謎ときどきドキドキ(前編)


数学の教科書とノートを閉じ、愛理は達成感を味わいながらうーんと伸びをする。

今日の日本史の復習も、明日の英語で当てられそうなところの予習もしたし、数学の宿題もたった今終わった。課題は沈黙、オールクリア………お気に入りの小説に出てきた箇所に今の状況をなぞらえて座布団から立ち上がった。本棚代わりのカラーボックスに片付けて、これで良し。

いつもならこのまますぐに明日の時間割や持ち物を揃えたあと、お待ちかねの小説に手を伸ばして至福のひとときが始まる。そういう時間を早く迎えたいと思えばこそ、普段から授業もしっかり聞きよく理解して、課題もすぐに片付けてしまおうと頑張れるわけだ。

ただ、今日はちょっと明日の準備や小説を読むのは後回し。早く確かめたいことがあるのだ。勉強に集中するために切っておいたスマホの電源を入れる。“起動しています”の表示が出ているごく短い間も無駄にせず、手早く布団を押し入れから出して敷くなり寝転がった。隣の隣の部屋では、久方ぶりにアトリエから出てきた母が夕食を作っている最中だ。出来上がったらRineで呼ばれることになっているがまだ連絡は入っていない。しかし、学校の友人達とのグループトークの方には新着メッセージがあると表示が出ている。実は勉強に取り掛かる前、今度の休日に出かけようと誘っていたのだ。

どうかな、一緒に行ってくれないかな……トーク画面を期待を込めて開いたが。

又井卯芽華:ごめんね、その日バレエのレッスンで行けない!発表会近いんだ

まず目に入って来たのは、そんなメッセージと「ゴメン!」と頭を下げる人のスタンプ。そっか、ダメか……でも卯芽華がダメでもあと3人いるしね。そう思いながらスクロールして遡ってみたが。

丸子文乃:もうお姉たちと出かける約束しちゃってるからNGだぁ泣
与羽カンナ:部活の試合あるって言ったじゃん〜
流川睦美:特に興味ないや。パス。

このトークのメンバーは、愛理も含めて全員幼稚園に入った日からの付き合いだ。揃って18歳を迎える来年で実に15年という姉妹同然の付き合いになる分、断り文句こそ四者四様ではあっても一様に良くも悪くも遠慮など無かった。

「えー、みんなダメ!?まさか全滅だなんて」

愛理はメッセージを見ながらがっかりした。確かに直前の誘いになってしまったから、既に予定が入っている可能性はもちろん考えていた。それでも誰か1人くらいは空いているんじゃないかという希望的観測もあったが、ものの見事に打ち砕かれてしまったわけだ。

でも、行けないものはしょうがない。それに、睦美の裏表がなく好き嫌いがはっきりしているところが好きだからこそずっと親友でいるのだ。素っ気なく断られようが今更腹を立てはしない。

“了解〜”

そう返してトーク画面を閉じる。そこからインターネットにアクセスして、杯戸セントラルモールのサイトを開く。さらに特設ページに飛んで、表示されているタイトル――『探偵左文字SOS!西洋絡繰庭園の謎を解け!』を、目でなぞりながら独り言を言った。

「謎解き、こうなったら1人だけでも参加してみよっかな。でも心細いしクリアできる気がしないし。けど左文字のならやっぱり行ってみたいし……どうしよう」

きっかけは帰りのバスで見つけた広告だった。今日は学校帰りに杯戸町の耳鼻科にかかったあと、いつも通学の行き帰りに使うバスとは違う系統を利用して帰って来たのだ。

その時車内をなんとなく眺めていると、杯戸セントラルモールというショッピングモールが新しくオープンしたことと、それを記念してのさまざまなイベントのお知らせが目に入った。そしてその中でも『探偵左文字』シリーズとコラボレーションした謎解きに強く惹かれたのだ。

