涙時雨


今日も今日とて聞こえてきた蝉の大合唱は、ベランダの引き戸を閉めた部屋の中にさえ漏れ聞こえてくる。ジョウロ代わりの容器を持つ手の反対側の手で鍵をしっかり閉めたあと、透は一筋伝い落ちていく汗を手の甲で拭った。

ほんの少し外へ出ただけだというのにこれか……透は溜息をついた。連日うだるような暑さが続いている。今日もまた35度を超えるだろうとの予報だった。今年の暑さも尋常ではない、まだ朝の7時半を回ったばかりだというのに。体を冷やさないよう冷房は最高温度にしてあるが、それでも涼しく感じる。プランターの水やりのために、ほんの一瞬ベランダへ出ただけでも汗が出てくる陽気の日に、しかもいくら夏用とはいえスーツを着て出かけるのだと思うと、少しばかり気が滅入りそうになってしまう。

だが、そうも言ってはいられない。クローゼットに向かい着替えを始めた。今日は本庁に出向くのだ。裏の理事官に報告を行うついでに、書類の山また山も少しでもやっつけなくては。ワイシャツの最後の前ボタンを止め終え、靴下とスラックスを履きベルトを締める。シャツの袖を捲ってから、ネクタイケースを鞄に入れジャケットを手に持った。

警察庁も含めた各省庁は目下クールビズ期間中。男子職員はその間は特段の事情が無い限りノーネクタイ・ノージャケットを徹底するようお達しが出ている。それでもその2つを携えて行くのは、本庁に行く前に大事な予定があるからだ。今日は午前半休を取っていた。カレンダーの印を付けた日は……あいつらの、月命日。今月もまた当日に行けなかったが、ともかく暑くても軽装はないよな、と考えて。

出かける前の最終確認のため鞄の中身を覗き込む。車のキーに携帯に、熱を取ってしっかり保冷してある弁当箱、それから墓参に使うあれこれ、そして安全装置をしっかり掛けた拳銃もちゃんと入っているのを見てこれでよしと頷く。忘れちゃいけない、出かける前にハロのためにちょうどいい温度に冷房を設定し直す。玄関へ歩き出したのを聞き付けて、小さな足音が後から追って来た。

「行ってくる、ハロ。留守番頼んだぞ」
「アンッ!」
「良い返事だ」

愛犬が冷房を利かせておいた部屋からわざわざ出て来て見送りに来た。よく言い聞かせたおかげか、はたまた味が好みでなかったか(透はセロリを与えた時の反応から後者だと思っている)、苗はもう盗み食いしなくなったからそのことを言い置く必要は無さそうだ。

靴を履き終え、壁に掛けた絵を少し見たあとハロを一撫でしてやった。そして後ろ髪を引かれる思いで、いざ荷物を持って玄関を出れば。

「なんて暑さだ……」

鍵を閉めて何歩か廊下を歩いただけなのに、たちまちムワッとした空気に包まれて不快指数が急上昇していく。ベランダ菜園の水やりも大事だが、僕も水分補給を怠らないようにしなくては。今日のポアロではきっとアイスがよく出るんだろうな、ジンやウォッカはこの天気の中でもあの黒ずくめの服でいるんだろうか?もしそうなら熱中症にならないのか?それにしても愛理ちゃんに最近会えていないな……。
 
!? あの車は? 愛理のことを思い浮かべながら、階下へ続く階段を降り始める寸前。メゾンモクバの前の車道に見慣れない車が停まっているのを見つけ、透の目はそれに釘付けになった。

黒の、セダンタイプ。あれを使っている奴は確か……公安のマーク対象や組織の構成員の情報を、頭から次々引っ張り出して身構える。職業柄、どんなに小さな異変であっても、いつもと何かが違えば即座に気が付く。というより、そうあらなくてはならない。加えて、マーク対象に付け狙われている可能性があることも常に念頭に置いておかなくてはならない。鞄に手をやり、昨日手入れをしっかり済ませたばかりの拳銃のありかをもう一度確認した。

