意外な一面


日本を訪れるようになって2年余り。アメリカとは何もかもが違うこの国には驚かされることばかりだ。例えば、浅煎りしたレギュラーコーヒーを独自にアメリカンと呼んでいることだとか。

そしてそんなある夏の日の今日、僕には4つよく解ったことがある――黒の組織の追跡のため来日中のFBI捜査官、アンドレ・キャメルは、コクと酸味が利いているコーヒーを味わいながらそう思った。

解ったこと、その1。香り、BGM、快適な空間の揃った“当たり”の店で飲む美味いコーヒーはそれだけでも良いものだ。だが、目を輝かせて自分の話に聞き入ってくれる相手がいるとなお美味くなるのだということ。

解ったこと、その2。偶然話し相手となった異国の美少女に、真正面から尊敬の眼差しを注がれるのは柄にもなくいい気分になるものだということ。

「じゃあこのページに書いてあるような捜査って本当にするんですか?!」
「ああ、実際に自分も少しだけですが関わったことがありますよ」
「キャメルさんすごーい!ウソ発見器も……」
「残念ですがそれはちょっと機密で」

解ったこと、その3。ユカタ姿の女性は美しいということ。対面に座る少女の服装は洋服ではなくユカタ。パジャマや、特に夏の外出着にも使えるカジュアルなキモノという知識は持っていたが、実際に着ている相手とこんなに間近で接するのは初めてだ。シルクを思わせる黒髪は綺麗にまとめられていて、花の模様が入ったネイビーブルーのユカタがよく似合っている。テーブルに広げているペーパーバックのページを繰る度、洋服で言えば袖に当たる部分がヒラヒラと揺れ動く様子が特に美しい。

「それから実際のFBIとCIAの関係って……あった、本当にここに書いてあるみたいな感じなんですか?」
「これはフィクションだからこんなに大袈裟に描かれているんですよ。実際にこの小説にあるように、組織レベルでいがみ合っていてはとても仕事になりませんからね。もちろん現実でも、それぞれの組織から選ばれてバディを組むことになった捜査官同士の相性が良いとか悪いとか、そういう個人レベルでの対立はありえますが」

今知り合ったばかりの彼女は、キャメルが実はFBI捜査官なのだとこの喫茶店の店員に教えられるや、さほど流暢ではなかったものの、綺麗な発音でこう訊いてきたのだ。

”I’m so obsessed in novels that features characters from the Federal Bureau of Investigation, so, if you had time, could you tell me the actual stories about them?”……と。

キャメルはもちろんですよと快諾した。時間はまだまだあった。それに、敵対心を剥き出しにして接してくるという、およそ店員らしくない店員しかいない気まずい空気の中で時間潰しをするよりはずっといいと考えたのだ。自分の名前を教えてから「日本語は大体話せますから日本語で話しましょうか」とも提案すれば顔を綻ばせてお礼を言われた。彼女の英語力に問題は無さそうに思えたが、やはり母国語のほうが話しやすくて良いのだろう。

かくしてアイリ・アトラと名乗った少女は、プライベート・アイが出てくる小説が大好きだということを始め、手提げバッグから取り出したペーパーバックを見せながら、FBIの捜査官が主人公として活躍するこの小説にはまっていて、翻訳版は既に読んだが英語の勉強も兼ねて原書を買い、家の冷房の調子が悪いのでこの喫茶店で読もうとやって来た……といった自己紹介を終えたあと、色々と質問をし始めて今に至るのだった。

そして、最後になるが解ったことその4とは。

「… … …」

もし視線の温度が測れるならば、きっと今自分に注がれているものはすさまじく冷たいに違いないということ。アイリは背を向けているから気が付いていないようだが、彼女の頭越しに、カウンターの向こうのキッチンの中から、射竦めるような冷たい目でこちらをじっと見据えている男がいる。安室透だ。その整った顔にそれはもう大きく「この状況の何もかも全部が気に入らない!」と書いて。

