まもるもの


この位置に掛けたのはいつ以来になるだろう。そして、自分で運転しないのも久々だな。

黒いセダンタイプの車の後部座席で、透は車窓からの光景を見ながらそう思っていた。少し前に赤い車が横を抜き去っていき見えなくなったときは、少しばかり眉間に皺を寄せ、無意識のうちにアクセルを踏もうと足を動かしそうになった。他人の車に乗ったくらいで落ち着かなくなるタイプではない。だが、やはりいつも自分でハンドルを握っている分、どうにもその感覚が抜けきらないんだなと一人納得する。

そうしているうちに、車は邸宅が立ち並ぶ閑静な一角へと差し掛かろうとしていた。腕時計を見れば、メゾンモクバを発ち早十数分。少し渋滞に巻き込まれこそしたものの、抜けてからは概ね順調で約束の時間通りに着きそうだ。

「安室様、間もなくご到着でございます」
「はい。ありがとうございます」

ハンドルを握る初老の男性――跡良家付きの運転手の態度は、初対面を果たした少し前よりは幾分柔らかくなっていた。細く入り組んだ道路を進んでいるが、さすがに慣れているようで、彼は見事なハンドルさばきでスイスイ通り抜けながら続けて言う。

「車寄せに停車しましてから、お屋敷の方へご案内いたしますので。今しばらくお待ちを」
「よろしくお願いします」

今日判ったことだが、8月の末に見かけてハイヤーの運転手だと思っていた目の前の男性は、ハイヤー会社だとかの社員ではなかった。

彼はとても寡黙と見え、メゾンモクバに透を迎えに現れてからしばらくの間、喋ったことといえば挨拶と最低限のあれこれのみ。しかし、目はとても雄弁だった。走り出した直後は、何度かチラチラとバックミラー越しに透を見やっていたが、その視線は「愛理お嬢様を誑かす気ではないだろうな」という内心をありありと物語っていた。「お嬢様が選んだ相手でなければ、何か物申してやっているのに」とも。年配で昔気質とみえる彼にしてみれば、透の金髪に浅黒い肌という、派手で軽薄そうな外見が気に入らなかったのだろう。

とはいえ、透はもちろん相手がお喋りではないから、探るような視線を向けられたからといって臆しはしない。むしろ、それくらい友好的ではない相手の方が、却って好い印象を与えやすくてありがたいくらいだ。持ち前の観察力やコミュニケーション能力を発揮し、馴れ馴れしくならないよう、鬱陶しがられないよう頃合いを見計らいつつ話しかければ、そう長くはない時間でも、心を開かせ彼のことを多少掴むことはできる。それが透の仕事で、そして得意とするところだから。

――まず、割と古い車だが整備がしっかりされているので「この車、長い間大切に乗って来られたんでしょうね。お手入れを大事にされてきたものって車に限らず良いなあと思うんです」とジャブを繰り出した。

すると運転手は「私は愛理お嬢様が生まれる前から跡良家に勤めておりましてね、この車もそれくらいの長い付き合いで手入れも手ずからしているんです」と、少し誇らしげに答えてきた。

透はそこから、この老運転手は自分からはさほど話をしないが、水を向けられれば饒舌になるタイプで、かつ仕える家に思い入れが強いようだと推測した。だから続けて「そうなんですか、それじゃあこの車と一緒に愛理さんのこともずっと見守って来られたと」だとか切り出せばあとは簡単、ストレートを決めるまでもなかった。透がそう言い終わっていないうちから運転手は「自分の子供が男ばかり3人なものですから、愛理お嬢様を娘のように思って見守って来たんですよ」とか「体は頑丈な方だと自信があったんですがね、6月まで盲腸のせいでお暇を貰っていまして。奥様やお嬢様にもご不便を掛けてしまいました……」といったことなどをペラペラと話してくれたから。

なるほど、だから愛理は6月に雨宿りをさせたあの日、運転手を呼び出して本宅へ行こうとしなかったわけか……透がそこまで振り返った時、運転手は立派な門構えの和風邸宅の前で一旦停止する。彼はそれからリモコンと思しきものを左手に持ち何やら操作し始めたので、透はその間に目の前の門扉に目をやった。門柱の横に掲げられた【跡良】とある表札は、揮毫されてから長い年月を経ているようだ。だが、これまでずっと磨かれ大事に手入れされてきた、そんな風格を漂わせている。

