。すごいなあ、さすがは世界的日本画家でいらっしゃる」と切り出したことがあった。すると、その頃はまだ透とさほど打ち解けていなかった愛理だったが、知り合ってから初めて顔を綻ばせ「はい。そこのエリアのコンセプトが〈和〉だから、世界的有名日本画家の跡良先生に是非って依頼が来たそうなんです」と、少し誇らしげに話してくれたのだった。母の活躍ぶりを称えられたことが、やはり家族として嬉しかったのだろう(ただ、透は知る由もなかったが、愛理はこの時点で透が母を好きなのではと思い始めていたころだった。そこに母を褒められ、ますますその予感が的中しそうだと思ったのも喜んだ理由だったのだけれど)。

それからエッジ・オブ・オーシャンとは、現在東京湾の埋め立て地に新たに建設されている統合型リゾートのことだ。国際会議場をはじめショッピングモールにカジノタワーなどなど、様々な施設が集められており、臨海地区一帯の再開発の中心的な役割を担うことが期待されている。ちなみに、以前とある事件のため全壊した海上娯楽施設・アクアクリスタルの跡地も一部転用されているとか。

「……テスト勉強の息抜きに、スマホでネット番組見てたんです」
「うん」
「それで…前に、左右対称じゃないのが気に入らないからって、そういうわけの解んない理由で爆弾仕掛けた人いたでしょ。自分が設計した橋やビルなのに。点けた番組でその関係の特集やってて……パパもそういう、自分勝手な人のせいで死んじゃったんだって思うとすごく腹が立ったのに、何となくずーっと見ちゃったんです……」

長いまつ毛を伏せて、愛理は声を震わせながらぽつぽつと話す。透はじっくり話を聞きながら何も言わないまま、手を優しく握り直す。バス停が見えて来た。

「建物って、作ろうってことになってすぐできるわけじゃないでしょ、おもちゃの積み木じゃないんだから。なのになんでこんなことするんだろう、って思いながら。それに爆破なんてしたら何にも悪くない人達が、大勢巻き込まれるかもしれない……ママ、今度その国際会議場に飾る絵、すごく力入れて描いてたみたいなのに、そうなったらどうしようって、なんだか不安になっちゃって。おまけにそういう気持ちのまま寝たからかなあ、爆発が起きる夢まで見ちゃった。だからあんまりよく眠れなかったの……」
「そうか……辛いことなのに話してくれてありがとう。でも大丈夫だよ、きっとそんなことは起きやしない。それに、その犯人は刑務所に服役中で当分出てこないしね」

苦手とする寒さから守ってやったり、女性ならではの痛みを和らげてやったり、というのは限界がある。歯がゆい。でも、愛理がそんな連中のせいで抱えることになってしまった、言いようのない不安だけはきれいさっぱり消し去ってやりたい。透はそう思いながら握っていた手を離し、愛理の腰をさり気なく、優しく撫でながら慰めた――安室透としては「起きやしない」と言わざるを得なかったが、降谷零としては「起こさせはしない」と言い切りたかったがな、と思いつつ。

警備計画をはじめ運営に関する諸々はもう数年前、東京でのサミット開催が決まった直後から練りに練られている。そして透、いや降谷零は、それを主導する警備企画課の人間として、決して公にはされない極秘また極秘であるその全てをとうに把握済みだ――当日のスケジュールに始まり、工事を担う業者やレストランを運営する企業も。もちろん、愛理の母が国際会議場の絵を手掛けることについても、報道発表のずっと前から。

各国の国賓を迎えての第一級の大イベントにテロが起きようものなら、公安警察そして日本国の信頼は完全に失墜する。だがもちろんそんな事態が起きないよう、関わるあらゆる人員は当然調べ尽くされているのだ。氏名に顔写真、指紋、虹彩といった身体的データから思想に至るまで全てを。警備の下見に当たる警察関係者や施工に関わる工事関係者は言うまでもないし、建築士や内装デザイナー、愛理の母のような画家だろうと例外ではない。