キャメルは無駄なこととは知りつつも話の合間に、カップを持ち上げコーヒーをさらにもう一口啜った。透の視線を一瞬でもいいからブロックしたくて。うん、店員の態度があんまりだろうと関係なく美味い。中身が大分少なくなってきているし、リフィルを頼もうか……と思いかけた。だが、カップをソーサーに戻せばまた目が合った、というかまだ睨まれていて、オーダーする気力まで削がれたので止めておくことにして、代わりに心の中で言い返す。

何か問題でも?そりゃあ、君は僕にとっとと出て行って欲しいんだろうが。自分はただ、FBIの実際のところについて訊きたいとせがまれたから、明かしても構わないことについて話しているだけだ!というよりそもそもは君が今みたいな冷たい態度で接してくるからだ、だったらこの子と話でもしていた方が気が紛れてマシだと思うじゃないか……そう言ってやりたかった。

だが、実際にそう口に出すことと少女との話を続けること、天秤にかければどちらが傾くかなど判り切っているわけで。

「この……どうかされました?」
「いえ、何でも」

安室透の存在を意識するまいと、また話しかけてきたアイリに向き合ってやり過ごすことにした。



一目惚れ相手(結局同性だと判って大いに安心したが)を待ったり、今度はアメリカの犬と盛り上がったりする愛理ちゃんを見たりすることになるなんて。最近のポアロは、僕にとって喜ばしくないことばかり起きる場になっている気がする……本っ当に、とっとと、出て行ってくれませんかねえ……!浴衣姿の愛理ちゃんのうなじという絶景を愛でたいのに、君の顔が必ずフレームインしてきて邪魔なことこの上ないんでね!

キッチンの中で、透は少し前の自分に腹を立てながら洗い物を片付けていく。こんな面白くない状況、生まれて初めてだ。何故愛理ちゃんに、あの下っ端がFBIだと教えてしまったんだ!他に誤魔化しようはいくらだってあったはずだ、彼の迂闊ぶりがこの僕にまで伝染ったとでもいうのか!?茶葉の缶を戻そうとした時、指先に力がこもり缶がひしゃげる音がした。

アメリカンを出し終えてすぐ、キャメルと交わしたくもない言葉を交わしながら洗い物をしている最中だった。コーヒーが美味い?それはどうも、解ったから今すぐ口を閉じるんだな……そう思っていたところに愛理がやってきた。どうにかこの下っ端のことなんて放り出して、彼女を独占する方法を考えなくては。透は頭をフル回転させ始めた。

しかし、その矢先だった。愛理は2人が話しているところを見て「お友達とお話してたのに邪魔しちゃいました?」と気を遣ってきたのだ。

また君は勘違いを。聞いた透は内心苦笑いした。ご冗談を、この下っ端と僕が友達って?まさか。こいつらは手柄欲しさに云々……どれだけそう言いたかったか。だがさすがに想いを寄せている相手の手前、けなすようなことは言えないと踏みとどまったのだ。そこまではよかった。

だが続けて咄嗟に「まあ友達といいますか、彼は探偵の仕事で知り合ったFBI捜査官で」などと教えなければ!

「FBIの、ひと……」

しまった!透が自分の運の尽きに気付いた時には遅かった。愛理は聞くや否や目を輝かせ、ことの成り行きを見ていたキャメルに向かい英語で「FBIの人が出てくる小説にハマっているから、もしお時間があればお話を聞かせていただけませんか」といったことを話しかけたのだ。真純へのラブレターの一件といい、愛理には一旦こうと決めたらためらわずに一直線、といったところがあるようだとは思っていたし、その点が今日はっきり見えたが、きっかけがこの下っ端でなくてもよかったはずだ。おまけに彼は余計なことにその頼みを聞き入れてしまったから、愛理は話に夢中になって……。

