中願成就


「私、中吉が良いんです!絶対の絶対に!」

非番の日に訪れた神社で(三が日は絶賛交通整理日和だから、今日やっと初詣に行けたのだ)、そんな言葉を聞くなんて。

チュウキチ……中吉……今「チュウ吉」つった?警視庁交通部所属・宮本由美は、横をすれ違ったばかりのカップルの女性の方に思わず目をやった。由美が恋人である羽田秀𠮷を呼ぶ時の呼び方と同じ音だったものだから、つい反応してしまったのだ。

だがしばし考えて……んなワケないか。由美は強引に自分を納得させた。それにしても大吉が良いとか凶を引きたくないってんなら解るけど、中吉が良いなんてねえ。理由は知ったこっちゃないけど今日日珍しく謙虚な子もいたもんだわ……などと思いつつ、参道を鳥居の方へまた歩き出そうとしたが。

「ん?何、どしたの三池」
「……」

由美は一旦足を止めざるを得なかった。連れにして相勤である三池苗子の気配が隣に無い。辺りを見回せば、彼女は由美の数メートル後ろで立ち止まり、先ほどのカップルを何も言わずに見つめているではないか。声をかけた後、そんなに気になるもんかしら、と由美もつられて苗子の視線の先を辿ってみる。

今となっては後ろ姿しか見えないものの「中吉が云々」と口にしていた女性、というより(すれ違う際に一瞬見ただけだが)顔立ちからしてまだ少女といっていい年代の彼女は、しっかり結い上げられた黒髪に淡い撫子色の着物がよく似合っていた。それに今日は初詣シーズンをとうに過ぎ成人式は数日後ということもあり、華やかな和装は境内にいる他の参拝客の目を大いに引いている。

だが理由はそれだけではなく、傍らにいる男性にもありそうだった。ニット帽からは地毛なのか自然な色の金髪が、マフラーの隙間からはチョコレート色の肌がそれぞれ覗いている。顔はサングラスにマスクをしていたのでほとんど見えなかったが、それでも何というかオーラがあるのだ。そのせいで芸能人の変装か何かかもしれないと思われているらしい。由美と苗子のほかにも、チラチラと件のカップルに視線をやって囁き交わす数人がいた。横にいる女子大生と思しきグループからも「あれって俳優の誰それっぽくない?」「ぽいよねー!」といった会話が聞こえてくる。

三池ってそんなに着物に興味あったっけ?それに千葉君一筋だと思ってたけど……と由美は首を捻った。もしや一向に思い出さないカレに流石に焦れてたとこに、あの金髪君に一目惚れでもして心移りしかけてる?

……ははあん、なるほどね。由美はそこまで考えたところで苗子に近寄り、その脇腹をニヤニヤしながら軽く突いた。後輩の視線が、しっかり繋がれたあのカップルの手に注がれているのに気が付いたからだ。

「私だって今年こそは千葉君とああなるんだから!とか思ってんでしょ?がんばれよー」
「え、いや、まあそうですけど……じゃなかった、知り合いから聞いた人に似てたからそうなのかなってつい見ちゃっただけですってば!」

羨ましく思っていたのは確かに由美の言う通りだったが、いじられるのを避けたくて苗子は咄嗟に否定した。けれど、あの男性の姿を見た時、彼女はあることを思い出してもいたのだ。少し前に幼馴染の米原桜子と飲んだ時、彼女がこんなことを嬉しそうに話していたと。

「聞いて苗ちゃん、今の通い先すごく良いとこなの。奥様もお嬢様もいい人だし、それにたまーにしか遭わないし挨拶ぐらいしかしないんだけど、通い先のお隣の部屋に住んでる人がね、金髪に青い目で色黒のすっごくかっこいい人で目の保養なの!……あと何より、今のところ何の事件にも遭わなくて済んでるし」

ひょっとして桜子が言ってたのがさっきの人だったりして?金髪で色黒って特徴が同じだったし、目の色やイケメンかどうかはサングラスとマスクしてたからよく判んないけど、確かに結構かっこよさそう……でも!でも!千葉君だってぜーったい負けてないんだから!

