輪(前)


……なーん、みゃおん。……ふみぃ!うにゃぁーご!… … 

「まって……いま、おきるから……あ」

まどろんでいたプレサンスの耳元で、ニャースが鳴き声を上げている。段々と甘えたものから甲高いものへと変わり始めていて、「起きないなら“実力行使”まであと何秒」とでも脅しているかのようだ。このカウントがゼロになったら色々と痛い目を見るのはとっくに経験済み。いつもしょうがないんだから、もうちょっとはご主人に遠慮するとかさあ、そういうの無いの……プレサンスはそう思いながらも応える自分の声で目を覚ました。

そして、ぼんやりした頭の中が次第にクリアになってきて。

「……夢、か」

怠い体を起こして見回しても、ここはプレサンスの自宅ではない。当然ニャースの姿などあるはずがない。専用のベッドだって用意してあるのに、ニャースは人間のベッドに潜り込んで来て人間をベッド扱いして、体の上にどっかり乗って眠りを妨げる。あまつさえ、そのせいでよく眠れなかった飼い主がようやく寝つきかけたところにお腹が空いたと騒ぐ。だから結局、寝ぼけまなこのままお気に入りの餌皿にフーズをあけてやってまた寝室へ……そんないつかの日常は、もうずっと来ないかもしれないなんて。

「起きようかな」

また湧き上がりかけた不安を押しやるように、プレサンスは1つ欠伸をして、ついでに伸びもした。最近は寝つきが良くなくて、そのせいか気力も湧かないから何をしたいでもないけれど。かといって二度寝をする気分にもなれない。だって、最近は眠る度にアローラのことを思い出す夢ばかり見てしまって辛いから。

そういえば今日も晴れじゃないのかな?最近曇り続きなんだよね、とプレサンスは無意識のうちにカーテンをたくし上げ天気を見ようとして――そこでハッとするのだ。ああ、この世界の建物に窓は無いんだった、それに空を見上げたってここには自然の光が何一つ無いんだった、と思い出して力なく項垂れるのだ。

そして、太陽の光に似せた人工の光に包まれたウルトラメガロポリスの片隅、自分を護るように膝を抱えて顔を埋めるのだ。

確かに色々見てみたいとは思ってた、けど。脳裏によみがえって来た、あの日様々なものを目にしてははしゃいでいた自分と、今こうしている自分とが、本当に同じ人間なのだろうかとさえ思いながら。



「ほんと、すごかったです」

顔をほのかに上気させ、プレサンスはこの日何度目かになるその言葉を口にする。並んで歩くダルスが「そうか」と頷く。もう少し他に言いようがあるだろうって思われてるかも、と彼女は苦笑いしたけれど、こればかりは許してほしい。ウルトラメガロポリスの一画を案内してもらって感じたことを一言で表すのに、これ以上ぴったりの表現など見つからないのだから。

初めてここに降り立った時は、今日のようにお気楽に異世界訪問を楽しむなんて状況が許すはずもなかった。何せ未知の世界で、しかも日輪の祭壇で一度は打ち勝ったとはいえ、ただでさえソルガレオを取り込み光を奪った、という途方もない力を持つポケモンに、それも本来の力を取り戻した姿に立ち向かわなくてはならなかったのだ。

それでも腕を見込まれて頼りにされたんだから放り出しちゃだめ、私で何か役に立てることがあるならできる限りは助けになろう、という一心で、プレサンスは一番のパートナーのガオガエンの再びの大活躍によりネクロズマを鎮めることに成功したのだった。

その後事態がひと段落したあとで、プレサンスは段々と異世界に興味が湧き、もっと見てみたいと思うようになったのだ。ウルトラホールの向こうの世界の人ってどんな暮らしをしてるのかな、科学力でどうのこうのってよく言ってたけど実際はどうなんだろう、と。

「ダルスさんとアマモちゃんがアローラの色々なものに触れてるみたいに、私もいつかウルトラメガロポリスの文化に触れてみたいな」

しばらくアローラに滞在し各地を巡ってみることにした、という彼らを自宅に招いたときにそう伝えた。するとたいそう喜んでくれて、2人がある程度調査結果がたまり、その中間報告のため一時帰還するのに付いていく形でここに実現した、というわけだ(もっとも、アマモは急に用事を思い出したとかで到着早々抜けてしまったのは残念だったが)。