愛理が好むのは探偵小説で、その中にはFBIの連中が出てくる作品も少なくないのは透も知っている。そしてこの間、帰り道で一緒になった時、今のところそういうシリーズにはまっているとも話していたし。そこへ来て彼は本物のFBI捜査官なのだ、と告げられたら俄然興味を持つのも当たり前じゃないか。全く、僕としたことが痛恨の極みだ。洗い物の最後のスプーンを水切りかごに立てて置いた。

……いや、だが。愛理とキャメルの会話はまだ続いていたが、透は構わず嘲るようにフンッと鼻を鳴らした。気付いたキャメルが不快だとでも言いたげに少し眉根を寄せる。元からの悪人面がさらに凄みを増したが、それしきで震え上がる透ではない。余裕の表情でいなして心の中で続ける。

いくら君だってFBIのことには確かに詳しいでしょう。何せ自分の属する組織なんですからね。だから今ああして愛理ちゃんは話に食いついている。しかし勘違いはしないで欲しいですね、彼女が興味を持っているのはあくまでFBIについてであって君自身にではないんだから。それに、君は目の前のあの子をどれだけ知っている?ああ失礼訊くまでもありませんでしたよね、せいぜい名前と趣味程度かな。でも僕は今愛理ちゃんと知り合ったばかりの君よりずっと、彼女の色々な一面をよーく知っているんですよ。大いに優越感を覚えながら濡れた手を拭いた。

そしてエプロンのポケットから取り出したるは自分のスマホ。抜かりなく消音モードにして――そうしないと目の前の音声が透の端末から聞こえて怪しまれてしまうから――例のアプリを起動させてみれば……愛理が提げてきたかごバッグの開き口の隙間から、スマホを通して彼女の白い喉がばっちり映っていた。




愛理のスマホに遠隔操作アプリを仕込んでから早くも1ヶ月半が経ったが、アプリはその“お役目”――透には見せない彼女の姿を映すこと――を、それは立派に果たしてくれている。

元々愛理は頻繁にスマホに触るほうではなかったようで、充電する時と使っている最中以外では手近に置かずスクールバッグなどに入れたまま、という状態もザラだった。それに、規則で学校にいる間は電源を切って預けなくてはならないと話していた通り、学校生活の様子など丸々全てを窺い知れないこともある。

だが、それでも透は時間のできた時には食い入るように見ていたし、録れたのが音声だけだった時ももちろん愉しんでいた。この国の千年前からの伝統的なロマンである垣間見を現代的な手段で体感しているだけさ、などと開き直りながら、愛理のおよそ見られる限りありとあらゆる時の姿や声を。

例えばある日の放課後、愛理がクラスメイトや部活仲間と一緒に、雑貨屋だとかを冷やかすところ。それからその足でポアロへやって来てケーキを味わい、梓に大尉の写真を見せてもらって「可愛い!」と歓声を上げるところ(ただし透は生憎その日は休みで、風見からの報告書に目を通しつつ音声だけでも聞きながら、何故本庁に出向かなくてはならない捜査会議がこの日に設定されたのかと残念がるしかなかった)。年上の異性である透と話す時のどこか余所行きな口調と、気心の知れた同年代の同性と話す時のそれはやはり違っていて新鮮だった。

それから期末テスト2週間前の土曜日には、誰かの家に集まり試験に向けて得意科目を教え合う勉強会……の後、本来のお目当てだったんだろうお茶会を開くところ。しかもGPSで辿れば、招かれた先は何という偶然か、組織と裏で繋がっている大物政治家の邸だった。愛理のクラスメイトは件の政治家に溺愛されている孫娘だったとも判って、回りくどい形ではあるが妙なところで縁があるものだとも感じた。