回想しつつそんな妙な対抗心を燃やしつつしながら、苗子はコートのポケットを探った。中から取り出したるは、先ほど引いたおみくじ。結果を目でなぞって気合を入れてからまた戻し、既に先に歩き始めていた由美を小走りで追いかける――運勢は、大吉。そして「恋愛:進展あれども試練あり」を心の支えとして。



「次のデートはどこが良いかな」と透に訊かれ、愛理は初詣に行きたいとねだった。彼は「ミッションスクールに通っていても、神社には行くんだね?」と少しおかしそうに笑っていたが、お参りをしておみくじを引かないとなんだか落ち着かないのだ。それに、現に友人のカンナは流鏑馬奉納で知られる大神社の宮司の娘だが、ミッションスクールに幼稚園から通っている。あと、なんとも不思議なことに、学年に1人は実家がお寺である生徒がいるものなのだ。何故か。

ともかく、初詣シーズンを過ぎた今日はさほど混んでいない分、愛理と透は参道を順調に進んでいたのだが。

「それでね、この山泥神社の酉の市は……熊手はポアロでもお祀りしていて……愛理さん?どうしたんだい」
「……」
「愛理さん?僕の顔に何か付いてるかな」
「中吉、引けるかなあ……」

恋人は目をパチクリしながら、答えにならない返事をするだけ。透の目は点になった。彼女のその仕草を可愛いと思わないはずがない、しかも今日は日本の美しさを体現するかのような惚れ惚れする出で立ちだからなおのこと(母に着付けてもらったそうで、跡良邸に愛車で迎えに行ったが運転などしないでその場でずっと愛でていたかったくらいだ)。

自分の方を見つめてくれているのは、もちろん嬉しく思う。しかしどうやら耳はお留守らしいし、心ここにあらずといったふうでもある。しかも先ほどから口を開けば中吉、中吉と連呼していて。

そんなにおみくじにこだわる性質だとは知らなかったな、これは一体どうしたんだろう……透は内心で不思議がった。ちゃんと握っていたはずの手もいつの間にか緩みかけている。彼はそっと優しく愛理の手を握り直してからあれこれ考え始めた。木を隠すなら森の中、人に隠れるなら人の中……神社は怪しい取引だとかを行う連中もよく出入りする場、そんな動きを見せる輩がいないかどうかにも目を光らせるのを忘れずに。

まず、愛理がああして目をパチクリしつつ小首を傾げるのは、何か考え事をしている時の仕草。何を考えているのかまでは訊いてみないことには判らないが、今の上の空の状態では答えてくれるかどうか……それとも不機嫌になったとか? いやその線は無い、そうなれば顔を背けてしまうから。顔色や体調は悪くないようだから月の障りの可能性も薄い。

気分を損ねるような原因というと、あとは……愛理と彼女の母は本宅へ戻って年末年始を過ごしたが、その見送りの際に去年最後に顔を合わせた時。紅白歌合戦でどちらが勝つか、という他愛もない賭けをした。好きなアーティストが出るとかで「赤組が勝ちますから!」と言った彼女に、透は「いいえ、白い方が勝ちますよ」と断言した。果たして白組が大差を付けて勝ったが、それが気に障ったのか?

だが、そこまで考えたところで本殿の目の前に着いた。愛理がそうなった理由を問い質すことや、酉の市へ行った帰りに寄り道をしてはいけないだとかの話は後回しにしよう。

「愛理さん、そろそろ本殿に着くけれど、その前にお賽銭の準備を。財布の中身を神様の前で見せるのは良くないんだよ」

そう声を掛ければ、愛理は我に返ったようだ。コクッと頷き透の手を名残惜しそうに離すと、提げていた巾着から財布を取り出した。

二礼、二拍手、一拝。2人は作法に則り参拝を済ませ、本殿のすぐ近くの社務所へ足を向けた。様々なご利益を謳ったお守りに破魔矢、御朱印帳などなどが並んでいる。そして、愛理の一番のお目当てであろうおみくじも。

