同室にいる君、ドギマギする僕(前編)


6月の金曜日、日中は今が梅雨時だと忘れさせるほどのいい天気だった。けれど、夕方ごろから急にバケツをひっくり返したような雨が降り始め、おまけに強い風まで吹くようになってしまっていた。

そんな中を、本庁を珍しく定時で上がったあと(入庁以来何年ぶりだろう?)、ドライブがてら食材の買い出しやクリーニングに出したものを引き取って、家に帰り着いた僕を迎えたのは。

「……無い……見つからない〜……!」

勢いの強い風音と雨音の中でも聞き間違えるはずのない、お隣さんの今にも泣き出しそうな声だった。

「こんばんは、愛理さん…ずぶ濡れだけど大丈夫ですか?それに何か困ってるみたいですけど?」

今日も愛理ちゃんは可愛いが、いつもと違うことが一つ……見るからにぐったりしている。

荷物と今日のヘアスタイルからして合気道の帰りなのは明らか(稽古の日は必ずポニーテールにしていると話していたから)。だが、体を動かした疲れだけじゃなく、これだけの雨に濡れたことが原因で体力を奪われてしまったんだろう。頭のてっぺんからつま先まで濡れ鼠、ひどい有様だ。ついこの間、制服が濃い色だった通常服から水色のワンピースの盛夏服に変わったおかげで透けてる上に、体に貼り付いて体の線が出てしまっている。合皮製のスクールバッグからは弾かれた雨粒が滴っていて、落ちた箇所のコンクリートの色を灰色から黒に塗り替えている。雨の日に使っているところをよく見かける傘じゃなく、コンビニで買って来たらしいビニール傘を持っているがもうボロボロだった。

「こんばんは……ど、どうして判るんですか……」
「鞄の中を泣き出しそうな顔をして探っていて、しかも何かが見つからないって言っていたからかな。それはそうと一体どうしたんです?まずはこれを羽織ってくださいね、体を冷やしちゃいけない」

着ていたスーツのジャケットを素早く脱いで、有無を言わさず愛理ちゃんに羽織らせた。うっすら透けて見えるインナーを隠すためにも、体を温めさせるためにも。顔が疲れている、声にも元気がない……これは放っておくとまずいことになる。まずは状況を正確に把握するために訊ねてみると、愛理ちゃんは「ありがとうございます」とお礼を言ってから、やはり疲れた口調で話し出した。

「実は、家の鍵をいつもはちゃんとスクールバッグに入れておくのに、今日に限ってサブバッグに入れたんです。だけど合気道のお稽古に急いで行ったら、それごとうっかり学校に忘れてきちゃって家に入れなくて。もう最終下校時間も過ぎたから取りに戻っても校内には入れないし……」
「ええっ!?それは大変だ。お母さんは確かフランスに行ってるってRineで教えてくれましたよね?あちらの美大で特別講師をするからって」
「あ、はい……母は今日帰っては来ますけど、日付が変わるくらいになる予定って話してましたし。誰かのとこにいさせてもらおうかとも思ったんですけど、親友は家族の誕生日でディナーだし、母の秘書もフランスに附いていってるし。蘭ちゃん達のところに行っても迷惑かけちゃう……それまでどこかで時間を潰さないと」
「なるほど」
「お手伝いさんの米原さんにも合鍵は預けてあるけど今日はお休みだし、私がうっかりしたせいで家に入れないからって理由で呼び出すなんてできない……」

驚いたり心配したり、そんな表情を見せながらも考えを巡らせるのは忘れない。

さあ、お隣さんがピンチだ……こう言っては何だが、僕には格好のチャンスが降って湧いた。鍵が無くたって、僕なら伊豆高原のあの時だとかのようにピッキングで鍵を開けるくらい楽勝だ。もともとこのメゾンモクバの鍵は割にやり易い種類のものだからなお容易い。

「それじゃあ僕が鍵を開けましょうか、そういうの実は割りと得意なので」

……そう口に出そうとした。困っているところを助けるのが人の常なら、好きな子を助けていいところを見せたいのが男の習いってものじゃないか。

でも待てよ。そう口に出す寸前ではたと気付いた。確かにいいところは見せられるが一瞬で終わってしまう。それに”アレ”を彼女の携帯に仕込みたいと思っていたところでもある、鍵開けはまたの機会に披露するということで。

