謎ときどきドキドキ(後編)


そして迎えた日曜日。まだまだ夏の色が濃く残る、カラッと晴れた今日の空の下。時間通り無事に落ち合った愛理と透は、杯戸セントラルモールの広く取られた中庭、謎解きゲームのスタート地点待機列に一緒に並んだところだった。

ホームページによれば、謎解きゲームは午前と午後の部に分かれているといい、午後の部が始まるのは14時30分からだ。二人が到着した時は、最終日の最後の部ということもあるのだろう、中庭の隅の受付本部前には既に数十人ほどが列を成していた。

だが透がこれもRineで教えてくれたところによれば、招待券を受付に提示すれば並び順に関係なく先頭に案内してもらえるというし、施設内の店で半券を見せると色々な優待も受けられるとか。

実際、謎解きゲームのロゴが描かれたTシャツを着たスタッフに券を見せれば、少し検めたあと「こちらへどうぞ」と、待機列の先頭すぐ横の辺りへ連れて行ってもらえた。そして、謎解きの答えを書き入れるための冊子とクリップペンシルをそれぞれに渡され「ここから何分かおきに、参加者の方を十数名様ごとに向こうに見える建物の中へご案内しまして、そこでゲームのストーリー説明や注意事項などをお聞きいただいてから謎解き開始となります。時間まで今しばらくお待ちください」とも教えてもらった。トロピカルランドにはアトラクションに優先的に乗れるチケットがあるが、招待券はそれと似ているなと愛理は思った。

こうしていると、いやが上にも気分が高まって来る。どうしよう……近い。何もかもが、近い。愛理は胸を高鳴らせながら、目の前の【謎解きゲーム受付本部】の看板を見た。

ただ、“近い”のはそれだけではなくて……足元に目を落とす。透の履いているシンプルなデザインのスニーカーと、甲に大きなリボンがあしらわれている自分のスニーカー――彼が“僕も謎解きゲームに挑戦するのは初めてなんですが、調べてみたらモールの中を結構歩き回ることになりそうです。スニーカーみたいに歩き回っても疲れにくい靴がよさそうですよ”とアドバイスをしてくれたから、それを受けて履いてきた――は、当たり前だけれどサイズが全然違うことに改めて気が付く。そのあと、冊子のページをパラパラと繰り始めた。待ち切れなかったのもあるし、落ち着きの無い子と思われるかもしれないけれど、横に透がいると思うとどうしてもソワソワして体が勝手に動いてしまうのだ。

愛理が自分でも調べてみたところ、謎解きゲームの参加者は、このモールの中の特定のエリアを歩き回りながら、そのどこかに掲げられているクイズやパズルを見付けて解いていくそうだ。そしてその答えを謎解きキット、もとい今手にしている冊子に書き込み、ヒントを集めてクリア(今回の場合、西洋庭園の罠に囚われたという設定の探偵左文字を助け出すこと)を目指すという。

私にも解けそうなのがあればいいんだけど……愛理は少し不安に思いながらも一通り目を通したが、幸い予想していたほど難しくはなさそうだったのでほっとした。このくらいなら自力で解けなくはないかもしれない。それに、頼りっぱなしになるつもりも無いが、いざとなったら知恵を貸してくれるだろう透も一緒にいる。きっと大丈夫だと一人頷いた。

すると。

「へぇー、これが謎解きゲームなんですね。愛理さん」
「! ひゃい」

透に話しかけられ「はい」と普通に応えるはずだったのに、愛理は思わず裏返った素っ頓狂な声を出してしまった。彼が身を屈め冊子を覗き込んできたせいだ。

おまけにその体勢のまま透は「僕もこういうゲームは初めてなんですが、左文字ファンの愛理さんとご一緒できるなら心強い」だとか「実は、今回の謎解きゲームの企画には毛利先生も協力されているんですよ。新名香保里先生のお父様の失踪事件の捜査に関わった縁だとかで。それで弟子の僕にも招待券をくださいまして」などと喋り続けるものだから、休日のモールのざわめきの中でもよく通る声が至近距離で鼓膜をくすぐってくる。声が近くに聞こえて、爽やかな香りまで漂ってきて……。

「結構凝った作りなんだなあ」
「あ……!」

しかも今度は、冊子を持っている愛理の手にそっと彼の手が重ねられた。始業式の日と同じで、柔らかく暖かい。顔がどんどん赤くなっていく…やっぱり。透を横目で見て愛理の心臓がまた騒いだ。すぐ横にある彼の整った顔には、謎解きが楽しみだと大きく書いてある。かっこいいな……ええと、そうじゃなくて!