謎解きゲームのことは耳にしていたし少し興味があった。だが、探偵小説が好きでよく読むとはいっても、謎解きがスムーズにできる自信は無いからなんとなく見送ってばかりいた。それでも好きな作品が絡んでいるとなればやはり気になるし、これを機に挑戦してみようかとも思うもの。今週の日曜日が最終日とあればなおさらだ。友人達が自分とは違い、探偵小説には興味がないことをもちろん知ってはいる。ダメ元でも誘ってみたのは、1人では考えつかないことだって、誰かが自分とは違う視点から思いもよらないヒントをもたらしてくれて解決できるかもしれないから。現に小説にはそういう場面が沢山出てくるではないか。だが、見事にアテは外れてしまった。

「あーあ、もう少し早いうちに知ってれば誰かオッケーだったかも」

お腹が減っているのを感じながら少しばかりの後悔をしかけたが、でも何も学校の同級生だけにこだわらなくたっていい。例えば……ううん、無理だよね、忙しいんだから。お隣さんを思い浮かべたがすぐ候補から外した。真純ちゃん達はどうかな?もしダメそうなら道場の子達とか、いっそママとか。再びRineを起ち上げ、誘いを掛けようとした。

ママ:お夕飯できたからいらっしゃい

だがそこにお待ちかねの母からの呼び出しがかかった。しかもお腹が鳴るのと同じという奇跡的なタイミング。送るのは食後にしよう。

“今行きまーす”

そんなスタンプを返しスマホをスタンドに置く。フックに掛けてある鍵束をサッと掴んで部屋を出れば、すぐ玄関に着いた。

「いいアトリエを見つけたから、そこの近くにある1LDKにお引っ越しするわよ。いっぺん狭いところに暮らしてみたかったしね」

メゾンモクバに越してきて早半年ほど。引っ越すことにしたと母が告げてきた時は「アトリエに引きこもってるから日付の感覚がおかしくなって、今日をエイプリルフールだと思ってるのかも」などと本気で考えた。果たして冗談ではなかったわけだけれど、実際に部屋に入った時は、本宅の自分の部屋の半分もあるかどうかの広さしかなくて驚いたものだ。

とはいえ、本宅と比べれば確かに狭いけれどそう悪いことばかりでもない。最初のころは欠点にしか思えなかったそんな点も、家の中を行き来するのに時間がかからなくて便利なことの裏返しだと気付いた。本宅は広いので、玄関先に辿り着くまで全速力でも3分は見なくてはならなかった。だが今の家なら1分も要らない。忘れ物をしてもすぐに取りに引き返せて時間がかからない、これは愛理にとってはすごいことなのだ(使用人に頼んで持ってきてもらえたら楽だろうけれど、「自分で忘れ物に気を付けなくなるから頼まれても応じないように」と母が使用人たちに言い付けているのでしてもらえない)。

それに何より……素敵なお隣さんがいる、ただし割と留守がちだけれど。自分の部屋を施錠して共用廊下を何歩か行けばすぐ母の部屋に着いたが、ドアノブに手を伸ばす前、ちらっと隣の部屋のドアを見て思う。

――安室さん、そろそろ帰って来るかな。それともいつかみたいに、夜遅いのかな。鍵を開ける愛理の手は止まって、視線はお隣のドアに吸い寄せられていく。

「今回の依頼は1週間くらいかかりそうなので、ハロをペットホテルに預けに行くんですよ」

父のことを打ち明けた夜から数日後、二学期の始業式の日の朝。玄関口でばったり会った透は、そう言う通りペットキャリーを提げていた。彼の車を停めてある駐車場と、愛理が使うバス停までは同じ道のりだから、一緒に歩いていく最中に「来月から、ポアロの秋の限定ケーキにリンゴとさつまいものタルトを出すことになったんです。結構自信作なので、愛理さんにも楽しんでもらえたら嬉しいです。お待ちしていますね」とか「度々で申し訳ないんですが、おそらくまた〇日まで連絡ができないと思います。もし何かあればその日以降に必ず返信しますからね」とも。

