両手に火花


満車寸前の聖マドレーヌ女学園教職員用駐車場、そこに見つけた空きスペース。その両隣には何という偶然か、見慣れた車が停まっていた。右にはメルセデスベンツCLKカブリオレ、そして左にはシェルビー・マスタングGT-500。かたやボスの、そしてかたや元恋人の今の愛車と、ナンバープレート以外は何もかも、そう、だから色まで同じ車が。

「まるで車の展示会をやってるみたいだわ」

ジョディ・サンテミリオン、もといジョディ・スターリングは、愛車であるプジョー・607から降り辺りを見回して呟いた。マスタングの後ろにあるスペースにはジャガー――ちなみに何の因果か、マスタングの正面の車は黒いポルシェだった――、それにアウディ、さらにロータスエリーゼやフェラーリもある。壮観ってこういうことでしょうね、と彼女は一人納得して校舎の方向へと歩を進める。

今日は3日間に亘って開催される、この聖マドレーヌ女学園中等部・高等部の文化祭の最終日。それに合わせて来校者用駐車場に加え、教職員専用駐車場も開放されているが、あの高級車やスポーツカーの類は全て生徒の保護者達のものだろう。ジョディは今日行われる、ESSの英語スピーチコンテストの審査員として招かれていた。

「鶴山先生、今年もご来場くださいましてありがとうございました」
「こちらこそお招きいただいてありがとうね。華道部のみんなも元気そうでよかったよ」

卒業生か部活動の指導者だろうか。上品な雰囲気の小柄な老婦人を、在校生、それから顧問とおぼしき男性教員が見送るところのようだ。

そんな3人連れとすれ違ったジョディの前方200メートルほど先に、文化祭らしく飾り付けが施された高等部校舎の正門が見えてきた。そこに至るまでには金一色に染まった並木があるが、その下に伸びる長いアプローチには、木々とは対照的に様々な色が見え隠れしている。

まず、紺色がベースで、アイボリーのセーラーカラーと同じ色のリボンというワンピースタイプの制服に身を包んでいるのは、聖マドレーヌ女学園の在校生だ。保護者達もまるで見えざるドレスコードに従っているかのように、一様に黒や紺など控え目な色味の服ばかり。一方で招待された他校の制服や私服姿の少年少女や、学校見学に訪れたのだろう親子連れの服装は対照的にカラフルだった。

するとそこへ、勢いよく走って来る足音が近づいてきた。もう何秒もしないうちにジョディを追い抜くだろう。彼女も別に張り合う気などないので、元気がいいわねなどと思いつつ意識をその音から離そうとした。

――その、寸前。

「あ……!」

自分の左側を追い越していったその人物にジョディは目を見張った。ほんの一瞬だったけれど見えたのは、黒髪で緑の眼を持ちその下にはクマのある、誰かに似ている誰か。以前、同僚のキャメルがダニーズというレストランで事件に遭遇した時にやって来たという、男にしか見えない少女だった(上司のジェイムズは年の功だと言って、一目で女だと見抜いていたが)。

キャメルから送られてきた件の彼女の画像は、今も携帯に入れてある。ジョディは急いで通行の邪魔にならない脇へ寄るが早いか、今見た横顔を画像と重ね合わせてみた。間違いない、他人の空似などではないはずだ。顔かたちに加えて、画像の中のキャスケットと同じものを先ほどのあの子も被っていたのだから。

彼女ももしかしてこの学校の生徒だった?……いいえ、違うわね。頭の中から記憶を引っ張り出しかけたジョディだったがすぐに否定した。私服でいるからにはその線は無いはず。一般に言って割に規則が厳しい部類に入るこの学校では、在校生は特別な事情が無い限り、校内では制服を正しく着こなさないといけない……授業の一環で学校についてプレゼンテーションをさせた際に、そういったことを聞いているから。

「おーい愛理くーん!来たぞー!」

それで、その発表をした生徒というのが、今まさに、誰かに似た少女の名前を呼びながら駆け寄っていく……。

「真純ちゃんこっちこっち!」

声のしてくる方向を見れば、ジョディの10数メートルくらい前方から黒髪――ここの生徒はダブルやクオーターも少なくないが、やはり大半が黒髪だけれど――で切れ長の目の生徒が小走りでやって来た。

件の2人は話に花を咲かせ始めていたので視線に気付いていなかったようだが、ジョディは再び歩き出し、すれ違いざまにもう一人の少女の顔を見ていた。あの子は確か、アトラ・アイリといったかしら……。