またある日は透の隣の部屋で、家政婦の米原さんが仕事を終えたところに、お茶と「うめ原」の人気のお菓子を出して一緒につまみながら「警察官になった幼馴染がいる」だとかお喋りに興じているところを。アトリエから出てきた母親に、透のことをあれこれ聞かせて興味を持たせようとする――ただし彼にとっては幸いなことに、愛理の母親は亡き夫を今でも深く愛しており、それ以外の男性にはかけらも興味が無いようだ――ところを。
夏休みに入ってからは、7月の間に集中して宿題を済ませようと奮闘し、その合間の息抜きに小説を楽しんでいるところを。先週は母親の誕生日で、お小遣いから質のいい材料を買い、張り切ってケーキを焼き、母娘水いらずで祝う様子。父親の月命日参りに出かけていく姿。果ては風呂上りの薄着まで……とにかく年相応の微笑ましい光景を始め、あらゆる姿を。

だから、昨日買って来た新しい下着が水玉柄なこと、今朝の朝食が味噌煮込みチーズリゾットだったこと、今日は蘭達や母親と花火大会に行くこと(件のアプリにはRineを覗き見る機能も付いているが、それを通して見るに園子のコネで特等観覧席を用意してもらえたようだ。何でも、園子の父親である鈴木史郎は日本画を描くのが趣味で、愛理の母の作品も気に入っていることから「跡良先生もお嬢様も是非」と招いたとかなんとか)、着ている浴衣は去年の家庭科の授業で縫ったもので着付けも自分でしたということも。来週は、通っている合気道道場の合宿に参加した後、母親と軽井沢の別荘に移って1週間ばかり過ごす予定だということも。加えてさらに先週から彼女の部屋の冷房の調子が悪いことも、全部把握済みだ。

だからそこに透が“マスターから聞いたんですが、花火大会の日は意外と空くんだそうです。涼しい店内でホットロイヤルミルクティーを飲みながら小説を読むのもいいかもしれませんよ”とRineで教えたら、思惑通り姿を見せたわけだが……。

その時まだ洗い物が残っているのに気が付いた。煮出しかけのロイヤルミルクティーの入ったミルクパン。僕らしくもないな。オーダーを取ることなく「いつものでいいですね?」と、愛理のお気に入りのロイヤルミルクティーの用意を始めたのだ。彼女はいつもこれを頼むし、今日もそのはずだと信じて疑っていなかったから。

しかし何ということか。キャメルと話し始める直前に愛理は「今日はFBIのお話聞くからアメリカンがいいです」と、解るような解らないような理屈で、よりによって下っ端と同じものを頼んだとあっては……なお気に入らない。また洗い物をするのも億劫だし捨てるのも何だしまかないにしてしまおう。ミルクパンをコンロに掛けて弱火で煮出していく。

……ところで愛理ちゃん、そんな小説は英語の勉強には向かないよ。どうせ手柄欲しさにドヤ顔しながら捜査に割り込む無能が醜態を晒して、最後は運と偶然とその他諸々が重なったおかげなのに自分こそが事件を解決に導いたかのような気になるだけ。あの国の小説はそういう筋書きと結末って相場が決まっているんだ……読んですらいなくて内容を一ミリだって知らないのに、八つ当たり気味に決めつけた。

だがそんな内心を知る由もない愛理は、まだキャメルと話を続けている。

「証人保護プログラムって……」
「その場合は……」

話の盛り上がりようといったら。日米友好万歳、仲のよろしいことで何より……誰が思うかそんなこと!

その時透の手の中でバキッと何かの割れるような音がした。続いて手に何かが滴る感触も。我に返ってみれば、掌にリンゴが握られていた――いや、正確には元・リンゴが、哀れ粉々に砕かれていた。秋の限定ケーキとして、リンゴとさつまいものタルトを考えているのだ。愛理に好きな食べ物を訊いたらその2つを挙げたので、ポアロにもっと足を運んでくれるようになるのでは、会える機会が増えるのではと期待して。今日は試しに作ろうと材料を持ち込んでいたが、無意識のうちに掴んでいたのか。

何をしているんだ、食べ物に当たった挙句粗末にするなんて……透は掌を見やり、湧き上がってくる自己嫌悪に苛まれながらかぶりを振った。聞こえてくる会話は、知らない間にFBI談義から美味しいものの話へと話題が変わっていて。