「ふくまろん、ここから近くてこれ以上濡れずに済んで12時くらいまで居られそうなとこ……教えて……」

その間に愛理ちゃんは携帯を取り出して、人工知能アシスタントのふくまろんに何か話しかけ始めた。時間潰しをするための場所を探すつもりだろうが、そんな人工知能なんかじゃなくて僕に頼ってもらおう。というより、僕の部屋に上がることをこの子に選ばせる。いや、選んでもらう。そうと決まればまずは外堀を埋めていかないとな。未成年者略取・誘拐には……まあ当たるかもしれないが緊急事態だ、仕方ない。いざとなったらどうにでもするさ。

「それなら僕の部屋で休んでいきませんか?親御さんが帰るまで」
「え!そんな、悪いですよ。とりあえず図書館で時間潰しますね。これもありがとうございました、明日すぐクリーニングに出してなるべく早くお返しします」

ジャケットを脱ごうとするのを「まあまあ」と押し留める。すぐに断られるのなんて織り込み済みだ。見知った顔とはいえ男と二人きりになるのは避けるよう教わっているのかもしれない、物騒な世の中だし。その警戒心は忘れずに抱いていてほしいな、ただし僕以外の男に対してだけ……なんて思いながら続ける。

「でもお母さんが帰るのが遅いんでしょう?米花市の図書館はこの時期どこも夜の7時までしか開いていませんし、閉館時間を過ぎたらどこにいるつもりなんです?それに何より、この雨と風の中を傘も差さずに行ったらまた濡れてしまいますよ。その傘もうボロボロですしね」
「はい……ビニール傘も帰り道で買ったんですけどすぐ壊れちゃったし。言われてみればそうですよね」

雨宿り先の候補にポアロを挙げなかったのは、3日くらい前にRineでのやり取りで「金曜日からマスターが商店会の旅行に行っていて、その関係で日曜日まで休みなんですよ」と伝えてあったからだ。

こうしてまずは“逃げ道”を1つ潰した。聞くにつれて困った顔になっていく愛理ちゃんの様子はなかなかクるものがあるが、それでもそんな内心は見せず心配しているんだという表情は崩さない。

「そうだ!ダニーズなら24時間営業だし、遅くまでいても大丈夫ですよね?雨と風はまあ我慢すればいいし、行ってきます」

そう来るか。なら、今度はこの手だ。

「待って。確かに深夜まで時間は潰せるでしょうが……理由が何であれ、東京じゃ高校生が夜の11時以降に出歩いていたら警察に補導されてしまうんですよ。一目でそうだって判る格好だし、ましてお嬢様学校の制服を着て夜の街をウロウロしていたらよからぬ奴らに何をされるか」
「ほ、補導!?えっ」

僕が口にした言葉に、愛理ちゃんは途端に顔に大きく「どうしよう」と書いてオロオロし始めた。品行方正だろうこの子には到底縁の無いはずの言葉だし、その反応も当然か。

「それだけじゃあない、どこに関係のある人やOGの眼が光っているかわかりませんからね。もし誰かが見ていて、こういう特徴の生徒がいつの夜遅くにどの辺りを出歩いていた、とか学校に連絡が行けば、割り出されるのは時間の問題。そして大抵の場合素行不良と見なされて記録が残るもの……なんとなくですが愛理さんのところは生活指導が厳しいんじゃないかな?この間話に出していた嫌なシスターにますます目を付けられるだけじゃ済まない。ひいては進路に響いてしまうかも」
「確かにそうです、けど。どうしたら……くしゅんっ」

どうしたら、って?こうしたらいい。ニッコリ笑ってもう一度。一度でダメなら二度三度。

「ね、やっぱり親御さんが帰るまで僕の部屋で休んでいってくださいよ」
「大丈夫で、くしゅっ」
「そうですか?ちっとも大丈夫には見えないけどなあ。今みたいに服が濡れたままじゃ風邪まっしぐらですよ、現にくしゃみもしているし。それに時期的に期末テストもそろそろじゃないですか、なのに風邪で休んで授業が進んだのに付いていけなくなってしまったら困りません?実は僕もそういう経験がありましたから。他人事とは思えないんです」

健康を気遣いながら(これは見せかけじゃなく本心だ)、顔を覗き込んで真剣に畳み掛けると、愛理ちゃんは少し視線を斜め下の方にやった。どうしようか迷ってる時はこういう顔をするんだ、この間ケーキセットのケーキを二種類あるうちのどちらにしようか決めかねている時に見た。そして今のこれは決意が揺らぎ始めている証拠だな。この機を逃すわけにはいかない、ラストスパートだ。

「ご心配無く。お母さんが帰ってくるまでいて大丈夫ですよ、時間が来たからって追い出したりなんかしませんから。ついでに補導したり学校に連絡したりもね」
「でも」
「困った時は助け合いですよ。しかもお隣さんが困っているとあればなお見過ごせませんから、ね?」