ただ、名前と顔をすぐに一致させたとはいえ、ジョディは特別この生徒に注目しているわけではない。授業態度があまりに悪ければそうせざるを得なかっただろうが、普通も普通だ。なのに何故週に一度、50分の授業で顔を合わせるだけの、とりたてて目立つところなど無い教え子の名をすぐに思い出せたのか。それは文化祭前最後の英会話の授業で、最後に指名したのがアイリだったから、まだ記憶に残っていたという、ただそれだけのことだった――少なくとも、その時までは。



総合学園である聖マドレーヌ女学園の文化祭は、幼稚園・初等部、中等部・高等部がそれぞれ合同で、そして大学は単独で、いずれも時期をずらして、幼稚園・初等部のみ1日だけだが、中等部以上は計3日間に亘り開催される。

1日目は、在校生以外には非公開となる完全に内輪向けの日。2日目は、ホームカミングデーと学校参観も兼ねて在校生の家族とOGを招く日。そして3日目の今日はオープンスクールを兼ね、在校生やその家族、OGはもちろん、それに加えて一般にも(ただしここでいう一般とは、文字通り誰でも彼でもどなたでも、というわけではない。在校生またはOGの署名入り入場チケットを持つ招待者、姉妹校や系列のインターナショナルスクールの在校生、それから学校見学に訪れた女子とその保護者を指しているが)門戸を開く日だ。

愛理はこのシステムが気に入っていた。同級生とも当然回りたいし、習い事だとかで知り合った他校生も案内したい。1日目は在校生だけなので、遠慮が要らない分大いに盛り上がれる。2日目は友人達は家族をゆっくり案内できるし、愛理自身は部活の出し物の当番を必ず1人1日務めなくてはいけないのでそれに専念できる。

そして3日目の今日は、友人達とは完全に別行動の予定だった。文乃と睦美はボーイフレンドを、卯芽華とカンナは仲良しの他校生を招いているから。なので愛理も友人達との兼ね合いを気にすることなく、招待者を案内できるわけだ。

「来てくれてありがとね、真純ちゃん」

ジョディがすぐそばを通り過ぎていったのとほぼ同じ頃。声を張り上げなくても十分互いの声が耳に入る距離まで近づいたところで、愛理はお礼を言った。園子と蘭にも声を掛けてはいたが、園子は元々ボーイフレンドである京極真が武者修行から一時帰国する予定だったので出迎えに行くことになっていたし、蘭は一昨日小五郎に依頼が入りコナンと共にそちらへ付いて行くことになった……という次第で真純だけが来たのだ。

「こっちこそ招待サンキューな愛理君!よその学校の文化祭ってなかなか見られるもんじゃないしさ、どんなだろって楽しみにしてたんだ。それにこの学校の名前にも親近感沸いてたし」
「親近感?なんで?」
「ボクのママの名前もメアリーっていうんだ。マドレーヌってマグダラのマリアのフランス語読みだけど、英語ならメアリー・マグダレンだしな」
「さすが!真純ちゃんといい透さんといい、探偵さんってやっぱり皆物知りなんだねー」
「いやぁ照れるぜー」

透と交際を始めたことは、既に真純達にも明かしてある。透さんもそうだったけど、校名の由来になった聖女の名前の各国語での読み方が、在校生じゃないのにこんなにスラスラ出てくるなんてすごい。愛理は身近にいる探偵達の博識ぶりに感心しきりだった。合気道の道場に新しく入った時、他の門下生の前で自己紹介をした際に学校の名前も言ったけれど、後で「マドレーヌってことはお菓子作りの学校行ってんの?」なんて訊かれたのに。

「お母さんがメアリーって名前っていうことは、じゃあ真純ちゃんってダブルかクオーターだったんだ?目が緑色なのもお母さん似?綺麗だなあってずっと思ってたの」
「そういうこと。あと残念だけど、褒めたって修学旅行の土産以外なーんも出ないぞ?」
「えー残念……なんて。それはそうと、事件が起きたとかで大変だったってね。工藤新一君が戻って来たとか色々聞いたけど」

校則に従ってSNSを使っていない愛理は、真純達が修学旅行先の京都で遭遇した事件について、リアルタイムではなく後からニュースや噂話で知ったのだった。

「そうなんだよ、色んなことあってさ。ま、ボクと工藤新一がいたんでソッコー解決したけどな」
「とにかく無事に帰って来てくれて何より」
「へへ、ボクがいなくて寂しかったか?」
「とーっても!私も着いて行きたかったー!」
「ボクも連れて行きたかったー!」