「あのホテルのフルーツジュースが忘れられなかったんですよ」
「あれ美味しいですよね!私も大好きなんです」

かたや揃ってアメリカンコーヒーを楽しみつつ、フルーツジュースのあれこれについての話題で弾む会話。かたや独り、手を滴り落ちていくフルーツジュースもどき。なんて惨めな対比だ。見やりながら溜息を吐いた。

仕方がない、こうしてしまったリンゴもまかないのデザートにしよう。自らのしたことは自らカタを付けなくてはならない、それが違法作業であろうが無駄にしてしまった食材であろうが同じことだ……そう言い聞かせる。そして、これもケーキの試作に使った残りの、賞味期限が間もなく来るヨーグルトが少しある。そこに混ぜて胃の中に収める形で“片付ける”ことに決めた。

ミルクパンを掛けていたコンロの火を消す。食器棚から左手で小皿を取り出して果肉を入れ、指にこびりついたままの種はシンクの三角コーナーへ……ナイスシュート。小さな粒は見事中へ吸い込まれていき、掛けておいたビニール袋を伝って下へと滑り落ちていく。

あとは手を洗って、これでよし!……じゃあなかったな……。頷きかけたが、目線を下にやれば床にも果汁が点々と落ちている。放置していたら不衛生だ、特に夏場はおぞましいことになってしまう。

「あーっ!」

だが透がキッチンペーパーを手に取って屈んだところに、愛理が大声を上げるのが聞こえた。体勢を整えながらたちまち怒りが湧き上がって来る。あのFBI、僕が目を離したのをいいことに愛理ちゃんに何をしようとした!よくも!

透は怒りに突き動かされるかのようにすぐさま彼女のもとに駆け付けた。もちろんその数十秒間の間に、エプロンのポケットから目にも止まらぬ早さでスマホを取り出し素早く110番をプッシュしておくのも忘れていない。さあ、あとはダイヤルすれば奴は終わりだ!出ていってもらう、ポアロからもシャバからも!!

「愛理さん大丈夫ですか!彼に何かされたんですね、でも僕がいるからにはもう大丈夫!今警察を呼びますからっ」
「おい……!」

キャメルはさすがに腹に据えかねて抗議の声を上げかけた。これでよくオモテナシの国などといえたものだ。人相だとかのせいで犯罪者扱いされたことは少なからずあったが、今度ばかりは我慢がならない……。

だが。

「ちょっと何言ってるんですか安室さん!失礼じゃないですかっ!」
「「え……」」

男性2人は揃って呆気にとられた。キャメルは自分より先に愛理が真剣に抗議をしたことに、透は彼女に怒られたことに。だって、愛理は立ち上がり透をキッと睨んだのだ。

「何かされたどころか、助けてくれた人だって思い出したところなんですよ!?」
「助けて、くれた?それはどういう」

愛理の怒りの表情を初めて見た興奮と、彼女の前で醜態を晒してしまった後悔と。そんなものに苛まれながら透はオウム返しに訊き返した。だが愛理は彼には答えることなく、また椅子に腰を下ろしてからキャメルに向き直って口を開く。

「あの、覚えていらっしゃいますか?2年前に福生で、私と友人のこと助けてくださいましたよね」
「2年前に福生……ああ!アイリさんはもしかしてあの時の」

キャメルもそこで思い出してハッとした。2年という年月に加え、出で立ちがあの日とはまるで違っていたものだから同一人物とは思っていなかったのだ。

「そうですっ、よかったぁお礼が言えて。あの時体が竦んじゃって言えないままだったのがずーっと心残りだったんです。ホントにありがとうございました……!」
「いいんですよ、危ない目に遭いそうだった子供たちを助けるなんて当然のことをしたまでですから」

……2年前にこの下っ端が愛理ちゃんに会っていただと?しかも何かしたわけじゃなく、助けた?先ほどまでの勢いはどこへやら。テーブルの横に立つ透の頭の中には、ただ一点それだけがグルグル回っていた。愛理は時間が経つにつれ怒りを収めはしたようだったが、まだ少し憮然とした表情で透に訊いてきた。