だが、幸いなことに杞憂に終わった。件の車からは、背広をきっちりと着込んだ初老の男性が降りて来て、会釈しながら後部座席のドアを開けている。殺気だとか、あの手の連中が纏う独特の何かは全く感じられない。

何のことはない、ハイヤーだったか。透は警戒を解いて階段を降り始めた。今いる位置からは見えないが、先ほどのように会釈しているからには、これから乗り込む相手はすぐ近くにいるのだろう。乗り込んでいくのは――。

「……!」

目線を外そうとしたが、できなかった。踊り場から見えたのは、まずブラックフォーマルに身を包んだ愛理の母。続いて略装に当たる盛夏服ではないほうの制服を着た愛理。2人が乗り込んだとあっては、目を凝らさずにはいられなかったのだ。

法要だな。動き出した車を見送りながら瞬時に見当を付けた。推理するまでもない、母娘の出で立ちと今の時期という決定的な証拠が揃っているから。愛理の学校の夏休みが終わるまでもう少しあるのは把握済み、学校絡みの線は無い。そうか、今日はあの子の父親の月命日でもあるんだったよな……。

でも。愛理の父親が瞑る霊園が徒歩圏内にあることも彼女の口から聞いていた。だというのに何故、ハイヤーで出かけて行くのだろう?まあ今の時期が時期だ、他の親類縁者の法要という可能性も十分あるか。

そんなことを考えながら透は駐車場に辿り着き、愛車に乗り込むや即座に冷房をかけた。発進する前にハンカチで汗を拭きながら、最早お馴染み遠隔操作アプリを立ち上げる。指はスイスイ動いて、例によって愛理のスマホに仕込んだアプリで向かった先を突き止めようとしたが……。

「またか」

小さく唸った。愛理のスマホは電源が切られている。こうされてはさすがに何をしているのかも見えなければ、どこへ向かっているのか、GPSをもってしても追跡は叶わなくなる。法要ということで予め電源を切ってあるのだろう。前にも「車の中でスマホ使ってると5分もしないうちに乗り物酔いしちゃうんですよね。本を読むのは大丈夫なのにな」と話していたことだし。スマホを放るようにして鞄にしまい、シートにもたれかかった。

――愛理ちゃんに、会いたい。ここ最近、透は彼女に飢えていた。声が聞きたい、顔が見たいし話がしたい。冗談抜きでおかしくなってしまいそうだった。

最後に愛理に直接会って話したのはもう10日以上前だ。正確に言えば、話したというより、クラスメイトの家のプール――その日もGPSで追跡していたのだ――から帰って来た彼女に「こんばんは、愛理さん」と声を掛けただけ。とびきりにこやかに、明るく。

しかしその時「こんばんは」とひとまず応じた愛理の声は、ひどくよそよそしい響きがした(なのに、少し興奮を覚えもした)。透の方はチラッと見ただけだったし、挨拶を返すが早いか部屋に引っ込んでしまい、会話に発展させることもできなかったのだ。透は「今日も暑いですね、だからってクーラーを点けっぱなしで寝ていませんか?」などと続けようとしたのだが。

愛理があんな態度になったのは……考えるまでもなく、花火大会の日に透がキャメルに見せた言動が原因だろう。それはそうか、愛理は透がFBIを毛嫌いしていることなど知る由もないのだ。おまけに、そこに彼女にとっての恩人を犯罪者扱いするような振舞いを見せたとあっては。ここからどう挽回したものかな……考えを巡らせども、これという妙案は出てこない。