さあ言うんだ「上がらせてください」とかそういうことを――!自分でも声に妙な気迫が籠っているのが解る。愛理ちゃんにも伝わるほどだったのかもしれないが。

「そこまで言うなら……お言葉に甘えさせていただいて、いいですか?」
「もちろん!さあどうぞ」

とうとう愛理ちゃんの口から出た、待ちに待ったその一言。耳にするが早いか、僕は自分でも驚くほどの速さですぐさま鍵を取り出し鍵穴に差し込んで、興奮のあまり手が滑りながらも招き入れた。

「お邪魔、します」

率直に言おう。そんな挨拶を聞いただけだっていうのに、こんなにもアドレナリンが出てくるとは思わなかった。

「アンッ!」
「ただいま。よしよしいい子だ」

扉を開ければそこにはもうハロがお座りをしていた。出迎えに来ていたのか。鼻は言うまでもなく耳も良い、ドア越しに僕らの声を聞き付けて待っていたんだろう。尻尾を千切れそうなくらいに振りながら、僕の足元を回ってはしゃいでいる。帰った時はいつもこうするようになって、部屋の奥で寝ていたり遊んだりしていても小走りで駆けてくるんだ。いたずらに手を焼かされることもあるが、それを差し引いても本当にかわいい奴め。愛理ちゃんの表情も少し和らいだのを横目で捉えて、よくやった、って意味も込めて撫でてやる。

「それじゃ、お客さんを玄関先で待たせて悪いけれど少し待っていてくださいね。準備をしてきますから。ハロ、待て」
「すみません、ありがとうございます」

興奮を隠そうとして、でも隠し切れない早口で言い置いてから靴を脱いで揃えた。ハロがいつも通り足元に着いて回ろうとしたのを、玄関で「待て」をさせることにして……今日はそんなに構ってやれそうになくてごめんな、この前お気に入りだって判ったジャーキー、1日1本のところ今日は特別に2本にして埋め合わせるから。心の中で謝った。

それから廊下を突き進みながら、するべきことの順序を考えつつ必要なものをリストアップしていく。まずはお風呂に入ってもらうのが第一。要るものは部屋に上がる前に足を拭くためのタオル、その間腰掛けるための椅子、濡れたものを入れる脱衣かご。それに着替えも忘れちゃいけない。

食材を手早く冷蔵庫にしまって、給湯器のスイッチを入れた。クリーニングから引き取ってきたものはひとまず隅に寄せ、箪笥とクローゼットからそれぞれ入り用のものを素早く引っ掴む。洗面所に着替えを軽く畳んで置いてからハンガーを取り出したあと、空いた手に脱衣かごを取ってUターン。その道すがらピックアップしてきたダイニングチェアの座面に、脱衣かごを乗せてまた玄関へ。親御さんは現地との時差や関東一円の天候諸々から推測するにまだ機内のはず。すぐに連絡はつかないだろうが、お風呂を上がったらメッセージアプリで事情を連絡させる……。

あと、制服は洗面所に干してもらうとして。あの濡れ具合では下着も湿ってしまっている可能性が高いが、生憎そういうものの用意は無い。こればかりは乾燥機の使い方を教えて、自分で面倒を見てもらうほかはないな。それだけでなく食事も出して胃袋を掴もう。ついでに食べ物の好き嫌いや食物アレルギーの有る無しも把握して、一緒に食べながら愛理ちゃんの食べっぷりも見るんだ。食器に関しては予備を一式揃えてあるから問題無いが、食事を摂るのはダイニングじゃなくて和室で、ということにしよう。一人暮らしだからダイニングチェアは生憎一脚だけしかないが、和室だったらローテーブルを一緒に向かい合って囲めるから。和室で出しっぱなしにしたままの、湯呑と急須の乗ったお盆だとかの片付けと……そして最大の目的は、愛理ちゃんが湯船に浸かっている間に達成できるはずだ――。

「お待たせしました、まずはチェアに座って足を拭いてくださいね。使ったタオルとソックスはこの脱衣かごへどうぞ。壊れた傘は処分しますから玄関に置いたままでいいですよ」
「ありがとうございます、何から何まで」

玄関に置いたチェアに掛けて、学校指定のストラップシューズと三つ折りソックスを脱ぎ、足を拭いた愛理ちゃんは上がろうとして……その直前、横で成り行きを見ながらちゃんと待てをしていたハロにニコッとしながら挨拶した。