ただ、それだけでなくて……思い返していくにつれ、暖かくて優しい掌の感触が蘇ってきて愛理は顔が赤くなった。実は別れ際、彼は「それじゃあ愛理さん、気を付けて」と言いながら愛理の頭と、続いて頬を撫でたのだ。

その時の心臓のうるさかったことと言ったら!合気道の稽古では同性同士はもちろん異性とも技をかけ合うが、その時はいくら触れられても別に何とも思わないのに。驚いて思わず透を見上げれば、優しく微笑み返されて……。

時が止まればいいのに、とはああいうシチュエーションで使うのだろうか。手が離れたあとも遠ざかっていく背中をぼうっと見送りながら立っていたが、気が付けば余裕で間に合う時間のバスを逃してしまっていて。結局、なんとか遅刻は免れたもののギリギリに教室に駆け込むことになってしまった。しかも掃除当番の後、担任の先生と生活指導担当のシスターに呼ばれ「今朝はどうしましたか?跡良さんが遅刻寸前の時間に来たものですから、何かあったかと」などと心配されるという、思わぬおまけ付きで新学期は幕を開けたのだった。

そんな日の夜から、透は何もメッセージを送って来ていない。愛理からも何も連絡してはいない――「あれはどういうつもりだったんですか」と訊きたくてたまらないのを、必死に抑えて。そんな我慢ができるのは、彼がいつ頃から連絡が取れなくなっていつ帰れそうなのか、おおよそではあっても毎回律儀に予め知らせておいてくれているおかげだ。だからこそ、その期間が明けるまでの辛抱なのだからと耐えられるし、いつまた顔を見せてくれるのかと不安になりながら過ごさなくて済んでいるのだ。

“探偵の仕事で何日か家を空けることになった時は、前もって連絡の付かなくなる期間を、前後してしまう時もあるかもしれませんが目安として伝えておきますね。そしてその間、愛理さんも僕も、お互い一切メッセージは送り合わず、僕の仕事が終わり次第こちらから連絡するのをもってやりとりをまた始める。こういう形を取らせてほしいんです。勝手を言って本当にすみません。愛理さんは探偵小説がお好きだそうですから解ってもらえるかと思うのでお話しておきますと、依頼人の方とのやり取りに集中したいからです。それに仕事柄尾行や素行調査だとか、相手に気が付かれるとまずいこともしているので、通知音やバイブレーションも入らないようにしておきたくて……実は以前も、携帯の通知音でターゲットに気が付かれて大変だったことがあるんです。ですので、その1点だけはどうか必ず守ってください”。

これはIDを交換した直後に透に頼まれたことだ。母親の部屋に上がり、手を洗ったあと配膳を手伝いながらも、愛理の心に浮かぶのは彼についてのあれこればかり。

あの時は、お仕事に真面目なひとなんだなあ、ということ以外何も思わなかった。“わかりました!”などと返信して応援するキャラクターのスタンプを送りながら、その間にママの情報を集めておいて、連絡がまた取れるようになったらたくさん伝えてあげよう、ママにも安室さんのことを色々話して興味を持ってもらおうと考えた。そうして二人の仲を進展させようと、愛理なりに努めてきた。

……でも今は、そんな約束なんて破ってしまいたい。きっと嫌われてしまうからしないけれど。そうだ、今日がその〇日だけど、ちゃんとお仕事はスムーズに行ったのかな。約束通り、終わったらちゃんと連絡をくれるのかな。探偵のお仕事ってホントに不規則なんだ、会いたい時に会えないのって寂しい。早く連絡取りたいな……そう、思ってしまう。

そこまで考えてハッとした。何言ってるんだろ?安室さんが好きなのはママなんだからね、橋渡ししますって約束したんだからね、なのに私が寂しがってどうするの。頭をフルフルと振って、ダイニングチェアに腰を下ろした。