「この間お話しませんでしたっけ?合気道を始めたきっかけが2つあるって。ほら、雨宿りさせていただいた日に……」
「え、ええ。僕の部屋でね」

透は彼女が怒りを収めてくれた様子を見て取り安堵しながら、キャメルの耳に捩じ込んでやるつもりでことさらに“僕の”を強調して言った。そういえばそう言っていたよな、2年前の彼女も可愛かったに違いないなどと想像していたから話半分に聞いていたけど。

「演武を見てかっこいいからって思ったのもあるけど……実はそのあと、友人とどこかカフェでお茶しようってなって歩いてたんですよ。でも途中で迷彩服着てタトゥー入れた怖い外国人のひとたちに絡まれて、車に連れ込まれそうになっちゃった、って」
「ホォー……」

福生。外国人。迷彩服。となると、愛理とその友人によからぬことをしようとした奴らは、断定はできないもののあの国の連中である可能性は極めて高いじゃないか!透の中にまた怒りが湧く。ベルツリータワー絡みの一連の事件といい、愛理にしでかそうとしたことの件といい、あの国の軍人は現役も退役した奴も揃いも揃って監督不行き届きにもほどがあるだろう……!

「ともかく、キャメルさんはそこを助けてくれたんですよ」
「ですがそれと愛理さんが合気道を始めたきっかけがどう繋がるんです?」
「だから、今度またいつそういう目に遭うかわからないし、次はキャメルさんみたいに助けてくれる人がもしかしたらいないかもしれない。そうなった時にちゃんと自分や大事なひとの身の安全も守れるようになりたいって思ったからですってば」
「……なるほど」

話すことは話した、とばかりに愛理は透から視線を外した。横顔からは、恩人を悪く言われたことにまだ腹を立てているのが見て取れた。

そんな空気の中突っ立っているのも何なので、透は踵を返してキッチンへ戻った。同時に愛理も化粧室へ立ち、ドアの向こうへ姿を消したのを見届けて。

「ちっ」

床に落ちた拭きかけの果汁を今度こそ始末したあと、腹立ち紛れにくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放りながら舌打ちした。今客席にはキャメル1人しかいないから、別に憚る気など無かったのだ。

過去の愛理に、しかもよりによってFBIが、ほんの一瞬だったはずとはいえ先に遭っていた。しかも、彼女の人生に影響を与えていた……目の前で盛り上がっていたことに加え、今判明したばかりのそんな過去の出来事までもが、透にどうしようもなく嫉妬心を抱かせる。

確かに、僕は今の愛理ちゃんのことなら(例のアプリを用いているという手段が手段とはいえ)判って来た。でも、過去のあの子のことを、まだほとんどといっていいほど知らない――意識すまいとしていたことを、意図してはいないだろうがキャメルに突き付けられたようで癪だったのだ。

愛理の過去について知っているのは、せいぜい合気道を始めたきっかけや、飼っていたペットの話程度。でもそんなことより、あの子はどんな子だったのか。好きだったものは何だったのか。どこで、いつ、どんな経験をして、どんな生活を送って来たのか。僕の目の前に舞い降りてくる前は、どんなことに笑って泣いていたのか。それを知りたいのに。叶うことならもっと早くに出会って、あの下っ端でなく僕がこの目で見たかったのに。

……それに。父親を何故喪った?透は「15年前に……」と話していた日の愛理を脳裏に思い浮かべる。その時覚えた妙な引っ掛かりも。病死や、事故でもありふれたもの、例えば交通事故だとかなら、透が彼女の苗字や目元に何かを思い出しかけることなどまず無い。親戚でもないのだから。事件で関わった誰かの親類縁者なのか?