実はその翌日、透はまた組織絡みの件で連絡を取れなくなりそうだったので「〇日から重要な仕事で連絡が取れなくなります」などとRineでメッセージを送っていた。しかし愛理から返って来たのは「わかりました」という一言だけ。今までのように「お仕事頑張ってください」だとかも無ければ、いつも必ず送って来る母親についてのあれこれはおろかスタンプさえ添えられていなかった。どう見ても義務的な返事でしかない。無視されないだけマシなのかもしれないが、透は自分の過ちに頭を抱えるしかなかった。愛理に思うようにアプローチができていないばかりか、想い人との間に溝ができる事態まで招いてしまうなんて……クーラーが効くまで待てず、鞄から今度は扇子を取り出して広げ扇ぎながら顔を顰めた。

しかもだ。愛理との今のところ最後の挨拶を交わした翌日、彼女は合気道の合宿に出かけた。その上、終わってからすぐに母親に伴われ、軽井沢の別荘へ移ってしまった。帰京したのはつい昨日。おまけに、夏休みに入る前に話していたが、合宿の間は稽古に集中するためスマホは宿舎の金庫に預けなくてはならないし、別荘にいる間も母親との取り決めでスマホをよほどのことでもない限り使わず、電源も切ってしまうと言っていた。

「だからその間はちょっとご連絡できないです、ごめんなさい」

愛しい声を記憶の中でリフレインしながら思い返す。そして予告通り、結局1週間以上電源を切ったままだった。そんなわけだから、今日これから跡良母娘がどこへ何をしに行くのかを今の今まで掴めなかったのだ。

ようやく冷房が効いてきた。もう一度スマホに伸ばしかけた手を引っ込めてエンジンをかける。なまじアプリで見ようと思えばいつでも愛理の様子が見聞きできていた分、自業自得なのは重々承知だが今の状況が辛くてならない。

しかし、いつまでも悔やんでいたって仕方ない、僕も本格的に暑くなる前に出よう。透は目的地へとナビも見ずに発進した。



その夜。日中の暑さは収まり、からっとした空気の中家に帰り着いた。ハロの散歩と夕食も済ませシャワーも浴びた、あとは眠りに就くだけだ。日付が変わるまであと1時間を切っていて、ハロはとっくに寝床に入って夢の中。

僕も寝るか、こんなに早いうちにベッドに入れる状態になる日なんて滅多に無い――でも。「寝る前にスマホだとかの機器をいじるとブルーライトが安眠の妨げになってもってのほかだ」なんて、ベルモットにアドバイスをしたくせにな。透は自分を嗤いながらも端末に手を伸ばして操作し始める。

愛理に、何か言葉を掛けたかった。昼間に知った、彼女の過去のことを思い浮かべていると、なおさらそうしたくてならなかった。いつものように近付くためではなく、今夜はただ、あの子が抱えているはずの悲しみに寄り添いたくて。愛理のスマホはまだ電源が切られているかもしれない。直接言いたいところだが、もしそれができなさそうなら、素っ気ない返事が文字で残って心にグサグサ刺さるだろうことを覚悟の上でRineでメッセージを送ろう……。

いや、待てよ。例のアプリを起ち上げれば、愛理のスマホの電源が入っていることが判った。位置を調べてみると、彼女が既に帰宅して隣の部屋にいることも。だが動画モードにしてみれば、映ったのはパジャマ姿の愛理の背中だけ。彼女のスマホが立てられているスタンドの位置からは、ベランダに出ていて、空を見上げる合間に手を顔にやって何やら動かしている様子は見えるものの、表情までは映っていない。

だが透には解っていた。この仕草は、泣いているんだろうな。直接言葉を掛けても良いものかどうか、少し迷った。しかし公安講習で「気は長く、しかし機は見逃すな」と散々言われてきたからには。今が、その“機”のはずだ。

頷いてベッドから起き上がり、パジャマ代わりに適当な服を身に着け――いくらベランダには仕切り板があるとはいえ、寝る時の全裸同然の恰好で愛理に向き合いたくはなかったから――、ベランダへ出た時、透の耳が捉えた音があった。