母と一緒に「いただきます」と口に出してから、愛理は今日学校で何があったとか耳鼻科でどうしたとか、母は来年あたりまた個展を開くことになりそうだとか、そんな話を色々したあと。件の謎解きに行かないかと提案したが「そういうのはよく解んないからお友達と行きなさい」とあっさり却下された愛理は、がんもどきの含め煮に箸を伸ばしてさりげなく切り出した。

「安室さん、ママのこと気にしてたよ?」

今年で父を亡くして15年。ママもそろそろ、新しい恋を始めてもいいんじゃないのかな……きっかけはふとそう思ったことだった。母は父のことを今でも大好きなのだとよく解ってはいる。だが、いつまでも思い出に囚われているように思えて、見ていて辛くもあったのだ。

そんな折、母のことを好きらしいお兄さんとお隣さんになった。お裾分けしてくれるおかずは母の好物ばかりだし、作品を飾ってくれているし、母の前ではとてもにこやかだし。これって運命みたい!しかも安室さん本人に訊いてみたらやっぱりママのこと好きみたいだし、これってうまくいくんじゃないのかな!?……そう思って“安室さんとママをくっつけよう作戦”――ネーミングセンスについては何も言わないでほしい――を始めてしばらく経つわけだが。

「……愛理。いい加減しつこいわよ」
「はひっ」

“戦果”は、一言でいうと全くはかばかしくない。これまでどれだけ愛理が透のことをあれこれ母に聞かせても、興味を持つ様子は微塵も無い。しかも今のこの声と表情は怒り始めの時のそれだ。これ以上この話題を続けないで、ということだろう。迫力に気圧されてがんもどきをゴクンと飲み込んだ娘に、母は今度は諭すように言い聞かせ始めた。

「ママは新しい恋を始める気は無いわ、パパ以外のひとはこの先一生目に入らないんだからって。何回もそう言ってきたでしょ?確かに安室さんもパパを思い出すような素敵な方だけれどね、だからって好きになるわけじゃないの。パパはパパ、安室さんは安室さんなんですからね」
「はーい……」

魂胆をとっくに見透かされていることを知ってはいても、愛理はそれでもめげずにやってきた。だが、作戦はいよいよ失敗に終わりそうだ。母が身に着けたネックレスの、プラチナでできたペンダントトップ――父の形見が、ダイニングの灯りを反射してキラッと輝く。

もう、くっつけよう作戦はやめた方が良いのかも。ううん、やめたい。愛理は母が毎度おなじみ「パパがどれだけ素敵なひとだったか」と語り出したのをBGMにご飯を頬張りつつ、一方で羨ましくなった。母が父のことを語る時の眼がとても美しいことを改めて目の当たりにしたからだ。ウットリしていて、亡くした今でも深く愛しているひとを間近で見つめているかのよう。ママにとってのパパみたいに、ずっと好きでいられる大事なひと。私にも、いつかできるのかな……それが、安室さんだったら。

一瞬浮かんだ考えをすぐに嗤って打ち消した。何考えてるんだろ。ママがそのつもりなくたって安室さんは諦めないかもしれない、私がお付き合いできるってことになるわけじゃないんだから。無理矢理にでも納得させて、お椀に残った味噌汁を飲み終えた。

「ごちそうさまでした」

席を起って食器をシンクに置き、スポンジに洗剤を一滴含ませた。自分が使った食器は自分で洗って片付けるというルールなのだ。

「ねえ、愛理」
「なあにママ」

そこへ話しかけてきた母に手を動かしながら応える。

「これまで安室さんのことを色々話してくれたけど……そうしてる愛理が、ママにはすごーく嬉しそうに見えるのよね。まるで好きなひとのこと話してるみたいに。間違いないわね、これは恋よ!」
「え!?っそ、そんなことないっ」

図星を突かれて焦ったあまり、取り上げた食器が手から滑り落ちてガチャンと音を立てた。恐る恐る見てみたが良かった、割れてはいない。

「そんなことあるわよー、あらあら大丈夫?まあ大好きな探偵さんで、おまけにあんなにハンサムだものね?」
「笑わないでってば、っていうか好きなのは小説だからああもうっ」