――いよいよだな。透は再び動き出した車の音に紛らせて少し深めに息を吸う。愛理の母とは隣に住んでいるのだから全くの初対面ではないし、話術にも自信がある。だがそれでも、恋人の親に改めて挨拶をするというのは今までに無かった機会。さしもの透も、未知のことに全く緊張していないと言ったらウソになる。それに、愛理の母親はどこか底知れないものを秘めている気がして……。

もう一度透が息を深めに吸ったのと同時に、窓の外には手入れの行き届いた日本庭園、そして立派な日本家屋が見えてきていた。



その頃愛理は、母と一緒に透の出迎えのため玄関先で彼の到着を待っていた。玄関先には、門扉を開けた時にそれを知らせるセンサーが付いていて先ほど作動したから、彼が来るまでもうあと少しだ。

深呼吸に次ぐ深呼吸、まだ足りないからもう一度……車寄せに今すぐ走って迎えに行きたい。メゾンモクバから透を案内したかったが、愛理は午前中まで文化祭の準備、透はポアロのシフトが入っていたのでかなわなかったのだ。

そわそわする気持ちに体を動かされるまま髪を撫で付けたり、着ているワンピースを――しわが無いかどうかはちゃんと見たけれど――意味もなく伸ばしたりしていると。

「愛理。そう落ち着きが無いと安室さんにがっかりされちゃうわよ?」
「だってー緊張するんだもん彼氏がうちに来るなんて初めてなんだから!ママはしてないかもだけど」
「そりゃあもちろんママだって緊張してるわよ?でも……それ以上に嬉しいような寂しいような気分でもあるのよ、だって」

母はふと、遠くを見つめるような目になって独り言のように呟いた。

「この前までほんの小さかった愛理に、お付き合いする人ができたんだもの……もう、そんな年になったなんて。パパきっと天国で大泣きしてるわね」

父の形見であるペンダントを身に着けているのはいつも通りとして。凛と伸びた背筋、馴染みの美容師を呼んでしっかりと施された化粧とヘアセット、個展だとかで人前に出る機会のような、ここぞという時にしか袖を通さない服。愛理は母の出で立ちを見て、アトリエから出てきた直後とは正反対だと思った。創作にすさまじいエネルギーを使うせいなのだろうか、怒られるのを恐れずに言えば、そういう時の母はエネルギーを使い果たす寸前のような状態になるのに。

すると、そう思ったところにチャイムが鳴り響き。

「どうぞ、お入りくださいませ」

愛理は小さく吹き出した。箸が転んでもおかしい年ごろだからというのもあるのかもしれないけれど、先ほどまでの娘と話していた時のトーンとは打って変わって、途端に取り澄ました余所行きの声を作り来客に応える母が、可笑しくてたまらなかったものだから。



玄関先で簡単な挨拶を交わしてから、透は跡良母娘に伴われ廊下を進む。美しく磨き上げられた、長い廊下だった。

右へ曲がり、奥へ進んで、次は……透は目線だけを動かし、おおよその敷地面積を予測して、本庁と警視庁を合わせた敷地の数倍になるかもな、と見当を付けた。同時にこれも職業柄、初めて訪れる場所のどこにどんなものがあるだとかいったことを頭に叩き込んでおきながら、愛理から聞かされていたことを振り返る。

跡良母娘は現在メゾンモクバで暮らしているが、この邸は全くの無人ではない。家付きの庭師、運転手、料理人、家政婦達が交代で住み込む形で留守を預かっているという。本宅に置いてあるものが必要になったときや、逆に本宅へ持って行ってほしいものがある際は、自ら出向くのではなく先ほどの運転手が週に一度行き来して受け渡しに来るらしい。