「安室さん、ご自分のはどうされたんですか」

まさか失くした?それはない。謎解きキットの冊子は1人につき1冊配られるけれど、現に彼もちゃんと受け取って肩に掛けているトートバッグに入れたところを、愛理は先ほどしかと見ているのだから。自分のを読めばいいんじゃあ……出すのが面倒なの?別に見られて嫌なわけじゃないんだけど。ドキドキが止まらないまま訊ねた愛理に、透は。

「ちゃんとありますよ。ほら……ああっ!そうだ、僕も同じのを持ってたんでした!うっかり忘れていました」
「ふふっ、安室さんにもそういうとこあるんですね」

愛理がそんな疑問を口にした理由など、とっくにお見通し。姿勢を正しながら、冊子を持っていたのをようやく思い出したとばかりにバッグから取り出す。愛理は手が離れたことを寂しく思いながらも、彼のそんな様子に親しみを覚えて笑みを零した――少しスキを見せ緊張をほぐす。そしてさり気なく彼女に触れるとともに、その目線と意識を自分の方に向けさせる。そんな目論見が上手くいったばかりか、自分の方を向いて笑ってくれたという嬉しいおまけまで付いたのを、透が内心大喜びしていたとは知らずに。

「いやぁ、これはお恥ずかしいところを見せてしまいました」

恥ずかしそうな表情を作って、右の人差し指で頬を掻いたあと。透はそこであえてフイと視線を逸らしてから、今度は小声で、しかし愛理の耳が拾えそうなギリギリのボリュームまで絞った声で囁いた。

「好きな相手の前では、格好をつけたいものなんですけど……これがなかなかうまく行かないんですよね」
「え……?それって、どういう」

訊き返したかった愛理だが。

「お待たせいたしました!これよりご案内でーす!」

謎解きゲームのスタッフが声を張り上げたので、とうとう透の言わんとするところは聞けずじまいだった。



「プロローグは以上になります。それでは、皆様のご健闘をお祈りしています!行ってらっしゃーい!」

待機列から別のスペースまで誘導され、プロローグとルール説明を兼ねた映像を見終わったあと。参加者はスタッフの声に見送られ、早速謎を解かんと三々五々モールへと散らばっていく。

だが透と愛理はそんな一団から少し離れたところ、通行の邪魔にならない隅の方へ寄っていた。彼に「まずは立ち止まってプランを立てませんか、闇雲に歩き回るのも何ですし」と提案され、キットの裏面に載っているマップを確認し合っていたのだ。

「これを見るに、今僕達がいるこのエリアにも謎が仕掛けられているようですね。まずは順当にそこから始めましょうか?」

確かに、今立っている地点から見える範囲の、少なくとも2か所に謎が掲示されていると見え、その周りには自分達と同じようにクリップペンシルとキットを手にした参加者の人だかりができている。

「それと、チェックポイントを通過するには全てのヒントを集めなくてはいけないそうですが、効率的な動線を考えるとこのルートなんかどうかと……」

テキパキと筋道立てて作戦を考えては示す透に、愛理はずっと見とれていたいのを抑えて答えた。

「です、ね」
「よし!では、お待ちかねの謎解きといきましょう」

透と少し間隔を空けて並んで歩き出しながら、愛理は丁度横にあったスポーツ用品店のショーウィンドウにそっと目をやった――硬い表情を浮かべている自分が見つめ返してくる。

こんなカオして来る場所じゃないのにね。愛理は内心で苦笑いした。このモール広しといっても、そんな面持ちでいるのはきっと自分ぐらいだろう。現に周囲の人々は、愛理とは正反対に「ヒントどこだ?」とか「あっちにあるかもよ!」などと楽しそうに笑い合いながら行き交っている。

……その中でも、カップルを自然と目で追ってしまうのはどうしてだろう。参考にしたいからだろうか。謎解きゲームに挑むというワクワクももちろんある。だが異性、それも惹かれている相手と2人きり。そんな生まれて初めて味わうドキドキは、今にもワクワクを飲み込んでしまいそうだった。確かに安室さんとは、今までもそれなりにお喋りしてきた。けど、今日はわけが違う。ほぐれたはずの緊張はぶり返してきてますます高まるばかりだ。

お洋服、やっぱりこれじゃなくてあの花柄のにすればよかった?今更着替えには帰れないのは解っていても悔やんでしまう。髪は乱れてない?待ち合わせ前に洗面所で念入りに整えたけれど、念には念をというし。愛理がチラチラとショーウィンドウを眺めるふりをしてチェックしていると。

「おや、さすがは愛理さん。さっそく他にも何かヒントを見つけたみたいですね、僕にも教えてくれませんか」

透はすかさず、愛理の意識が離れかけているのを見て取り、また自分の方へ向けさせようと声を掛けた。彼にとっては、この謎解きゲームの難易度は何と言うことはないレベルだ。しかし能力をひけらかしすぎても、かといって爪を隠しすぎ、愛理に頼りっぱなしになっても彼女の心象を損ねてしまうはず。その点についてだけは匙加減が難しそうだ……。

だが、透がそう思っているところへ。

「すみませぇーん、ちょっと訊きたいんですけどぉ」
「はい?」
「迷っちゃったから案内してくれませんかぁ」

何やら女性2人組が声を掛けて来て、透は咄嗟に営業スマイルを浮かべる。参ったな……こっちはデート中だっていうのに、邪魔しないでくれませんかねえ?そんな思いを隠しつつも、いかに早く往なすかすぐさま考えながら対応を始める。

