恋歌におもふ


車の窓の外、杯戸町の景色は流れるように過ぎ去っていく。ハロに予防接種を受けさせた杯戸ペットクリニックを過ぎた。杯戸シティホテルももう間もなく見えて来るはずだ。

“協力車”の調子は今日もすこぶる良い。透は嬉しくなって少し口角を上げる。無理をさせてしまうことこそ多いけれど、洗車もまめにしているし愛情に応えてくれているんだ、と捉えることにした。そういえば男の車に対する扱いは、そのまま恋人の扱いと同じだなんて俗な話もあったな。

それに当てはめるなら、今はまだ恋人ではないけれど、これからそうなったなら……ハンドルを握る手がいつになくソフトになる。そう、もちろんこんなふうに包み込むように優しくするさ……愛理ちゃんの手はきっと柔らかいんだろうな……。

「ちょっと!バーボン!?」
「え?呼びました?」
「あらよかった、聞こえてたの。さっきから何度話しかけても上の空だし、てっきりその耳をただの飾りに変えたのかと思うところだったわ。それで話を戻すけど……が……で、……」
「へえー……そうですか、なるほど」

愛車の中で恋する相手を思い描く甘いひとときは、飛んできた声に遮られお終いと相成った。透がハッとして意識を助手席の方に向けると、そこに座るベルモットは苛立ちを隠そうともしていない。様子からして、何度もこの至近距離で話しかけていたのだろう。

反応が無かったとなればそうなってもおかしくはないだろうが……彼女の内心を表すかのような、皮肉交じりのジョークが耳にグサグサと突き刺さる。咄嗟に作り笑いを浮かべて相槌を打ちながらも、内心では舌打ちせずにはいられなかった。ああ、手を握った時の愛理ちゃんの反応を想像しようとしたところだったんですよ?邪魔をしないでくれませんかね。あなたの秘密、もうリークしてあげましょうか?

無言の毒づきを終えたのと同時に横断歩道に差し掛かる。青信号なのでブレーキを踏もうとした、が。

「ねえバーボン、あなた好きな子ができたでしょう」
「は?」

車体が軋んだ。急ブレーキをかけるつもりは無かったのに、踏み込みがいつもより強くなったせいだ。横目でベルモットを見れば、急ブレーキをかけたことに顔を顰めていたのは一瞬のこと。その目は心底愉快で仕方がないとばかりに爛々と輝きだしているし、顔にも“ちょうどいいオモチャを見つけたわ”と、それはもう大きく書いてある。

「いやだなあ、そんな相手はいませんよ。何を根拠に」

いきなり何を言い出すんだ、この女は!どうにか追及の手をかわさなくてはと、透は頭をフル回転させながら切り抜けようとするが。

「誤魔化したって無駄。こっちでは女のカン、とか呼ぶんだったかしら?」
「あ、ああ……とうとうバレましたか。ほら、実はあの難航していた件が片付きそうなんです。しかも情報を握っているらしいターゲットに今度本格的に接触する予定なんですが、これがまた絶世の美人で。思い浮かべてつい浮かれました」
「ふぅん?あなたにもそういうありふれた感情があるのねえ……」

ベルモットは探るような視線を透に向けたのち、フイと逸らして続けた。

「ま、そっちの方はあの方も早いところ懐に入り込んでカタを付けたいって話だったし。うまくやってちょうだい。それはそうと新しく入り込んだ“ネズミ”の件だけれど」
「抜かりはありませんよ」

透はベルモットが持ち出した別の話題に応えつつ、好きなひと云々の話題を逸らそうとした。9割の事実に、1割の真っ赤なウソ――ターゲットと接触するのも情報を掴んだのも本当だけれど、ただ1点…相手が美人だなどとは全く思わない。だって愛理ちゃんの前ではただ霞むだけの存在にすぎないのだから――を混ぜて並べ立てれば、そこでひとまず追及は止んだので胸を撫で下ろした。ただ、もう一度横目で見たベルモットの瞳は「その着飾った秘密、いつか必ず剥いであげる」とはっきり言っている。

危なかった……アクセルを踏みながら、透は背中に冷や汗が一筋伝い落ちるのを感じた。連中に愛理の存在という弱みを握られ、彼女に危害が及んだり取引材料にされたりしてはかなわない。

Rineを交換したあの時「連絡が付かない時がある」と伝えた理由は2つあった。まず、任務に集中して早い内に組織を壊滅に追い込みたい。それに、組織から愛理を遠ざけておきたかったからでもある。

バーボン、安室透、そして降谷零。3つの顔【トリプルフェイス】を使い分けている自分だが、用いている端末は同じもの。そこに組織の任務中、もし愛理から連絡が入って、その存在と、頻繁にやり取りしているのを知られたら。単なる知り合いや、利用するだけの相手ではないと見抜かれてしまったら。やり取りの内容や、こちらの態度だとかから好意を抱いているのを組織に察知されたら……思春期のティーンが、クラス中に好きな相手を知られて恥ずかしい思いをするといったレベルでは到底済まない。殺人さえ何の躊躇もなくやる奴らだ、危険に巻き込んでしまったら顔向けができない。

