クアドラプルに至る病


教室を出たくない理由は、暖房の効いている場から離れたくないだけではなかった。

「何してんの愛理ってばー!早く行かないとシスターがまたうるさいよっ?」
「うん、今行くからー」

クラスメイト達はこれから行われるクリスマスミサのため、教室を出ていこうとしている。だが友人のカンナに返事をしながら、愛理はようやく自分の席を起とうとしていたところだった。

スクールバッグのファスナーを閉める手がのろのろ動く。友人の言う通り、シスター達は理由が何であれミサに遅れることを嫌うし、そうなってしまうと厄介だ。ちょっとくらい大目に見てくれたって良いのに……愛理はそう思いつつ、次第に狭くなっていく開き口の向こうにブックカバーを見送り、その後待ってくれていた友人達のもとへ小走りで合流した。

でも、ペチャクチャ喋りながら歩いていても、やっぱり思い浮かぶのはあの優しい声なのだ。

「少し早いけど、僕から愛理さんに。メリークリスマス」

一応暖房は効いているとはいえ、やはり廊下は教室に比べれば寒い。しかもこれから、廊下の冷え込み具合なんてお話にならないくらいもっと冷えるお御堂に行くと思うと嫌になる。でも透とのデート、それにあのプレゼントを思い描くだけで、なんと不思議なこと。カイロを貼ってはいるが、そのおかげだけではなく体はポカポカしてくるし、おまけに顔も勝手に緩んでいくのだから。

数日前、愛理と透は初めてディナーを一緒に楽しんだ。きっかけは期末テスト2週間前、彼が「クリスマス当日は仕事が入ってしまって一緒に過ごせないんだ、本当にごめんね。でも×日なら確実に逢えるんだけれどどうですか」とRineを送ってきたこと(ちなみに後日「透さんに逢えるならクリスマスじゃなくたって全然気にしません!ほんとですよ!その日がどんな日でも透さんに逢えるならいつだって最高の日なんです」と手紙を送った。すると数日後、直接顔を合わせた際に「手紙ありがとう。どうして、ねえ、愛理さんはああいう可愛いこと言ってくれるのかな?」と、本当に愛おしそうに呟く彼の腕の中に包まれてドキドキした……というのは、また別の話だ)。

果たして、大好きな人と過ごせる日を指折り数えつつも勉強に励んだ結果、期末試験では上々の成績を修めることができた。するとそのご褒美として「ママからのプレゼントよ。頑張った甲斐があったじゃない」と、母が門限を特別にその日だけ9時までにしてくれたのだ。透も都合を付けてくれて、コロンボというレストランで、ホワイトアスパラのポタージュにボンゴレビアンコ、ホワイトチョコレートムースという「ホワイトクリスマスのパスタコース」のディナーを楽しみプレゼントも交換した。愛理からはお米でできたハンドクリーム(万一ハロが舐めてしまっても害の無い成分のものかどうか色々調べた)を、透からは大人っぽいデザインの、茶色の革製ブックカバーを。

そのあと(もちろん透は愛理に付き合って白ぶどうジュースしか飲んでいないので、検問など1分程度で通過できた)彼の車に乗せてもらい帰って来て、車を降りた直後から自宅までは繋いだ手を離さず歩いた。そしてとうとう20時50分には互いの家の玄関ドアに辿り着いて、廊下で「おやすみなさい」と手を振り合い解散……実に清く正しいそんなひとときを過ごしたのだ。

いつまでも浸っていたいそんな幸せの余韻に、愛理の顔は緩みっぱなし。そんな変化を、15年の付き合いになる親友達が見落とすはずがなく。

「愛理ちゃんどうしましたかー、あっこれは!流川先生大変です、彼氏さんが好きすぎるエンザの患者さんが!」
「あっはは何それ」
「なるほどこれは重症ですねぇ?帰りにちょっと洗いざらいノロケてみましょうか」

ムードメーカーの文乃が言い出せば、医者一族で病院長の娘である睦美もノってきて……ただ、愛理は友人達とふざけ合いながらも思う。本音の本音を言えば、クリスマスにも透さんと会いたかったな、と。

クリスマスは恋人の日、なんて聞いても、これまで愛理は全くピンと来なかった。聖マドレーヌ女学園では、12月25日には初等部から高等部まで合同で(ちなみに幼稚園はミサの代わりにお遊戯会も兼ね、キリストの聖誕劇を上演する)、大学は午前にクリスマスミサを行う。そんな学校に幼稚園から通う愛理にとって、クリスマスといえばミサ。あと、友人達とのパーティと、母との二人だけのパーティをする……物心付いた時からこの日はそういうものだったし、そしてそれが全てだった。だから透が「クリスマスは仕事で」云々と詫びてきたのを、そんなに申し訳なさそうにしなくても良いのに、と受け止めてさえいた。もちろん彼には逢いたいけれど、その日にこだわる理由も無かったから。