だが、笑顔には早くもヒビが入ることになった。

「きゃ」

愛理が小さな悲鳴を上げたのが耳に入ったからだ。2人組の片割れが、横で成り行きを見ていた彼女をさり気なく押し退けたではないか。透にはもちろん解っていた、絶対にわざとだと。大方、いや十中八九道案内をしてほしいという口実で自分に近付く魂胆だったに違いない。

一方、愛理は不意を突かれながらもどうにか体勢を立て直した。しかし転ばずには済んだものの、よろけた拍子にキットを取り落としてしまっていた。少し離れた地面に落ちたそれに近寄って拾おうとしながらも、モヤモヤしたものが湧き上がってきてやまない。

何なの、あの人たち!さすがにこれにムッとせずにいられるだろうか。ぶつかっておいて謝りもしないだなんて。それにガイドマップ広げてたけど、インフォメーションセンターならすぐ右手にあるじゃない。なのに、どうしてどう見てもモールのスタッフさんには見えない安室さんに訊くの?

「あっ!」

踏んだり蹴ったりとはまさしくこのこと。拾おうとする直前、折しも吹いてきた強い風にキットを攫われてしまった。確かに今日の午後はところにより強い風、と昨日の天気予報で言っていたけどよりによって今吹かなくたって。それに、失くしても再発行はしてもらえない。もう1冊新しいものを買わなくてはいけないルールになっている。

お小遣いをこんなことが原因で無駄にするのが嫌で、愛理は慌てて宙を舞うキットの後を追いかけ走り出した。危うく人にぶつかりそうになりながらもちゃんと謝りつつ、キャンディショップを通り過ぎ、占いスタンドの角を右に曲がり、ペットグッズの店の前でようやく追い付けた。近くの噴水に落ちなかっただけ良いかな、と息を切らしながら拾い上げて埃を払いのける。

……そうだいけない!安室さんはどこ?愛理はそこではたと、透とはぐれてしまったことに気が付いた。一緒にいられる時間が短くなってしまった。彼は先ほどの女性たちの相手をまだしているのだろうか。優しいのはいいけど、私がそばにいるのに……なんだかこれじゃ、嫉妬してるみたい。お付き合いしてるわけでもないのに、何言ってるんだろう。ともかく早くまた合流しないと。ショルダーバッグからスマホを取り出し、透とのRineのトーク画面を開こうとしたら。

「よ、跡良じゃん!」

後ろから名前を呼ぶ声がして、続いてポンと肩を叩かれる感触があった。もしかして安室さん?もう来てくれたんだ……でも待って。私のこと、いつもは今みたく苗字で呼び捨てにしないのに。それにこんな声じゃないよね?何より、ちっともドキドキしない。そんな違和感を覚えながらも愛理は反射的に振り向いたが。

「何してんの?俺ダチにドタキャンくらってよー」
「あ、いえ。別に何も……」

なんだ、違った。締まりのない笑みを浮かべて話しかけてくる相手を視界に入れないようにして答えたけれど。なんで、この人に遭う羽目に……愛理はげんなりした。

声を掛けてきたのは透ではなく、同じ合気道の道場に通う顔見知りの男子だった。この春に入って来た同じ高校2年生で、名前も一応知ってはいる……頼んでもいないのに彼から教えてくれたおかげで。

稽古に通う曜日が違うのでまともに話した、というか声を掛けられたのはこの間の夏休みの合宿が初めてだったが、愛理はすぐに彼が苦手になった。お調子者でお喋りだが、透のようにペースを慮ってもくれないし、話の内容だって彼がよく披露してくれるような、好奇心を刺激されるという意味での面白さがちっとも無い。話題も愛理がよく知らない流行りにまつわることばかり――そのくせ自分ではウケていると信じて疑っていないようだから始末が悪い――。正直に言って鬱陶しくて仕方がなかった。おまけに何のために入って来たやら稽古にも熱心ではなく、師範に「身を入れずに生半可な気持ちで取り組んでいたら怪我をするぞ」といったことを注意されているのを、合宿の間に少なくとも3度は目にした。

しかし、顔見知りは愛理の気持ちにはお構いなしだ。

「跡良もヒマしてんならどっか行こうぜ、やっぱゲーセン?」
「そんなとこ行きません。人を探してる最中ですので」

ですます口調で思い切り冷ややかに接しているのに、相手は悪い意味でめげそうにない。加えて、これから一緒に回るのを勝手に決めている物言いにムッとした。本音を言えば丸々無視したかったが、一応門下生同士だからあまり無碍にもできない。

その間にも顔見知りは「そうだ、RineのID教えてくれよ!合宿ん時教えてくれなかったんだから今日こそはさ、頼むって!」とかなんとか、まあ騒がしいこと。だが相手をしているヒマなんて無いのだ。愛理は「それじゃあ、またいつかね」と流したあと、彼の必要以上に大きな声をなるべく耳に入れないように、そして、いつの間にか周りに群がり始めていたギャラリーの視線を意識しないようにしながらその場を離れようとした。

見回せば少し向こうの方だが、おあつらえ向きに化粧室が見える。あの中に避難すれば彼から逃げられるはず。入ったら安室さんにRineを送って、さっきの中庭で合流しませんかって言おう……ここまで来てもらうなんて悪いもの。