〜〜

聖歌だ。入庁直後に世話になっていた上司の奥方がクリスチャンで、その葬儀に参列した時に歌ったことがある。キリスト教の葬儀では、参列者は信教にかかわらずその時だけでも全員聖歌を斉唱するのがマナーだから。

そしてこの曲は『いつくしみ深き』だ。小声の悲しげな響きは悼む心を映すかのよう。だが、愛理ちゃんは何故知っているんだろうか……そう思いかけたがすぐに愚問だったと気が付く。クリスチャンではないと話してはいたが、彼女は幼稚園からミッションスクールに通っているのだ。そうした歌の1曲2曲歌えても、習い性となって折に触れて口ずさむようになっていてもおかしくはないだろうな。

しばし耳を澄ませ、愛理の唇が聖歌を紡ぎ終えるのを見計らい……今だ。3、2、1……仕切り板の向こうに届くように、声を掛けた。

「……こんばんは。愛理さん」
「! ……こん、ばんは」

返答はワンテンポ遅れた。歌を歌うことに意識を向けていて透に気が付いていなかったのかもしれない。応える声はよそよそしくはなかったが涙声だった。

「ごめんなさい。うるさかったですか」
「いえ、そういうわけでは全く」
「本宅にいる時の癖で、大声で歌っちゃってたかも……そっか、ここ集合住宅だからそういうのダメなんですよね。慣れてなくてご迷惑おかけしました。これから気を付けますね、おやすみなさい」

愛理は透がベランダに出てきた理由を、歌声がうるさいと咎めるためだと思っているようだった。バツが悪いのか、口を挟ませないほどの早口で詫びたあと、ベランダに出るための外履きが立てているらしいパタパタという音がする。ダメだ、まだ行かないでくれ。

「待って。さっきの歌は……」
「はい?」

仕切り板一枚を隔てた向こう、愛理はどんな表情でいるのだろう。すぐ近くにいるのにまだ遠い彼女に想いを馳せながら、透は切り出した。

「お父さんに、捧げていたんですか?」
「……!?」

愛理がハッと息を呑むのを聞き、透はなおも続けた。

「15年前の、特急日ノ本898号爆破テロ。その犠牲になった、愛理さんのお父さんに」
「なんで……」

愛理はそれだけ言うのが精一杯。本当に驚いて何も、はいともいいえとも言えなかった。透も彼女の顔こそ見えなかったが、伝わって来る雰囲気からして内心そう思っているのをひしひしと感じていた。

沈黙が降りる。5分が過ぎたか、10分が経ったか。愛理はまだ何も言わなかったが、透は急かさない。彼女がまた口を開くのを待つことにしながら、昼間のことを思い出していた。



遡ること数時間前。今日が本庁に出向く日でよかった――透は、いや、零は、警察庁の自分のデスクでパソコンに向かいながらそう確信していた。

月命日参りのあと、予定より早く登庁して昼食を済ませ、私物のスマホでニュースを見ていた時だった(警察庁は情報漏洩防止のため、各自に貸与された業務用端末を使ってのネット接続はできないようになっている。ネット接続できる端末もあるとはいえ、各課に数台しかない上共有なので、気兼ねなくネットをしたいなら私物を使うほかないのだ)。裏の理事官に指定された時間まではまだもう少しあったから、これを見終えたら片付けられそうな書類から先に取り掛かるつもりでいた。

画面の中ではニュースの短い概要が横に添えられた動画が次々と切り替わっている。ビッグ大阪はチーム始まって以来の快進撃を続けているらしい。東都水族館は先の大観覧車崩壊事故に伴い再びの大規模工事中だが、他の水族館に一時的に避難させているシロイルカに子供が生まれたそうだ。なんでも、左右で目の色が違うという非常に珍しい特徴を持っていて、再開の目玉とするべく名前を公募することになったとか。

そんなニュース云々を、平和そのものだとさほど特に気にも留めないまま流し見していた。自分たちが関わり合いになりそうな事件らしい事件は今のところ無さそうだ……。

だが、そこへ表示された次のニュースに零は大きく目を見開いた。

“特急日ノ本898号爆破テロから今日で15年、東京・角の内で追悼式典”