――でも、今年は違う。この日に最愛の人と逢える、全ての恋人達が羨ましい。愛理はそう思うようになった。学校へ向かう途中に見かけた、バスの座席でお互いに寄り添い合うカップルや、待ち合わせに現れた相手に目を輝かせて駆け寄っていくカップル。みんな、まるで輝いているかのよう。そんな嬉しそうな様子に良かったなあ、と共感しつつも、私も透さんと……と思う自分がいて。何日か前に会ったんだから十分、と言い聞かせても、やっぱり恋人達の日に恋人に逢える人々が羨ましいものは羨ましくなったのだ。これは大きな変化と言うほかはない。

「愛理、彼氏さんが言ってた足首にカイロくっつけるのいいってやつホント効くね!」
「これで寒がらずに済むわぁ、救い主って愛理の彼氏さんのことだったりして?」
「言えてるーっ」

「足を暖めたい時は、足首にカイロを貼ると良いんだって」と、透の受け売りだが友人達に披露した豆知識は実際その通りだった。お御堂に着き、マグダラのマリアを象ったオメダイが制服に斜めになって付いていないか、友人達と位置を確認し合ったら口を閉じ、固い木の長いすに腰を下ろして開式をしばし待つ。

冬休み期間とはいえ聖書の授業の一環だから出席も取られるので、寒い中を学校に向かわなくてはいけない。しかも、お御堂はかなり底冷えする。年代物のストーブも何台か置かれているけれど焼け石に水。「クリスマスのミサには、ものすごく分厚いタイツと毛糸のパンツを履いて参列すること」――これが、上級生から下級生へと連綿と申し送りされてきた、この学園のライフハックならぬいわばスクールハックの1つだった。

それでも、どれだけ寒くても、冬休みに出てこなくてはいけないのが面倒でも。愛理は何だかんだ言って、この厳粛な祈りのひとときがやはり好きなのだ。司祭を務める神父にして校長が入堂し、愛理達は起立して開式の挨拶を唱える。発色がはっきりしているイルミネーションとは異なり、キャンドルサービスのやわらかな光に包まれ、心に染み入るようなハンドベルの清らかな音色を聴く――パーティだって確かに楽しいけれど、こうして過ごすのもまた、悪くないものだと思う。

やがてミサは閉式を迎えた。ホームルームに戻って終礼のお祈りを唱えた後、愛理達は恒例の写真撮影のため誰に促されるでもなく集まる。クリスマスパーティの会場は持ち回りになっていて今年は卯芽華の家で開かれるが、彼女の家から迎えの車が学校に着く予定の時間までもう少しある。その時間潰しも兼ね、愛理もスクールバッグからデジカメを取り出し友人達の姿を撮りに撮った。スマホは放課後には返してもらえるが、学校を出るまでは使ってはいけない。だがその点デジカメの持ち込みは問題無いのだ(以前「写真撮るにしても、なんでデジカメはオッケーでスマホはダメなのかなって思うんです」と愛理が疑問を口にしたら、透は「ネットに接続できるものだからかな。色々誘惑も多いだろうし、勉強の妨げになってしまうのを防ぎたいのかもしれないね」と考えを披露してくれたのでそう思うことにしている)。思い出を残したいのもあるけれど、クリスマスのために飾り付けられた校内は手前味噌だがとても美しくて、残しておかないのがもったいないくらいだから。

「ほらほら、彼氏さんに送るんでしょ!もうちょい美人に写りなってー」
「これ以上は無理でーす!」

家に帰ったら、透さんにも送ってあげよう。騒ぎ合いながらメモリーをいっぱいにするうち、もうそろそろ迎えの車がやってくるころになっていた。



数時間後、ところ変わって深夜の霞ヶ関は中央合同庁舎2号館20階。総務省、それから警察庁の入る庁舎であるこの建物の窓からは、錦座や侑楽町、インペリアル東都ホテルのある界隈も見えるのだ。

東都を代表する繁華街の辺りはとても煌びやかなイルミネーションで彩られている。今年も見事の一言だ。この庁舎からは中幸町や錦座の辺りまでは2キロ程度しか離れていないので、手を伸ばせば届くかもしれないという錯覚に襲われそうなほど。でも、あの煌々とした灯りは、さすがにこの警察庁警備局警備企画課のオフィスまでは彩ってくれなかった。

「降谷さん」

これで何度目になるんだ……風見はとっくに数えることなど止めたのを忘れ、またそう思いながら呼びかけるが。

「……」
「……あの、降谷さん?」
「……」

反応が無い。一体、降谷さんはどうしたんだ?そして、まだなのか……風見は心配を通り越して、少し苛立ちを覚え始めながら目の前の降谷零を見た。彼はスマホの画面を見つめたまま、何も言わない――その整った横顔は、どこか嬉しそうで。

ゲーム、じゃないよなあ。操作をしているようには見えないし。風見は横目で見ながら、上司がこうなった原因をあれこれ考えた。

目を通してほしい書類があったので、零にそれを手渡し早数十分。いつもの報告書だし内容だって別段複雑ではなかった。いつもなら何枚あろうとサクサクと読み進めたあと「【赤いシャムネコ】の残党があの組織との合流を模索していたそうじゃないか?この報告書に見当たらないが。動向についてまとめ直して盛り込んだものを明後日までに仕上げろ」だとか矢継ぎ早に指示を飛ばすのに、睨めっこしたまま口を開く様子もない。いや、よくよく考えたらこの人だって人の子だしな、夜に疲れた頭で処理するのも……だが、そう擁護するのももう難しくなるほどの時間が経っている。

腕時計をチラリと見る。まずいなあ、あと何時間も無いっていうのに……風見のお気に入りのスマホゲーム『怪物コレクション』のクリスマスイベントは、終了まであと2時間を切っていた。イベント開始までのメンテナンスが長引いたが、そのお詫びとして10連ガチャを1時間毎に10回引けるし、レア装備の出現率も高くなっている。早くログインしたいのに……きっと今の眼差しは、およそなんだかんだで尊敬している上司に対して向けるべきものではないはずだと、風見は解っていた。

それと同時に、思い出すことがひとつ。アイリちゃん、最近ログインしなくなった。どうしているだろう。

前に交流があったとあるユーザーは、ハロウィンイベントの終わった辺りからぷつりと姿、というかアバターを見なくなって早3ヶ月が経っている。あの初々しさに触れることはもう叶わないのか?運営がガチャの排出率を操作している疑惑がこの間出たが、それに腹を立ててやらなくなったのか?おまけに、今日は意識したくなかったがクリスマスだし、もしかして彼氏と今頃「よろしく」やっているのかもなあ。くそ、アイリちゃんをよくも、よくも……ゲームにログインできない苛立ちも相まって、風見は心の中で下世話なことを想像し悪態を吐いた――そのアイリの彼氏こそが、誰あろう目の前にいる上司だとは知らないまま。

カチリ。壁にかかったシンプルなアナログ時計の針がまた進む音が立つ。あって無きがごとしの退庁時間をいくら過ぎたと思っている、とでも言いたげな響きがするのは、気のせいではないだろう。窓の外を見れば、ある意味で眠らない官庁街さえ、窓の明かりももうまばら。国会が会期中でないからだろう。夜景の最後の1ピースになる趣味は無いというのに。

「……」

零はいつの間にかスマホから顔を上げていた。代わりに今度は窓の外を、そのとある方向を3秒に1度見ている……あの方角、確か米花町の方か?風見は降谷さんに限ってまさか、とは思ったものの、あいにく思い当たる原因はそれだけしかなかったから。眠気覚ましくらいにはなれるか、と思いながら話しかけた。

「ホームシック、ですか?降谷さん」
「まあな」
「え?!」
「失礼だな、僕だって家が恋しくなる時ぐらいあるさ……犬が待っているからというのもあるが」

返って来る返事は「まさか」だと思っていたのに、最初の一文字と文字数しか合っていないなんて。確かにペットが可愛くて思い浮かべるのは解る。たが、いい加減仮眠室か医務室を勧めるべきだろうか。いや降谷さんのことだから勧めるだけでは行かないだろう、僕が引っ張ってでも……しかしそう言葉をかけようとした風見の耳に、零は衝撃の発言を放り込んできた。

「まあ、正確に言えばホームシックというか、愛理シックだがな」
「は?」

アイリシック、とは?それにアイリ……って、聞き覚えのある名前だ。上司は何かを思い出しかけた部下に構わず、問わず語りに続ける。

「会いたいんだよ、恋人に。それにしても初めて家に上がった時の興奮は一生忘れない。僕の部屋と変わらない間取りだというのに何だろうな、あの不思議な興奮は」
「はぁ……」
「おまけに、彼女がお茶を淹れている間に、鴨居に掛かっていた制服を嗅いだんだが」
「……」

制服、って?訊きたかった風見だが、相槌を打つ気力はそこで失せてしまった。それに、零が「服の臭いを嗅いだ」と話したのは幻覚だったと自分に言い聞かせるのに忙しくなってもいたから。

警察官の支給品の扱いは、物によって割と差がある。拳銃や手錠や警察手帳、警笛を無断で持ち出したり失くしたりしようものなら即始末書ものだ。だが、実は制服の扱いはそうした物品に比べれば割と軽い。自宅や寮へ持ち帰って洗濯をしてもいいし、自分で手入れすることが難しいものについては指定のクリーニング店に出すことになっている。制服を自宅に持っている相手、ということは制服組とでも交際を?と風見は思ったが。

「本当にいい香りがするんだ、女子高生は。特定の年代の女性だけが分泌するホルモンであるラクトンの作用だが、とても素晴らしいな」
「はぁ!?」
「静かにしろ風見」
「……失礼しました」

女子高生と交際?このひとが?にわかには信じられずに大きな声を上げてしまったところへ飛んで来た叱責の声。なんだ、この理不尽。風見は己の不幸を呪った。

「見てくれ、可愛らしいだろう」
「この方がアイリさん、ですか」
「ああ。見ての通り未成年だが、保護者にはちゃんと許可を得て健全な付き合いをしている。〈上〉への交際報告も済ませてあるぞ」

単に自慢をしたくて見せてくるだけではないと、察せられなくては右腕は務まらない。もしも自分に何かあったら、その時は彼女に……ということだろう。風見は頷いてみせた。

この上司と互いの女性の好みについてまでは詳しく語らったことは無い。だがこの国を愛してやまぬ彼のこと、異性だってこの国らしさのあるような子が良いのかもしれない。
その点、画像の中、制服は制服でも婦警のそれではなくセーラー服を着て(ついでにクラッカー片手にピースサインもして)写る彼女は、みどりの黒髪に切れ長の目。そんな和風美少女に零が惹かれるのも、まあ無理からぬことなのかもしれないが。

……それよりこの娘、どこかで……そう、『怪コレ』のアイリちゃんのアバターそっくりじゃないか。おまけに先ほど上司が口にしたこの少女の名前と、同じ響きだった……!風見はとある可能性に思い至り、その写真に釘付けになった。

「おい、あまりジロジロ見るな。写真とはいえ恋人を凝視されるのは良い気分じゃない」

「見せてきたのは降谷さんでしょう」と言いたかったが、できなかった。すぐに零の表情が翳って……その指が、恋人と思しき少女の画像を削除する動きを見たからだ。

公安は、写真を撮らない。自分のものはもちろん、他人のであっても残しもしない。所帯を持った者だって、現役捜査官だけでなく、退官してからも家族写真の1枚さえ撮らないし持たない――警察手帳に用いる写真を除いた例外は、総務に預けてある遺影くらいだ。もし必要に駆られて撮影したとしても、用が済めばすぐに消去してしまう。マーク対象に顔が割れないようにするためだ。撮らないのは自分の写真だけでなく他人のものも。流出したら家族にも危害が及びかねないからだ。まして、恋人の写真なんて。

零の表情からして、写真を消したくないのだろうことは明らかだった。それでも、彼は(躊躇うそぶりを見せたあたり、目の前の上司もやはり人の子なのだと思わされたが)自慢の恋人の写真を消した。風見は難儀なものだなあ、と上司の内心を慮る。そして同時に、未成年との交際にあたってぬかることなく〈上〉への報告や保護者への挨拶を済ませているあたり、本当は残しておきたいのだろう写真を、葛藤はしてもちゃんと消去するあたり、降谷さんは恋をしようがやはり根っからの公安警察官なのだ、と安心感を覚えたところで。

「ともあれ……恋人を守り抜くまで死なないと思えば、潜入だろうが書類だろうが怖くはない。愛の力を骨身に沁みて実感する今日この頃さ……ん?雪か」

心なしか弾んだ声で零が言った。確かに窓の外を見れば、いつの間にやら白い粉雪がちらつきだしていた。

「クリスマスに冬将軍がやって来る、なんて言ってもいましたね」
「そういえばそうだったな。お互い早く帰るためにも、あともう一仕事片付けるか」
「はい……」

厚みにして10センチはある書類の山が、まだ残っている。これがプレゼントの山だったらどんなに嬉しいだろう。

『怪コレ』クリスマス限定10連ガチャよ、さらば……風見は心の中で滝の涙を流した。しかし零は何のその、自分の好きな色をしたものが冬の街を染めていくのを喜んでいるかのよう。PCに向き合うや、キーボードを恐ろしいほどの勢いで叩く。

カチャカチャ、タンッ、キーはいつになく軽やかな音を立てている。零の横顔は晴れやかそのもので――そこには恋という名の厄介な病を患う男の、四つ目〈クアドラプル〉の横顔があった。



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