「そう、ですよね。透さんが言うとすごく安心感があるなあ。話してよかった」
「愛理さんの力になれたならこんなに嬉しいことはないよ」

透の体温を感じたことや、力強く言い切られたおかげで、愛理は不安が消えたような気がしてきた。そう、透さんの言う通り。そんなこときっと起きるわけない。彼の手のおかげかあの痛みも何故だか治まってきたような。心が軽くなって、愛理は固くなっていた表情を緩めて笑った。透もつられて笑顔になり、ハロも心なしか嬉しそうに、2人の足元を行ったり来たりしている。

「今思ったんだけど、透さんってもしも無人探査機とかが落っこちてきてもなんとかできちゃいそう!」
「無人探査機とはまた大きく出たね。それも番組か何かで見たのかな」
「うん。【はくちょう】が戻って来るっていうの、さっき話した特集の前にやってたから」
「さすがに無人探査機相手は手強いだろうけど、万が一そうなったら頑張るよ。愛理さんの期待に応えるためにも……ね」

一瞬の沈黙の間には「この国のためにも」と心の中で呟いたのは、透しか知り得ないことだ。

お喋りになった愛理は、それを知る由もないまま話し続ける。

「ほんとの一般公開はサミットが終わった後だけど、それより先に関係者だけ一足先に招待される日があるってママが話してたから、おねだりして連れて行ってもらえないかなって思ってて。ねえ、2人までなら誘って良いって言われたから、その時透さんも一緒に行ってくれませんか?美味しいご飯も付いてくるの。ママが【逸昇】と【銘太軒】のオーナーの娘さんと同窓生なんだけど、そこが国際会議場のレストランもプロデュースしてて、一般公開前の試食会もするってその人に教えてもらったから」
「ありがとう。都合が付くかはまだ判らないんだけれど、付きそうなら是非伺いたいな」

【逸昇】は日本料亭、【銘太軒】は洋食レストラン。どちらも日本橋に本店を構える老舗として知られている。愛理の母の絵も鑑賞でき、美食も楽しめるとあれば確かに魅力的な誘いだ。料理を口にできるかは別として……。

「そういえばこの間、運び込む日は4月の終わりごろって言ってました。でも、アトリエに入るのは私や秘書さんでも許してもらえないから、当日にお披露目されるの待たなきゃいけないの。もったいぶらないでもいいのにな」

愛理が独り言ちたその言葉に、透は軽く相槌を打ちながら頭の中で考えた。4月の、終わり。もしかしたら、警備の下見を予定している日と同じかもしれない。そうなれば現地で愛理の母と鉢合わせる可能性もある…そうなった場合の対応を考えておくべきだな。

そこまで決めたところで、電光掲示板からバスがもう間もなく来るとのお知らせの音声が流れる。愛理は名残惜しげに透の手を離し、フサエブランドのパスケースを取り出した。やがてバスが近づいてきて停まる寸前、彼女は恋人の方を向いて手を振った。

「行ってらっしゃい透さん、気を付けて!」
「ありがとう。そういう愛理さんも気を付けてね」

前に「気を付けて、と相手に言うと無意識のうちにそうしようとするんですよ」と教えたことがある。それ以来、こうして朝に途中まで一緒に行った後、愛理は別れ際には必ずそう言うことにしているのだ。

乗り込んでみると、透のいる側の窓際の席が運良く空いていた。愛理は定期券を読み取り機にタッチするや、小走りでそこへ向かう。先に優先席に座っていた年配の男性が、何事だとばかりに見てきたので、謝る気持ちを込めてちょっと会釈してから窓の外の透の方を向いた。すかさず彼もその視線を受け止めて手を振り、ハロもちゃんとお座りをして愛理の方を向いている。

“発車します、閉まるドアにご注意ください……”

そんな機械音声のアナウンスのあと、透は愛理を乗せたバスが遠ざかっていくのを見送りながら誓う。この国の安寧のため。今日も明日も明後日も、たとえ終わりの見えない暗闇の中でも。愛理のため、逝ったあいつらのため。戦い続けてみせる、進み続けるだけだ――。

「お待たせハロ、それじゃあ行こうか。よーい……ドン!」
「アンッ!」

まずは、そのための体力をしっかり付けないとな。透はハロを促すと、踵を返して散歩コースの方へと駆け出して行った。



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