愛理と真純はそんなやり取りのあと顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。

一目惚れをしてアタックしたら、実は同性だった――真純、それから今日ここにはいないが蘭と園子。彼女らとはそんな思いがけないきっかけで知り合ったが、ふたを開けてみれば中でも真純とは割とウマが合ったのだ。少し前には、今までに読んだ『闇の男爵』シリーズではどの作品のどこがお気に入りか、ということについてRineで意見を戦わせもした(ちなみに愛理はその時『探偵左文字』シリーズを読んだことはあるか、どうだったかとも訊いたのだが“新名香保里のやつは『悪魔の証言』しか読んでないけどつまんなかったよ。それにあの笑える探偵のことはタイトル以外何も知らないな!”と返され、愛理は「笑える探偵って……」と少しばかりムッとしたのだったが)。

とはいえ、今はその話を蒸し返す時ではないので黙っておくことにして。真純とふざけ合いながら同時に、愛理の頭の中にとある失敗が過ぎった――透に、友達のことを訊いた日のことを。


この間、短い時間だけれど一緒に部屋で過ごした時。友人達と一緒に写った体育祭の写真を透に見せたら。

「ハチマキ、赤色なんだね……」

彼は目にするなり一言ボソリとそう呟いて、怖い顔になってしまった。透にしてみれば、恋人の美しい黒髪にあの忌々しい色をしたものが触れているのが耐えられなかったのだ。

だが、そんな内心を知る由もない愛理は思った。せっかく見せたのに、そんな表情しなくたって。透が写真の感想を述べてくれないばかりか、ハチマキの色などという、彼女にとっては些細な点にだけ意識を向けていることが少し不満だった。

ちらりと恋人の横顔を見遣り、愛理は考える。こうなったのは何か考えているときの表情だ。そして、透が赤色を何故だかとても嫌っていることも愛理はもう知っている。彼女はこの色が割と好きだ。だが、透は赤い色のものを自分だけでなく他人が身に着けるのも受け入れがたいらしく、押し隠してはいるのかもしれないが、はた目にも判るほど機嫌を損ねてしまう。理由はなんとなく訊けずにいるので、まだ知らないけれど。

愛理は透のそういう点に少しモヤモヤしつつ「学年色でこの色って決まってるからしょうがないんです」と答えてしまったあと、話題と雰囲気を変えたくてこう訊ねたのだ。

「ねえ、透さんのお友達ってどんなひとたちですか?写真あったら見てみたいです」

父を亡くしている分、全ての家族が必ずしも欠けることなく揃っているわけではないことを愛理はよく知っていた。「お父さんはどうしたの」と、ごく当たり前に訊かれ、既に亡くなっていると答える辛さも解っていた。だから、相手の家族のことについては、よほど仲良くなるまで、あるいは相手が自分から話し出すまで訊かないでおこうと決めていた。ただ、友達についてなら大丈夫だろうと思っていたのだ。

するとどうだろう。透の顔からはたちまち不機嫌さが消え、しかし代わりに寂しさが浮かんできたではないか。そして、思いもよらない変化に愛理が驚いているうちに続けてこうも言った。

「実は、写真はここに引っ越してくる時にごたごたがあったせいでみんなどこかへ行ってしまって、もう残っていないんだ」
「じゃ、じゃあ、また会って撮ればいいんじゃないですか?データ送ってもらうとかして」
「……それが、あいつら仕事の関係でみんな離れ離れになって遠くに行って、しばらく会えなさそうなんだ。連絡ももう途絶えてしまって」

紡ぐ言葉には「大人には大人の事情があるんだ、こんなことも解らないなんてやっぱり子供だな」と言いたそうな響きはない。だが、透の顔はとても寂しそうで……それだけでなく、悲しそうだった。

もしかしたら訊かないほうが良かった?愛理は焦った。彼女の感覚からしてみれば、友達はいつでもすぐそこにいるし、ちょっと声を掛ければすぐ集まれる、そういうものだったから。思えばそれが、初めて透との感覚の違いを強く意識した瞬間だったかもしれない。

だがそれ以上に引っ掛かるのが「遠くへ行った」という表現。愛理には聞き覚えがある。ママが、パパが亡くなった時小さかった私に言ったことそっくり――もしかして。

ただ、せっかく好きな人と一緒に過ごせる時間なのに、彼に辛いことを思い出させたままというのは嫌だった。そこで、何とか励まそうとこんな言葉も掛けたのだ。

「写真が無いのは残念だけど、きっと透さんのお友達ってみんな素敵なひとたちなんだろうなあ。だって透さんも素敵だもん!また逢えるといいですね」と。そうしたら透はやっと笑顔に戻ってくれて「ありがとう、愛理さんがそう言ってくれて嬉しいな。あいつらもきっと喜ぶよ」と答えてくれたのだ。