だが、不意に左手を掴まれる感触があってギクッとした。

「な、何するのっ」
「そうやってシカトすんじゃねーよ。今日って今日はRine教えるまで離さねえからな!」
「やだってば!もう」

顔見知りはそんな勝手なことを言って、自分の方へと愛理を引っ張った。やはり男女の力の差は10代後半ともなるとかなり大きくなっていて、そのままいとも簡単に彼のほうへ体が傾いてしまう。2年前に福生で不良外国人に絡まれて以来、馴染みのない男性と接する時は用心するようになったし、武道だって嗜むようになった。とはいえ、まだまだ素人に毛の生えた程度の実力でしかない。それに見ず知らずの異性ならまだしも、顔見知りだからと相手に何の注意も向けずにいたスキを突かれたとあっては素早く動けなかったのだ。

「触らないでよ離してったらっ」
「やーだね、まあ教えるって跡良がこの場でハッキリ言うんなら考えてやるけど」

そう叫んでも手は離れない。ギャラリーはただ見ているだけ、誰も飛び出して制止しようとしてくれそうにない。顔見知りの手は強引で厭わしいことこの上なくて、鳥肌がゾワゾワと立つほど嫌だ。透が触れてきたときの優しくあたたかな感触とは正反対の手。技でも何でも掛けて振り払わなきゃ。なのに体が思うように動かない。嫌なのに、安室さん以外の手なんかに、こんな……!

「!」

情けないやら怖いやらで、愛理の目にじわっと涙の滲みかけたその瞬間。目の前の光景が、スローモーション撮影をしたみたいに映った。

まず、愛理と顔見知りの間に割って入るように伸びてきた褐色の手が、顔見知りの手を易々と引き剥がし彼女を自由にした。続いてそっと肩に手が回されたかと思えば、しなやかな筋肉が当たる感触がして……。

「っ〜〜〜〜!」

そこで我に返った愛理の頭の中は、この状況を飲み込むのでたちまち大忙しになった。顔見知りの手は捻り上げられ、彼は声にならない悲鳴を上げている。そしてそんな声や、ギャラリーがどよめく声にも負けないくらい、自分の心臓がドキドキうるさく騒ぐ音と、そして――。

「愛理に何かご用でしょうか?」
「安室さんっ……!?」

聞き間違いなんかじゃない。好きな人の声が、近くで響いた。嬉しくなったあまり、首を勢いよく左上に向けたので痛くなってしまったがこの際気にしてはいられない。距離があったはずなのに、探し当てて駆け付けてくれた。おまけにありがたいことに顔見知りからも引き離してくれた。彼は思い切り顔を顰めている様子からして、文字通り相当“痛い目”を見たはずだ。

「嫌がっているのに無理強いとは。感心しませんね」

顔見知りの顔がたちまちサーッと青くなったが無理もないだろう。透はまるで汚いものを振り払おうとするかのように手を解放しつつ、愛理も震え上がるほど冷ややかな声で吐き捨てたからだ。

「っ痛ぇ……な、何すんだよいきなり!つうか誰よあんた、跡良の何なわけ」

顔見知りは(あくまで彼にとっては)楽しく話していたところに割り込まれ、大いに機嫌を損ねたらしい。負けん気だけはあるらしい彼は声を絞り出し、不躾に透を睨みながら訊いてきた。

「この人は、……」

お付き合いしてる人……愛理はそう答えたくてたまらなくなった。でもウソはいけないからと、正直に「お隣に住んでる安室さん」と続けるつもりだったのだ。

「失礼、自己紹介が遅れてしまいましたね」

だが、機を見逃しはしないのが安室透という男だ。すかさず愛理をもっと自分の方へ、それこそ密着するレベルで抱き寄せてから。

「初めまして。僕が、愛理の恋人です」
「「えーっ!?」」
「あはは、ひどいなあ愛理。付き合い始めたばっかりでまだ自覚がないのかもしれないけどね」

「僕が」の部分をことさらに強調して恋人だと自己紹介され、愛理と顔見知りは揃って驚きの声を上げた。しかし透は顔見知りには目線をくれてはやらず、彼女に笑いかけつつ何やら小さく頷く。ブルーグレーの眼は何故だか「僕に調子を合わせてください」と囁いているような気がしたから。

「そ、そうそう!ごめんなさい、先週からだし、ちょっとまだ実感なくてつい……」
「そんなところも可愛いけどね、僕の愛理は」

助けてもらったこと、名前を初めて呼び捨てにされたこと、彼の体温をこうして腕の中で感じていること。おまけに僕の……だなんて!声が上ずるにはもう十分すぎるくらいの状況の中、愛理は心臓をバクバク言わせながらも、透と一緒に一芝居打った――本当に、そうだったらと思いながら。

「……と、まあ。そういうことですので」

とっととここから去るんだな。透はそんな続きを言葉に載せないまま、しかし視線に込めて相手を見据えた。

「お、俺頭も顔も性格もいいけど諦めだけ悪いんで!跡良のこと諦めねーから!」

先ほどまでの粋がっていた態度はどこへやら。これぞまさしく負け犬の何とか、という表現がよく似合う遠吠えのあと、ようやく嵐は過ぎ去っていった。ギャラリーから期せずして拍手が沸き起こる。