「色々タイプがあるけれど、愛理さんはどれが良いのかな」
「んっと……うーん、悩んじゃいますねえ」

箱を振り、出てきた棒に書かれているのと同じ番号の引き出しから一枚取るもの。年齢別のものに、マスコット付きのもの……確かにバリエーションが豊かだから、決めかねるのも解らなくはないけれど。

こうしたものに興味が無い透だが、今年は愛理に付き合って引くことにした。社務所に詰めている巫女におみくじの初穂料を納め、一番オーソドックスなタイプのものを選ぶ。紙を開いて運勢を見れば……大吉だ。13日の金曜日にまつわるあれこれや、こうして偶然引き当てただけの紙切れ一枚に書かれている、当たるかどうかさえも知れない内容に一喜一憂する感覚を彼は持ち合わせていない。とはいえ、結果が良いに越したことはない。

……だが待てよ。よくよく読んでみれば、そこにはこうあった。

「運勢概ね順調なれども別離の兆しあり。また、赤にまつわるものに注意せよ」

今年もまた、あの忌々しい色が僕に纏わりつくというのか。透はマスクの下で唇を噛んだ。それに別離、って……考えたくもない、今まで散々色々なものを喪ってきたというのに。一体これのどこが大吉なんだ?印刷ミスか?苦々しく思って、少しばかり乱暴におみくじをコートのポケットにしまった。気にしすぎてどうする、と言い聞かせて流しながら。

だが、その間にも愛理はまだ迷っていて。

「ごめんなさい透さん待たせちゃって、ちょっとまだ決められないんです」
「いやいや、大丈夫だよ。ゆっくり選んで。ところでおみくじの起源はね……」

急かすつもりは無いが、何をそんなに迷うのだろう。透はいつものようにまたペラペラと喋りつつ不思議に思っていたが、愛理はようやくどれを引くか決めたようだ。恋みくじといって、小さなピンク色の巾着の中に運勢の紙が入っているものを摘み上げた。そして初穂料を納めてから封を開ける前に、すぅ、はぁ、と深呼吸をしてから、またもやこう言ったのだ。

「中吉、出ますように……」

ここでもまた……? 透は少し眉をひそめた。中吉だけにやたらとこだわるのも不可解だったが、愛理の頭の中を運勢が占めているせいで、自分の話に応えてくれないのを不満に思ったから。

かねがね思っていたことだが、愛理はとても聞き上手だ。透は喋りに喋りまくってしまい、相手に口を挟ませず鬱陶しがられてしまうことがよくあった。

だが愛理は、彼が披露する様々な知識や延々続く話にしっかり耳を傾けてくれる。ウンザリだという表情を浮かべることも、どうでもいいと言わんばかりに適当な相槌を打つこともしない。それどころか「透さんはやっぱり物知りですねえ!」と素直に感心したり、「えーっ!それで、そしたらどうなっちゃうんですか?」と続きを促したりもしてくれる。あれはどうしたって病み付きになってしまうじゃないか、話を嫌がらずに受け止め褒めてくれるのだから。透は愛理の顔かたちだけでなくそんな点も好きなのだ。嬉しくて、それに恋人の前では良い格好をしたいものだから、愛理の前ではつい調子に乗ってしまう。

なのに、今日の彼女からはいつも通りの反応が返って来ず――今年で三十になる男が、と自分でも苦笑いするしかなかったが――透は何だか寂しかったのだ。



結局、あれだけ願ったにもかかわらず、愛理のおみくじの結果は中吉ではなく末吉だった。折角透が本宅まで送ってくれるというのに、気分が沈んでしまう。普段なら、少しでも長く一緒にいられると喜んだはずなのに。

……まあでも、気にしすぎてもしょうがないよね。愛理は気を取り直して、彼が三が日も仕事だった上、メゾンモクバを離れていたので手紙も出せずにいた分、その間にRineでやり取りできなかった話をしようと口を開いた。

「透さんの初夢ってどんなのでした?」
「僕のはオーソドックスに一富士二鷹三茄子だったよ。愛理さんは?」

実際に透が見たのは、風見が赤井に向かって「そんなFBI、修正してやります!」と叫びながら殴りかかろうとするところに居合わせた……という夢。あいつもますます務まるようになってきた、これは新年から縁起が良いぞと思いながら目覚めたが、まさかそっくりそのまま伝えるわけにもいかないので、スタンダードな初夢を見たということにしておいて答えた。