けれど、横顔に翳る寂しさはまだ消えていなかったし、それどころかむしろ色濃くなっているように見えた。それを見て愛理は密かに誓った。今度は、透さんが言い出すまで訊くのやめよう……そしてそれきり、そういう話題を出すのはやめていた。


「女子校って文化祭の時とかの力仕事どうしてるんだ?共学なら男子にやらせりゃいいけどさ、男の先生に頼むのか?」
「すごく重くて危ないものならお願いすることもあるけどね、でも基本みんなで力合わせてやっちゃうな。女子校育ちはこう見えて結構たくましいんだから」

愛理は回想をしつつ真純と喋りつつ、ようやく正門まであと十数メートルのところまで来た。何せこの学校は広いのだ、とても。

道すがら、顔を赤らめて真純を目で追う在校生が何人もいた。おそらく彼女たちは、以前の愛理がしたような“勘違い”をしているのだろう。真純は注がれる視線に気が付くと、気さくにそちらの方へニカッと笑いかけつつ(生徒からきゃあと歓声が上がった)、目をキラキラさせながら左右を見回しつつ「幼稚園から高校まで一か所にあるって聞いたけどやっぱだだっ広いなー!東京にこれだけでかい学校があったなんておったまげだよ」だとか「マリア像があるってのがこれぞクリスチャンスクールって感じだな!」だとか、感想を思いつくまま述べている。アメリカの学校の方がもっと広そうなイメージだな、と愛理は思ったが、いつも見慣れた学校の風景も、そう言われると新鮮に感じられるのだから不思議だ。

そうこうしているうちに、2人はようやく高等部の正門を潜った。真純は帝丹高校の生徒証を取り出し、愛理に渡された招待者用入場チケットと共に提示して受付を通る。そのあと、交付されたビジターバッジを付けるよりも先に、提げていたバッグを何やらゴソゴソとやりだした。

「今時『ごきげんよう』なんて言う学校あるんだなー……そうだ、工藤新一絡みの土産話は先生に口外するなって止められてるんであんましできないけどさ、約束通りほらこれ。蘭君と園子君とボクからな!」
「やった!ごちそうさま。私も来年になっちゃうけど絶対お返しするね」

お土産のリクエストはあるかと訊かれ、千枚漬けを頼んでおいたのだ。愛理はお礼を言ってサブバッグにしまった。

「愛理君って渋いの好きなんだな。そのピクルスみたいなやつ旨いのか?」
「結構いけるよ。これがあればご飯3杯は軽いって感じ」
「へー……そっちは修学旅行どこ行くんだ?帝丹と同じで京都?それとも毎年違うとか」
「ううん、京都はもう中等部の時行ったの。高等部は毎年恒例でイタリアとフランス」

真純はその答えにヒューッと口笛を吹いた。

「おじょーさま学校は豪勢だなあ」
「ああほら、うちの学校ってフランスの修道会が創ったから。その関係でフランスとかあとはバチカンとか、初等部なら長崎って感じでカトリックに関わりがあるとこ行くってだけ。豪勢にしようとかいうわけじゃ……あっ」

すると、そこにスマホの振動が。電話だ。普段なら校内で使うのは禁止されていて、電源を切って預けなくてはならない。もしルールを破ったのを見つかれば、卒業式の日までスマホ没収の上、1カ月間部活動参加禁止。極めつけに放課後はお御堂の反省室で、一番小うるさくて嫌われているシスター監視の下書き取りを課されるという、まさしく三重苦を受ける羽目になってしまう。ただし父兄の要望を受け、文化祭の間だけは特例として待ち合わせなどの連絡に使って構わないということになっていた。

「ごめんね、ちょっと電話来たから出てる」
「ああ」

真純に断りを入れ、愛理は急いでサブバッグからスマホを取り出す。このバイブレーション、ママからだ。でもなんで電話?いつもRineで済ませてほとんど使わないのに。掛けてくるのは、今すぐやり取りが必要な急ぎの用件か……あとは、何かあった時だけ、そういう取り決めをしているから。愛理は胸騒ぎを覚えながら通話ボタンを押しつつ首を捻った。

「もしもしママ、どうしたのっ」

母は自他共に認める出不精だ。基本アトリエに引きこもって製作に没頭しているし、亡き夫の月命日参りや愛理の学校行事や個展など、のっぴきならない用事以外の滅多な理由では出かけようとはせず、外商や美容師など家に呼んで済ませてしまう。毎年文化祭には必ず訪れるとはいえ、中等部に入ってから愛理とは別行動を取るようになっているのに。母もこの学園に幼稚園から大学まで通ったいわば純粋培養のOGなので、校内の様子は勝手知ったるものだから、迷って助けを求めてきたとも考えにくい……はてなマークを頭の上に浮かべていると。

