あなたの心に


バレンタイン数日後、土曜日。メゾンモクバは愛理の部屋は文字通り、それは甘い空気に満ち満ちていた。

「こっちを向いてくれないの?愛理さん。僕なんだか寂しいんだけどなあ」
「ええー、そろそろ生地ができるから続きするってさっき言ったばっかりでしょっ。透さんのためだから上手く作りたいんですってば、集中させてくださいよ」

中断していたお菓子作りをこれからまた始めるため、念入りに手を洗う愛理に透の声が背後から投げかけられる。彼はこれまでも何度も悪戯っぽく、わざとスネているような声色で愛理の気を引こうとしていた。持ち前の観察眼を活かし、彼女がどうしても手が離せなかったり集中しなくてはいけなかったり、というタイミングを見極めた上で、そういう時はしっかり外して。

このやり取り、数えてはいないけれどこれで何回目だろう。一回りも離れてるのに寂しがりなんだから透さんったら、しょうがないなあ。照れ隠しで少し素っ気ないふうを装って、でも年上の恋人のそんな可愛い一面を愛おしく思いながら答えたあと、愛理はスマホに表示したレシピに目を落とす。

つい先ほどまでは生地を寝かせつつ、あとはオーブンを予熱しておく以外にすることも特になかったので、二人はどちらからともなく一旦ダイニングから出て奥の和室に移っていた。そこで(普段はよく喋る透には珍しいことに何も言わないまま)愛理は彼に後ろから優しく包み込むように抱き締められ、時折頬にキスをされるお返しに恋人の髪を撫でながら過ごしていたのだ。黙っていたままなのに気まずくなりもせず、とても心地よかった。お菓子づくりの途中でなければ、いつまでもそうしていたいくらいだった。

離れた温もりがもう恋しくなってきた。早くまた触れ合うには、手早く作業を進めてしまうのが一番……そこにブブッとスマホが連続して震えた。友人の睦美と、続けて沖矢昴からRineメッセージを受信したという通知の表示が出る。でも今はクッキーが先、後で返そうっと。愛理は手順をもう一度目でなぞってから手を動かし始めた。


「お掃除やお洗濯は基本的な知識だけ持ってさえいれば十分、実際にするのはお手伝いさんにお任せすれば良いわ。でもお料理に関することだけは別。これから愛理が大きくなって、自分や大事な人の健康を守るようになったら、今自分やその人がどんな体調なのかとか、そういうことをよく観察して解った上で、それに合わせて自分で作れるに越したことは無いもの。だから人任せにばかりせず、愛理にも自分で一通りのものは作れるように教え込むのよ」

母のそんな方針の下、亡き父が遺したレシピを叩き込まれてきたので、愛理は出汁の取るのをはじめお菓子作りも含めてそれなりに料理はできる。もちろん外食したり、母や家に仕えるシェフに作ってもらったりすることもあるが、母がアトリエに籠っている最中は冷蔵庫にあるもので簡単に作って済ませてきた。バレンタインに友人たちに贈るお菓子も毎年手作りだ。

そのことを透に話したら、彼は「愛理さんの手作り、僕も食べたいな。あと作っている所から見せてほしいんだ」と希望を伝えてきた。こうして、お互い都合の付く日はバレンタイン当日とはならなかったものの、母の許可も得て彼をこうして部屋に招き、薄力粉を計量するところから始めたのだ。

「……」

この部屋に上がってからというもの、透は愛理の一挙一動全てを捉えなくては気が済まないとばかりに彼女を目で追っている。しかも時折思い出したように「愛理さんは手際がいいね」だとか、先ほどのように「寂しいな」だとか話しかけてくる。無視してしまうなんてできるわけがないし、じっと見つめられ続けているのは思った以上に気になるものだから反応してしまう……。

そうだ、見られているといえば、愛理は少し気に掛かることを思い出した。サンテミリオン先生に文化祭が終わった辺りからやたらと見られてる感じがするんだよね、どうしてだろう。私何かしちゃったのかな?――透のもう一つの顔(フェイス)、バーボンと関わっていることを疑われFBIにマークされているのを知らない彼女は不思議に思ったが、まあ良いかと流した。

それよりも目下気になるのは、やはり透のこと。声がする度、視線を強く感じる度、思わず振り向いてしまうけれど、それを受け止めたブルーグレーの瞳と目が合い、しかもニコッと笑いかけられて。何度もそうされては、嬉しいけれどクラクラして、スムーズにクッキーを作るどころではなくなってしまいそうだった。だからといって、止めてなんて言うつもりは無いけれど。