……愛理、ちゃん?思わず声に出しそうになったのを、どうにか押し留めながら画面を食い入るように見つめる。すぐに次のニュース(“キャンベル・フサエ、パリコレに初参加を発表”)が表示されたが、先ほど確かに見間違うはずの無い、制服を着た愛理の後姿が映っていたのだから。

同時にその瞬間、零の中で全てが一本の線でつながった。15年前。跡良という苗字に覚えた何かの正体。愛理の目元に覚えた既視感。

これだ!これだったのか!記憶を引っ張り出そうにも、その手掛かりとなる事柄が何なのか思い出せないことにはどうしようもなかったが……きっとそうだ、間違いない!書類なんて今は後回しだ。零はスマホを横に置くや指紋認証で業務用端末にログインし、マウスにサッと手を伸ばした。

まずは庁内システムであるP‐WANにアクセスし【公安捜査資料閲覧許可願】というデータベースを見るための申請画面を呼び出す。これは日本国内で起きた、全ての公安事件に関するあらゆる事項、発生日時を始め各事件の犠牲者一覧をも網羅しているもので、愛理の父の情報も間違いなくあると踏んだのだ。

周りが驚いたような表情で見てくるのにも構わず、キーボードを静かに、しかし速く叩き、必要な事柄を打ち込んでものの1分少々で提出を済ませた。本庁には「公安捜査適任者名簿」に氏名が載っている特定の公安警察官だけが閲覧を許される資料がある。もちろん零もその1人だから、その特権を大いに使わない手は無いのだ。何にでもかんにでも、二言目には申請に届出に伺い、それから決裁が要るのがお役所というところだから手続きがまあ煩わしいことこの上ないが。

するとほどなくして、許可願を仮受付したとの旨と、受信から3分以内に打ち込まないと無効となるテンポラリーパスワードが載ったメールが自動システムにより返信された。そう、まだ仮受付の段階だ。ここから更にログイン画面に戻ってそのパスワードと、入庁時に付与されている6桁の職員番号を打ち込む。すると【公安捜査適任者名簿記載者と確認、閲覧を許可】とのポップアップが出て、ようやくお目当てのデータベースが表示された。

手間のかかることをしてくれるものだな。せっかちにマウスを動かして操作しながらもどかしさが募る。すぐにでも見たいというのに……ハッキングやサイバー攻撃による情報流出に備えてこうした複雑なシステムを築いたのは理解できる。しかしだからといって全く安心はできないな、NOCリスト騒動のように工作員が物理的に侵入しての情報強奪も起きたからには……。

ともあれ、そんなことを思いながら15年前の “特急日ノ本898号爆破テロ”に関するページを表示した。

実行したのは、自他共に認める文字通りの過激派組織だ。分裂や合体を繰り返すうち、非常に過激な精鋭が残ってしまい、ある幹部など「最低最悪の上澄み」と表現していたそうだ。現在では勢力が衰えつつあるものの、新左翼担当の課も連中の全盛期には動向のマークにかなりの人員と時間を割いてきたと聞くし、幹部はまだ潜伏中だ。犯行声明文の写真を見れば「日ノ本という名称を冠すること自体がこの国の驕れる精神の表れと断じるほかはなく、これを矯正せんと敢行したものである」などと実にふざけた内容だ。入庁直後に就いていた指導役は、よくこの事件を引き合いに出しては「いいか降谷、泥棒の1人2人捕まえずとも国は在り続ける。しかし不穏分子をのさばらせればいつしか国は亡ぶんだ」と口癖のように言っていたな、と振り返った――その翌年に定年を迎え、退官式で「この組織の幹部連中を挙げられずに去るのが、警察人生唯一の心残りだ」と悔しさの滲む声で言い残していったことも。

しばしの回想のあと画面をスクロールして、その他にも現場写真、事件発生直後の様子から容疑者の取調べ内容などのデータへのリンク、そして……一番の目的である、犠牲者とその家族を網羅した名簿。この中にあるはずだ。愛理の過去へ繋がる、手がかりが……検索ボックスに愛理の苗字を入れて……これか?跡良……やはりこれだ!