背後からは母が面白くてたまらないとばかりに笑う声がする。「全く、娘をおもちゃにしないでよね」と振り返って愛理は軽く睨んだ。だがどこ吹く風といったふうの母は、さらにこうも続けた。

「さっき言ってた謎解きっていうの?ママは興味ないけど安室さんだったらお好きなんじゃない、お誘いしてみたらどうかしら」
「でもきっとお仕事で忙しいよ。じゃ!お風呂入って来るねっ」

そう言うが早いか、愛理は残りの洗い物も片付けるや一目散に自分の部屋へ――その途中も透の部屋のドアに目をやって――戻った。鍵を閉めて部屋に上がるなり短い廊下をズンズン突き進み、給湯器のスイッチを入れてから布団にダイブしスマホを操作し始める。まずは蘭、園子、真純とのグループトーク画面を開こうとして……だがその上にある【安室透】の表示がふと目に入って、次第に想いがぶり返してきた。彼の名前を見つめながら、思うのは。


お隣さん、もとい安室透と喫茶ポアロで初対面を果たした日のことは、実を言うとそんなによく覚えていない。大ファンである作家の家をこの目で見たあと、名探偵の名前を冠する喫茶店に来たのだという興奮、そして美味しいロイヤルミルクティーの前では、正直なところ店員の顔かたちなんて気にするどころではなかったのだ。

だが、まさか引っ越してきた部屋の隣に住んでいようとは。挨拶に訪れた際、彼が応対に出て来た直後は「金髪で日焼けしてるなんて、もしかしたら怖い人かも」と体が竦んだが、背後に母の作品を飾ってくれているのを見つけて嬉しくなりたちまち緊張がほぐれた。

かくして喫茶店のウエイターと一度訪れただけの客、という関係からご近所さん同士になった分、透の印象は日を追うごとに覆されることになった。

まず判ったのは、世話好きで話好きということ。金髪碧眼の外見とは裏腹に和食派で、絶品のおかずをお裾分けしてくれたり、登下校の時だとかに出くわした時には色々話しかけてきたり。愛理は透くらいの年代の男性と接する機会が少なく慣れていなかった分、最初の頃は素っ気ない態度を取ってしまうことも多かった。

だが、透は気を悪くするふうでもなく、米花町のあれこれについて教えてくれつつ、愛理に踏み込みすぎない程度の色々な質問をしてきては様々な反応をくれた。次第に愛理も打ち解けてくるにつれ、自分から他愛もない話をするようになったが、それにもしっかりと耳を傾けてくれた。

おまけに探偵として色々なことを見聞きしているからなのか、透は物知りで話がとても面白いのだ。回数を重ねるにつれ、いつしか彼と話すのが愛理にとって行き帰りの密かな楽しみになった。逢えない日は寂しくて、逢えた日はなお嬉しくて。透が母を好きらしいことに気が付いた時には「安室さんがお義父さんになってくれたら」と本気で願った。だからこそ母との橋渡しを買って出たし、鍵を忘れてしまい家に入れなかったあの日に雨宿りをさせてもらってからはますますそう思うようになった。

とはいえ花火大会の日に、自分の恩人に取ったあの失礼な態度には正直かなり幻滅したのも事実で、それ以来つっけんどんに接してしまっていた。

しかし、あのテロには父親だけでなく、直接巻き込まれたわけではないものの、もう1人の家族を奪われていた……ようやく心の整理がついた母にそう聞かされたあの夜。幼い頃、父の死をまだ理解できなかった愛理は、母に姿の見えなくなった父の居場所を訊ねたら「お星様になって遠くへ行ったのよ」と言われた。だからだろうか、初等部に上がって『いつくしみ深き』と、よく似たメロディーの『星の界』を習ってからは、父の命日には夜空を見上げながらこの曲を口ずさみ捧げるようになったのだ。だが今年は父に加え、弟とも妹とも判らない間に召されてしまった小さな命を悼みながら歌ううちに、小声はいつの間にかそれなりのボリュームになっていたようだった。