“ああ愛理、今からサプライズゲストを連れてくるから、ちょっと高等部の校舎玄関の方に出てらっしゃい。そこで合流しましょ”
「何ママ、どういうこと?今ちょうどそこにいるから合流はすぐできるけどゲストって誰なの?それに他校の友達呼んだって言ったでしょ、その子案内するつもりだったんだけど……」
“あ、そうだったわね。でも1人増える程度なら良いじゃない、今ゲストと代わるから”
「ちょ、ちょっとママってばぁ」

開口一番いきなりそう言われ、愛理は疑問を浮かんでくる端から矢継ぎ早にぶつけた。しかし電話口の母の声は答えらしい答えなど何も返さないまま遠ざかる。何かあったわけではなさそうなのは良いとして、ゲストって誰なのか訊こうとしたんだけど……愛理が少し憤っていると。

“僕です、こんにちは愛理さん”
「と、透さん?!」

大好きな人の声がしてきて声が弾まないわけがない。愛理は驚きと嬉しさとが混じり合った声で恋人の名前を呼んだ(一方真純は思い切り顔を顰めていた)が、そこでふと思い出すことがあった。

「あの、なんでママと一緒に?それに今日まで探偵のお仕事だったんじゃないんですか」

残念ながら今日くらいまで、探偵の仕事でお客さんと打ち合わせをするので行けないということや、彼が朝早くにハロの散歩を済ませ、一旦帰宅したあとまた出かけていく足音も聞いていた。来年こそは来てくれたらいいなと思っていただけに、嬉しいと言えば嬉しい。けれど、予定はどうしたのだろう。

“実はお客さんの都合で、また後日に延期させてほしいって言われたんだ。それで家に帰って来たら、これから学園祭に向かおうとされていたお母さんと玄関先でお会いしてね。時間ができたならいらっしゃらないかとお誘いいただいたから、お礼に僕の車で学校までお送りした……っていうわけさ。お家の運転手さんが休みで、タクシーを使うつもりだったそうだから”

本来なら今日、透は予定されていた通り、愛理には探偵の仕事と告げて組織の任務に当たるはずだった。だが、ベルモットとの待ち合わせ場所に向け出発した直後、ラムから「ターゲットを更に泳がせる必要が生じた、本日は中止せよ。後日追って新たなプランを伝える」とのメールが来たので予定が空いた……というのが本当のところだったけれど、おくびにも出さずにそう答えた。思いがけず降って湧いた休暇に、恋人の学校生活の一端を垣間見る機会に恵まれたのだから乗らないはずがない。

それに……愛理の弾んだ声を受話器越しではなく、早く直に会って聞きたいものだなと思いながら通話をしつつ、透は先ほど駐車場で見たプジョー・607とそのドライバーを思い浮かべた。彼女が今も日本に滞在中だということや、この聖マドレーヌ女学園に勤め始めたのは秘密裡に調べてあり把握済みだ。全く、性懲りもなくまだ僕の日本に居座る気か。どうにかうまく英語教師の皮を被ったFBI捜査官の居場所を探し当て、もちろん愛理の見ていないところで、この国から出て行っていただきたいとまた伝えようという心づもりもあったのだ。

「ちょっと待ってください透さん……あのー真純ちゃん、これから透さんも来るって言ってるんだけど良い?」
「まあ……別に構わないけど」
「ありがと!」

彼氏が予定を変更して来るからといって、まさかこちらが招待した友達を追い返すなんてできるわけがない。お伺いを立てたところ真純はすんなり承諾してくれたので、愛理はホッとして通話を続けた。

だが一方、真純は口をムッとへの字に曲げていた。なんだ、安室さん来るのかよ……と思いながら。

友人の手前構わないと答えはしたが、真純の本心は逆だった。貸しスタジオでの事件が起こる直前「どこかで会った事ないか?」と訊ねたらはぐらかされたが、あれ以来どうも安室透のことは胡散臭く感じられてならない。前に日本の駅で、兄と、それからベースを教えてくれたスコッチとか呼ばれていた人と一緒にいた人で間違いないはずだ、なのに何故否定するのだろう、と。それに、いよいよこれから女同士で楽しもうとしていたところだったのに。工藤新一絡みの話はできなくとも、事件の際に出遭った、上品だが変わり者――何せ本物のシマリスを現場に連れて来ていたのだからそう思うのは当然だろう――の警部の話だとか、積もる土産話がまだまだあるのに。いくら面識があるとはいっても、友達のいけ好かない彼氏に水を差されるのかと思うと嫌だったのだ。