「【家族※年齢などは発生当時のもの】
妻:跡良日出子(26) 職業:画家
娘:跡良愛理(2)」

零は手を止めて確信した。愛理が父親を喪った原因は、このテロだったのだ!同時に、一秒ごとに怒涛の勢いで打ち寄せる記憶の波に、頭の中を洗われるまま思い出す。

あれは中学時代のある日。テニスのレッスンがコーチの急な都合で休みになり予定が空いたのだ。景光にセッションをしないかと声を掛けたが「ゴメンな、でも今日は兄さんと久々に会う約束でさ!」と断られた。

景光が家庭の事情で離れて暮らしている兄を慕っているのはもちろんよく知っている。ヒロが嬉しそうだったからいいじゃないか、それに突然の誘いだったし、まあこうなったってしょうがない……そう納得しながら家路に着いた。

が、帰宅しても宿題をしたりギターを爪弾いたりする気になれず、なんとなくテレビを点けたのだ。いつもこの時間帯なら家にいない分、初めて見る番組はどれも新鮮だったが、その中で零の興味を強く惹くものがあった。

「この味は長野産の味噌でなくては出せないんですよ」

途中で変えた番組でそう語っていたのは、出で立ちからして料理人らしき若い男性。一瞬映ったテロップには【跡良】とか表示されていた。

へえ、茶髪の料理人なんているんだな。零は少し驚いた。そして番組を見ていくにつれ、件の料理人が特に和食を中心にした料理研究家だと判った時はもっと驚いたが、同時に親近感も沸いた。零も主に外見のせいで洋食派だと思われることがほとんどで、和食派だと言えば驚いた顔をされないことはなかった。仲間を見つけた気分だったのだ。この人も和食に携わっているとは思われないのかもな、と。それまで和食の料理研究家といえばしかつめらしい顔をしている中高年男性というイメージが強かったから。

思えば、それを覆したのが愛理の父だった。テンポの良いトークを披露しつつ、鮮やかな包丁さばきだけでなく、純国産の食材へのあくなきこだわりを見せながら料理を仕上げていく姿が、たまらなく格好良く映った。思えばそこから、当時中学生だった零は料理に興味を持ったのだ(ただ、あくまで興味を持っただけであって、実際の腕は景光に教わるまでからっきしだったけれど)。

ともかく、ここまで知れたらデータベースに用は無くなった。ログアウトしてから今度はインターネットで愛理の父の名前を検索し、出てきた情報をざっと見ていく。表示された顔写真を見てみれば、特に目元はなるほどこれが親子の血の為せるわざだと思わせるほど似ていた。その他のパーツ、例えば髪の色は母親と同じだが、目鼻立ちなどは全体的に父親から受け継いだようだった。同時に来歴なども見ればこうあった。

「生まれつきだという茶髪の、ともすれば軽薄そうな外見でありながら、東都大文学部で国文学を専攻していた頭脳派という意外性……国文学を研究する過程で日本という国で受け継がれて来た食に強い興味を持つようになり、内定していた農林水産省への入省を卒業直前で辞退し、卒業後は料亭に弟子入りした」そうだ。そこで「頭角を現し、そのさなか大学入学祝いに料亭に連れて来られた(つまり愛理の母だ)と出逢い互いに一目惚れし大恋愛の末結婚」したという。さらに「生放送の料理番組に出演するはずだった花板が渋滞に巻き込まれ間に合いそうにないところに、先に収録現場に着いていた愛理の父がプロデューサーに代役として見出され思いがけずテレビに出演すると、たちまち大人気になった」とも。とはいえ、人気が出てきた愛理の父がホスト役を務めるはずだった番組は、彼の逝去により放送されることはなくなってしまった。だがしかし、零の記憶の片隅また片隅に残っていたのだ――。


何十分が過ぎただろうか。愛理はまだ、胸の中に浮かんでは消える思いの中で揺れていた。安室さんが物知りなのはこれまでお喋りしてた中でなんとなくわかってた。でも、それとこれとは違うっていうか……なんで?どうしてパパがあのテロで亡くなったこと、知ってるの?