ともかく、ダルスの案内を受けながら初めて見た光景にプレサンスの興奮はまだ冷めやらないまま。何も言わずに押しとどめておいたら口がパンクするに違いないほど、感想があとからあとから溢れてしまうのだ。

一言で言えば、ウルトラメガロポリスは痺れるほどの科学力の結晶だった。アローラよりもどんな世界よりも高いだろう科学力や、それを活かした技術がごく当たり前に生活に溶け込んでいて、まるでSF映画で描かれる近未来の世界のよう。

例えば、そういう作品には車輪が無くて、しかも宙を走る車が付き物だけれど、まさか本当にそういう乗り物が当たり前に飛び交っているのを(異世界でとはいえ)現実で目にする日が来ようとは。

食事だってそうだ。ウルトラメガロポリスでは、そのために材料をあれこれ切ったり炒めたり、食器を用意したりなどといったことはそもそもしない。人間の一日の活動に必要な、あらゆる栄養素を1センチ四方のブロックに配合してあり、これを時間帯によらず空腹を覚えた時に1つか2つ摂取して終わり、というのがこちらでの”食事”なのだ。ついでに、これを噛むことで歯磨きの効果もあるらしいし、ブロックを口にする時間が個人で違う分、家族で食卓を囲むという発想も無い。だから前にダルスさんとアマモちゃんがうちに来たとき、フォークや歯ブラシ使いづらそうにしてたのかな……プレサンスはその理由を今になって理解したのだった。

振り返りつつ説明を受けながら通りを歩くうち、プレサンスとダルスはある店の前を通りかかった。彼女と同年代と思しき少女たちが列をなしていて、店頭のデジタルサイネージには“今大人気のブロックE−TOMYビックリヘッド味 期間&数量限定、売り切れ御免!”との宣伝文句が踊っている。

先ほどまで話に出ていたブロックなるものの実物に出くわし、おまけに聞くからにヘンテコなフレーバーに俄然興味を惹かれ、プレサンスは「これ、試してみたいです!」と申し出て列に並んだ。ダルスもそれに付き合ってくれたばかりか買ってくれたので(物理的な通貨は存在せず全て電子化されていた)早速ありがたくいただいた。

だが、ズガドーンのカラーリングをしたブロックをいざ口に放り込んだら文字通りビックリ、プレサンスは目を白黒させることになった。不味くはなかったけれど、何せクラボのみのパイ、カスタードクリーム、パイルのみ、ヤドンのしっぽの丸焼き、モーモーミルクキャラメル、そしてトッピングのバターをたっぷり塗りたくったアマサダ。そういったものを一口で一気に味わうに等しいほど、色々な味がするなんて思っていなかったのだから。おまけに、プレサンスの様子を見たダルスが実に珍しいことに小さくクッと吹き出したではないか。笑われたと腹を立てはしなかったが、それも含めて二重の意味でビックリした。

かといって、何から何までアローラ地方とまるで違う部分ばかりというわけでもなかった。とある街角に差し掛かった時、アマモよりいくつか下くらいだろう子供たちが、ベベノムも交えてワイワイ遊んでいるところに出くわしたのだ。ポケモン勝負の文化が無いということで、その分戦わせる存在ではなく遊び相手として位置付けられているのかもしれない。その点は違っても、やはりポケモンと人々が仲良く生きているのは変わらないとなれば、異世界にもなんだか親しみが沸いてくる。

……でも、ちょっと心残りはあるなあ。プレサンスがそこまで一通り振り返ったところで、聞き役に徹していたダルスが口を開いた。

「みな異世界の者と生まれて初めて接するとはいえ、知らないうちに何かそちらでは非常に無礼にあたることをしでかしてはいなかったか。特にはしゃいだ子供らが押し寄せて大変そうだったというのに、上手く止められずに済まなかった」
「全然そんなことなかったですよ。むしろ到着したばっかりの頃みたいに、ジロジロ見られてばっかりいるよりずっと嬉しかった」