あの後すぐ透は“実は〇日〜×日までとても重要な仕事が入っているんです、その間は勝手を言って悪いんですが連絡は一切しないでくださいね。済むまでは僕からも何も送りません。終わってからまた連絡ができるようになったら、こちらからもう大丈夫ですよと送りますから……今回だけでなく、今後もそういうことがあります”というメッセージを送った。

すると“わかりました、お仕事がんばってください!私もその間に母に安室さんをどう思ってるかとか訊いておきますね”という励ましのメッセージとともに、可愛らしいキャラクターが旗を打ち振るイラストのスタンプも返って来た。どうやら応援の気持ちを表しているようだったが……愛理はまだ相変わらず、透が好きなのは自分ではなく、自分の母だと思い込んでいる。いかに母親を利用して近づいたのだという悪印象を抱かせないようアプローチをしたものか。嬉しいけれどそうじゃないんだよ、と苦笑いしながらもお礼の言葉を返してはおいた……ひとまず愛理は、今のところ透の言い付けをしっかり守ってくれている。

強く念じてハンドルをまた優しく握り直した。そう、匂わせないようにしなければ。あの子を守るためにも。


その晩、透は夢を見た。梅昆布茶のおかげか寝付きは悪くなかったが、飲んだからといって夢の中身まではどうにもできないんだな。目を覚ましてまずそう思った。この前のような悪夢とまではいかないものの不思議で、そして現実味がありすぎる内容だったとも振り返りながら(ちなみに先日見た悪夢とは、キャンティが「スナイパーのキャンティ、17歳です!」と言うのに合わせ、組織のコードネーム持ちの男が――ジンやもちろんバーボンとしての自分も含め――皆、彼女の気が済むまで「おいおい」と言わされるというものだった)。

それで、今回の夢というのが。

「ズバリ!あむぴって今恋してますよねっ!?相手って誰ですかっ!」

まずポアロで仕事中、彼をそんなあだ名で呼ぶ常連客の女子高生たちに詰め寄られた――おまけに何故かその中には、高校生ではなく、まだ小学生の江戸川コナンの同級生である吉田歩美まで、ごく自然に混じっていた――。

「そういう相手はいませんねえ」

営業スマイルを浮かべていなそうとしたが、手強いのなんの。「ウッソだー!何か変わったもん」と引き下がらないし、歩美まで「そうよそうよ、女のカンでお見通しなんですからっ」と、実におませなことを言うものだから手を焼かされた。

しかもその直後に風見が店を訪れ、梓特製のカラスミパスタを頬張りつつ「最近、降谷さんの雰囲気が、上手くは言えませんが何だか変わったような……」と、訝るような視線を注いできたところで目が覚めたのだ。しかも夢の中で彼らが口にしたことは、シチュエーションこそ違えど、少し前に実際に言われたこととそっくりそのまま同じとなれば、ますます不思議というほかはなかった。

伸びをしてベッドから出る。朝日が眩しい。時計を見ればもう愛理はとっくに登校していた時間帯だった。今日は久しぶりに完全オフだ。ポアロは電気設備の点検で休業で、こればかりはマスターが立ち会うことになっているし、本庁へ出向く用はこの間済ませた。ベルモットも何かプライベートで予定があるらしいとか。

そんな日の朝は、いつもより手の込んだ朝食を作りながら今日の過ごし方を考えるに限る……ハロの餌皿にドッグフードを盛ってやったあと、味噌汁の具を何にするかゆっくり考えた。結局エノキと豆腐の白づくしにしたが、豆腐をさいの目切りにしながら眉間に皺が寄る。

風見は変化をうっすらとしか感じていなかったようなので「ここのところベッタリだから“奴ら”の臭いがかなり移ったかもな」という冗談めいた言葉で隠しおおせた。

だが、ベルモットや女子高生(加えて歩美も)たちは「恋をしているに違いない」と断言してみせるし、それが見事に当たっている。おまけにあの手この手で訊きだそうとしてくる。女のカンとやらは恐ろしく侮れないものだ……愛理ちゃんにもあるんだろうか?鋭いのか、それともそうでもないのか。どっちだろう?この間、僕があの子の母親に惚れているなどという盛大な勘違いをしていたからには後者かもしれないな。出来上がったサバの味噌煮を、ハフハフと口に運びながら一人頷いたり考えたりした。

さて、片付けを済ませたらタブレットでニュースでも見ようか。オフの日も結局あまり変わらないじゃないか。苦笑して電源を入れ、ニュース番組アプリを呼び出す。

透はニュースを仕入れるならNNKに限ると思っている。民放のニュース番組もどきだと、知ったかぶりで好き勝手なことを言うコメンテーターたちが五月蠅くてかなわないのだ。捜査に役立つ可能性もあるにはあるだろうからと、割り切ってざっと視聴することはあるが、本音を言えば1分だって見られたものじゃない。