わからない。あの子のことを知った気になってはいても、それは今のほんの一面に過ぎなかったんだな……わからないことだらけだよ、愛理ちゃんのことになると。

透もとい零は戸籍を始め、その気になればありとあらゆる個人情報を、本人さえ知らない間にその同意を得ずに調べられる立場にある。だが、愛理のことを秘密裏に探るような手段を使うのは、あのアプリを仕込むことだけに留めておきたかった。これ以上、彼女を裏切りたくはない……だがその代わりと言っては何だけれど、たった1つだけ、そうした手を使うのを許してほしい。

――勝手だよな。すっかり冷えたロイヤルミルクティーをティーカップに移して啜りながら思う。でも探りたい、知り尽くしたいという欲には打ち勝てなかったんだ。探偵としての探求心からじゃなく、君を想う1人の男として。届かない釈明を聞いてくれる相手は、いない。

「それじゃあキャメルさん、お話本当にありがとうございました!私もう行きますね」
「いえいえ。お気を付けて」
「はい!……あの、安室さん」
「はいっ」

そこで愛理が先の騒動以来しばらくぶりに話しかけてきて、透は心を弾ませながら向き直ったが。

「ごちそうさまでした。お会計をお願いします」
「……かしこまりました」

掛けられた声は、いつもよりずっととげとげしかった。


やがてキャメルもハムサンドをビネガーがどうたらこうたら、と述べつつ堪能したあと、勘定を頼んできた。携帯が鳴っていたが、おそらくあのジョディとかいう女性とこれから合流するのだろう。

「ご馳走になったよ……」
「どうも……」

お互い最低限の礼を弁えた会話をしながら会計を済ませた。キャメルはドアノブに手を掛けようとしている。だが、彼が出ていく前にこれだけは……この一言だけは。言うのも気が進まないが、言っておかなくては自分が人としての何かを失う気がして、なお気が済まない。そろそろ今日の花火大会目当ての人出が多くなってくる頃のはず。加えて「車で来た」と話していたから、これから敷かれる交通規制に巻き込まれて車を出せなくなる前に手短に。

透は深呼吸というには大袈裟だけれど、少しばかり深い呼吸をして呼びかけた。

「……君」
「あん?」

キャメルは顔を顰めながら振り向いた。店を訪れるなり“歓迎の言葉”をくれてきたかと思えば人を犯罪者扱いするし、しかもつい先ほどは「人生の半分がティータイムのようで羨ましい」とネチネチと。嫌味のフルコースはそれこそ嫌というほど味わった、デザートは結構だというのに最後に一体何を振舞ってくれる気だ?情報はもう漏洩しないからな……そう思いながら次の言葉を待ったが。

「感謝する」
「な!?」

思わずキョロキョロと左右を見回した。聞こえてきた言葉が予想外過ぎて、目の前の安室透の発言だとは信じられなかったのだ。アイリが出て行ってから人の出入りは無いし、店内に居るのが自分とこの最低の店員だけなのはもちろん解っている。だが彼の口からそんな言葉が出てくるなんて。というか感謝って?何に対してだ?

「その耳は飾りか?下っ端には僕が言ったことが解らないのか?……まあいい。2年前、先ほどの彼女が危険な目に遭いそうになったところを救ったと先ほど聞いた!あの子は僕の大事な人で、だからとにかくそのことに対して感謝すると言ったんだ!」

ここまで詳しく言わないといけないのか、とばかりに、透は照れ隠しもあって早口で言ってのけた。キャメルは意外な一面に少し面食らっていたが、ややあってドアの方に向き直り半分開け――背を向けたまま返す。

「先ほどあの子に言ったことと被るが……自分は礼を言われるようなことは何もしていない。人を助けるのは当然のことだろう?アメリカ人でも日本人でも、FBIであろうとなかろうと」
「ふん。言ってくれる」

2人はそこまで言い終えたあと、ガラス越しにかち合っていた視線をどちらからともなくフイと逸らす。ドアベルが鳴る。そしてキャメルは車を停めてある駐車場へ、透は片付けのため、彼と愛理が着いていたテーブルへ、それぞれ向かって行った。