「良いなあ。私は……実は、特に何か夢は見られなかったんです」

でも。実際は見たのだ――透さんとキスする夢だった、けど。初夢って誰かに言ったら叶わないって何かで読んだから言えない、けど。愛理は運転席の透を、というより彼の口元を、もっと言えばマスクを外したので今は見えるようになった唇を見つめて考える。彼が先ほどまでそれを着けていた目的が、万一公安のマーク対象に遭遇した際に顔が割れないようにするための変装だとは全く知らないまま。

透さんとは……いつになったら、キスできるのかな?さっきまでマスクしてたから喉痛いとか咳が出るのかもしれないから無理かもと思ってたけど、そういうわけじゃなさそうだったし。したいって言ったら、私からしようとしたら応えてくれる?蘭ちゃんの方から工藤新一君にキスしたっていうし、私も同じように透さんと清水寺に行ったらあやかれるのかな?あ、だけど旅行は絶対ダメ、そうしたら別れさせますってママとの約束があるし。

ああもう、わかんない!RX-7の助手席で、愛理はそんな悩みを抱えて無意識のうちに百面相をしていた。末吉だったおみくじを結ぶ時、彼が重ねてくれた手の体温を思い起こすように、そっと自分の両手をこすり合わせて。

透さんと、キスする――それが愛理のたった1つだけの願い事にして初夢だった。去年の9月に付き合い始めてからというもの、手を繋いだことは何度もあっても、まだキスをしたことはない。愛理は今年こそはそうしたいと望むあまり、中吉……キスを連想させるチューという語を含む言葉をやたらと連発してしまっていたわけだ。

発端は、昨年の11月の終わり。

「真純ちゃんから聞いたけど……したんだって?工藤新一君とキス、清水寺で!」
「う、うん。というか愛理ちゃん?顔が怖いよ?」

カフェのテーブルに身を乗り出し、愛理は蘭に顔をずいっと近付けて訊いた。その迫力にはさしもの彼女も少し腰が引けてしまったほどだ。

「どんな感じでしたの?タイミングはっ?」
「えーっと……」
「ほらぁ奥様もったいぶらないの!旦那様とのファーストキスのお話待ち望まれてましてよ?跡良ちゃんにたっぷりしたげなさいってー」
「園子ぉ!」
「お願いします蘭師匠この通りです〜!キスに至るまでのあれこれを教えてください〜!」
「ちょ、ちょっと愛理ちゃんまで!」

合気道の稽古の帰り、愛理は偶然蘭と園子に出くわした(真純は依頼の準備があるとかで真っ直ぐにホテルに帰ったそうだ)。彼女達とRineではやり取りを時々するものの、こうして会ったのは久々のこと。折角だからお茶をしていこうという話になり、丁度すぐそばにあったカフェに入った。

そこで愛理は、修学旅行のお土産のお礼を改めて2人に伝えるとともに、真純から「蘭が工藤新一にキスをした」と聞いて以来、ずっとその流れだとかを訊いてみたいと思っていたのもあって切り出したのだ。園子は愛理の様子にピンときたらしく、ニヤリとしながら耳打ちしてきた。

「なーに、そんなに興味津々で訊いてくるってことは……安室さんとまだキスしてないわね?推理クイーン園子様にはお見通しよぉ?」
「う、うん。まだなの」
「安室さん、実はオクテだったんだあ……」