ともかく、端末を起動させると画面が点いた。いつも通りトップ画面にあるアプリを起動してニュース番組を表示させよう。手はいつも通りスムーズに動いていき、目的のチャンネルが映し出された……と思ったが。

“NNK高校講座、次は古文の時間です。今日も前回同様、百人一首の歌について解説します、テキスト21ページを開いてください……”

映ったのはいつものしかつめらしい顔をした男性アナウンサーの代わりに、見慣れない中年女性。間違えたか?首を捻ってタップした箇所に目をやりすぐに合点がいった。NNK総合を点けたつもりだったが、間違えて隣にあるNNK教育に合わせていたようだ。その間に、画面の中では講師を務めるらしい彼女が一礼してから姿勢を正し、現代のニュースではなく遥か昔の詩について話し出していた。

“まずは軽くおさらいからです。前回のテーマは、主に景色や季節でしたね。「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは」をはじめとした歌を取り上げました……”

これまでの透なら、すぐさまニュース番組に切り替えていたに違いない(しかも「から紅」……あの忌々しい色にまつわる歌なんて)。

しかし風見の言うことも中らずといえども遠からず、か。恋とはなるほど人を色々な意味で変えるものだ。高校の授業か、懐かしいな。百人一首は授業の一環で暗唱させられたが今はどれだけ覚えているやら……解説を聞くともなしに聞いていると、愛理の顔が思い浮かんでくる。

あの子も高校生だし、今頃こんな勉強をしているのかな。そこまで思って、透は少し笑った。僕はどうやら、大分彼女に参っているようだ……そう考えた時また小さく吹き出した。今度の理由は自分の変わりように対してではない。講師の顔をよくよく見れば、長い黒髪でふくよかな顔に細い目という、さながら絵巻物から抜け出てきた平安美人そのもの。古文を教えるのにこれ以上ないくらいよく似合う顔かたちをしていて、科目に絶妙にシンクロしているのがおかしかったのだ。

透の頭の中に浮かんでくるそんなあれこれなどつゆ知らぬ講師は、そのまま穏やかな語り口で授業を続ける。

“今回は、恋愛に関する歌を取り上げます。まずは「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ おもひそめしか」からです。品詞分解して……現代語に直すと、次のようになります”

和歌を音読した講師の姿から、黒板を模したものへと画面が切り替わる。そこに原文に加えて、現代語訳と解説が添えられているのを目でなぞりながら、思わず口をついて出た。

「恋したと、噂になってる、気付かれた。ひっそり隠していたはずなのにな……まるで今の僕じゃないか」

1000年近く前でも、恋心を隠そうとしても周りに知れていたのがいたんだな。僕と愛理ちゃんみたいな立場だったのも、ひょっとしていたかもしれない。透は急に親しみを覚え、もう少しよく聞いてみようかと音量を3つほど上げた。

“次は「しのぶれど 色に出でにけり我が恋は ものやおもふと 人の問ふまで」です。この品詞分解をしていきましょう”

丁度いいボリュームに調節したおかげで、耳によく入って来て思い出す。ああ、この歌はよく覚えている。古語と現代語とでは、長い時を経た分同じこの国の言葉なのに随分意味合いが変わってしまっていることが少なくないけれど、割に現代語でもなんとなくそのまま意味が解りやすかったから。習ったのはもう10年以上も前のことになってしまったけれど、解説を聞き直すとまた見えてくるものがあるだろうか。

「隠しても、見抜かれるものだな好きになると……恋したでしょうと訊かれるほどには。こんなところか」

そっくりだ。先ほどと同じように、自分なりにかみ砕いた現代語に訳して口ずさみながら驚く。遠い昔の歌詠み人の気持ちが、手に取るように解るなんて。女のカンとやらも、その頃からもう備わっていたんだろうか、そして見抜かれてアタフタする奴もいたかな……本音を言えば、長い長い時の中で消え去っていてくれたら楽なのに。そうぼやく間に、早くも終わりの時間が近づきつつあるようだった。

“最後に、この歌で締めくくりましょう。「せをはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢はむとぞ思ふ」…この歌の意味は、恋人に今は離れてもいつかはまた一緒になろうと呼びかけるという、とても情熱的なものです……”

透はますますタブレットにくぎ付けになる。今だって、距離が縮まっているとは言えない。うかうかしていたら遠く離れたままかもしれない。だが、そう、あくまでうかうかしていたら…の話だ。

「……どれくらい、隔たりあっても離れても。悲恋(バッドエンド)にさせはしないよ……かな」

そうだ、いっそ先達の顰に倣って恋歌でも詠みかけてみようか?いや、キョトンとされるのがオチだろう。先日の様子からしてまだまだアプローチは実りそうにない。でも続けていくまで、だ。

愛理の通う学校の方を見ると、高く上った太陽が眩しかった。光に投げかけるは、この気持ち。

「今はまだ遠い君への恋歌(ラブレター)、伝わるその日が来ると信じて」



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