「こんばんは、お邪魔させてもらいます」
「クゥン」
「ハロ、奥の部屋に行ってろ。着ているジャケットと制服はハンガーを出しておいたので、洗面所にかけておいてもらえますか」

ハロは愛理ちゃんに応えるように鼻を鳴らしてから、僕の言い付けを聞いて部屋の奥へ姿を消した。微笑ましい光景を邪魔するのは忍びなかったが仕方ない、彼女を濡れ鼠のままにしておくわけにもいかないから。「こっちへどうぞ」と促して、スクールバッグと合気道の道着の入っているらしい袋を和室へ置いてもらって。それから、浴室へ向かい始めるところで少し言いづらそうなのを装って口を開く。

「……その、実は女性の下着まではちょっと用意が無いんですよ。乾燥機の操作の仕方を教えますから、もしこの雨で濡れてしまっているようでしたら、そこだけは愛理さんの方で対処をお願いしますね」
「は、はい」

恥ずかしそうに俯く仕草を、こんなにも近くで目に焼き付けられるなんて……そんな幸せを噛みしめたって罰は当たらないはずだ。

こうして乾燥機の使い方を教えてすぐ「遠慮は要りませんからゆっくり浸かってくださいね」と告げて洗面所から退散した。

……ように見せかけて、洗面所のドアの向こうの音が聞こえるギリギリの距離まで離れて耳を澄ました。まず衣擦れの音、少しあって乾燥機が稼働し始めた音。続いて浴室のドアが閉まる音、ややあってシャワーの音がし始めたのを聞き届けた。これで当分は出てこないはずだ。

よし、作戦開始。クローゼットの奥底から“アレ”を取り出しスラックスのポケットに入れた。

それから、一緒にしまってある白手袋を着けながら和室に入る。校章入りのスクールバッグのチャックを開けて中を覗き込めば、何冊もの教科書やノート、一粒サイズのチョコレートの箱、フサエブランドの財布とパスケース、プリントなんかが入っているクリアファイル、ハンカチやリップクリーム(自分の唇に塗りたい衝動に駆られそうになるのをどうにか耐えた)や日焼け止めやデオドラントやソーイングセットやバンドエイドやポケットティッシュの入ったこれもフサエブランドのポーチ、電子辞書、ポアロでラブレターを書いていたあの日に持ってきていたのと同じペンケース……今日は文庫本は見当たらないが、忘れてきたサブバッグに入れてあるのかもしれない。母親が「高等部に上がって教科書が増えた」なんて話していた通り、なるほど教科書諸々が多かったが、ちゃんと整頓してあるからお目当てを見つけるのに時間はかからなかった。

思わず舌なめずりして愛理ちゃんの携帯を手に取り、RineのID交換の時の指の動きから読み取ったパスコードを入れて難なくロックを解除した。いよいよ“アレ”――遠隔操作アプリを仕込む機器を、端子に接続して……3、2、1……。

【インストールが完了しました】

浮かんできた表示に口元が吊り上がっていくのを止められなかった。少なくとも学校にいる間は電源を切っておかないといけないそうだし、丸々一日監視できるわけではないが、これでさらに僕に見せない面を見られるようになったわけだ。それだけでなく、好みとかも先回りして把握できるようになる、もっと愛理ちゃんを近くに感じられて深く知ることができるようになる……!きちんと元通りに戻し、早速自分の携帯を起動させて試しに見てみれば「古文」と書いてある教科書の表紙だのチョコレートの箱だの、とにかくスクールバッグの中身がバッチリ映っていた。

「作戦、成功」

ふうっと息を吐いた。拍子抜けするくらいに上手く行ったな。アプリを終了させてからダイニングテーブルに携帯を置く。あとはスクールバッグの表面を拭いて、履いていたストラップシューズに、そばにある僕の靴と大きさを比べてやっぱり小さいなと思いながら新聞紙を丸めて詰め込む。最後に着替えも済ませて和室を見苦しくないよう片付け、“アレ”も元あった場所へしっかりしまってから温かい抹茶を淹れる。

これで、よし。目的を果たした達成感に加えて、これから数時間を同室で過ごせる、間近で愛理ちゃんを感じられるんだという事実に少しずつ興奮してきた。喉を無意識のうちにゴクリと音を立てて鳴らしてしまって苦笑いした。何をしてるんだ僕は、中学生じゃないんだぞ。そんなことより次は出すメニューを考えよう、何が良いかな。そう思い立って、キッチンの冷蔵庫に向かいかけた時。

「お風呂、いただきました。ありがとうございました」

貸した着替えを身に付けた愛理ちゃんが、ペコッと綺麗な礼をした。



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