意外とばかりに呟いた蘭に、愛理は溜め息混じりに同意してみせた。

「そうかも。だってね、透さんからしてくれる雰囲気全然無いんだから……私も学校の彼氏持ちの友達に訊いてみたんだけど、あっちから普通にしてくれたっていうから参考にならなさそうで。だからお願い!蘭ちゃんの方からしたって聞いたからその時のシチュエーションをもっと詳しく知りたいのっ」
「ならば教えてしんぜましょう!でね、蘭ってばその時工藤君のネクタイをこうキュッと引っ張って、ほっぺにそりゃもー熱烈なヤツをチュッと!」
「園子、私のネクタイ引っ張んないでよー!」
「ふんふん、なるほど」
「とにかくね、跡良ちゃんも蘭みたく自分から行っちゃいなさいって!安室さんがしてくれるまで待とうなんて魂胆じゃあダメよ、ってか待ってらんないでしょ?女も度胸そして勢い!そうすりゃ安室さんだって絶対メロメロよ、何たって可愛い彼女、それもJKにキスされて嬉しくない男なんかいやしないんだからっ」
「度胸に勢いかあ……うん、ちょっとイメージできたかも。ありがとうございます蘭師匠、園子師匠!」
「ど、どういたしまして……?」
「良いってことよ。だけどその代わり、こうやってレクチャーしたからには報告待ってるわよん」

同じ学校の仲間内でなら、もう文乃と睦美にはボーイフレンドがいて、その2人からはとっくにそれぞれの彼氏とキスをしたと打ち明けられている。だがその時の愛理は、友人達がキスをしたと聞いても、そうなんだ、良かったなあとしか思わなかった。今のように羨ましいという感情が沸かなかったのは、その頃まだ自分に恋人がいなかった分、他人事のように思っていたからだろう。

うらやましい。愛理はまたその6文字を心の中で繰り返す。蘭ちゃんに対抗するつもりとかそういうのじゃないけど、私だって――!度胸と勢いが要るのは解ったが、少なくとも今はしない方が良いはず。運転中にしたら驚かせてしまって危ないだろうから。

“間もなく、目的地、まで、あと10……分、です”

カーナビのアナウンス音声は、本宅のある梅濤にあと少しで着いてしまうと告げている。これからまた何日か、連絡が取れなくなると教えてもらっていたことだから、また逢える日までに少しでも透の声を聞いていたい。初夢の話はもうしてしまったし、そうだ、この話題にしよう。

「透さんは、さっきどんなお願い事したんですか」
「僕はね、愛理さんとの仲もこの国の平穏も、末永く続くように……って」
「そ、そうなんですか」

愛理は目をパチクリした。自分が含まれていたのは嬉しく思ったが、そんなにスケールが大きい願い事をしたなんてと、思わず圧倒されたのだ。

「年末年始は浮気調査の依頼が多くて。愛理さんにはあんまり聞かせたくない話なんだけれど、そういうシーズンはお酒が付き物だから……たくさん呑んで、理性のタガが外れてしまうひとが結構いるからね」

透は愛理にそう告げて年末年始も留守にしていた。だが、実際は年末年始の特別警戒、それから一般参賀の警備指揮に当たっていたのだ。そして、今日の初詣の平和な風景に、隣を歩く恋人の姿に。それから、一般参賀の警備指揮中、皇居のすぐ横の警察庁のオフィスで、モニター越しに拝謁したこの国の象徴たる存在と、新年を寿ぐため集まり二重橋に何重もの列を成す人々を思い出して、こんな願いを掛けたのだ。この国の平穏と安寧を当たり前なものとするための戦いを、陽の当たらない場所であろうと続けていく――と。毎年掛けている願いだけれど、特に今年は最も身近で愛おしい“守りたいもの”たる愛理が隣にいる。彼女を思い浮かべて誓いを新たにしたのだ。

「そういう愛理さんの願い事は何かな?」
「な、内緒!内緒ですっ」

言えっこない、キスがしたい、なんて。透さんの立派なお願い事に比べて、私のは何てちっぽけで自分勝手なんだろう。色々な意味で恥ずかしくて到底口に出せない!愛理は慌てて首を横にブンブン振った。

だが、透はその答えに納得しなかった。

「ええっ、僕は教えたのに?愛理さんは秘密だなんて、フェアじゃないし水臭いなあ」
「う」
「初詣の願い事や初夢の内容を誰かに話すと叶うとか、反対にそうしない方がいいとか、色々な説があるよ。ただ、それは明かす相手次第だとも言われてる……特に、実現に向けて背中を押してくれそうな人に対してなら打ち明けて良いとも聞くね。僕は愛理さんがいてくれてこそ、叶うと思った。だから教えたんだけれど」

そこで丁度、本宅の門扉の少し手前辺りに着いた。透は車を停めてシートベルトを外し、運転席側のドアを開けながら零す。その横顔は――とても、寂しげだ。

「でも愛理さんにとっての僕は、そういう相手にはまだなれていなかったっていうことかな」
「あ、その……」

愛理の声にかぶさるようにバムッ、と音を立てて運転席側のドアが閉まった。彼はそのまま助手席側に回り込もうとしている。迎えに来た時もドアを開けて愛理が乗り降りしやすいようにしてくれたが、またそうするつもりのようだ。

違うの、そうじゃないのに。愛理は焦った。透さんとキスがしたい、そう言いたいし言えば前に進めるのに、どうしてこんな時に限って舌は上手く回ってくれないのだろう。

言わなきゃ、蘭ちゃんたちに聞いた通りに、今こそ度胸と勢い……なのになんで。もどかしさと、彼とキスがしたいという思いが胸の中で混ざり合い、今にも爆ぜてしまいそう――。

だがその時、ふと閃いたのだ。言葉にできないなら、そうできるようになるのを待つ前に、行動で示せば良い。

「愛理さん?」

その間に透はもうドアを開けていたが、愛理が動こうとしないので不思議に思ったのだろう、身を屈めて車内を覗き込もうとしたところだった。

今、だ。愛理はほとんど無意識のうちに、素早くシートベルトを外した。それから、すぐさま助手席のシートから少し腰を浮かせつつ左側を向き、彼の名前を呼んで。

「透さん、っ!」

トクン、トクン。心臓の音が耳障りなくらいだけれど、集中しなくちゃ。洋服とは違って着物でいる分動きづらいけれど、それでも。

「ん?どうかした……っ!?」

チュ――透の薄い唇と、愛理の柔らかな唇との距離が、ゼロになった。いつも余裕たっぷりの彼が、驚きの溶けた吐息を漏らすのが聞こえる。

できた、とうとう。重なり合った唇からじんわりと伝わる温もりが、身体中を幸せで包んでいくような気分だ……。

「愛理、さん」

しばらくして名残惜しい気持ちで唇を離した。ポカンとした顔で見下ろしてくる透を見上げて視線を合わせ、愛理はようやく何とか動くようになった口を動かして偽らざる思いを伝えた。

「これ……私の、願い事なんです。さっきはなかなか言えなかったけど、その、私はずっと透さんとキスしたいと思ってたけど……してくれないし。でも私はしたいしで、待ち切れなくて、だからえいやっ、て」
「……」

透は何も言わないまま、愛理のしどろもどろの説明に頷くだけ。同時に身振り手振りで何か伝えようとしてくるが、どうやら車から降りてと言いたいようだ。色々こだわりの強い恋人のこと、キスだって何か段取りというかそういうのを立てていたのかも。愛理はようやくその可能性に思い至って後悔した。彼が何も言ってくれないのは、不意打ちのような形になったのが気に入らなかったからだろうか……。

だが。

「わぁ」

今度は愛理が驚く番だった。透が彼女を腕の中にすっぽり閉じ込めたのだ。

「透さん?どうしたんですか」
「〜〜〜っ、ごめん……嬉しすぎて。その、いや、キスはまだ早いんじゃないかって。僕の方からあんまりガツガツ行っても引かれてしまうかもしれないし、もう少し見極めてからって考えていたからせずにいたんだけれど」

彼はそこでサングラスも外し、コートのポケットに挿してからニッコリ笑った。愛理の心臓はドキンと音を立てて更に高鳴っていく。

「それにしても本当に良かったよ、愛理さんの願い事が、これから僕が何度だって叶えられることで……そして、叶えるのが僕で。ねえ、その願い事、今からもう一度叶えさせてくれないかな」
「……はい!」

新年早々、お願い叶っちゃったな。愛理は微笑んで返事をしてからそっと目を閉じる。今度は、彼の方からまたゼロ距離まで近づいて来る気配がしたから、しっかりとそれを受け止めるために。



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