愛理はそんな内心を言葉にしたわけではない。だが透は、話した覚えの無いことをいきなり言い出されたのだから驚いても無理はないだろうと解っていた。黙ったまま突っ立っているのも何だし、まずは種明かしだ。

「今日のニュース番組で、あのテロの追悼式典が取り上げられていまして……愛理さんの後ろ姿が映っていたんですよ。そこから、そういえば愛理さんのお父さんも巻き込まれたと当時のニュースで話題になっていたと思い出したんです」
「そう、なんですか」

まるっきりのウソを言っているわけじゃない。透は自分に言い聞かせた。様々な相手にいくつものフェイクの顔を見せ、数え切れない偽りを紡いできても胸が痛むことなど無かった。正義の執行のためには、そうせざるを得ないから。欺くのが快感だったわけでも、さりとて騙すのが嫌だったわけでもない。目的のためにそうする必要に駆られていたから、そうしてきただけ。なのに、愛理相手にはどうして、きっかけを作るための些細なことでも、罪悪感がこみ上げてやまないのだろう……それを打ち消したいという思いがそうさせたのではなくて。

「大事なひとを喪って……辛い思いを、されましたね」

本心からの言葉が、口をついて出ると。

「……あの、安室さん」

ようやく愛理が口を開いた。

「お話、聞いてもらえますか……ちょっと1人だけで受け止めるの、重すぎちゃって」
「ええもちろん。僕でよければ」
「ありがとう、ございます」

夜露に当たっては体を冷やしてしまうでしょうから、僕の部屋に来ますか?……そういった言葉はこの際置いておくことにした。とにかく愛理が話したいというからには、今は水を差さずにちゃんと耳を傾けるべきだと考えたのだ。どうにか聞き取れる程度の小声でお礼を言ってから、彼女は話し出した。

「親戚以外だと、幼稚園に入った日から一緒の大親友にしか、父の亡くなった原因だとかは詳しく話してないんです。なのに、安室さんにはなんだかそういうこと話せちゃいそう……ふしぎ」

さっきの言葉は、同情とかそういうのじゃなかった。何故だかそんな直感があった。安室さんも、そういう辛いことがあったのかな……愛理はそんなことを思いながら独り言つようにつぶやいてから、小さく息を吸って。

「……父は。おっしゃる通り、あのテロに巻き込まれて亡くなりました。料理人で料理研究家だったそうです……司会をするはずだったテレビの料理番組の、初めてのロケを、日ノ本号でやってたらしくて。その中で被害に遭ったって。これからもっと人気が出るはずの人だったのよ、って母がしょっちゅう話してます」
「ええ、お母さんの言う通り。お父さんが出演されていたテレビの料理番組、僕は残念ながら1度しか見ることができなかったんですが、すごく面白かったんですよ。僕はあのころ中学生でしたけど、あのおかげで料理って楽しそうだなって興味を持ちましてね。それもあって、今ああして料理をするようになったんです」
「いいなあ」

クシュッと小さく洟をすする音がする。

「母が私にお料理叩き込んだってお話、しましたっけ。あれはみんな父のレシピなんです……でも、私には、父の思い出がほとんど無くて。写真とかビデオとか、母や親戚とかから聞く話でしか、描けなくて。父はどんな人でした?」