周りの人々は、最初こそ初めて見る異世界からの来訪者を遠巻きにして好奇の目で見てくるので視線が痛かった。けれど、ダルスがこの世界全域に行き渡るらしい通信網を通して「プレサンスこそネクロズマを鎮めた異世界の強者だ、いつの日かおれらの世界に再び光を齎すきっかけを作ってくれたのだ」とプレサンスを紹介してくれたおかげで、距離はたちまち無くなった。

その後は、そこら中から口々に感謝や賞賛の言葉をかけられこそばゆくなるわ、近づいてきた人々は歓迎の品だといって見慣れないものを次々とプレサンスに押し付けてくるわ。大人の陰に隠れて様子を窺っていた子供たちも、警戒を解いてくれたらしい……のは良いとして。口々に「ねえねえ、ほかのせかいのポケモンどんなのかみせて」とか「ずりぃ!おれがさきだかんな!」とか言いながら我先にプレサンスに寄ってきてもみくちゃにする、という”歓迎”もしてくれたのだけれど。

「でも……ポケモン見せてあげたかったのにな、あの子たちに。それだけが心残りというか」

あのとき、ポケモンを見たいという頼みにプレサンスは「もちろん良いよ」と応じることにした。特にガオガエンなら、ああ見えて何だかんだ子供が好きだからぴったりのはず。その横ではダルスが子供たちに「くれぐれも客人に失礼の無いように」などと言い聞かせ、方々から「はーい!」と元気な返事が上がっていた。彼女はそんな光景を微笑ましく思いつつ、ボールを手に取って……。

「あれ?」
「どうした」
「ボールが開かないんです。故障なんてしてなさそうなのに……」

プレサンスは首を捻りながらボールのあちこちを見た。モンスターボールの中心を軽くタッチすればロックが外れ、中に収まったポケモンが出て来られるようになるはずだ。

なのに、何度そうしても何も起こらない。ガオガエンのが駄目なだけかも?プレサンスはそう考えて他のポケモンのボールならどうかと試した。だがライチュウ、キュワワー、オニシズクモ、シロデスナ、ネッコアラ、6匹みんなボールから出てこられない。HPは満タン、ボール自体に目立ったダメージも無いのにどうして?でも、これ以上意地になって試し続けても待たせてしまう。実際にボールから出すのは諦めるとして、せめてロトムを起動してデータだけでも見せてあげよう、と考えて他の手段を取ることにした。

「ロトム、図鑑機能の起動お願い……ロトム?」
「… … …」

話しかければすぐに合成音声が「お役に立つロトー!」と陽気に応えて……くれなかった。懐から取り出せば画面は真っ暗、スリープ状態でもない。プレサンスは乱暴にならないように気を付けて、指先で突いたり掌で叩いたりした。それでもうんともすんとも言わない。

そんな、どうしてロトムまで。そういえばここに来て以来話しかけて来ないような気はしてたけど、私と同じように圧倒されたせいで口数が少なくなったと思ってたのに。プレサンスはすっかり困ってしまった。おかしくなったのがモンスターボールだけではないなんて。こうなったら奥の手でライドギア……だめだ、ここでは呼び出せないんだった、とすぐに思い出した。困ったなあ、色んな意味でどうしよう、と戸惑う。

「おねえちゃんてば!まだあ?」

一番乗りで近づいてきた少女は、今か今かと期待に満ちた目でプレサンスを見上げてくる。それを裏切ることになって申し訳ないけれど、どんな手を試してもどうにもなりそうにない。アローラへ戻ったらククイ博士にロトムの不具合を見てもらわなくてはいけないだろう。

「ごめんね、モンスターボールの調子が悪いみたいで私のポケモンが出てこられないの。直したらまた来るね」
「えー!がっかり……」
「つまんねーの。でもまたこいよな!」
「こら、こういう時はまた来て『ください』と言うのだ」
「わ、わかったよ。えーと、じゃ、またきてな!」