寝かせていた生地を入れてあるバットを冷蔵庫から取り出し、さらに予めダイニングテーブルに用意していたまな板の上に置いて。これから型抜きに入る(使うのはもちろんハートの形のものだ)ためラップを開く前、愛理は訊ねた――必然的にダイニングチェアに掛ける透と向かい合う形になったので、彼の視線をダイレクトに浴びながら。

「透さん、そんなに見てて面白いんですか?」

この国を愛してやまず、また色々とこだわりの強い恋人は「食材はできる限り国産のものを揃えているんだ」と話していたので、愛理も彼に倣い(チョコレートなど一部の材料はやはりどうしても外国産のものしかなかったが)今回用いる材料は、なるべく国産のものを取り寄せた。

ココア味の生地にはホワイトチョコチップ、ドライブルーベリー、それからレモンピール(透の好きな色をしたもの、それから彼の髪、目、肌の色に似たものを用意したのだ。日の丸になぞらえてプレーンの生地に赤いベリーを入れようかとも考えたが、彼の赤色嫌いを思い出して止めた)が混ぜ込まれている。

「もちろん。面白いというより、嬉しいな。僕のワガママを聞いてくれて、しかも真剣な顔で作ってくれている愛理さんをこんなに間近で独り占めできるんだからね。見つめずにはいられないよ。クッキーもきっと美味しいだろうな、すごく楽しみだ」
「えへへ……でも」

彼の言葉は嬉しかったが、ふと数日前のバレンタイン当日、ポアロで見た光景を思い出して愛理は頬を膨らせた。胸のモヤモヤがそうしたところで消えるはずもないのは解っているのに、型抜きをする手に思わず要らない力がこもる。そのせいでハートの形に抜くはずだった生地がひしゃげて、よれた。

「あんなにたくさんもらってたけど、有名なお店の渡してる人もいたもん。友達は私の作ったの美味しいって言ってくれるけど、でも透さんが貰ってたああいう高級なのに比べたら、そんなに期待されても美味しいかどうかはわかんないですよ」

透がとてもモテることや、彼目当てにポアロに足を運ぶ女性客が多いことも、愛理は当然とっくに知っている。とはいえ彼と愛理が交際していることは、彼女の母を始めごく限られた人物しか知らない――透は梓、マスター、風見、そして本来の仕事上交際報告をせざるを得ない“上”にだけ。愛理は学校の友人達、それから蘭、園子、真純にだけ(愛理としてはもっとオープンにしたかったのだが、以前から梓が透に言い寄っているなどと事実無根のあれこれで炎上させられたことがあったとかで「僕もできることならもっと公にしたいけれど、愛理さんまでそうなったら大変だから、信頼できる相手にだけ明かしてほしいんだ」と彼に言いくるめられたのだ。SNSを校則で禁止だからと使わない愛理は炎上というのが正直よく解らないが、透が言うならと頷いておいた)。

だから透に既に恋人がいるのを知らない多くの女性客達は、我こそは、あわよくば、と足しげくポアロに通ってアプローチを試みるわけだ。彼の得意料理であるハムサンドを毎回注文し、顔を覚えてもらい名前を伝え、ライバルに先んじてその先のステップへ進まんと。バレンタインなど格好のチャンスだから、透宛てのチョコレートを携えた女性客で溢れ返るのも当然で。

おまけに2月7日からバレンタイン当日まで、限定チョコレートケーキを一日10個限定で出すというので、愛理はそれまでにしっかり寝て風邪を治して、その期間中都合の付く日は毎日ポアロを訪れたけれど全滅。日曜日など開店直後に行ったのに既に行列ができていて、しかも目の前で売り切れてしまい本当に悔しい思いをした。友人のカンナには「愛理のために前もって1ピースだけ取っておいてもらうとかすれば?外商さんにしてもらうみたいにさ。彼氏が作ってるんだったらそれくらいしてくれるでしょ」と提案されたけれど、なんだかずるいような気がしてそういうことは頼まなかった。でも、そうしてしまえばよかったと後悔しきりだった。

そして当日、限定ケーキの最終日。放課後に息せき切ってポアロに駆け付けたけれど、案の定既に女性客で満席。スマホをいじりながら居座っている客ばかりで、席が空く気配は当分なさそうだったから、店に入るのは諦め涙をのんで帰らざるを得なかったぐらいだ。