そんなところへベランダに出てきた透は、歌声がうるさいなどと咎めはしなかった。そればかりか、逆に愛理を慰める言葉を掛けてきて。しかも奪われた家族のことを、1人で受け止めるには重すぎるからと明かしたあと。ずいぶん長いことベランダで泣きじゃくっていたのに、部屋に戻ることなく、悲しみにくれる愛理が泣き止むまで何も言わずにずっとそばにいてくれた。

おまけに、その前に「辛い思いをされましたね」と掛けてきた声に滲んでいた何か。あれは、同情とかでなくて共感だった。まるで彼にも、誰か大事なひとを理不尽な形で喪い悲しみを抱えることになった過去があるかのようで……だからこそ、心を開いて打ち明けられたのだと、思う。そして、寄り添ってくれたあの優しさと、始業式の日に触れてきた手のぬくもりは、恩人に取っていたひどい態度への憤りをきれいさっぱり打ち消して――とうとう好きに、なってしまっていた。


「……あれ?またかあ。変なの」

ID交換をしたあの時、12歳差はナシだなんて言い切っちゃったから今更相手にはしてもらえないんだろうな。ううん、そもそも私じゃ子供過ぎてきっとそんなふうには見てもらえない。もっとオトナなひと、例えばこの間新しく入ってきた英会話担当のサンテミリオン先生みたいな人だったら映えるっていうかお似合いなんだろうな……色々な思いがグルグルと渦巻く中、愛理は透とのこれまでを振り返り終えて後悔したり羨んだりした。

でもそうだ、Rineを送るんだったと再びスマホの画面に目を落とす。すると不思議なことに、時間にすれば10分程度かそれくらいの間なのに、バッテリーが15%近くも減っているのに気が付き顔を顰めた。春先に新しいものに交換してもらったばかりだというのに、確か期末テストの少し前あたりから妙に持ちが悪くなっていた(愛理は知る由もないが、雨宿りをした日に透が仕込んだ遠隔操作アプリが稼働しているせいだ)。ママに頼んでキャリアショップの担当さんに来てもらわないと、と愛理は考えた。

安室透:こんばんは、愛理さん。夜遅くにすみません。お元気ですか。
仕事が終わりまして今から帰るところです

「あ!」

だが、そこに届いた新着メッセージは、バッテリーのことなど頭から吹き飛ばしてしまった。やった、安室さんからだ!途端に胸が高鳴り出して。

跡良愛理:こんばんは、お仕事お疲れ様です!

即座に返信してスタンプも送れば、次の瞬間には既読が付いた。連絡をくれたことと、久々のやり取りに心を躍らせ始めて数分後――愛理は思わず「きゃー!」と叫んでしまった。無理もない、だって、だって……!

安室透:ありがとうございます。
愛理さんにそう言ってもらえると仕事の疲れも吹き飛びますよ。

というメッセージの次に来たのが。

安室透:突然なんですが、今週の日曜日のご都合はいかがでしょうか?
杯戸町にあるショッピングモールで謎解きゲームが開催されているんですが、
その招待券を頂いていたのを思い出したんです。
左文字シリーズとのコラボレーションですから、愛理さんはもしかした
らお好きかなと思いまして、ご一緒できればと

というものだったのだから。

丁度お風呂が沸いたことを告げる音が流れたが、透からのそんな誘いに心臓が一際大きくドキンと鳴れば耳に入らなくて当然。これまた素早く

跡良愛理:空いてます!是非!

と返すのが先というものだ――本当に探偵の仕事をこなした後、組織の任務を終えてベルモットと別れた透が、自宅に帰るまで待ち切れず、愛車を駆る前に遠隔操作アプリを使い、愛理の友人達とのRineのやり取りを覗き見た上で送ってきているなどとは夢にも思わずに。



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