そうして1人抜け、2人去り。やがてポケモンが見られないと判るや、周りに群がっていた子供たちも散っていき、“歓迎会”はそこでお開きとなったのだった。



そうこうしているうち、プレサンスとダルスはメガロポリス入口のドア付近まで辿り着いていた。名残惜しいけれど、そろそろこれを潜った向こうにあるウルトラホールの、そのまた向こうの世界へ帰らなくては。彼女は暇を告げようと、案内人の方を見上げて口を開く。

「ダルスさん、今日は本当にありがとう。ウルトラメガロポリスってとってもすごいところなんだなって感動しちゃいました。でもはしゃぎすぎてうるさかったですよね、ごめんなさい」
「うるさいなどということはない。プレサンスこそ、おれらの世界に触れてくれてありがとう。見るもの全てに目を輝かせているところは見ていて飽きなかった……良いものだよな、互いについてもっと知り合おうとするというのは」

感謝の言葉を述べると、ダルスは故郷を褒められたからか少し誇らしげで、硬い表情を崩しこそしていないものの嬉しさが隠せないといったふうだ。彼はプレサンスの視線の向く先に何があるのかを見て取る度、すぐさま「あの機械は何という名前でどういった目的で使うものだ」などと教えてくれて、それをきっかけにプレサンスもアローラにも似たようなものがあるとか無いとか答えたり、逆に彼女の方から「アローラにはこういうものがあるんですけど、こっちではどうですか」と訊ねてみたり。そんなやり取りで盛り上がり、瞬く間に時が過ぎてしまった。

本当は数週間ほど滞在させてもらう予定だったし、社交辞令抜きでもっとここに居て色々見てみたいのは山々だ。でも、モンスターボールやロトムのおかしな状態も気になるし、プレサンスは予定を変えて帰ることにしたのだ。ちゃんと直して、次こそあの子たちにポケモンを見せてあげる、という約束を果たすためにも。

「それじゃあダルスさん、アローラ」
「……アローラ」

”さよなら”の意味を込めて挨拶するプレサンスに、ダルスも同じように返してくる。手を本来のように輪の形ではなく四角に動かす癖はそのままだけれど、知り合って間もないころにはきっちり直角だった四隅が、最近では丸みを帯びたものになってきていた。

じゃあ挨拶も済んだし、あとはウルトラホールを通っていくだけ、とプレサンスは背を向けかけた。

だが。

「きゃ!」

不意に後ろから左手首を掴まれる感触がして、プレサンスは驚きの声を上げた。振り返ればダルスが左手を伸ばして掴んでいて、そしてまっすぐ見つめてきていたではないか。

「どうしたんですか?」
「……帰ってしまうのかと、思ってな」
「は、はい。図鑑の故障とか見てもらわないと」

さっきさよならは言ったのに……プレサンスは答えながらも声が少し裏返りかけた。アローラにいる時には自然光が眩しいからと分厚いゴーグルが欠かせないが、ウルトラメガロポリスにいる間は着けなくても支障が無いとかで外している。だから、向こうでは口元以外見えないダルスの素顔が――整った顔立ちも、吊り気味の目に湛えている思い詰めたような何かも、遮られることなく見えたからだ。

「そうか。そう……だよな」
「あの……」
「……」

プレサンスは別に振り払おうとまでは思わないまでも、面食らって声をかけた。だが、どうもダルスに届いてはいなさそうだ。彼女はそのまま考える。それにしてもなんで手首を?あ、もしかして挨拶の時には握手をすることもあるっていうのをどこかで知ってやってみようとして、でも手首をこうして掴むものだって覚えちゃったとかかな。それとなく教えたほうが良いかも、エラそうな感じにならないようにしたいけどどう伝えようかな。

しかしプレサンスはそれを口に出せなかった。見当をよそに、ダルスは握手のように手を振ろうともせず、かといって離してくれそうもない。手首を掴まれたまま首だけ後ろを向く、というこの体勢もそろそろ辛くなったので、もう一度呼びかけたがまたしても無反応……その一方で、ダルスの目に浮かぶ思い詰めたような何かが爛々としたものに変わっていて、その雰囲気にのまれてしまいそうだったから。



――そのときだ。

ビーッ、ビーッとビープ音が鳴り響き出す。プレサンスはビクッとなって辺りを見回したが、音の出所はすぐ判った。ダルスが腰のホルダーからけたたましい音を放つ通信端末を取り出したからだ。

それにしても、一気に不穏な雰囲気になってしまった。耳障りな音が鼓膜を何度も刺すば
かりか、端末に付いた赤いランプまでチカチカ点滅しているせいで予想がついてしまう。何か、まずいことが起きた報せだろうと。

「……すまない。少し通信に出る」

ダルスも我に返って小声で謝り、手首をようやく離してくれたのは助かったが。そして訝しげな表情を浮かべ「観測隊からだ」と呟くやすぐさま通話を始めた。

「こちら調査隊ダルス。どうした……なっ!?本当なのか?……隊長とミリンは……そうか、……」

ウルトラ観測隊。実地調査に赴くウルトラ調査隊をバックアップするためのチームもいくつか組織されていて、そのうちの1つだと以前教えてもらった。ルナアーラの力を利用してのウルトラホールの開通やその観測と制御に加えて、トラブルが起きた時の対応も担うという話だった。

それはさておき、この深刻そうな受け答えぶりからして、もしかして何か重大な問題でも起きたのではないだろうか。胸騒ぎがする。プレサンスの胸に言いようのない不安がひたひたと迫ってくる。気になるが違う世界で手持ちも出せず、何か知っているかもしれないロトムも機能しない、そんな状況で自分に何ができるでもない。慌てたり騒いだりしたって邪魔になっちゃうだけ、落ち着かなきゃ……プレサンスは自分に言い聞かせて、ダルスの通話が終わるのを待ちながら成り行きを見守る。

しかしその間にも、緊迫した雰囲気はますます加速していくばかりで。

「そうだな、その対処を取ったうえで様子見を……おれも客人を安全なところへ連れて行ったら速やかにそちらに向かう。治安隊はこれから避難誘導を開始するのだな?アマモや他のバックアップチームにも連絡を……了解した、頼んだぞ」
「何があったんですか!?」

いつも以上に硬い表情のまま、ダルスが通話を終えた。すかさずプレサンスが訊ねれば、彼は無言のまま重々しく頷き返してきた。背中を冷や汗が伝う。「少し受け止める時間をくれ」とでも言っているかのようで、やっぱり、ただごとじゃない何かがあったんだ、と彼女も察する。いつも淡々としている印象が強いダルスが焦っている、そんな様子を目の当たりにしては案ずるなと言われても無理というものだ。

「まずいことに、なった」
「え……」

ようやく口を開いたダルスの声は掠れていて、事態の重大さを滲ませた。一体、何があったの……プレサンスが身構えて次の言葉を待つと。

「全てのウルトラホールが、何らかの原因によって突然消失したというのだ。アローラに繋がっていたものも……おれらとプレサンスが通って来たものも、何回かにわたって開通を試みているも反応が無い、失敗に終わっていると……」
「そんなっ……それって!」

プレサンスは愕然として悲鳴のような声を絞り出した。通って来たウルトラホールがそんなことになった。ということはつまり、元の世界に帰れなくなってしまったということに他ならない。まさかそんなわけ、とドアの外を見ても――確かに、無い。あったはずの、無くては困るあの裂け目が、そこにはもう……!途端に彼女の体はガクガク震え出す。

「こんなことって。嘘、でしょ」
「本当に済まない、こうした事態になろうとは……おれがああして引き留めている間に何ということだ」
「そんな、ダルスさんのせいじゃないですっ。でも私本当にどうしよう……」
「ひとまずこれから滞在中に使ってもらう予定だった部屋へ案内する。おれは観測隊とともに今後について協議しなくてはならないからそばを離れるが、落ち着くまではそこへ留まっていてくれ。一段落したらまたプレサンスのもとへ戻る」
「は、はい」

かくしてプレサンスはウルトラメガロポリスに留まるほかはなくなり、そこでウルトラホールが再び開通する日を――いつともしれないその日を待ち続けることとなったのだ。



膝を抱えたままのプレサンスが思い浮かべるのは、ウルトラホールが消えたあの日の翌日のこと。宛がわれた部屋のベッドでまんじりともせず一夜を明かし、その後初動対応をひとまず終えて戻って来たダルスから(ここに連れて来られた時はそれどころではなかったので)部屋の設備の使い方あれこれ、そして現状や今後の対応について聞かされていたときのやり取りだ。

「シオニラさんやミリンさんは大丈夫だったんですか?今日、じゃなかった昨日からシンオウに調査に行ったって話してましたよね?」
「2人なら既に無事帰還している、異変が発生する直前にな。到着早々機器の不具合が生じたとかで、調査を早く切り上げたのが幸いしたようだ。もしそれが起こらなかったら……帰るすべを失ったまま、異世界に取り残されていただろう」
「そっか…そうならなくて良かったぁ」

安堵混じりの息を吐くプレサンスだったが、ダルスはそんな彼女を不思議そうに見た。

「プレサンス、おれの仲間やウルトラメガロポリスのことまで気に掛けてくれるのはもちろんありがたい。だが自分のこれからは不安ではないのか」
「それはまあ……いきなりこんなことになったし、モンスターボールもロトムもまだおかしいままですし。でも、仲間が違う世界に取り残されちゃったままなんてことになったら私だって心配だけど、そうならずに済んだんだもん。それだけひとまず良かったじゃないですか」

そのとき、ダルスは頷きかけた首の動きを止めて思った。おれとて言うまでもなく仲間やこの世界が無事だったことは喜ばしいし、プレサンスの良かったという言葉には同意する。しかし、先ほどからウルトラメガロポリスは大丈夫か、などと自分以外を気遣うばかりで、自分のことを心配しないのは何故だ?プレサンスが優しいからというのもあるだろうが、もしやアローラへ帰れなくなったことを理解していないのか。憎からず思う相手、ではなくて恩人を悪し様に言いたくはないが、のんきなものだな……。

だがそこで思い直した。昨日の様子からして状況をのみ込んではいるが、不安を紛らわすために他のことへ意識を向けているのでは、と。そんなところに帰れなくなったのだぞ、と突き付けては酷だ、言わないでおこうとダルスは決めた。

そして、プレサンスの不安を解消するためにもこう続けた――そのとき芽を出していたある感情を摘み取ろうとしたが、上手くいかないまま。

「一刻も早く事態が解決をみるよう全力を挙げていく。それまでは違う世界で何かと不便なことが多いだろうが、極力プレサンスに不自由を掛けないように努めるし、毎日事態の報告に来ると約束する。男のおれには言いにくいこともあるだろうから……そうだな、そうしたことへの対応はミリンに頼めないか相談しておく。どうかおれらを信じてくれ」

プレサンスはそんなダルスの内心をつゆ知らず、微笑んで答えた。

「ありがとうございます、ダルスさんたちがいてくれるから心強いです。それにウルトラメガロポリスにはすごい科学力があるでしょ、きっとなんとかできるって信じてますね」



思わぬ形でウルトラメガロポリスに留まるほかはなくなり、プレサンスは確かに最初は狼狽えた。母に似てマイペースで楽観的なほうだし、見知った顔もいる世界。とはいえアローラへの帰り道は失われてしまったのだ、不安を覚えなかったといえばウソになる。

でも。あのやり取りのあと、プレサンスは自分に言い聞かせた。ダルスさんたちだって色々してくれるっていうし、それに科学の力がすごいんだからきっと大丈夫、と。

実際、ダルスの対応は早かった。翌日には「少しでも早くアローラに繋がるホールを再び開くことをミッションとしたチームを組織した、おれが指揮を執る」――今後のことについてプレサンスに説明する中でそう話していたし。

それに、そもそも無理矢理連れて来られたわけじゃない。この世界がどんなところなのかを見てみたくて来たんだもん。むしろ長くいることになったぶんもっと色々見られるよね、案内してもらったエリアだってハウオリやマリエを合わせたより広かったはず、でもあれでほんの一部だっていうんだもんね。そうだ、こうなったらウルトラメガロポリスの隅から隅まで行ってみようかな?バトルする文化は無いっていうし……まだガオガエンたちも出せないけど、危なそうな辺りは前もって訊いておいて、その辺りに近寄りさえしなければ何とかなるでしょ。プレサンスはそう考えて深刻に捉えることなく、むしろ突如降って湧いた非日常を楽しんでしまえばいいのだとさえ思っていた。