「ふう……助かりました。本当にありがとうございます、安室さん」

顔見知りが去っていったのを見届けたからだろう、透の体温が離れて行く。離れがたく思いながらも、愛理はホッと胸を撫で下ろしてお礼を言った。

「いえいえ。怪我はないですか?すみません、もっと早くに駆け付けられたらあんな目に遭わせずに済んだのに」
「大丈夫です!私にもちょっとスキがあった、から……いけないんです……」

そう続けようとした愛理だったが、言葉はそこで立ち消えになったし、安堵から滲みかけた涙も引っ込んでいた。先ほど微笑みかけてきた透と、たった今スキという言葉を耳にするや一瞬で真剣な顔になった彼とが、本当に同じ人だろうかと驚いたのだ。

そうしているうちに、透は愛理の近くに目線が来るくらいまで屈むと、言い聞かせるように話し始めた。

「いいえ、あのような卑劣なことをした彼が悪いんです。愛理さんにスキがあったからいけないなんて、そんなことはありませんよ。絶対に」
「は、はい」

きっぱりと否定した彼は「それから」と続ける。

「もしもまた、ああいった目に遭いそうになってしまった時は、大急ぎで相手から離れて身の安全を確保してください。助けもすぐに呼ぶこと。間違っても一人だけで立ち向かおうとしてはいけませんよ。愛理さんはしっかりされている分、そうしてしまわないかと僕はその点が一番心配で……あと何より、どうか落ち度があったと自分を責めないでください。悪いのは彼、悪くないのは愛理さん。いいですか?」
「わかり、ました」

心配され、悪くなかったときっぱりと言い切られ、これでどうしてもっと好きにならずにいられるだろう。言ってる時の顔が正直迫力すごくて怖かったけど、優しくて、正義感も強いんだな……愛理がそう思いながらコクンと頷くのを見て、透はまたいつもの穏やかな表情に戻ったが。

「どうしてここがわかったんですか?私、まだ連絡入れてないのに」
「ああ、それは」

あの女性2人を振り切ったあと、予め調べておいたこのモールの建物の配置、そして今日の風力や風向だとかを加味して計算して、キットが飛ばされた先……つまり愛理さんが向かったであろう地点を絞り込んだからですよ――。

だが、そんなことをこうした場面で明かすなんて野暮というほかはない。だからここはあえて真実を隠蔽し、ニッコリ笑って種明かしをするのだ。

「愛理さんが僕のことを、こっちで呼んでるなって。不思議なんですけど、どうしてだか強くそんな気がしたからですよ。いやあ、的中して本当によかったなあ」

もう……ずるい。そんなこと言われたら。愛理はもう完全に、透の虜だった。

「他のエリアに来たことですし、ここを起点にして回る計画を練り直すのもアリですね。丁度そこに招待券の優待が利くカフェがありますから、一休みがてら2度目の作戦会議という手もありますよ……」

そして愛理は思うのだ。場内放送なんて流れてこないでほしい、バクバクとうるさい心臓が早く落ち着いてほしい。そうしたらその音に気を取られずに、安室さんの声をもっと良く聞けるのに――と。




空はすっかり夕暮れの色だ。順調に道路を走り抜け、透のRX-7は米花町に差し掛かろうとしている。純白の車体も運転席も、つまり彼の白いフレンチスリーブのシャツや引き締まった腕も、それから助手席に座る愛理の顔も、仄かに茜色に染め上げられていた。

愛理は来た時と同じように、バスに乗って帰るつもりだった。だが、透が「愛理さんをエスコートして、無事にお送りするまでが謎解きですから」と言って譲らないので、好意に甘えて乗せてもらったのだ。遠慮して、というか照れもあって、後部座席に座ろうとしたけれど。

「見苦しくてすみませんが、後ろの席がハロ用のベッドですとか、そういうもので散らかっているので。愛理さんは助手席にどうぞ」

実際透の言う通り、ペット用品が(散らかっているという言葉とは裏腹に)きちんと整頓され、しかし人ひとりが座るスペースを確保するのは難しそうなくらい置かれていた。それに彼はそう言いつつ、助手席のドアを開け座るように促してきたから……そうされては、従うしかないというもので。本当のことを言えば、こうなることを期待していたのも事実だった。

“間もなく、米花町に入ります。目的地まで、およそ、14……分です……”

カーナビから流れる無機質な音声が、ドキドキし通しだった1日の終わりがいよいよ近づきつつあると告げる。14分という時間がまるでカウントダウンのようだ。

それにしても、あっという間だったなあ。愛理は車窓の風景を見ながら振り返った。

色々思いもよらない事態に見舞われこそしたが、最終的に謎は全部解けて左文字の救出に成功した。暗号表に当て嵌めるものあり、閃きが求められるものあり。問題の種類はバラエティに富んでいたが、特に最後の「赤、白、黄色の順に、キットの1ページを折って星を作るとキーワードが出てくる」というものが印象深い。これまでさり気なく助け舟を出してくれていた透が、それだけは珍しく苦戦していた(ただもちろん彼は愛理に花を持たせるためにわざとそうしていたのだが)。最後の最後、黄色い星を作れずにいたのだ。

