緋色と邂逅


聖マドレーヌ女学園の文化祭の約1週間と数日後、とある火曜日の午後。米花町二丁目は工藤邸の一室は、にわかにアメリカ連邦捜査局日本支部と相成ったかのようだ。ソファテーブルの上には1台のパソコンにティーポット、それからカップとソーサーが5組。あの夜のように、出すティーカップの数が足りそうにないという事態にはなっていなかった。

「それで……」

丁度、パソコンの操作をしているジョディが、制服を着て写った胸から上の写真や氏名などのターゲットのデータを呼び出し、諸々の情報がディスプレイに表示されたところだった。この中で一番年長の男性――ジェイムズ・ブラックが、画面をなぞりつつ紅茶を一口飲んでから口を開く。彼はしばらく別件に当たっており、このデータをたった今初めて目にしたのだ。

「この少女が、アトラ・アイリか」
「はい。安室透……黒の組織ではバーボンというコードネームですが、彼と親密そうな様子からして恋愛感情を利用され、組織絡みの何らかの目的のために使われている可能性が高いと考えられるかと」

訊かれたジョディはそう答えた。すぐ傍にいる元恋人もかつて同じようなことをしていたはずだけれど、考えないよう努めながら。そして、言い終えた後秀一をチラリと見る。しかし彼は「現に、この工藤邸の周りでも何度か姿を見かけたことがある」と、アトラ・アイリのデータを見つめたまま、いつも通りのポーカーフェイスで誰に告げるでもなくそう言うだけだった。

3人掛けソファの横に立つ秀一と、そこに掛けているジョディ、キャメル。そして対面の一人掛けソファには彼らの上司ジェイムズ。更にその傍らのもう一脚あるソファには、ジョディから連絡を受け加わった江戸川コナン。5人は聖マドレーヌ女学園からハッキングして手に入れた資料を前に、アトラ・アイリ――黒の組織の一員、バーボンこと安室透と親密だという彼女の情報の共有を図るべく集まったのだ。

「しかし、とても許せませんよ。安室透や黒ずくめの組織の連中は、こんな年端もゆかない子供まで利用するつもりだっていうんですか」

キャメルは怒りを覚えながら言った。彼はジョディから送られてきたデータを閲覧した時、彼女以上に驚いたのだ。アイリさんが、まさか。花火大会の日に出会い、目を輝かせてFBIのことを色々訊ねてきた彼女が、バーボンと繋がっていたなんて。しかも、後ろ暗い目的のために使われているかもしれないなんて。

「もう!なんでこの子に2度も接触したことと安室透が働いてる喫茶店で出くわしたってこと隠してたのよ?他人のフリしてるように見せかけてもうグルになってた可能性も考えられるでしょ?おまけにその喫茶店で彼女にFBIについての話をせがまれて色々教えたっていうけど、そこで安室透が働いてたって、それじゃつまり私達の情報が彼の耳にも入ったのとイコールじゃないの!この学園の生徒だって知ってたらもっと早くからマークできたのに」

キャメルがアイリと面識があり、しかもその喫茶店で働く安室透を前にしてFBIにまつわる話をしていた……ジョディはその事実をつい先ほど傍らの同僚から知らされたばかり。情報は常に共有するものだというのに、そして、ちょっと迂闊だったんじゃないの、と言いたい気持ちから、思いがけず非難がましい口調になった。キール絡みのあの作戦の際、自分に全容が最後まで明かされなかったことへの憤りも今になって何故だかぶり返していたから、それも相まって。

「い、いや隠していたわけじゃ……そもそも福生で初めて会った時は話らしい話は何もしませんでしたよ。誘拐されそうだったところへ居合わせたから助けたっていうだけで、素性なんか何も聞いていなくて」
「なんでまた」
「あの時の彼女はかなり怯えてましたし。警察に保護を要請して引き渡すまではその場にいましたけど、誘拐犯も外国人の男達だったから、同じように見えるだろう僕も下手に何か話しかけない方が良さそうだと思ったんです。その後はお互いの名前さえ知らないまま別々の部屋で事情聴取を受けることになって、僕が先に解放されたんでその日はすぐホテルに戻って……まして学校の名前も聞き出してませんでしたから、ジョディさんの勤め先の生徒だったなんてこと知りようがないですよ。それに、夏に会った時にFBIの話をしたのは確かですけど、別に黒ずくめの組織の連中に知られて困ることは何ひとつ口にしてません。あと、あの時点で安室透とグルだったというのもちょっと考えにくいですね。何を思ったか彼が僕を犯罪者扱いしてきたんですが、あの子は僕以上に怒って真剣に抗議してましたし……」

ジョディにそう弁明したあと、キャメルは紅茶で喉を潤しつつあの日を回想して内心不思議に思ってもいた。

「あの子は僕の大切な人なんだ」

アイリ(とその友人)を助けていたと知って――以前、楠田陸道のあの件について作戦に乗せられ口を滑らせてしまった時は、面と向かって「下っ端捜査官」などと呼ばわり、あからさまに下に見た言動を取っていたのに――感謝の言葉を伝えてきた安室透と、バーボンとしての安室透とがどうしても結び付かないのも、また事実だったから。

「まあまあ、ジョディ君……キャメル、念のため訊いておくが、その際本当に我々の機密事項をアトラ・アイリに話してはいないだろうね?」
「もちろんです。それにあの子は探偵小説好きだとかで“The Scarlet Agent”のペーパーバックを持ってきてたんですが」

『緋色の捜査官』を?ああ、そういえば知り合った時「探偵小説が好きで色々読んでるけど、工藤優作先生の作品が大好きなの。あと『左文字シリーズ』も!」とか話してたよな……父親の作品のタイトルを耳にしたコナンは思わず反応しかけたがぐっと堪えた。

「それを基にして、例えば小説の描写でFBIとCIAの対立が描かれているけど実際のところどうなのかだとかを知りたがってまして。機密事項に関わることも訊いてはきましたが、教えられないと答えたらあっさり引き下がって、それ以上しつこく揺さぶりをかけてはきませんでした」
「そうか」

ジェイムズは解った、というふうに頷いた。年の功で、部下が失態を誤魔化すためにそう答えているようには見えなかったからだ。“彼を信じて、これ以上の追及はしないでおくことにしよう”ジョディにそう目配せしておいた。彼女はそれを受けて頷くと、今度はコナンに話を振る。

「コナン君、お花見の時の神社で、バーボンが毛利探偵事務所の隣の喫茶店で働いてるって教えてくれたわよね。このアトラ・アイリという子が、そこで彼と何かやり取りしていそうな様子だとかを見たことはある?」
「愛理さんは確かにポアロで何度か見かけてるよ。けど……」

コナンは首を横に振った。たまにポアロで出くわした時も挨拶を交わす以外、彼と愛理に接点はほとんど無い。今年の春、彼女が真純にラブレターを差し出していた場面に蘭や園子と一緒に居合わせ、そこから成り行きで名前を名乗るぐらいのごく簡単な自己紹介をし合ったので、まあ顔見知りとはいえるだろうけれど。

その際、愛理も含めた女子高生4人組の会話をコナンは傍らで聞いていたが、彼女について知ったことといえば名前、学年、通う学校そして趣味のことぐらい……いや、割と最近加わったあとひとつは、安室透の恋人になったということ。

――正直に言えば、蘭から「安室さんと愛理ちゃん付き合い始めたんだって!愛があれば歳の差なんて、ってやつよねー!」と聞いたコナンは「おいおい、“そーいうシュミ”だったのか安室さん……!?つか仮にも犯罪組織の幹部で三十近い警察官が女子高生と、ってのはアウトなんじゃねーの?公安は大丈夫なのかよ……」と思わずにはいられなかった。コナンもとい工藤新一には、蘭と同い年の相手を交際相手に選ぶ大人というのが少し受け入れがたかったからだ。それも、よりによって……。

おまけに(タイミングがことごとく合わなかったので、これまでコナンとは遭遇しなかったのだろうが)愛理が工藤邸の周りに現れていたと知って「やっぱりバーボンとして“そういう目的”に使うために恋愛関係になったのか?」とも考えたが、それはそれとして。

「愛理さんが来てる時の安室さんは、ほとんど毎回接客をもう一人の店員さんに任せてキッチンで料理を担当してるから、お互い何か伝え合ってるって感じでもないよ。そのもう一人の店員さんっていうのは、組織とは何の関係も無い人だから置いておくけど……それで、愛理さんは、ボクが見た限りでは大体同じ学校の友達と一緒に来て喋ってるか、一人で来るにしても小説読んでるからさ。安室さんと何か話し込んでる感じじゃないんだ。メールなんかではやり取りしてるかもしれないけどね。盗聴機を仕掛けるチャンスも窺ってみたけど、なかなかタイミングが合わなくて」
「だが」

すると、今まで黙って話を聞いていた秀一が会話に加わって来た。

「伝達方法は直接言葉を交わす以外にもいくらでもある……ボウヤが目撃した限りで、何かしらサインらしきもののやり取りをするかのような動きは無かったか?例えば一定の間隔で目配せし合うとか、オーダーしたメニューの頭文字を繋げると何らかの文言が成立するだとかな」
「ううん……赤井さんが今言ったのと同じこと考えて観察してたけど、そういうところも見たこと無いよ」
「そうか、ありがとう。私はビュロウに状況と次第を報告する。アトラ・アイリが、黒の組織に関わりを持ち、我々について探りを入れている可能性ありと見て注視していくと……君達も、特にジョディ君は、週に1度だから顔を合わせる機会は少ないだろうが、可能な限り学校でのアトラ・アイリの言動に。赤井君は、またターゲットがこの工藤邸の周りに現れた際の彼女の動向に。それぞれ注意を払ってくれ。キャメルもコナン君も、また気付いたことや新たに知ったことがあれば知らせてほしい」
「はいっ!」
「はい」
「了解」
「うん!」

ジェイムズの言葉に、部下の3人そしてコナンは揃って頷いてみせ、この場はお開きとなった。

すると三々五々部屋を出ていく仲間達を見送りティーカップを下げたあと、秀一はチョーカー型変声機を首に着けスイッチを押し、沖矢昴と化すための準備を始めたではないか。しかも、その横顔は何となく嬉しそうだ。

「赤井さん、どこか出かけるの?」
「ああ。米花図書館まで逢瀬を遂げに」
「へー……」

問われた秀一、いや今はもう沖矢となった彼は普段より少しだけ弾んだ声で返してきたので、いつもはクールな彼の色々な意味での“変わりよう”にコナンは驚いた。でも、図書館で逢瀬って?一体誰となんだ……不思議に思っていたがその相手、もとい真相はすぐに示された。

「“A Study in Scarlet”の、コナン・ドイルのサイン入り初版本とな」
「…ああー!あれかぁ!『The Beginning of the Private Eyes――コナン・ドイルから工藤優作まで』ってやつ!そうだった、今日からじゃんか!」

修学旅行での蘭とのキスの余韻、そして判明した“あの方”の正体……最近あれこれあったとはいえ!コナンはそこでようやく思い出しながら大声で叫んだ。

米花図書館では今日から、工藤優作が『緋色の捜査官』でマカデミー最優秀脚本賞を受賞したのを記念して、それをノベライズしたもののほか、人気探偵小説のシリーズの第一作の初版本を一堂に集めた展示企画が始まる。これだけなら図書館でよく開かれるテーマ別の本の展示会だが、そうしたものと一線を画している点はなんと、世界に十数冊しか現存していない『緋色の研究』の正真正銘の初版本、しかも原作者のサイン入りのものもあること。そうだ、工藤優作が息子に語ったことには、持ち主への交渉には優作自らが当たったが、所有者が大ファンだったため「ユウサクの作品の隣に並べられるなら喜んで貸そう」と快諾して実現したとかなんとか。

「今すぐオレも……」

だが、コナンがそう思って沖矢に着いて行きかけたところに着信が入った。阿笠博士からだ。先ほどの協議の前、発明品のメンテナンスを頼んであったのだ。

“おぉい新一、あらかたメンテナンスが終わったぞい。最終調整のためにちょいと戻って来てくれんかのぉ”
「博士わりぃ、今から行きたいとこができてさ、そっち行ったらすぐ戻るから!『緋色の研究』がオレを呼んで……」

だが、次にしてきたのは阿笠の返答ではなく、何の音かは判らないがガッという音。“ちょ、ちょっと哀君……”先ほどまでの通話相手だった阿笠が面食らったような声を上げたのが何故か少し遠くに聞こえた、次の瞬間。

“はぁ!?頼んどいて何よほんっと自分勝手なんだから!次という次はもしAPTX4869の解毒剤がまた必要になったって泣きついても絶対の絶対の絶ーっ対にあげないわよ!?さっさと来なさいっ”
「わ、わーぁったよ!今行くっての!」

いきなり響いてきたのは灰原哀の怒声だった。おそらくやり取りを近くで聞いていたが、コナンの返答が気に障って阿笠のスマホを取り電話口に出た、といったところか。コナンはあまりの迫力に首を竦めつつ通話を終え、今日は米花図書館行きは諦めねーとな、と内心でごちた。今しがた彼女が告げてきたような事態は何としても避けなければならない、この先いつまたあの解毒剤が必要になるかわからないのだから。

「ビッグ大阪の連勝がストップしたとかで今朝から荒れ気味だからって八つ当たりすんなっつーの、ったく」

ブツブツ言うコナンに、緋色の同志はフッと笑いながら赤いスバル360のキーを手に持ったところだった。コナンは羨ましく思いつつ沖矢と一緒に玄関を出て、彼が工藤邸を施錠したのを見届ける前に阿笠邸へ向かった。


一方、その少し前。米花町五丁目。

「ありがとうございました愛理ちゃん、またお待ちしてますねー!喉お大事にどうぞー」
「梓さんごちそうさまでしたー」

極秘来日中のFBI捜査官達、そして彼らと協力関係を結んでいるとある小学生に自分がマーク対象とされたなんて、日本でごく普通に暮らしている女子高生は夢にも思わずにいた。

梓に見送られ喫茶ポアロを出た愛理は、足取り軽く米花町を行く。天気予報もコート要らずと断言した通りの、晩秋には珍しいポカポカ陽気が気持ち良い。寒がりなので一応サブバッグにいつも入れているカーディガンの出番も、今日はこの分なら無さそうだ。

気分もカバンも軽い。今日は平日の火曜日だが授業は行われなかった。聖マドレーヌ女学園は今日が創立記念日で、それを記念してのミサも行われるがお昼前には解散と相成っていたのだ。

だから自由の身になった午後、いつもランチを摂る学校の食堂が開いていないのでまずは喫茶ポアロへ。今日、透は探偵の仕事でシフトに入る日ではないと教えてもらってはいた。けれど、普段は行けない平日のお昼のポアロはどんな雰囲気なのか、前から一度様子を見てみたいとも思っていたし、小さな念願がここに叶ったわけだ。「今日は割と空いてる方よ」と梓が教えてくれた通り客はまばらだったが、仕事の邪魔にならない程度に彼女とお喋りしつつランチを味わった後、一路目指すは米花図書館だ。

やがて、図書館前を通るバスの停留所が見えてきた。愛理がバスを待つ乗客数人の列の最後尾に並ぶと “2つ前の停留所を出発しました”と電光掲示板に表示が出る。スムーズに乗るためにICカードをもう取り出しておくことにする。そしてついでに、これから向かうお目当てについてのお知らせも見て気分を盛り上げておこう。スクールバッグからその二つを取り出し、臙脂色で印刷されたタイトルを目でなぞった。

『The Beginning of the Private eyes――コナン・ドイルから工藤優作まで』

――楽しみだな、工藤先生のサイン入り『緋色の捜査官』。それと『緋色の研究』も。愛理はそわそわしながら今か今かとバスを待つ。『緋色の研究』の初版本を目にするのは今日が初めてだ。友人達の寄り道の誘いも受けたけれど断ったのは、初日とはいえ平日だし、きっとゆっくり静かに見られるはずだと考えたから。秋と冬の狭間、ちょっと咳が出ていたけれど、先ほど梓が「これ、喉にいいらしいの。安室さんは赤色のもの使うの嫌がるから、出したのはナイショにしてね」と笑いながらサービスで赤いハーブティーを出してくれたが、そのおかげか少し収まってきている。そのことも嬉しくて、付けているマスクの下で、勝手に口元が上がって来るのを隠せてよかったと思ったとき。やって来たバスに、この後の邂逅を予想だにしないまま、愛理は胸を高鳴らせながら乗り込んだ。



いかにファン垂涎の『緋色の研究』という目玉があるとはいえ平日だからだろう、アフガニスタン展をやっている展示室のその隣、米花図書館でも一番大きな展示コーナーはガラガラだった。出入り口脇に立つ初老の男性警備員は退屈なのか欠伸をしていて、沖矢がその横を通り過ぎて室内に入った時。

「……!」

彼は目を見開きそうになった――データで見たアトラ・アイリ本人が、そこにいたからだ。やっと……ではなく、まさかこれほど早く巡り会うことになろうとはな。

マスクで半分顔が隠れてこそいるし正面を向いてもいない横顔だが、切れ長の目元といいアイボリーのセーラーカラーの制服といい、画像で見たアトラ・アイリと相違ない。しかも、ここにいるということはつまり同好の士だということではないか。何よりの証拠に、工藤邸の周りに現れ邸を見つめる時と同じ、好奇心を孕んだ視線の先には『緋色の研究』が飾られたケースがあったのだから。

だが、アイリは彼が到着するまでに十分に堪能したと見え、彼女は蝶が花からまた別の花へと移るかのように、他のディスプレイへと向かおうとする素振りを見せた。

その時(これは沖矢にも本当に何とも説明のしようがないのだが)考えるより先に彼の体は勝手に動き出し、脳はいつにも増してフル回転を始めていた。まず、周りが見えないほど展示に見入っているように装いつつ、アイリの体の向きや目線から彼女の行く手を阻むことになる位置を瞬時に予測した。そして、音も立てずに長い脚をもってすぐさまその地点へと回り込んだ。文字通りの"接触"を図ろうとしたのだ――宮野明美とコネクションを作ろうとした時と、ほぼ同じ手口を使って。彼の頭脳と身体能力をもってすれば、しかも2人以外に人がいないというこの状況の下ではなお容易いことだった。

「きゃっ!」

果たして沖矢の思惑通り、愛理は彼に思い切りぶつかりよろけてしまった。彼女の艶やかな黒髪からほのかに漂うシャンプーの香りと、沖矢が纏う煙草そしてバーボンの微かな残り香とが混ざり合う。

「す、すみません、っ……」

愛理は沖矢の足音こそ耳にしていたけれど、展示の方に夢中だったのでほとんどその存在に意識を向けずにいたのだ。しかも彼は音も立てずにことを運んだ上に、愛理はディスプレイから目を離す直前でよく前を見ていなかったのもあり、進もうとした方向に誰かがいるなんて気付いていなかった。

「いえ、こちらこそ大変失礼しました。お怪我はありませんか?」
「だっ大丈夫で……あの、肩……」

愛理は咄嗟に謝りながらも、ぶつかった相手を見て男性だと判るや身構えた。声が震える。

恋人の透はもちろんとして、家の使用人や店の男性店員や学校の男の先生、合気道道場の年下の男の子のように、顔見知りかつ異性と意識していない相手や、それから愛理の方から話しかける場合などはいいのだ。

だが、福生での一件のせいで、思いがけず知らない男性と接する時は、やはりまだ無意識のうちに気を張ってしまう――しかも、彼は愛理がよろけたところに、すぐさま肩に手を回して支えていたからなおさら。そのまま倒れ込んで怪我をしたり、その拍子に展示品が壊れたりという事態にならずに済んだのは確かにありがたい。けれど、彼氏以外の温もりはお断りだから、肩の手を除けてほしいと言おうとしたのだ。

――でも。あれ、このひと確か……細い目で、背の高い彼、全くの初対面ではなく見覚えがある…。そんな相手を前に、愛理は肩に回った手のことを一瞬忘れ、目をパチクリさせながら零したのだ。

「あ……工藤先生のお家から出てきたひと!」
「おや、そういう貴女は。時々僕の家を熱心に眺めておいでになるお嬢さんではないですか。貴女に熱い眼差しを注がれるのが、あの邸ではなく僕であればと……そう羨ましく思いながらお見掛けしていた方と、こうして言葉を交わせるとは光栄です」
「は、はあ。そうですか……」

歯の浮くような言葉に、愛理は少しばかりゾワッと鳥肌が立つのを感じながら答えた。急に彼の手の感触が嫌なものに思えてくる。怖くはなさそうだけどちょっと変わってる、なんだかアブない人かも……というか、知られてた?愛理が覚え始めた気まずさに、彼が続けた言葉は更に拍車をかけた。

「まあ、ここで会ったも何かの縁という言葉もありますし。ぶつかってしまったお詫びに何か飲み物でもご馳走させてください……静粛にすべき図書館で立ち話も何ですから併設のカフェに移りましょうか、暗くなる前に帰すとお約束しますよ」
「い、いえ結構です、お気持ちだけありがたくいただきます!ごきげんよう」

なんだ、結局ただのナンパかあ。残念でした、私には透さんっていう素敵な彼氏がもういるんだから。それにしてもせっかく楽しみにしてた展示だったのに、最後の最後でこんな目に遭うなんてついてない!残念だけどもう、こんな人にまた会うの嫌だし工藤先生のお家見に行くのやめておこうかな……気分を損ねた愛理は、あれこれ思いながらさっと彼から離れ――肩の手はいつの間にか外されていた――出入り口へと踵を返す。

「貴女があの邸をちょくちょく見に来られる理由、気になっていたんですが……教えていただけませんか?」

後ろから彼が着いてきているらしく、声はすぐ近くからしてくる。これ以上関わるのはごめんだ。声は聞こえないものとして青年から遠ざかろうとする愛理だったが、彼は手を緩めず二の矢を射かけた。

「貴女は工藤先生が執筆に使われていた部屋の様子、気になりませんか?『闇の男爵』シリーズが産声を上げた場所。かなりのファンの方とお見受けしましたので」
「な!どうして、知って……」

思わず足が止まった。確かにそうだけれど、この人には一言もそんなことを言っていないのに。今度こそ警戒心を露わにし始めたアイリに、沖矢はこれ以上距離を詰めるのを止める。入口の警備員の男性が「あのねえお2人とも、私語はお控えくださいね、図書館なんでねえ」と注意してきて、会釈して謝ったあと。

「気になるようでしたら、少しばかりお時間をいただけますか?僕の疑問もあなたの謎も、答えが示されたほうがお互い安心できるでしょうし……何より、静粛にすべき図書館で立ち話も何ですから。ね?」

沖矢はニッコリと愛理に笑いかけながら、図書館入口そばのカフェを指してみせた。



果たしてカフェは空いていたので入店するなりすぐに席に通され、オーダーした品もすぐに来た。店員がテーブルに置き「ごゆっくりどうぞ」と言い置いて去ってから。

「それで……」

『緋色』とタイトルに付く本に関連して……かどうかはさておき、入ったカフェテリアでは「赤のドリンクフェア」なるものを開催していた。紅茶のほかトマトジュースなどもあったが、愛理が頼んだのはフレッシュいちごジュース。口いっぱいに広がった甘酸っぱさが喉を潤したあと、愛理はストローから口を離して訊いた。

「どうしてわかったんですか?私が工藤先生のファンだって」
「何、サブバッグの中の本です……ああいえ、女性の鞄の中身を好んで覗くような趣味など誓って無いのですが」

そうだ、サブバッグにはフタが無いから見えるのだ。それでも持ち物を見られたことが少し恥ずかしくて、愛理はサブバッグもスクールバッグも彼に見えないようサッと膝に抱え込む。沖矢はその様子を見ながらブラックコーヒーのカップを傾けつつ苦笑した。

「釈明させていただくと、私はご覧の通りかなり背が高い方に入るもので……見下ろすだけで視界に入ってしまうというわけですよ」
「あ、そっか。でも、それだけじゃ私のことをファンだって言い切るには弱いんじゃないですか?何となく図書館や誰かから借りて、本当にたまたま持ってたこの本が工藤先生の作品だった、っていうだけかも」
「いいえ。それは紛れもなく貴女自身の持ち物だ」
「!」

先ほどまでの温和な語り口から、きっぱりと言い切る物言いへ。一瞬で口調を変えて静かに断言してみせる沖矢を、愛理はしばし目を瞬かせて見た。彼女の瞳には次第に「どうして言い当てられるんですか」と訊きたそうな好奇心が浮かんできている。

……良いぞ、好奇心という名の熱病に冒されたその目。沖矢、いや秀一はほんの少し口角を上げる。そんな目に何故と問われては、何も明かさないでいられるだろうか。

「では種明かしを。まず、図書館で貸し出す本ならばフィルムでコーティングを施された上、NDC……日本十進分類法に基づく請求記号の書かれたラベルが背表紙に貼られているもの。しかし、お持ちの本は背表紙だけが見えている状態ですが、そのいずれも見当たりませんから、どこかの図書館から借りたという線はここで早々に消える。それに……」
「……」

なんで、なの。愛理は圧倒されるほかなかった。彼はその他にも色々な点から、初対面の彼女が工藤優作のファンだと断定するに十分に足りる証拠を次々挙げていくではないか。しかも当てずっぽうではなく、どれも愛理が指摘されてみなければ気が付かなかったこともあるが、それは全て事実に基づいた推理なのだ。途中からは目を真ん丸にして一々頷く以外何もできなかった。

「……以上の点から、工藤先生のファンに相違ないと見ました。いかがです?」
「すごい……全部当たってる。私の彼も探偵なんですけど負けないくらいすごいです!ホームズとの初対面でどこに行ってたか言い当てられたワトソンの気持ち、今ならとってもよく解ります」
「恐縮です……」

もし安室君が耳にしていたら怒られてしまうかな、と沖矢は思いつつ答え、2人はそこで初めて目を合わせて笑い合った。もうこの時すっかり愛理は彼に感服して、アブない人かもしれないという考えはどこかへ行ってしまっていた。ホームズの作品の話から探偵小説全般の話まで、そこから話題は色々と変わって。

「ホォー……ミステリーを好まれるのは、謎解きがしたいからというわけではないと?」
「探偵が、どんな小さな手掛かりからでも真相を言い当ててみせるところを読むのが好きなんです。格好いいなあって。私も当てずっぽうで謎解きしてみるんですけど、当たったこと全然無いんですよね……」
「ふむ。ああそうでした、貴女が工藤邸を見に来られる理由を伺っていませんでしたが」
「好きな作家さんのお家って見に行きたくなっちゃいませんか?」
「なるほど。そういった心情は解りますよ」

沖矢は頷いてみせた。

「それに実は、私ずっと純和風建築の家で育ったんですけど、人って自分に無いものに惹かれるっていうじゃないですか。ああいう西洋風のお屋敷憧れるなあって。外観も素敵だし、私もちょっと離れてますけど米花町に住んでるしで、それでつい……でもお嫌でしたよね、お家の周りウロウロしてちゃ」
「いえ、そのような。しかし、工藤邸の外観がお気に召したのなら、写真を撮ってそれを見返すという手もあるのでは?熱烈なファンの方を追い返したくて言うのではありませんが」
「確かにそうですけど。ただ誰かのお家を勝手に撮影する、っていうのはちょっと気が引けてしまうので」

もっともらしい理由だが、さて。沖矢は納得したように相槌を打ちながらも訝った。もし、愛理がバーボンの駒として工藤邸の様子を見に遣わされているのなら、写真を撮ればいいのではという揺さぶりに何かしらの気まずそうな反応を見せるかと思いきや。

すると、陽が落ちるのが一日ごとに早くなっていく季節、茜色と朱色の混じり合った夕陽が沈み始めているのに気が付いた。夕方までには帰すという約束を反古にするわけにもいかない。

そこへ “ご来館の皆様に、お知らせ申し上げます……当館は間もなく閉館いたします……”とのアナウンスが流れ出す。気が付けば併設のこのカフェの従業員もそれに伴い閉店作業を進めていて、促された2人は帰宅するべく準備を始めた。愛理はもちろん代金を払うつもりで財布を取り出したが、彼が「お付き合いいただいたお礼です、ここは私が」とやんわり止めつつサッと支払いを済ませてしまった。それならば、とお代を渡そうともしたけれど「どうか収めてください」と受け取ろうとはしてくれないので、話に付き合ってくれた分も含めて丁重にお礼を言うほかなかった。

「学校で小説の話できる子いなくて。友達は一応聞いてはくれるんですけど、語り合えるってわけじゃないし……とっても楽しかったです!本当にありがとうございました。あと…先ほどは失礼な態度を取ってしまって、ごめんなさい」
「とんでもない。それにお礼を言うのはこちらの方ですよ。貴女のような年代の方から、ホームズシリーズについての感想を聞く機会などほとんどなかったものですから。私とは全く異なる視点からの感想、とても新鮮でした」

彼女は、白猫だ。沖矢は確信した。バーボンとアイリが親密なのは確か。しかし、少なくとも彼女は組織に関わってはおらず安室透のもういくつかの顔〈フェイス〉を知らないとみえた。会話の中で幾度かカマをかけてもみたが、反応から見てまるで意味が解っていなさそうだったから。

しかし……だからといって、このまま離してやるわけにはいかない。彼女を通してバーボンの動向を探るとともに、もし本当に組織とは通じていないと判明したなら、タイミングを見て保護してやるのだ。バーボンの動きはボウヤ、もといコナンも伝えてくるとはいえ、情報ルートが多いに越したことはないから。

「よろしければ時々、私の家にいらっしゃいませんか?ミステリーの話はいくらしても尽きないもの、ここで貴女との縁を終わらせてしまうのは忍びない。またお話ができればと思いまして」
「え、お家ってもしかして!」
「そう、工藤優作先生のお宅ですよ。実は私は工藤先生の遠い親戚に当たりまして、今は先生の留守を預かっているんです」

愛理の顔がぱあっと輝きだすところは、何故か10年前の海水浴場で妹に初めて会った時、彼女が浮かべた表情に重なった。穏やかな表情を崩さず、食いついたなと確信しながら沖矢はさらに言葉を続ける。

「私の個人的な知り合いを招いても構わないとお許しはいただいていますし、特に貴女なら……先生ご本人はご存知の通り今はL.Aにお住まいですから、いつも会えるわけではありませんが、ファンのお嬢さんのご訪問とあればお喜びになるでしょう。もっとも、私も大学院の用事などもありますので、毎日おもてなしできるとは限りませんが」
「いいんですか!やったやったぁ」
「では、連絡先を交換しておきましょうか?来たくなったら前もって連絡をくだされば、予定の無い限りはなるべく居るようにしますので。それ以外にもホームズ談義など、またお付き合いいただければ」
「はい!えっと、Rine使われてます?」
「ええ」

愛理は一も二もなく連絡先を教えた。この人なら大丈夫。マイナスの印象が覆された今、彼とならきっと小説の話が楽しくできるだろうと期待したのだ。誰かと小説の話という趣味で繋がるのは、思えば初めてだったから嬉しくて――恋人に男友達ができた、しかもその相手が、よりにもよって……それを知った時の透の気持ちなど、全く想像もしないまま。

「そういえば、お名前伺っていませんでしたよね?私、跡良愛理っていいます。お名前、登録に必要なので教えていただけますか?」
「沖矢昴です。沖野ヨーコさんの沖に、弓矢の矢、それから漢字一文字で昴。以後お見知り置きを……それではお気を付けて」
「はーい、失礼します」

愛理の後ろ姿を見送ってから、沖矢は愛車に乗り込んだ。スマホを取り出し、登録されたばかりの【跡良愛理】の表示をなぞりつつ思う。

――接した限り、今のところの彼女は白だ。下部構成員の線も薄いな、奴らの“臭い”は移っていなかったから。となると、安室君はポーンとするべく近付いたのではなく、あの少女を本心から愛しているということになるのか……?

いや、だがあくまで今のところは、というだけだ。沖矢は首を振った。これから先はどうなるか。純白は何にも染まりやすい……もちろん、容易く漆黒にもなり得るということをも意味している。そうなりかけた時あるいはそうなる前にいち早く気が付き、すぐさま闇から掬い上げるための礎はこれで築けた。そこまで思ったところで気が付いた――俺はどこかで、あいつを愛理に重ねているのかもしれんな……。

ともあれ、まずはあの中で一番心配していた奴に伝えて安心させるとしよう。沖矢はそのまま電話をかけた。

「キャメル、俺だ。安心しろ。跡良愛理は今のところ白猫だった」
“へ?”

開口一番そう言った彼に、いつものように投宿先のホテルの階段でトレーニングに励んでいたところで電話を取ったキャメルは、目を点にしてそう訊き返すしかなかった。



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