「じゃあママに案内してもらって、高等部の校舎玄関の辺りで待ち合わせですね。それと、今日は真純ちゃんも来てくれてるんですよー」
“へぇー……そうなんだね”

余計な邪魔が入った……しかも、また彼女とは。つくづく嫌な兄妹だ。透が舌打ちしないように気を付けてそう応えたところで、愛理と真純、そして透と愛理の母はそれぞれの姿を視界に捉え通話を切った。

愛理の母は校舎を指し示しながら二言三言透に何やら告げ、入場チケットらしき紙きれを渡している。そしてそのあと、ちょっと笑いながら娘に目配せし「ごゆっくり」と口パクで言ってきたので、愛理も同じように口の動きだけで「ありがと」と返せば母は踵を返し去って行った。きっと例年通り校内を同窓生と見て回ったあと、少し離れたホテルのバンケットルームで開かれるOG会に向かうのだろう。

母の後ろ姿を見送ったあと、愛理は透に視線を移した。段々と歩み寄って来る彼の出で立ちは、スーツは挨拶の日に着ていたものと同じだが、ネクタイは青と白のレジメンタルだ。透が軽く手を上げにこやかに笑いかけてきて、愛理の頬はほんのり上気したが、真純はその横でジトッとした目で彼を見返してやった。

「ね、見てあの金髪の人!すごくかっこよくない!?」
「うんほんと、芸能人みたい!でも私跡良さんと一緒にいる黒髪の男の子のほうがタイプだなー」
「どなたかの御兄弟かしら。素敵ねえ」

やはりそこは思春期の生徒たちが、見目の麗しい透と真純を見て囁き交わす。生徒の母親だろう女性達も、ポッと頬を染めながら透の方を見つめている(もっとも、そうしている女性陣の横では、彼女たちの父にして夫でもあるだろう男性達が複雑そうな表情を浮かべていたが)。

「……どーも」
「どうも。こんにちは」

かくして、合流した透と真純はおざなりなことこの上ない挨拶を交わしてから、愛理に校内を案内してもらったのだが。

「L組とかT組とか表示あるけど、つまり26組もクラスあるってことか?」
「A組からZ組まであるからL組やT組もあるってわけじゃないの。うちの学校ってクラス名が地中海の海域から取られてるんだけど、アドリア、イオニア、エーゲ、ティレニア、リグリアって組み分けで、ちなみに私は2年リグリア組だからL組ね。その略語でLとかTとか言ってるんだけど、アド組とかティレ組とか呼ぶ子もいるよ」
「ふーん、帝丹じゃクラスの名前普通にABCだよ!変わってるなー」
「ユニークですよね。まあ僕はもう教えてもらってましたけど、僕は」
「……だから何だよ。アンタ、さっきからいちいちカンに障るんだけど」
「これは失礼」

真純はムッとして睨んだが、透は嫌味なほどの爽やかな笑顔で受け流す。愛理はそんな彼らを傍で見ていてハラハラしどおしだった。どうしちゃったんだろう、2人とも……苦手な同級生から「あれ跡良さんの彼氏!?まさか二股かけてるの!?」などと大騒ぎされながら追及されたのをどうにか撒いて、ようやくゆっくり案内できるようになったところだ。なのに彼らの雰囲気は何とも険悪だった。透が大人げなく、真純も言うようにカンに障る物言いをするせいだ。彼女は透を睨むように見ているし、彼もいつもの人懐っこい笑みはどこへやら、横顔にどこか冷たいものを浮かべて対峙しているし。

せっかく来てくれたのに。友人と彼氏の仲が、同じ探偵という立場なのにどうして良くなさそうなのか……察知した愛理は悲しそうにうなだれた。

「透さんと真純ちゃん、ひょっとして仲良くないの……?なんだか見てると辛いな」

かたや友人に、かたや恋人に、そんな表情をさせたくてここにいるのではないからには。

――休戦協定といこうぜ。
――君に言われずとも。

探偵たちは目配せし合い、瞬時に相手の言わんとするところを察し、お互い素早く視線を外して愛理に向き直る。

「ほら、言うでしょ?喧嘩する程仲がいいってね。それだよ」
「そうそう、安室さんの言う通り」
「なんだあ、そういうことだったの」

咄嗟に機転を利かせた透に、思ってもないことながら真純は調子を合わせる。愛理は胸を撫で下ろして、パンフレットをめくりながら次にどこへ連れて行こうか考える。

「次はどこがいいかなあ……そうだ、うちの文化祭ってクラス単位じゃなくて部活単位で企画やるんです。それで私が入ってる茶道部はお抹茶オレスタンド出してるんです、その場でお茶を点てて牛乳とか豆乳とか入れるの。行ってみます?」
「何だそれ美味そう!」
「ええ、是非」