透は愛理に訊かれるがまま、彼女の父についての自分の記憶や印象を話した――愛理は小さくしゃくり上げながら聞いたあと、こう続けた。

「駅まで、母に連れられて迎えに行ったことは覚えてます。でも、父は帰らなかった……父の乗った列車を、テロリストが標的にしたから。日ノ本っていう名前が気に入らないからって。わけ、わかんないですよ……ただ、それだけで……なんで、無関係の人たちを、巻き込んで」
「……」
「起こったとき、私はほんとにちっちゃくて、何にも解りませんでした。ただ母が立てないくらいに悲しんで、その間しばらく祖母のところに預けられて寂しかったなって、どうにかぼんやり覚えてるくらいです……しばらくして回復した母に、パパはどこって訊いたら、お星さまになって遠いところへ行ったのよ、って……言われて……」

愛理の声は段々と涙声になりつつあった。透は何も言わないまま、それでも彼女からは見えなくても頷きながら聞いていた。

「それなら、探しに行けばいいんだ、私が連れて来てママに会わせてあげるからねって……子供の足で歩けるところまで歩いたけど……っ、結局迷子になって……お巡りさんに保護されて、余計に心配かけたりもしちゃった……会わせてあげるってママに約束したのにな、なのに……ヒック、パパは、なんて遠すぎるところに行っちゃったんだろうって……母に連れて帰られる時、夜空を見上げながら、ほんと、っ、途方に暮れました」

声に嗚咽が混じり出す。聞いていて相槌を打つのも忘れるほど、透は胸が締め付けられる思いだった。理不尽な暴力へと形を変えた主張が、愛理や彼女の母から奪い去ったものの重さと大きさはいかばかりだろう……。

「母が、ペンダントに通して身に付けている指輪……ありますよね」
「? ええ」

確かに愛理の母は、奇妙に捻じ曲がった、プラチナのペンダントトップのネックレスをいつも肌身離さず身に着けている。話題に出すからにはあれも何か関係があるんだろうかと、次の言葉を待つと。

「あれは、父の形見なんです……父は、テロリストが用意した爆弾の真横の席に、いました」
「そうでしたか……」

爆弾にその命を文字通り散らされた友らを思い浮かべつつ、透は相槌を打った。無意識に拳を握りしめて。

「左手薬指だけ……どうしてか、奇跡的に、無傷で。指紋と、ぐにゃぐにゃになった指輪で身元は判った、けど……それ以外、は……っ」
「……」
「それに、今日、15年経ってもう事実を明かしてもいいはずっていうことで、母から聞かされたんですけど……テロの犠牲者は、もう1人、いたんです……」
「もう1人?」

公式発表では死者106人だったはずだ、とは言わなかった。いや、言えなかった。

「私の、弟か……妹になるはずだった、子が」
「!」
「直接、巻き込まれたわけじゃないけど……あの事件が起きた時、母は妊娠3か月だったんだそうです……でも、っ、テロにショックを受けて、結局流産してしまって……あのテロは、だから、だから……!」

大きくしゃくり上げて、愛理の嘆きはとうとう慟哭へと変わった。

「私から、家族を2人も奪ったん、です……っ!」

仕切り板越しにポタッ、ポタッとごく小さな音がしてきた。きっと涙が後から後から零れているのだろう。

この距離が、もどかしい。透はますます強く拳を握り締めた。愛理の悲しみにもっと近くで、ゼロ距離で寄り添いたい。なのに、かなわない。こんな薄い仕切り板一枚に阻まれているこの状態が、近いようでまだ遠い自分たちの距離を表しているかのように思えて――決意した。

想いを、告げよう。愛理ちゃんを1人で泣かせないためにも。誰より彼女の隣で悲しみに寄り添うためにも。とはいえ今はその時ではない、それでも……せめて愛理の泣き声が止むまで、部屋に戻らず仕切り板越しに傍にいることで気持ちを表そうと、ただ何も言わず彼女の傍に佇み続けること。それが、透がその時できた唯一にして精一杯のことだった。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -