おひとついかが


読み返すでもないのに取って置いたら溜まりに溜まっていた書類の整理やら、薄っすら埃が目立つようになっていたウォーターサーバーの掃除やら。どうしてだかなんとなくやる気が起きてそんな細々したことを終え、クチナシはソファに腰を下ろして一息ついたところだった。

そこへ視界の隅にあかいいとが転がって来た。かと思えば、それに夢中になってじゃれているニャースがダッと足元を駆け抜けていく。

「おまえさんたち、ちょっとくらいは手ぇ貸したらどうなんだ」

……そう冗談半分本気半分でぼやいても、いつものことながら1匹だって反応する素振りを見せない。あっちで威嚇し合って、そっちで腹を天井に向けたまま寝そべって。ニャースたちは他人のことを気にしないで好き勝手にやる、というそんな“仕事”を今日もゼンリョクで全うしている。

そんな様子を眺めながら、クチナシは思い切り伸びをして呟いた。

「静かだねえ」

今日もきっと何事も起こらないはずだ。日報には仕事が終わるより先に前もって“異常なし”と書いているが、書き直すことにはならないだろう。ポータウンに居着いたままのスカル団の残党もいるにはいる。だがすっかり大人しくなった。しばらく前は、彼らがちょくちょく意味も無く立てていた爆音があの壁から漏れ聞こえて来るのに煩わされていたのに。バケモン、もといウルトラビーストの保護も一件落着してしばらく経った。「静かに暮らしたいんだがな」……アセロラとスカル団から保護したヤングース、そして島めぐり中だったある少女――今は可愛い恋人となったプレサンスの前でそう零したのは、それなりに遠い日の出来事になっていた。

そんな中思い浮かべるのは、愛おしい相手のこと。今何してっかなあ、プレサンスは。いつもに比べれば小雨の降る窓の外をチラと見たあと、クチナシはふと苦笑いする。静かな暮らしを望んでいたはずだというのに、彼女のもたらす心地良い賑やかさを待ち侘びるようになるなんて。自分の変わりようが無性におかしくて口元が勝手に緩む。足元から視線を感じて見下ろせば、目を丸くしてクチナシをまじまじと見上げてくるニャースの1匹と目が合った。あかいいとに夢中でじゃれていたのに、それをうっちゃってしまうくらいにはご主人のふとした表情の変化に驚いたようだ。

と、そこに最古参が駆け寄ってきてクチナシの膝に飛び乗った。もう長い付き合いだ、甘えたような鳴き声を上げるときには何を求めているのかすぐ解る。

「もう昼時かい」
「みゃあ!にゃにゃん!」
「わかったわかった。ほらくっつくな、メシ出せないっての」

デジタル時計に目をやればもう1時10分、確かに最古参の腹時計に狂いは無い。触発された他のニャースも餌をねだって大合唱が広がり始めた。別の甘えん坊な個体が膝に乗ろうとしたのをどけて立ち上がり、フーズを交番の各所に散らばる各々の餌皿に入れてやったところでクチナシの腹も鳴った。「おれもメシにすっか」とひとりごつ。

昼食は大抵ローリングドリーマーのデリバリーを頼むが、あいにく昨日から改装工事のために休業に入っている。しばらくはインスタントになるだろう。ストックをしまってある戸棚を開けたが……小さく舌打ちした。棚は見事に空っぽだったからだ。

うっかりしていた、切らしてしまうなんて。そうだ、そろそろ尽きそうだから通販で頼むつもりだったのにすっかり忘れていたことを今更思い出した。

雨降りの中を出かけるってのも億劫だしなあ、こうなったら新規開拓も兼ねてどこか別のとこに頼むかね。クチナシはそう思い立ち、戸棚の扉を閉めて踵を返す。こんな辺鄙なところだろうが、ダイレクトメールを送ってくる商魂逞しい業者はいるもので、先ほどの掃除で処分しようとしていたチラシの中にも何枚かあったはず。それを引っ張り出そうと、置いてある辺りに近寄ろうとした。

すると同時に、出入り口のドアからコンコンというノック音と「こんにちはー」という声が聞こえてきて振り向いた。

「プレサンスか?」

聞き覚えのある声だ。「どうぞ」と言いかけたが、それを引っ込めて声の主だろう誰かの名前を呼ぶ。果たして、カチャと軽い音を立てて開いた玄関扉をくぐってきたのは、やはりプレサンスだった。

「クチナシさんお疲れ様ー、って待って待って!」
「ニャオン」
「うみゃー!」

入って来たプレサンスに気が付くや否や、その足元に我先にとニャースたちが群がる。あっという間にニャース団子アローラ仕立ての一丁上がり。彼らはプレサンスのことを、美味しいものをくれて、しかも撫でてほしいところをピンポイントで撫でてくれる良い人間(とはいえ、「自分たちにとって都合の」という前置きが必要になるけれど)だと思っているのだ。自分の快楽にとても忠実なあたり、抜け目が無いというかなんというか。

だが、恋人に一番に近寄る権利はニャースたちにだって譲る気など無い。クチナシは次々に彼らをヒョイと抱えては横に置き、プレサンスから遠ざけるとともに彼女の通り道を確保してやった。恨みがましそうに小さく唸り声を上げるのも何匹かいたが「おまえさんたちは大人しくメシ食ってな」と追い払って。

そんな様子をニコニコしながらしばらく眺めたあと、プレサンスはクチナシに向き直り袋を掲げて見せてきた。

「じゃーん!差し入れ持ってきましたよっ。お昼時ならお仕事の邪魔にならないかなって」
「よく来てくれたな。しかもこのタイミングで差し入れとはありがたいねえ、ちょうど昼飯切らしちゃってさ。どうすっかなと思ってたのよ」

プレサンスが来た、しかも差し入れまで持って。これが願ってもない話ってやつか、とクチナシは思った。

だが、その矢先。

「なら良かった。中身はマラサダと、それからオハナ牧場の搾りたてミルクでーす」
「ん……おう。ありがとさん。そこ座って一緒に食うか」
「やったあ!」

持って来たものが何かを知らされた途端、少し膨らんだ期待がみるみるうちにしぼみ出すのを感じる。ミルクはさておきマラサダかよ……クチナシは顔を歪めそうになるのを何とか堪えた。

もちろんプレサンスの好意はありがたい。しかし、だ。ソファの方へ手招きすると目を輝かせて喜んだ彼女を、可愛いものだと思いつつ礼を述べこそしたものの、クチナシは内心ではそこまで喜んでいるわけではなかった。

クチナシもアローラに移り住んでそれなりになるが、実はこの地方名物のマラサダを食べたのは随分前に1回こっきり。初めて口にしたそれが、脳天に突き抜けるような甘さのアマサダだったうえに油ぎっている、などという代物だったばかりにもう二度とごめんだと思っていたのだ。

国際警察の一員として世界を飛び回っていた時には、食の好き嫌いなんて贅沢なことを言ってはいられなかった。赴任した先の味が口に合おうが合わなかろうが、任務をこなすためには無理にでも胃に押し込むほかはなかったのだから。

そういえば昔の腐れ縁は、それこそ腐ったもの以外なら何でも口にしていたっけ。カロス地方のミアレシティにある、インチキ臭いジョウト地方料理レストランでは、クチナシにしてみればよく言えば珍味、悪く言えばゲテモノな料理を、彼が手を付けなかった分まで美味い美味いと平らげていた。ジョウト地方のアサギシティにある食堂では大食いにチャレンジして、ミルタンチーズピザも焼きいかりまんじゅうも、ありとあらゆる料理を見事に食べ切ってみせ、居合わせた海の男たちからも驚きと尊敬の眼差しを送られていた……それはさておき、今はもう好みに合うものを選べるからにはわざわざ不味かったものを選ぼうとはしないわけで、あれ以来マラサダを口にしないまま、気が付けば結構な年月が流れていた。先ほどプレサンスに一緒に食べないかと誘ったのは、彼女と過ごしたいのももちろんだが、口にするマラサダの数を減らしたいという思惑もあってのことなのだ。

ま、プレサンスがせっかく持って来てくれたもんにケチ付けられねえからよ……クチナシは自分に言い聞かせながら並んでソファに腰を下ろす。その間にプレサンスはいそいそと袋から取り出した箱の蓋を開け、彼の方へ「どうぞー」と差し出してきた。モーモーミルクの紙パックにはご丁寧なことに既にストローが挿されていて、もういよいよ実は苦手なんだ、と断るわけにはいかなくなった。

クチナシはほとんどヤケ気味に覚悟を決めた。もうどうにでもなりやがれ。そんな内心を見せないようにしつつ、いざ箱の中から一つを取り上げ、パクリと一口――これは。

「美味ぇな。ん、しかも餡入りか」

口角が勝手に上がっていく。プレサンスの顔が嬉しそうに綻んだのにつられたから、というのもあるが、それに加えてマラサダが絶品だったからだ。フワッとした食感に控えめな甘さ、生地も油ぎっていなくて軽い口当たり。初めて食べたあれとは似ても似つかない、これはいける。おまけにもう一口齧れば、滑らかな濃紫のペーストが視界と口の中それぞれに広がった。

黙々と食べ進めるクチナシの様子をしばらく見ていたプレサンスだったが「私も1つ食べちゃお」と呟いて手を伸ばしながら、少し誇らしげに話す。

「美味しいって言ってもらえて良かった。クチナシさんもしかして甘いもの苦手かなーって思ってたんだけど『ジョウト地方のタンバシティで取れた良い小豆を使ってる甘さ控えめなマラサダですよ』ってお店の人が言ってたから丁度良いかもって思ったの。みんなも食べる?」
「みゃあ!」
「ごろにゃあん」

先ほど餌はやったのに、ニャースが何匹かいつの間にか足元にすり寄ってきていた。全員この交番きっての食いしん坊揃いだが、やはりまだ食べ足りないらしい。おこぼれに与りたくて猛アピールしているのだろう、可愛らしい鳴き声を上げてみせたり、(いつものジト目はどこへやら)目をまん丸にしながら首を傾げて見せたり。いつも接している分、彼らの本性をそれはもう詳しく知っているクチナシは、思わず「んな声どっから出してんだ」と言いそうになった。

「ったく、調子が良いんだからよ。そもそもさっき食ったばっかだってのにおまえさんたちは。そいつら特に大喰らいだから、プレサンスの分なんざあっという間に無くなっちまうぞ」
「良いの良いの、そのために多めに買って来たんだし。はいどうぞー」
「優しいねえプレサンスは。こう言ってくれてんだ、ありがたく味わって食え……って聞いちゃいねえ」
「ふふふ」

プレサンスが自分の分を小さくちぎって分け与えてやるや否や、ニャースたちはこれでもう用は済んだとばかりに2人から離れ、各々のお気に入りの場所でマラサダを貪り始めた。

変わり身の早ぇ奴らだよ、ほんと。クチナシがそう思いながらモーモーミルクのパックを置いたところに、プレサンスがまた話しかけてきた。

「ね、クチナシさんもこうして、あんこマラサダっていうかあんパン食べながら張り込みしたことある?」
「張り込みは何度かしたかね。もの食いながらってのは無かったけどよ」
「そっかー。じゃあ建物の陰に隠れてあんこマラサダとか食べながら『ホシは……もぐもぐ……こちらに気づいたもよう……ぱくぱく……』とかいうやりとりはしなかったんだ?『デンジャラス・デカ』みたいに」
「やらねえな。っつうかプレサンスは世代じゃねえだろうによく知ってんな、あれ随分前のドラマだろ」
「カントーに住んでたころパパと一緒に再放送見てたから。それにこっちでも再放送してるんだね、シーズン1の10話なんて久々に見たよ。で、その話でこうしてマラサダ食べてミルク飲みながら張り込みしてるシーンがあってさ、クチナシさんもおまわりさんだし、そういうことしたのかなー、食べてるところ見たいなーって思って買って来たんだ」
「そうかい」

『デンジャラス・デカ』、通称『デンデカ』。テレビ番組を好んで見るほうではないクチナシでも、そのタイトルやメインの登場人物ぐらいは知っている。昔カントー地方やジョウト地方を中心に大人気だったという刑事ドラマ……の皮を被ったコメディで、パカとウージという凸凹刑事コンビと、シンオウ地方きっての名家出身で頭脳明晰だが表情に乏しいお嬢様が繰り広げるドタバタ劇だ。他の島では『アローラ探偵ラキ』なる推理ドラマが人気だそうだが、ここウラウラ島に限っては別だ。ジョウト地方からの移民の子孫が多く住む土地柄ゆえだろう、彼らの間ではいまだに根強い人気を博していて、地元紙の報じるところによれば、この島ではアンコール放送さえ『ラキ』の本放送の視聴率を常に上回っているとかなんとか……。

「そういえば、ハンサムさんも」
「あ?」

突然プレサンスの口から飛び出した腐れ縁の名前に、クチナシの眉は吊り上がった。No.836が何だって?しかし彼女は恋人の内心などつゆ知らず、モーモーミルクをズッと啜って懐かしむように続ける。

「マラサダは張り込みのよきパートナーなんだって言ってたっけ。情報収集もウルトラビーストの捕獲も持久戦だから、すぐに片手で食べられてお腹にたまるマラサダを持っていくといいって、私にもリラさんにも何個かくれて。『てえへんだー!』なんて言いながらモーテルに駆けこんできたときはびっくりしたけど面白い人だったなあ、今どうしてるんだろ?」
「まあ……くたばっちゃいねえだろ。にしても美味いなこれ」

ハンサムのことだ、緊迫した状況を和ませようとしたのかもしれない。ただリラは良いとして、プレサンスの唇が腐れ縁の名前を紡ぐことは全くもって面白くない。だからマラサダの話題に持って行ってしまおうとしながら箱に手を伸ばせば、いくつか入っていたのにあっという間に最後の1つになっていた。

プレサンスは食べて食べて、と言わんばかりに箱をクイクイとクチナシの方へ寄せてきて、もう食べる気は無さそうだ。しかしいくら自分のために持ってきてくれた差し入れとはいえ、ほとんど独り占めする形になるのも気が引けた(口にする前は気乗りしなかったのに)。最後の1つを勧めても「クチナシさんへのお土産だから私は良いよ」とか言ってやんわり断るのは目に見えているし。

どうしたもんか……クチナシにとある考えが降って湧いた。そうだ、それなら。

「ほら、半分食べな」

まるまる1つを勧めるより均等に割って、クチナシがもう半分を渡せば。プレサンスはキョトンとした顔からぱあっと明るい笑顔になって。

「ありがと!」

ほら、喜んで食べるじゃないか。それを見てああ、良かったと思うのだ。



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