そこに愛理が「もしかしたら、この隅のとこを別の紙に合わせるのかもしれないです」と気が付いて試してみたところ、果たしてその通りで。そうして浮かび上がって来たキーワードを最終チェックポイントに告げ、見事謎解きゲームクリアと相成った。しかも最後に見た映像は録り下ろしだそうで、実際にドラマで左文字役を演じる剣崎修が、作中のハイライトで左文字がするように刀を抜き、この企画に合わせて一句詠ったものだから、愛理はいたく感動したのだった。

ハンドルを握る透の横顔をチラッと見て愛理は思う。ホント、今日は安室さんに大感謝――。

「……」

引き結ばれた透の口元は真一文字で、いつもの柔らかい雰囲気とはまた違う。それもまた、かっこいい……だけどなんだか静かになっちゃったな。運転中は喋らないタイプかな?さっきまではよく話してたのに。

発進してから少しの間、彼は「この車はコーナリングがすごいんですよ」とか「自分で言うのも何ですが、洗車も割とまめにしている方かと思うんです」といったことを誇らしげに話していて、一番大切にしているオモチャを自慢する子供のようでなんだか可愛らしかった。性能だとかを詳しく褒めたら話も弾んだのかもしれないが、愛理は車については鉄でできていてタイヤが4つで運転には免許が必要で、という程度の知識しか持たない。スマホでも車についてのあれこれは調べられるだろうが、あいにく愛理は車でスマホを使うとすぐ酔ってしまう体質だ。それにもしそういった事情が無くたって、スマホの操作に意識を向けるくらいなら、透と話すことに集中していたかった。

でも「そうなんですか、すごいですね!」なんて、当たり障りの無い返事しかできなかったな……愛理が悔やんでいると。

「ところで。先ほどのあの彼ですけれど」
「あの彼って、さっき私の腕掴んでた……?」

透が低い声で沈黙を破った。同時に、今日はあの時以来透が決して愛理の体に触れてはこなかったことに、今、気が付いた。

「ええ。愛理さんの態度からして、もしやとは思いますがお友達ではないですよね?まして恋人というわけでも」

先ほどあった一騒動の際、顔見知り君は「あんた跡良の何なんだ」などと訊いてきたが、その言葉そっくり返そうか。君こそ愛理ちゃんの何だっていうんだい?苗字を知っていたからには全くの初対面ではないはずだが。透が素性と、彼女との関係を探ろうと訊ねれば。

「ちっ違います!全然そういうのじゃないですっ」

友達でもまして付き合っている相手でもない、ということのようだ。愛理が慌てて即座に否定したので、透がひとまず安心したのだが。

「夏休みに道場の合宿あったってお話しましたけど……さっきの彼、一目惚れした、付き合ってくれってすごくしつこかったんです」
「ホー……?」

彼女がこれまで件の彼に覚えた憤りを、ここぞとばかりに話し始めたので聞いてみることにした。愛理にしてみれば「仲を疑われたから誤解を解かなくちゃ」という一心だったが――それを聞いた透に、いよいよ決心を固めさせたとは思わずに。

「でもちっとも嬉しくなんかないです!みんな真剣にお稽古しに来てるんですよ?なのにそういうチャラチャラした気持ちでいるってどうなのって思うじゃないですか」
「確かに。浮ついた気分のまま何かに取り組むなんて、とても褒められたものじゃありませんよね」
「ホントですよね。だからイヤって断ったんですよ。そしたら心を入れ換えるからRineのID教えてって本当にしつこくて」
「ええっ!教えたんですか!?」

「僕以外の男に!?」と続けそうになったのをこらえる。透は例のアプリのおかげで、愛理が件の顔見知りにIDを教えてはいないことなどとっくに把握している。にもかかわらず一瞬そのことを忘れて大いに焦り、もしや彼女が自分以外の男に連絡先を教えたのか、と詰問するような口調で訊ねてしまった。

「まさか。スマホ預けてるんだからできるわけないでしょって断りましたよ。でもそれだけじゃないですけどね、お夕飯のあと先回りして私の使ってる女子部屋のドアの前で土下座してたんですよ。しかも私がID教えるまで絶対動かないとか言い出したんです。そんなことしてたら同じ部屋の子達だって困っちゃうのに何考えてるんだろうってほんと呆れちゃいました。どいてよっていくら言っても埒が明かないから、結局師範を呼んできて思いっ切り怒ってもらいましたけどっ」
「……へぇー、そうでしたか」

アクセルを少し踏み込む。余裕ぶって打った相槌は、ワンテンポ遅れた上に震えて台無しになった。

これが愛理以外から聞いた話だったなら、気を揉むわけがなかっただろう。しかし、ああして彼女に言い寄る輩がいるのを目の当たりにした今日、透は気が気ではなかった。

合気道の合宿の間、もちろん愛理も含め参加した門下生は、全員スマホの電源を切った上で宿舎の金庫に預けなればならなかったという。だから遠隔操作アプリも使いようがなく、その間の出来事は何も把握できていなかったわけだが、そんなことがあったとはな……顔見知り君(先程の彼の名前は知らないし、知ったところでその名を呼ぶ気にはならないだろうからそう呼ぶことにした)、しつこい男は嫌われますよ――。