そうだ、雨宿りをさせた日に「ペットかどうかは微妙ですけど」と愛理が言っていたが……あれか、と思うと同時に、彼女が透の方を振り向いて言った。

「見て透さん、あれが私が小っちゃかったころに落っこちた池ですよ」
「鯉に突っつかれてくすぐったかったって話してたあれかな?」
「そうそう」

愛理が指す方向を見ると確かに池があって、丸々とした鯉が何匹かゆったりと泳いでいた。黒色、金色、紅白模様。愛理は「友達は小さい頃みんな家のお庭の噴水かプールで溺れたけど、私の場合は鯉に餌あげるのに夢中になってたらお池にはまってさあ大変だった、ってわけです。庭師さんがすぐ気が付いてくれたから助かったんですけど、ママは生きた心地がしなくていっそ池を埋め立てようかと思ったって。私が鯉さんがかわいそうって泣くから止めたみたいだけど正直あんまり覚えてないかな」なんて話していたっけ……ともかくなるほど、愛理はこういうところで愛情を注がれて育ってきたんだな。透は彼女のルーツを垣間見て少し嬉しくなった。

そしてようやく応接間に辿り着き、跡良母娘と対面する位置の座布団を勧められてから、透は改めて挨拶を述べた。

「愛理さんとお付き合いをさせていただいております、安室透と申します。本日はお忙しい中、ご挨拶の機会をいただき誠にありがとうございます。こちらをお持ちしましたので、よろしければお召し上がりください」

グレーのスーツをパリッと着こなし、とても綺麗な礼のあと姿勢を正す。しかも手土産の袋を差し出す仕草までもが画になってしまうひとなんてそうそういないはず。その姿が本当に格好よくて、愛理はこのままずっと見とれていたかった。

「跡良愛理の母でございます。こちらこそ本日は、拙宅まで御足労いただきましたばかりか、お土産まで頂戴しまして誠にありがとうございます」

母がそう応えると、応接間の横に設けられた給湯室で待機していた家政婦がお茶を持って来た。母と透はそれを飲みつつ「お噂は娘からかねがね」とか「愛理さんの心ばせの美しさに強く惹かれまして」とか、和やかに話を始めた。顔を合わせるのが初めてではない分、世間話の延長のようで堅苦しい雰囲気ではなかった。

そんな2人をよそに、愛理は目の前の透に釘付けになりながら半分上の空だった。彼が真面目に自分と向き合ってくれていることが嬉しくてたまらなくて「お母さんに挨拶に伺いたいんだ」と頼んできた時の言葉を思い返す。

「僕は、これからもずっと愛理さんと居たいと思っているんだ。だからこそ、最初の一歩はちゃんとしておきたくて」
「嬉しいけどでも大袈裟じゃないですか?なんだか照れちゃうっていうか。ママとは仲いいから反対されるとは思えないし、お隣に住んでるんだから安室さんがどんな人かっていうの、もう解ってくれてるはず」

だが愛理がそんなことを話すと、透は首を横に振りこう言ったのだ。

「改まった場が照れくさいのは解るよ。それでも、僕はお隣さんとしても、愛理さんの恋人としても、そして社会人としても、機会をいただいてちゃんと親御さんにご挨拶をしておく必要があるんだ。どうしてかというと、まず僕は大人で愛理さんは未成年だから。そして愛理さんは誰かと付き合うのも初めて……っていうことで良かったかな?」
「はい!もちろんっ」

強調するかのように首を勢いよく縦に振る愛理の様子に、透は笑みを零して続ける。

「しかも、愛理さんは僕と10歳以上歳が離れている。それくらいの差があると、親御さんはなおのこと心配されるはずだよ。まだ判断能力が十分に無いことにつけこんで、大事な娘を弄ぶ気じゃないかって」
「でも、あむ……」

「安室さんはそんなことしない」と愛理は言いかけた。すると、これまでの癖で透を苗字で呼びそうになったところで、彼は少しばかり不満げに頬を膨らせたではないか。愛理は時折、自分と透の年齢差を忘れそうになる時があるけれど、その理由は彼が童顔だからというだけではなく、こういう仕草――しかも似合ってしまうのだからすごい――をすることにもあると思うのだ。可愛いとつい言ってしまいそうになる寸前で、多分男の人は喜ばないだろうなという気がしたので引っ込めておくことにした。

「また苗字で呼びそうになった。名前で呼んで欲しいのに」
「ご、ごめんなさい」
「怒ってるわけじゃないんだ。でもね」

首をすくめた恋人の頬をそっと撫でて、透は訊ねた。

「名前を呼び合わないカップルが、半年以内に別れてしまう確率……これって何%だと思う?」
「40%くらい?」
「正解はその倍の80%以上。そんな調査結果もあるくらいなんだ。僕はそうなりたくないから愛理さんには名前を呼んで欲しいんだけどなあ。折角だしちょっと言ってみようか、怖くないよ?透さん、って」
「っと、透さんはそういう弄ぶみたいなことしないでしょ?」
「よくできました……それはもちろんさ。大事な愛理さんとは遊びじゃなくて、真面目にお付き合いしますよ、って。お母さんにお目にかかって、直接そう伝えて安心していただきたいんだ。ましてお母さんと愛理さんはたった2人の家族でしょ。僕との関係をちゃんと話さなかったことが原因で、仲がギクシャクしてしまうなんて申し訳ないから」

――と、そこまで振り返ったところで。

「愛理?……愛理!聞いてるの?」
「え?」

横からしてくる声にハッと我に返ると、母が少し眉を吊り上げて見てきているところだった。

「全くこの子ったら……安室さん、本当によろしいんですか?ご覧の通りぼんやりした娘でして。お恥ずかしい限りですわ」
「ママったらひどくない!?」
「僕は愛理さんのそういうところも可愛らしくて好きですから」
「ふふ、ごちそうさま。よかったわね愛理。それはそうとほら、お付き合いをしていくにあたっての決まりを書いたんでしょ?用意して」
「はーい」

母に促され、愛理は横に予め用意しておいたノートを机の上に開き、透が読める向きに置いた。

「それじゃ、まず門限ですが。愛理の高校卒業までの間は夜の6時です。これを必ず守ること」
「わかりました」
「うん!」

今日の席が設けられた目的は挨拶のためだけではない。透が愛理を通して打診したところ、彼女の母は都合の付く日時を伝えてくるとともに「お付き合いをしていくにあたって、しっかりとルールを決めておく必要があります」とも言ってきたし透も同意見だった。それを受け、愛理は母と透それぞれと事前に話し合いをしていた。そしてこの場で確認し合うとともに細かい調整をして、最終的に合意を得ようということになっていたのだ。

「次にデートについて。どこかへ出かける時は、必ず行先と帰る時間を私に教えてくださいね。その際に必要なお小遣いは都度渡しますから、愛理は安室さんにおねだりせず自分の分はちゃんとそこから出すこと。どこかの入場券とかカフェのお代とかそういうのね。安室さん、愛理には自分のお財布から出させますのでどうぞお気遣いなく。それと、お金の貸し借りはトラブルのもとですから、本当にやむを得ない場合以外はいけません。そうした場合はすぐに私に報告して精算すること」
「うん」
「はい」

透はここでは愛理の母を立てておくことにして同意してみせた。もちろんデート代ぐらい喜んで出すつもりだし、それしきで財布が痛むわけがないが、保護責任者である彼女の方針に口を挟むのは良くないと考えたのだ。

「それから、お部屋で会うとき。お互いの部屋を行き来するにあたっては条件があります。愛理の部屋にお招きするにせよ、安室さんのお部屋に伺うにせよ、そうして良いのは私が部屋にいる日だけ。そして、お外にデートに行くときと同じように必ず前もって知らせること。門限を過ぎたら、お隣同士で近いからといってもお互いの部屋の行き来は禁止です。それからRineでの連絡は……わりに不規則なお仕事みたいですけれど、何時ごろまででしたら安室さんのご迷惑にならなさそうでしょう?」
「では愛理さんの学校や僕の仕事のことも考えまして、夜8時までということでお願いしたいと思います」

29歳と17歳の恋人同士が、同じ部屋で過ごす――その間に(もちろん透は、愛理の成人までそんなことをするつもりなど毛頭無いが)過ちなど何も起きないだろうと捉えるほど、愛理の母は能天気ではないらしかった。その際の条件として「自分が部屋にいる間だけ」などとあれこれ言い渡したのは、そうすることで抑止力にしたいからだろう……透は答えながらそう推測した。

「それじゃあその時間までということにしましょう。安室さんがお仕事の関係で連絡を取れない間、愛理はこれまで通り連絡しないこと。何より成績をちゃんとキープして、学校や部活、お稽古も疎かにせず出席するのよ。行き帰りに会った時にお喋りするのは構わないけれど、テスト2週間前からデートは禁止、Rineでの連絡を時間を守ってすること。そして最後になるけれど、婚前旅行、婚前交渉はもってのほか。もし1つでも約束を違えたら、その時点で別れさせます。いいですね?」
「はい」
「はーい」

愛理は渋々ではあったけれど同意した。色々と言い付けが多くて窮屈だ。でも、ママに何も伝えずにいたら後で絶対気まずくなるし、頭ごなしに反対されるよりはずっと良いよね、と言い聞かせた。何より、透さんの前でルールを破るような真似をして幻滅されたり、最悪会えなくなっちゃったりするのは嫌だからちゃんと守らなくちゃ、と心に決めた。

「私はね、年齢の差を理由に反対するだなんてナンセンス極まりないと思うんです。愛の前ではそんなもの取るに足らないこと、現に私と主人は一回り差でしたし」

母が父のことを口にしたので、父親の惚気話をこんなところでも始めるつもりなのかと愛理は身構えたが、さすがにそうはならなかった。母はお茶を一口飲んでから微笑む。

「確かに安室さんと愛理は、世間的に見れば眉をひそめられるかもしれない年齢差ではあるでしょうけれど。でも、こうしてちゃんと早いうちに仲を打ち明けてくれて、真剣に健全なお付き合いをしていくつもりのようですから、できる限りの応援はしたい……しつこいようだけれど、さっきした約束をちゃんと守って、後悔の無いよう大いに愛し合いなさい。愛した人といつ何どき引き裂かれて、二度と逢えなくなってしまうか、わからないの。その時にもっと愛してるって言いたかった、って……そう後悔しても、遅いのだから。あなた達は愛する人と巡り合えたのですから、一緒にいられる時間を、どうか大事にね」

愛理の母の眼には、次第にうっすらと光るものが浮かんできている。ほかならぬ目の前の彼女自身がそういう経験をしたのを、透も、もちろん愛理も知っているだけに、神妙な面持ちで頷くほかはなかった。



だが、母はそれをものの数秒で引っ込めた。そして愛理に向かって、彼女が予想だにしていなかったことを言ったのだ。

「安室さん、少し2人だけでよろしいですか。愛理は自分の部屋に行っていなさい、終わったら呼ぶから」
「えっ?どうして」
「ここから先はしばらく大人同士の話なの。母親として愛理を守る者として、安室さんとよくお話ししておかなくてはいけないことがあるから」
「でもっ」

急に言われたことに納得がいかず、抗議の声を上げかけた愛理だったが。

「愛理」

そんな娘を窘める母の表情は中々の迫力があった。

「……わかったってば。じゃあ透さん、私ちょっと自分の部屋に行ってます」
「あ、うん」

ノートを片付けてそう言い置いてから、愛理は襖を開けて出て行った。その背中を見送りながら、透の好奇心が疼きかける。愛理の部屋はどういう雰囲気なんだろうか……だが、今は目の前のことに集中しなければ。

「……」

愛理の母の目は、さきほどまでとはまるで違う。これは娘の交際相手を探る時の眼差しだ。その意味を察せられない透ではない。

なるほど、やっぱりそうか。透は内心で呟いた。メゾンモクバでも、それからこういった機会の会場の定番であるレストランだとかの個室でもなく、この跡良邸にした上に、ああして愛理を別室に行かせた理由。先ほどの会話の中で、彼女の母は今日透をここに招いたわけを「娘がこれまでどういった環境で育って来たのか、ちゃんとご覧いただきたくて」と話していた。だが、もっと別の大きな理由があってそのカモフラージュだ――勝手知ったるこの邸で、透に主導権を渡さず、そして周りの目が無い状況のもとで彼と向き合おうとの心づもりが。

「雨宿りをさせていただいた時もですけれど、あの、ショッピングモールのイベントにお誘いいただいた日……愛理が泣いた後の顔で、安室さんと手をつないで帰って来た時はそれ以上に色々な意味で驚きましたわ。愛理が安室さんを見る目は、信頼した人にだけ向けるものでしたから。あれは時々向こう見ずなところがあるのに、なかなか人見知りですからね。特に男性の方に対しては」

透は湯呑を無意識のうちに口に運んだ。彼女の話は続く。

「私の夫が、日ノ本号のテロで犠牲になったことや……2年前にあの子が福生で誘拐未遂に遭ったことも、ご存知ですね?」
「はい。どちらについてもご本人から聞きました。愛理さんがそのことを僕に明かしたと、お母様に話したんでしょうか?」
「いいえ。でも察しは付きます。だって私は、あの子の母親ですもの」
「……」

その言葉を聞いた透、もとい零の脳裏には、遠くへ行った日――約18年前のことが思い出されてきた。


あれはエレーナ先生に付き合ってもらい、何度目かの自転車の練習をしたあと。実はもうその頃は既に乗りこなせるようになっていたが、何度かわざと転んで軽いケガを負い、その処置をしてもらっていた。

その日宮野医院を訪れたとき、零はさり気なく「今日厚司先生いるの?」と確認したが、学会だったか、とにかく出かけているというではないか。思わずガッツポーズをしながら(エレーナが不思議そうに「どうしたの?」と訊ねてきたので「気合い入れてるんだ」と誤魔化した)、子供なりに一生懸命知恵を巡らせ閃いたのだ。傷が増えれば増えるほど、一緒にいられる時間を稼げると。それだけでなく、手当の最中にも「今日はなんだか消毒液が沁みるから心の準備が要るんだ、もう少し待って」だとかの言い訳を並べればなお引き延ばせるのだと。

そんな思惑のもと、どうかあともう少しだけでもと願ったわけだが、とうとう最後の傷に絆創膏が貼られて。

「はい、これで手当ては終わり。暗くなってきたから早く帰りなさい」
「……わかった」

すると彼女に促され渋々家路に着こうとした時、入れ違いに明美が帰って来たが。

「ただいま……」

おかしいな。零は横目で見てすぐに気が付いた。いつもと違って静かすぎるのだ。帰ってくるときは、うるさいくらいの明るい声で挨拶するじゃないか……それに、すれ違った時にちらっと見えただけだったが、明美は伏し目がちで元気が無かったような。「どうしたんだよ」と訊きたかった零だが、エレーナも娘がそんな様子で帰ったのだからやはり心配になったのだろう、そちらへ向いてしまった。

これはもう本当に帰らないとな。零もここから先は家族の領域なのだとおぼろげながらも理解して、宮野医院の出入り口へと踵を返した。

「それじゃあね零君。気を付けて」
「じゃ、じゃあ帰る……エレーナ先生今日もありがとう」

見送りの言葉にはそう答えこそした。けれど、やはりまだ帰りたくないという気持ちが勝った。明美がああなった理由も気になったが、エレーナの声をもっと聞いていたかった。

そこで、零は医院を出て帰って行ったと見せかけて、その敷地の、中から漏れ聞こえてくる声が一番聞こえやすい地点――通う回数を重ねるうちに密かに探り当てていたのだ――へ、足音を立てないようにして回った。

そして、息を潜めながら耳をそばだてていると。

「ねえ、明美。お友達と何かあったでしょ」
「うん……でもなんでわかるの?まだ話してないのに」

聞こえてきたエレーナの声はとても優しい。まだ少し沈んでいる声で問うた娘に、そのまま同じトーンでこう答えたのだ。

「どうしてかしらね。だけど大事な家族の様子がいつもと何か違うと、本当に不思議なんだけれどすぐ解るものなのよ。お母さんって」
「お母さんすごい、魔法使いみたい」

明美の声は、その一瞬でいつものそれに戻っていた。ああ、確かにあれは、魔法だった――。





「……さん?安室さん?どうなさいました」
「あ、失礼しました。緊張してしまいまして」

まさかいつかを懐かしんでいました、と答えるわけにもいかないので出任せを紡ぐ。どうやら愛理の母は何か訊ねたようだが、透が答えなかったばかりか、心ここにあらずといったふうなので少しばかり気を悪くしたらしかった。小さくコホン、と咳払いをしてから開かれた口から出てくる声が、少しばかりとげとげしくなっている。

「娘はね、その話を幼稚園から一緒の、ごく限られた信頼できるお友達にしか話していませんの。そうしたことを話すほど、あの子は安室さんを信頼している。そうさせるだけの何かがあったということでしょう……ですが」

彼女はここで正面からキッと透を見据えて口を開いた――声が、少し震えている。

「愛理がそれほどまでに信じている方とはいえ、あの子はまだ子供。安室さんを疑うことは、ひいてはあなたを選んだ娘をも疑うことだとは承知しています。ですが私には、どうしても気掛かりなことがありますの……これからお訊ねすることに、どうか隠し立てをせずお答えください」
「なんでしょうか」
「喫茶店の店員さんで、探偵見習いでもいらっしゃると伺っております……ただ、失礼を承知で申し上げますと、私にはどうしても、一介のそうしたお仕事をなさっている方だとは信じられません」

そこにあるのは、疑わしきものから子を守らんとする母の顔。この方に、下手な誤魔化しは効かない――彼はそう直感しながら訊いた。

「質問を返す形になりますが、そのようにお考えになる理由を伺っても?」
「まず、アトリエからの帰りに、夜中にお出かけになるところを何度かお見掛けしていますが……その際はいつも帽子を目深に被るなどされて、お顔を隠されていらっしゃるでしょう。何のためですか?探偵というお仕事柄かもしれませんが」

一旦湯呑の茶を啜り喉を潤してから、さらに彼女は続けた。

「それに、不躾ではございますが、ご職業に見合っているとは言い難い経済状況も気に掛かります。作品をお求めくださった方に向かってこう申してはなんですが、私の作品は相応のお値段を付けていただいておりますの。お部屋に飾ってくださっている『あかつき』も、20代の方に手の届く価格とは言い難い。それに今日のスーツは生地や縫製がしっかりしていますから量販店のものではなくて、ちゃんとテーラーでお誂えになりましたよね。加えて、その鍛えられた体つきや無駄の無い、いえ、無さすぎるといってもいいほどの身のこなし。ボクシングもご趣味だそうですけれど、その範疇を軽く超えているでしょう。そこまで体を鍛えるのは、必要に駆られてのことではありませんの?」
「……よく、観察しておいでですね」

言うつもりは無かったのに、思わずお世辞めいた一言が口から飛び出していた。こうして愛理の母と一対一でじっくりと向かい合うのは初めてだが、娘から聞いていただろう絵のことはともかく、短時間でそこまで見抜くとは。

「ありがとうございます、これでも一端の画家ですので。口幅ったい言い方ですが、観察する目は人並み以上のものと自負しておりますわ」

道理で、か。愛理が真純の特徴を瞬時によく捉えていたのは、母親譲りの能力だったわけだ。

「ご実家からの援助をお受けになっているという線もあるかもしれません。ですが、もしかしたら……安室さん。何か後ろ暗い、表沙汰にできないことに関わっておいでではありませんか?体を鍛えているのは危険に巻き込まれた時のため……そして何より、お付き合いの期間がまだ短いからという点を抜きにしても、愛理に話していないことが多くおありのはずでは?違いますか」
「……」

どうやら愛理の母は(透の正体が実は公安警察官だとまでは流石に思い至らないようだが)、娘の交際相手が只者ではないはずだ、ということだけは確信しているようだ。そして、透がバーボンとして行動する際の出で立ちに加えて、彼の金回りが年齢や表向きの職業に見合っていない様子などから、実は闇の世界に身を置いており金の出どころもそこからではないか、彼との交際を認めれば、ひいては愛娘の身に危険が及ぶのではないかとも心配しているようだった。

テロに最愛の夫を奪われ、それを遠因としてその時お腹にいた子までも喪ってしまった愛理の母。彼女にとって、愛理は最後に残ったたった一人の肉親なのだ。過保護だと娘が零すほどあれこれ心配するのも、降りかかる危険から遠ざけたいと願うのも無理からぬことのはず。先ほどの質問をする前に愛理を別室へ移るよう促したのは、娘に対するせめてもの思いやりなのだろう。

「どうですの?」

透がしばし沈黙していると、さすがに痺れを切らしたらしい愛理の母が訊いてきた。

「……お考えの点は、的中しています」
「!」

相対する彼女の顔が、にわかに警戒する時のそれに変わった。しかし二の句を継ぐ前に透は先にこう言った。

「ですが、詳しいことはお話しかねます」
「どうしても?」
「はい」

透は迷うことなく即答し深く頷いてみせる。愛理の母は驚いたように目を見開いたが、そんな反応で覆る決意ではないのだ。

そう、こればかりは。組織のこと、本来の身分が公安の警察官であることは、おいそれと明かすことなどできない。将来、愛理とこのまま交際を続け婚約するという段階になれば、跡良母娘にほんの一部の話せることを、ぼかした上で話すつもりではいる。だが、今はまだ。

「来たるべき時が来れば、愛理さんにもお母様にも打ち明けるとお約束します。ただし、ごく一部だけです。詳しいことは一切申し上げられませんが、愛理さんとお母様に明かせない内容が多いことについては、大変申し訳なく思っているのも本当です……僕が今この場で包み隠さずお伝えできるのは、ただその一点だけです」
「……」

決然たる意思を湛えて一気に話す透に、今度は愛理の母が沈黙する番だった。娘と違い、考え事をするときに首を傾げこそしないものの、何か考えているらしい顔はやはり実の母娘だと思わせた。

「その、明かせないことというのが、愛理を欺き、傷付けるようなことだと私の知るところになればただではおきませんが……もう一つお訊ねしますけれど、何のために、そこまでなさるの?」

気圧されたように訊く彼女に、透はきっぱり答えた。

「全ては、守りたいもののためです。僕の命に代えてでも、守りたいものの……そのためには、僕は取りうる手段全てを使う主義です」

一介の探偵にして喫茶店店員で通している安室透には、およそ似つかわしくなさすぎる台詞。だが、降谷零として心に強く刻んだ曲げられない信念を、どうしても伝えずにはいられなかったのだ。身分や名前をはじめ様々な事柄を偽れども、それだけはどうしても。誤魔化しはできない、さりとて明かすことも許されない。そんな言葉を、愛理の母はどう受け止め、どう出るのか――。

「その守りたいものに、愛理も加えてくださっていますね?」
「は、はい」
「まあ良かった」

ニッコリと笑って、彼女は頷いた――目に、また光るものを浮かべて。

「その潔さ、感服しましたわ。後ろめたいことがあれば、何としてでも隠し通そうとするけれど挙動がおかしくなるもの。もしもシラを切りとおそうとされたら、その時点でお引き取りいただくつもりでした……明日にでもあのお部屋を引き払って、娘にも二度と会わせないように、とも。それなのに安室さんは、話せないということを正直に伝えてくださった。これ以上私は何も詮索いたしませんし、先ほど取り交わした約束を違えない限りはもう何も申しません。安室さんを信じて愛理を託します」
「よ、よろしいんですか?本当に。あれでご納得いただけたと」
「ええ」

透は流石に驚いて愛理の母を見た。疑われたり愛理と引き離されたりするよりはもちろんずっと良いが……すると彼の視線を受け険しかった表情を緩め、そっとお腹を撫でて彼女は。

「取りうる手段を全て使ってでも、守るもののために……とてもよく解ります。私だって、愛理を守るためならきっとそうしますもの。ですがどうか、安室さん……愛理を、危ない目に遭わせないでくださいね。あの子は私の宝、私の生きる意味そのものなんです。あの子がいてくれたから、私は最愛の夫を……それだけでなく、生まれ来るはずだった子まで奪われた絶望から這い出せた。その分色々と世話を焼き過ぎて、大事にしすぎて、娘に過保護だと何度反発されたか、もう思い出せないほどですの。それでも、どんなに鬱陶しがられようと、私はこの命ある限り命がけで、命に代えても愛理を愛して守り抜く覚悟。それが私が生涯を捧げるべき務めですから」

愛理の母の言う「守る」とは、ただ単に保護者としての務めを果たすことだけの意味には収まらないのだと、透には解っていた。何かかけがえのない、命を差し出したって惜しくないほど大事なものを持ち、そして全力を挙げてそれを守らんとする者同士だけが分かち合う思い。何も言わずに、しかしその代わりに深く頷く彼に、愛理の母はそれを感じ取ったようだ。

「安室さんの先ほどの目に、ウソは無かった。あんなに真っ直ぐに、守るもののためとおっしゃられては、これ以上どうして疑えます?何か守るべきものを持つ人の強さを、私はよく知っています。他ならぬ私がそうなのですから……どうか、どうか、愛理を。よろしくお願いいたします」
「はい」
「っ……ありがとう、ございます」

この国を、約束を、愛理を、まもるのだと。透がその2文字にそんな気持ちを込めて答えれば、愛理の母の眼から透明な滴がツッと流れ出すのが見えた。



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