おまけに、ポアロのある通りの反対側から店内の様子を見ていたたった数分の間にも、透はチョコレートの包みを3人から渡されていて。彼が断る素振りを見せたら2人は渋々といったふうに引き下がったものの、最後の1人は諦めが悪かったようで、半ば押し付けるようにして渡しすぐさま店を後にしていた。

遠目にも見えた紙袋には、人気店のロゴが入っている。透さん、あれ食べるのかな……彼の性格からして、食べ物を無駄にするとは考えにくい。愛理の胸は痛んだ。お付き合いしてるの私なんだから、もうあと何日かしたら逢う約束してるんだから、と言い聞かせてもなお。恋人が自分以外の誰かと話していて、しかも好意の詰まったものを渡されているところに居合わせても余裕綽綽でいられるほど、まだ図太くはなれなかった。

だからそんな様子を見て取った透は、愛理が抜き型をちゃんと置いたのを確認してから、彼女を安心させるためそっと頬に手を伸ばして不安を除けてやるのだ。

「言ったでしょ、僕は他の誰より愛理さんの作ってくれたのがいいって。あと、チョコレートはこれまで全部断ってきたし、不可抗力で受け取らざるを得なかったものも一つも食べてない」
「え!?そうなんですか?」
「念のために言っておくけど捨ててるわけじゃない。毛利先生がとても興味を示されるから、授業料として全部差し上げたんだ。ちなみに去年もそうしたよ。依頼のお礼で貰ったお酒によく合った、って大喜びされていてね……蘭さんは渋い顔をしてたけど」

貰ったチョコレートの類を、全て毛利小五郎に献上したこと自体は本当だ(透は「前に妃先生が、毒入りのチョコレートを送り付けられて大変だったって秘書の方から聞きましたけど?」とそれとなく諫めはしたものの、小五郎は毒入りかどうかを気にする様子はなかったのでこれ幸いと渡してきた次第だ)。

ただ、授業料として、というのは表向きの理由に過ぎない。公安の捜査官が安心して口にできるものは限られてくる。製造元が判っているコンビニの食品などを除けば、ラーメン屋や焼き鳥屋のように、調理の全ての過程がはっきり目の前で見える店や、上司や同僚から口伝てに安全だと聞いた店を選ぶよう努める。そういったところ以外の店に入るのは極力避けるし、やむを得ず初めて入ることになった店では、注文こそしても何かしら理由を付けて食べないか、食べるにしても一口二口に留め完食しない。何かが盛られている可能性を考えなくてはならないからだ。まして手作りの菓子類のように、信頼の置けない誰かが自分の目の届かないところで作って来たものなど口にするわけがないし、既製品だって例外ではない。見たところ未開封に見えても、何が混ぜられているか判ったものではないから。

とはいえ、今日のようにこうして目の前で愛理が菓子作りをする様子を一から見たいと言ったのは、もちろん彼女を疑っているからではない。単に自分のためだけに何かを作ってくれている様子を見たかった、そして少しでも長い時間を一緒に過ごしたかったから。ただそれだけだ、これだけは偽りなく。

「ごめんね愛理さん、限定ケーキを楽しみに来てくれたのに十分な数用意ができなくて。その代りと言っては何だけど、ホワイトデーのお返しは愛理さんのためだけのホワイトチョコレートケーキなんてどうかな?腕によりをかけて作らせてもらうよ」
「やったぁ!すっごく楽しみですっ」
「じゃあ決まりだね。例によってクリスマスやバレンタインみたいに前後してしまうかもしれないから、当日に逢えるかはまだちょっと保証できないんだけど……」
「それでも良いの、透さんのケーキが味わえるんだもん」

透が贈られたものに手を付けていないと知り、しかもホワイトデーのお返しの約束までしてくれた。愛理はすっかり気を良くしてニコニコ顔だ。恋人のそれともなればふくれっ面さえも愛おしいが、やはり笑顔に勝るものはないよな、と透は思う。彼女の手はスムーズに動いて型抜きが思いのほか早く終わり、天板の上に少し隙間を空けて並べてオーブンへ。スイッチを入れたら、あとは焼き上がりを待つだけ。

「愛理さんの初恋の人って誰だった?」

手が空いた彼女とまだまだ話がしたくて、透はバレンタインらしく恋にまつわるそんな話題を出した。恋愛対象になりうる異性と接することがほとんど無いはずの環境で育ってきただろうから、どうか初恋の相手は自分であってほしくて――赤井の妹へラブレターを差し出したあの一件はノーカウントだ、ということに勝手にしておいた――。

「写真とかでしか知らないけどパパと……あと、やっぱり紋付き袴仮面様!」
「え?紋付き……?」

だが、その願いはかなわなかった。透が耳慣れない言葉に聞き返すと、もう一脚のダイニングチェアに腰を下ろした愛理はコクンと頷いて。

「小っちゃかったころに夢中だった『天泰戦士プラネティーヌ』っていうアニメに出てきたかっこいい人で、主人公のプラネティーヌ・セレーネがピンチになると颯爽と現れて、日の丸扇をパッと開いて敵に投げるとこがかっこよかったの。『我は紋付き袴仮面!泣いているばかりでは何も解決しないぞ、プラネティーヌ・セレーネ!』って。今思えば透さんに声が似てるんですよ」
「へえー……」

いつもは割とゆっくり話す彼女にしては珍しく早口で、目がキラキラしている。何だ、僕じゃないのか……まあ父親は敵わないというか別格なのは、それでも悔しいが認めざるを得ない。しかし、その変な名前のキャラクターは一体何なんだ。そんな奴が愛理の初恋相手だって?透は内心面白くなかった。

愛理が好んでいたそのアニメは、もう十数年前に本放送は終わったが今でもリメイクされるほど根強い人気を誇っているので、透もタイトルとメインキャラクターの名前程度は耳にしたことがある。ただ、さすがにリアルタイムで視てはいなかったしそこまで詳しくないので、知識の量とジャンルの広さには自信がある方だけれど、件の何とか仮面というのは初耳だった。恋人が自分以外の、それも実在しない男に「かっこいい」という褒め言葉を二度も、色白の頬をほんのり桜色に染めながら使ったのが気に食わない。

どんな奴だ?透は逸る気持ちに突き動かされるまま、スマホに手を伸ばして操作する。検索して、出てきた結果は。

「ふうん、こういうキャラかあ。なるほど」
「素敵でしょ!」
「そうだね……」

余裕ぶろうとした努力をどうか褒めてほしい。愛理は弾んだ声で言うけれど、透は画面をほとんど睨むように見ながら、少しだけとげとげしい声で返した。これでも抑えたのだ。

果たして表示されたのは、文字通り紋付き袴を着て、顔には仮面を被り扇子を手にしているという、この上なくシュールなビジュアルの男。声が似ているなんて言われてもちっとも喜べない。「こんな奴の一体どこがかっこいいと思ったんだ!」そう問いたいところだが、悪し様に言おうものなら愛理が機嫌を損ねるだろうし、段々と良い香りを漂わせ始めたクッキーはお預けになるに決まっている。それに、幼かった頃の好みに今更とやかく言ったところで何になる……。

まあ、残念だったな。初恋の相手はお前でも、愛理が今愛しているのはこの僕なんだ。透が紋付き袴仮面の画像に向かって心の中で勝利宣言をして、ズボンのポケットにスマホをねじ込んだとき。

「ね、透さんの初恋の人も教えてくださいよ。フェアじゃないでしょ?」

今度は自分の番だとばかりに、愛理が彼の初恋のことを訊ねてきた。

「うん。僕の初恋はね」

自分から切り出したからには、愛理からも同じことを訊かれるだろうとの予測はしていたが果たしてその通りになった。友人達のことは、まだ明かせない正体に関わることだから、はっきりとは言えず「遠くへ行った」などとぼかすだけに留めた。だが、幼い頃に愛情をくれたあの女性(ひと)がいてくれたことは、今愛する愛理にちゃんと話しておきたい。

「……もう、二十年近く前になるな。相手は近所の医院の女医さんで、宮野エレーナ先生って名前だった。いじめられてケンカして、怪我ばっかりしていたやんちゃ坊主だった僕に、とても優しくしてくれたんだ」
「そう、なんですか。でもいじめられてたって、透さんが?なんで」
「この髪のせいだよ。頭の色がヘン、ってよくからかわれてね」
「何それひどい!こんなに綺麗なのに」
「ありがとう。ただ子供のことだから、自分達とは違うものには敏感だったんだよ」

そこへオーブンから焼き上がりを告げる音がした。蓋を開けてみればこんがりと焼き目が付いているし、あとはもう粗熱が取れるのを待つばかりだ。

オーブンミトンを嵌めた愛理は、前もってベーキングシートを敷いておいたお皿にクッキーを移しつつ、とあることを考えていたが――少しして自分の中で出た結論に、自然と笑みが零れた。もちろん見逃すはずのない透に「どうしたんだい」と訊かれ、愛理はまたダイニングチェアに腰掛けると、その表情のまま考えたことを話した。

「ポアロに沢山いた透さん目当ての人達には、ヤキモチ妬いちゃったのに……でもその初恋の人には、ちっともそういう気持ちが湧いてこないのはどうしてなんだろう、って自分でも不思議だったんです。目の前でベタベタされたわけじゃないからっていうのは、違う気がするし。透さんが私と出逢うより、もっともっと前に好きになったひとなのになんでなんだろうなって」
「うん」

耳を傾ける透に、愛理は語りかけ続ける。

「でもそれはきっと……透さん、そのエレーナ先生っていうひとのこと、とっても優しい顔で話してて素敵だったから。今でも心の中で大事にしてるんだなって、解ったから。打ち明けてくれたのに嫉妬したら、その人が心の中に生きてる透さんだって否定することになっちゃいそうだから、したくない」

コトリ、コトリ。愛理がクッキーを皿に置く度に立つ音はとても微かで、やり取りの妨げには全くなりえない。それでもそんな音が無ければ、と透は思ってしまったし、相槌も打たなかった。この部屋の空気を震わせるのが、今このときは愛理の声だけであってほしかったから。

「私、透さんが今でもとっても大切にしてる思い出のことお話してもらえたのがすごく嬉しいし、そういう思い出を持ってる透さんが好きなんだって改めて思ったんです。あと、透さんがいじめられてたって初めて聞いて、びっくりしたし悲しかったんだけど……透さんは強くてかっこよくて、何より優しいでしょ。それってその頃からずっと、透さんの心に、その優しくしてくれた先生がいて……今の透さんの、優しさのもとを作ってくれたからじゃないかなって。私の大好きな透さんが今いてくれるのは、その先生が透さんの心にいてくれるおかげなのかも……って」
「ありがとう」

ようやく口を開いた透は、そう答える以外、言うべき言葉など思い浮かばなかった。全く、僕の恋人はなんて素敵な考え方をするんだろう。彼はいつもの饒舌さをこの時ばかりは忘れて、愛理の言葉を噛みしめる。思い出を否定せず、それを抱えた自分をまるごと、しかも嬉しそうに肯定してくれた。胸が一杯になるって、きっとこういうことだ。しばしそんな気持ちになったあと。

「愛理さんだって、そうでしょ」
「?」

どういうこと、と小首を傾げる愛理のいつもの仕草に、透は作りものではない笑顔を向ける。

「クッキーを作る手際が良いのも、直接伝授したのはお母さんでもお父さんに似たから。探偵小説が好きになったのはお父さんの書斎にたくさんあって気になったから、だったよね……こんなふうに元を辿れば、愛理さんのお父さんが、今でも愛理さんの心に生きているってことなんじゃないかな。あと、チョコレートを食べながらお父さんを想うのも、ね」
「……はい!」

透がバレンタインに手作りのものが欲しいと言った時、愛理はポツリとこう漏らしたのだ。

「男の人にバレンタインあげるの、パパにお供えするの以外だと初めてだから。なんだか緊張しちゃいます」

愛理は本宅にある父の仏前に、毎年バレンタインの日にはチョコレートを供えている。味噌や山椒に和三盆など、厳選した和の素材が使われているのが売りのものを、母の担当外商を通じて一般予約の始まる前から確保してもらっているのだ。「パパが生きてたら、これ食べたら、気に入ったんじゃないかなって……お供えしたあとはママと一緒に食べるけど、一口ごとにそう思っちゃって、チョコは美味しいのに胸が締め付けられる感じなんです」と話していたのを思い返しながら、透は続ける。

「そういう相手と比べるのはおこがましいかもしれない。でもどうか、そんなふうにこの先もずっと、愛理さんの心の中に僕が」
「透さんの心の中に私が」

その続きは示し合わせたわけでもないのに、すんなりと二人の口から出て、そして雨宿りの日に「いただきます」を言った時のように重なった。

「「いてくれますように」」

さあ、クッキーはもうそろそろ食べ頃だ。



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