それはさておき決めた。作戦変更だ。透はハンドルを握る手にさらに力を込める。今日のデートを皮切りに、二度三度と一緒にどこかへ出かけるなりして距離をより縮めてから想いを告げる。そういう計画だったが、今日、そうするんだ。そうしなくては。愛理は女子校に通っているし、まあ男子もいる稽古事もしているにせよ異性との接点はかなり少ないと言っていいはずで、透は彼女に一番近い男は自分に違いないと安心していた。だが、そうして悠長に構えているうちに他の誰かに愛理の心を攫われては遅いと考え直したのだ。現にああして、稽古事で出会った奴に迫られていたからには。せめてもの救いは、愛理ちゃんに例の彼に靡く様子が全く無いことだが。

“間もなく、目的地、です……”

カーナビの音声が割って入った。車は既に駐車場の敷地内、透が使っている区画までの距離はもう10メートルを切っている。

そこでフッと会話が途切れた。どこかぎこちない空気が2人の間に漂い出す。

やっちゃった、かな……愛理は何となく気まずくなってしまったことに今更気が付いた。喋り過ぎちゃった、しかも男の子の話なんてきっと聞いてて面白くなかったよね、とうなだれる。せっかく誘ってくれた謎解きなのに色々愚痴言っちゃうなんて、安室さんきっと嫌な思いしただろうな。唇を噛みそうになった。

「大変でしたね」
「え?」

慣れた様子でスペースに車を入れながら、透は口を開いた。

「僕も探偵の仕事の一環で、ストーカー対策なども請け負っていまして。追い払うためとか警護のために、依頼人の方の恋人として振る舞うこともあるんです……ただ、そうするうちに本当に恋心を抱いてしまう方もいらっしゃいまして、困ったことが何度か。思わぬ人に想われて、というやつですかね。想う人に想われれば、こんなに嬉しいことはないのに」
「ですよね……でも、依頼人さんがそうなっちゃうのもちょっと解るかな。だって安室さん、って」

例えそういう目的だったとしても、少しの間だけだったとしても。安室さんの彼女になれるひとが、羨ましいな……愛理はそう思いながら途中まで言いかけたところで、ハッと口を押さえたが。

「僕が何か?」
「いえ!何でもないですっ」
「お願いですからそうもったいぶらずに、愛理さん。謎解きを一緒にした仲じゃないですか、教えてくれませんか?ねっ」

車は完全に停止していた。だから透が、言葉に詰まった愛理の顔を覗き込んで、ついでにウインクしながらおねだりしたって何の問題も無いわけだ。

ずるい、そんなカオされたら……。

「かっこいい、から……」

言わざるを、得ないのに。

「今なんて?すみません、他の車のクラクションがうるさいせいで聞き逃してしまって。愛理さん、もう一度お願いできますか」
「えっと、その、かっこいい……って……」

恥ずかしがりながらも、顔を夕陽とは違う色合いの赤に染めて言い直す愛理に愛おしさがこみ上げる。透はもしも既に恋人同士だったなら、すぐさま手を伸ばして抱き締めていたのにと思った。ちょうど騒音が聞こえてきたところだったので、それに乗じて聞き取れなかったふりをして引き出した褒め言葉。表面上は笑顔を浮かべて「ありがとうございます」なんて当たり障りのない返しをしたが――僕を、愛理ちゃんが褒めた!喜びでどうにかなってしまいそうだった。その一言をもう一度、いやいやまだ足りないからもう一度と、頭の中で繰り返してしまう。

自慢じゃないが、イケメンなどと評されるのはしょっちゅう。ルックスに関しての褒め言葉なんか、正直に言って最早聞き飽きている。なのに、同じ言葉でも愛理が紡げばたちまち嬉しくてたまらなくなるのだから不思議なものだ。しかも彼女がこうして透の顔かたちについて口にしたのは初めてだから、なおさらだった。

“お疲れ様、でした。目的地に、到着です。お疲れ様、でした………”

カーナビがやかましい。とうとう、着いてしまった――どちらからともなく溜息が漏れたあと、愛理が一足早く口を開いた。

「安室さん、今日は色々ありがとうございました。ほんとに楽しかったです」
「いやいや。愛理さんこそ、急な誘いだったのにお付き合いいただいて。ありがとうございました」
「それじゃ、えっと……失礼します」

名残惜しくてたまらないけれど、こうしていつまでも車内に居座るわけにもいかない。それに先ほど口をついて出た言葉に気恥ずかしさを覚えたのもあって、お礼を言い終えた今、すぐにでも離れたかった。

でも、愛理がシートベルトを外そうと手を伸ばしたところに。

「待って」
「あのっ……」

透は手を重ねてやんわりと制止した。その手は覆うように、しかし愛理のそれの上に僅かな隙間を空けて重ねられているだけで、力ずくで押さえ付けられているわけではない。知り合いにされたように強く握られているわけでもない。だから、手を引っ込めてしまうことだって容易いはずだ。

でも。振り払えない……怖くて体が動かなかったから?違う。振り払いたくなんて、ないから。むしろ、触れたい、触れてほしい。愛理は心からそう思ったからだ。視線を注がれるのを感じて、手に落としていた目線を上げれば、真っ直ぐに見つめてくる透と目が合った。

「まだあとたったひとつ、解けない謎が残ったままなので困っているんです。愛理さん、力を貸してもらえませんか」
「どういうことですか?謎は全部解けたじゃないですか。だって、1問でも問題をスキップしてクリアすることはできませんって……」
「今回の謎解きとは関係が無いんです。ともかく世界中でただ一人、愛理さんにしか解けないんですよ」
「えー、安室さんに解けないのに私が解けるわけないですって!そうだ、それじゃあ毛利先生にお願いするとかは?あと真純ちゃん」

だが。

「いいえ。言ったでしょ?こればかりは毛利先生でも真純さんでも、そして僕でも解けないんですって……何故なら」

透はそっと、愛理の方へ身を乗り出し顔を覗き込んで。

「愛理さんが、僕をどう思っているか、好きかどうか……ほらね?この謎、愛理さん以外誰にも解けはしないでしょう?」
「な、えええっ!?か、からかわないでください!」
「からかってなんかいませんよ。ポアロに愛理さんが初めてやって来た日……一目見たその時から、恋に落ちていました。どうか、僕の想いを受け入れて……恋人になって、くれませんか」

透の真剣な様子に気圧されながらも、愛理はからかわれたわけではないことを彼の態度から感じ取った。そしてしばし押し黙っていたが、数分してようやく口を開く気配を見せたから。

さあ、答えを……透は無言のまま頷いて促す。これまでの反応からして、彼女も自分を憎からず思ってくれている様子が端々に感じられた。断られはしない――。

「まだです、まだ諦めて終わらせちゃいけないと思います!」

そのはずだった。

「え?愛理さん?いや、僕は諦めてなんて」
「だって、えっとその!」

パニックのあまり、愛理の口からそんな言葉が飛び出した。確かに透のことを好きになっていたし嬉しいは嬉しいけれど、本当に驚いたし信じられないという気持ちの方が勝ってしまったのだ。自分は子供だし、おまけに前に「12歳差はナシ」と言い切ってしまったのだから相手にされるわけがない。そう思っていたところへ告白されて動転が止まらないまま、口は勝手に動き続け意味をなさないことばかり紡ぐ。透は「落ち着いて」と声を掛けるが、愛理の耳にはまるで届かない。

「そもそも好きだったんじゃないんですか、私の母のこと!なのに、っ、なんで……うぇっ、ぐすっ」

もしかしてママがダメそうだから、この際娘の私でいいやって思った?やだ、そんなのやだ!愛理の感情は揺れ動きに揺れ動く。思考もあちらへ飛びこちらへ転がり、とうとうそんな考えに行き着きそうになった。幸か不幸か、挙句にボロボロと流れ出した涙に塞がれて口からは出なかったけれど。

「すみません、こんなに驚かせてしまって」

愛理は首をフルフルと横に振った。大丈夫と言いたいのだろうと察し、透は彼女が落ち着くのを見届けてから続けた。

「ただ……よく思い出してほしいんですが。お母さんが好きなのかって愛理さんが訊いてきた時、僕は一言も“はい”とは言いませんでしたよ」
「っえ!?そ、そうでしたっけ……」
「そうですよ」
「じゃ、じゃあ、ヒック、なんであの時、そうじゃないっ、て……えぐっ」
「言わなかったか、って?」

また泣きじゃくっている愛理が続けたそうだったことを推察して訊けば、コクンと頷いたので。照れたように鼻をこすってから、透は。

「それは……愛理さんが、僕が愛理さんのお母さんを好きな理由を推理してみせた様子が、あまりにも可愛らしかったもので、つい見とれてしまったから。しかもそのあと連絡先を教えてくれたことが嬉しくてたまらなくて。結局、僕が好きなのは愛理さんなんですよって訂正しそびれたまま、なんとなくここまで来てしまった……というわけですよ」

17歳を信じさせるには十分すぎる理由を並べられては。

「なんだ……そう、だったんですか。じゃあ、じゃあ私達って……?!」

愛理の流す涙は、段々と嬉し涙へと変わりつつあった。泣き笑いする彼女も可愛いなと思いつつ――想いが実った確信に、透は顔を綻ばせて頷いてから。

「ええ。両想い、ですよね。それでは改めて訊きますが……」

色恋沙汰で緊張する日が来るなんてな。コホンと小さく咳払いをして、手を差し出しながら訊ねた。

「僕の恋人に、なってくれますか?」

愛理はもう、胸がいっぱいで何も言えなかった。だけど、この答えだけはちゃんと伝えなくてはいけないから。答えを口にする代わりに伸ばした手が近づいていく。

重ねられてその距離がゼロになるまで。あと3、2、1――。



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