真純と透がそう答えるタイミングが見事に被って、愛理は小さく吹き出したのだった。



数時間後、その日の夜。

“ホー……教え子が安室君と?”
「そうなの。今度は何を企んでるんだか」

車を発進させた後、ジョディは人気の無いところまで来るが早いか愛車を停め、安室透と親密そうな女生徒の存在について情報を共有するべく、とある相手に電話を掛けていた。

数時間前の聖マドレーヌ女学園高等部の校舎、スピーチコンテストの開催される小講堂のある最上階に登った直後だった。ふと、黒髪の群れの中に浮かぶ金髪が目に止まって窓の外から玄関を見下ろした時、ジョディは大いに驚いた。

どうしてバーボン……安室透が、ここにいるの?そして、あの生徒、アトラ・アイリは何故彼と親しそうなの?安室透ほどの捜査官なら、注がれる視線にはすぐに気が付くはず。この校舎内にいると彼に知られ、友人の渋谷夏子が巻き込まれた事件の時のように「とっとと出て行って」云々とネチネチ絡まれてはたまらない。だから柱の陰に素早く身を隠し、コンテストが始まる前にその場でビュロウ――アメリカ本国のFBI本部にとある依頼をしたのだ。結局、幸い安室透には鉢合わせせずに済んだけれど。

「今の勤め先は、日本政財界の大物や高級官僚の娘も多く通っている学校だし……今日一緒にいた生徒もそういう家の娘かどうかまではまだ判らないけど、安室透は彼女を利用して、組織に有利になる情報を引き出す目的かしら」
“その可能性は否定しきれんな”

電話を受けた男がいるのは、米花町二丁目の工藤邸。邸に面した車道から、FD特有のエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえてくる。彼はジョディとやり取りを続けながら、掛けていたソファから立ち上がって窓辺に寄った。多少離れてはいるが、その長い脚をもってすれば数歩の距離だ。そして、既に閉めてあるカーテンの裾を少しだけめくりながら。

“連中は未成年であろうが、有用だと判断すれば何の躊躇も無くポーンに仕立て上げる……”

僅かな隙間から、まず隣の阿笠邸を見やってそこにいる“ポーン”を思い浮かべ、それから周辺の道路の様子を窺う。走り去るRX-7が夜の帳の中に溶けていくのが見え、相変わらず御執心だな、と心の中で見送りの言葉を掛けてからカーテンを元通りにした。

彼はジョディから以前聞いていたが、彼女が次の赴任先に聖マドレーヌ女学園を選んだのは、何もただ募集していたからとかいう理由でも、就労ビザ取得のための口実づくりを目的にしているからでもない。思春期の少女というのは得てしてお喋りなもの。親達が後ろ暗いことをしているのをその娘達がどの程度知っているかはさておき、何気なく漏らした会話の中からでも、今追っている密輸組織や、ひいてはその組織を傘下に持つ黒の組織について、どれほど小さくてもヒントを掴めるかもしれないからだ。

「ビュロウのサイバーチームに、聖マドレーヌのPCから例の生徒についてのパーソナルデータをハッキングして私達に送ってほしいと依頼しておいたの。私は非常勤講師扱いで、パーソナルデータの入ったPCの置いてある部屋へは立ち入り禁止だから。それで今さっき突破できたって連絡があって、ジェイムズやキャメルにもデータが行っているはずだわ。シュウも目を通しておいてくれる?」
“ああ”

噂をすれば影、ではなくメールだ。シュウと呼ばれた彼がPCデスクの前に戻った途端“You got a mail”との音声が流れポップアップが出た。メール機能を起ち上げ、添付ファイルを開けば。

“届いたぞ……ム!”
「何か思い当たったの?」

電話越しに微かながらも聞こえた息遣いは、彼が何かに気が付いた際に漏らす時のそれだった――ジョディには解るのだ、腐っても元恋人同士なのだから。

“彼女……アトラ・アイリというのか。この邸を見に来ていたことが何度かあるぞ”
「それならやっぱり組織の連中に使われてるんじゃ……!?安室透がまだちょくちょく監視に来てるって話してたじゃない。自分の代わりに寄越したのかもしれないわ」
“フ、仕事熱心になったなジョディ。教え子をそこまで心配するとはすっかり教師が板に付いているじゃないか。ビュロウの人遣いの荒さをぼやいていた頃とは見違えるようだ”
「シュウに褒められるなんて何年ぶりかしらね」