大輪の花が咲き誇り始めた夜空の下、キャメルは何とか出せた車を順調に走らせていた。さすがに花火大会会場からそれなりに離れたこの道路は空いている。次々に何発も打ち上がる光景を楽しみながらの夜のドライブもまた乙なもの、来葉峠での一幕(チェイス)とは比ぶるべくもない。

間一髪だったな、しかし。人だかりを見た時は驚いたが、これだけ見事なのだから頷ける人出だ。そう、驚いたことといえばもう1つ……安室透がまさかあんなことを言うなんて。嫌な奴だとばかり思っていたが。見下している僕に礼を言うほど、あのアイリという少女を大事にしているのか。まあ確かに可愛らしい子だったからな、変な意味ではなく……。

そこまで考えた時、待ち合わせ場所に指定されたコンビニエンスストアが見えてきた。駐車スペースに入って停車すると、よく見知った待ち合わせ相手が近寄って車に乗り込んだ。

「ジョディさん!こっちです」
「ありがとう、大丈夫だった?こっち来る途中すごい人出だったけど」
「花火大会だかららしいですよ。危うく車が出せなくなるところでしたが、そうなる前に抜けられてよかった」

結果だけ見れば、僕も礼を言わなくてはな……キャメルはそう思いつつ、ジョディがシートベルトをきっちり締めたのを確認してからエンジンを再びかけた。ホテルへと車を走らせ始め、しばらく経った頃。

「ねえキャメル、何か良いことでもあった?」
「ん?ええ、まあ……」

ジョディは運転席のキャメルの横顔がなんとなく嬉しそうなのに気付いて訊ねてみた。

「時間潰しに入ったカフェが“当たり”で、アメリカンとハムサンドが美味かったんですよ。しかもそこに居合わせたお嬢さんが、僕がFBI捜査官と知って興味津々で色々訊いてきたので、話せる範囲のことだけでも教えたら喜ばれたのと……あとは、この花火ですかね」

そのカフェではなんと安室透が店員をしていて、自分がFBI捜査官だと居合わせた女性客に暴露したのも彼で……とは、いい気分に水を差すことになりそうだったので言わないでおくことにして答えた。

だから、安室透のことを伏せられたまま彼の話を聞いたジョディは、その時内心では意外に思っていたのだ。ふうん、キャメルにもそんな一面がね……確かにこの花火は美しい。それに短くはない付き合いだ、彼が美味しいものに目が無いのはよく知っているから、さぞ楽しんできたことだろう。

でも、キャメルに迂闊なところがあるのは否定できないとはいえ、彼だって一端の捜査官。必要な時でもない限り、自らの身分を、それも話を聞く限り初対面の女性に明かしてペラペラとFBIの話を聞かせるというのは、およそ“らしくない”ように感じた。

だが、そこまで考えていたところに。

「そういえばまた英語教師をやることになったっていうのは聞きましたけど。面接、今日でしたっけ?」

そう問われたジョディは一旦考え事を中断することにした。

「ええ、今日受けてきたの。実績もあるからすんなりパスできたしビザの問題もまあクリアできそう……とはいえ、ビュロウの人遣いの荒さは何とかならないワケ?黒の組織の連中に加えて、せっかく日本にいるんなら就労ビザでも何でも取って滞在期間をできるだけ延長しろ、潜伏中の他の密輸組織の奴らまで探れるだけ探って来いだなんて。教えるのは好きだし講師として学校に行くのは週1日だから、両立はできるっていってもね」
「全くですよ、そもそもこっちじゃおおっぴらに捜査できないのに無茶を言うんですから……で、また帝丹高校に行くんですか?」
「いいえ。今度は聖マドレーヌ女学園っていうクリスチャンスクールよ」

夜空に一輪また一輪、ますます今を盛りとばかりに花火が咲いては「枯れて」いく。その下を車は順調に進んでいった。



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