揶揄うような物言いに、恋人時代のやり取りが過る。ジョディはくすぐったさを覚えながら応えたあと、それでもすぐに元の口調に戻って。

「確かにあの子は、受け持ちの1人に過ぎなかったわ。でも黒ずくめの組織に利用されているかもしれないとなれば話は別よ。奴らに関わったり、使われたりした人達の末路……」

ジョディはそこで言葉を切ったが「知ってるでしょう、シュウなら」――無言のうちにそう言いたいのだろうと読み取った男は「解るさ」と心の中で返す。

「そうなる可能性を考えておきながら、見過ごすほど無関心にもなれないわ。現に私は、家族を連中に奪われているんだから……そうだわシュウ、もう一つ」
“何だ”
「安室透と親しそうな例の生徒の他にもう1人、彼と一緒に歩いていた子が居たの。アトラ・アイリにはマスミと呼ばれてたわ」
“ホー……?”

男は聞き覚えのある名前にまた驚くとともに、今度は目を見開いた。彼の鮮やかなグリーンの目が見開かれ、工藤邸の窓ガラスに反射して映る。

「ただ、アトラ・アイリとは違って、そのマスミって子は一緒にいた割に安室透とは親しくなさそうだったの。それに聖マドレーヌの生徒でもないわね。制服を着ていなかったし、PCにもデータが無かったそうだもの。もしかしたらコードネームを持っていない組織の構成員って可能性もあるし、私もキャメルが撮ったその子の画像を……」

だが、「持ってるから送るわ」と続けようとしたジョディを遮って、男は訊いてきた。

“そのマスミというのは、髪はブラックで瞳はグリーン、目の下にクマがなかったか?それから八重歯が生えていたか?”
「確かにその通りだけど、な……なんで解るのよ!?あんたもしかしてサイキックだったの?」
「まさか。ただ多少心当たりがあるだけだ。ともかくこれだけは断言できるが、少なくともそのマスミという少女については警戒やマークの対象にする必要はない」

これでは推理力ではなくて最早超能力だ。伝えてもいない外見をピタリと言い当ててみせるなんてどうしてできるの、とジョディは訊きたかった。しかも、彼女はマスミが女だと一言も言っていないのに、どうして「少女」だと迷いなく言えたのだろう。

……もしかして。ジョディはある可能性に思い至りハッとした。今しがた電話の相手が述べてみせたマスミの特徴は、彼自身の容姿のそれにひどく似ている……!あの、誰かに似ている娘って……?

一瞬考えかけたが、そこにピー、ピーと音が鳴った。電池残量が5パーセントを切ったと報せるものだ。充電器を置いてきてしまっていたのもあるし、今は問い質すよりも通話を済ませるほうが先だと思い直した。

「そ、そう。ともかく用心してよね。データを見たけど、アトラ・アイリも米花町に住んでるから。それじゃ……Good night」
“Good night”

挨拶を交わして通話を切ったあと、電話口の男――沖矢昴、もとい赤井秀一は寝る前の一服に煙草の火を点けた。煙を燻らせながら、改めて件の少女の顔写真を見つつ呟く。

「何を考えている、安室君」

バーボン。彼は目的のためであれば、取り得るあらゆる手段を何の躊躇も無く使い倒す、そういう男だ。組織に潜入していた頃はスリーマンセルを組まされ間近で目の当たりにしてきた分、その点はよく解っている。だが、いくらなんでも未成年を……秀一はかつて利用していた相手とその妹を脳裏に浮かべ、かぶりを振った。

あの日、工藤邸を熱心に見つめていたアイリにはもちろん気が付いていた。ただあの時の瞳には、探るような何かではなくただ純粋な光が浮かんでいたように見えたが……それに“その手”の人間であれば偵察の際は気配を消すのが鉄則だというのに、まるでそうすることを知らないかのようだった。とはいえ、あれから今に至るまでの間に、闇に魅入られ、染め上げられてしまったのかもしれない。

「……好奇心ならぬ、恋心に殺められそうな罪無き子猫か。それとも、既に従順な使い魔に堕ちた黒猫か?」

表示された少女の顔写真の顎の部分を、秀一は猫を愛撫してやる時のように、左手の人差し指でツッとなぞって。

「さあ、君はそのどちらかな。アイリ」

答えの返らぬ問いかけを、PCのディスプレイ――偶然、工藤優作の蔵書にあるポーの『黒猫』をなんとなく読み返していたところで、そのペーパーバックが横にあった――を見つめて投げた直後。バーボンを注いであったグラスの氷が溶け、カランと微かな音がした。



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