――あのときの私、のんきにもほどがあったよ。膝に額が減り込むくらいにギュッと密着させながら、プレサンスは自分に呆れる。

無聊を慰めるすべにも困ってはいなかった。こちらの世界の知識をもっと得たいとアマモに話したら、本(ごく薄いロトムと同じくらいの大きさの端末なのに、紙の本で換算すればきっとマリエ図書館の蔵書数をはるかに凌ぐだろう膨大な冊数分のデータが収められていた。そのほか、ツンデツンデをモチーフにしたパズルのようなゲームも入っていた。デフォルメされたカラフルなツンデツンデのアイコンの同じ色のものをいくつか繋げて消すルールだという)を貸してくれたので読んでみたり。ポケモンと接する感覚を忘れないようにしたいと思っていたところ、シオニラからまだトレーナーの決まっていないベベノムを人に慣れさせるための訓練を頼まれたので、引き受けて面倒を見たり。

そして、アマモとミリンが訪ねてきた時には女同士で盛り上がったり。女3人寄れば姦しい、とはよく言ったもの。世界が違えど集まればお喋りに花が咲くのもまた変わらないようだ――そして、中心になる話題が恋愛絡みになるということも。

2人は主にダルスが話題にしなかったようなこと、例えばこの世界の恋愛事情だとかに加えて、彼がこちらの異性に人気があることも教えてくれた。あの顔立ちに惹かれる女性ももちろん少なくないらしい。でもそれだけではなく、ウルトラ調査隊発足の際、未知の世界へ赴くというミッションに多くの人々が尻込みする中すぐさま志願した気概や、厳しい選抜試験をパスした優秀さに惹かれている者も少なくないはずだ、という。なるほど道理であの日通りを歩いていたら、女性の視線が彼に集中していた(そして中にはプレサンスへの刺々しい目も含まれていた)はずだ……しかし。

「ダルスはその、仲間をこう言ってはなんですが鈍いといいますか。というよりそれ以前に、そもそも恋愛という感情ですとか概念ですとかが理解できないようなのです。バックアップチームで一番魅力的とされているメンバーが彼に告白したときも『そうした感情はおれには理解できない』と答えたという噂まで流れたくらいに」
「えーそうなんだ!理解できない、かあ……もったいない」
「ねえねえ、そういうプレサンスさんはあっちにきになるひといないの?」

ただし、そうして過ごしていたら気が紛れたのはごく最初のころの話だ。外出や読書をしようという気力もとうに尽きた。これからだって湧いてきそうにはない。お喋りで気は紛れるにしても、やはりいっときのことに過ぎなかった。

そんな時間が終われば、ふと蘇ってくるのはやはり慣れ親しんだものやポケモンや人のこと。甘ったるいマラサダが恋しい。ガオガエンたちやロトムだって一緒だといえば一緒だけれど、ボールから出てこられなかったり起動しなかったりするせいで、こんなに近くにいるのに限りなく遠い。やっぱり手持ちのみんなを早くまた撫でてあげたい。面倒を見ていたベベノムも懐いてきたが、先日新人トレーナーに引き渡してしまったばかり。毒液をいたずらで掛けようとする度、根気よく「ダメよ」と言い聞かせていたら、元から知能が高いこともあってか聞き分けが良くなり成長が見て取れて、愛着も沸いたところだったから少し寂しかった。

それに何より、光を浴びたい――タワーから放たれている太陽の光に近い光ではなく、自然のあたたかな光を。

本にせよ光にせよ、プレサンスの元いた世界にあったものだって、この世界なりのすがたを取っているとはいえ確かにある。だが、自然の光だけは存在しないから、懐かしさはなお募るばかりだ。眩しく熱いほどのギラギラした日差し、空の色合いを映しキラキラと輝く鏡になる水面。アローラでは当たり前にそこにあった景色の記憶が薄れてきている気がした。

この世界でも貸してもらった書籍端末に収録されているデータの中に見ることはできる。だがプレサンスが求めているのは、温度も眩しさも感じられない写真や文字ではないのだ。



それなりに長い時間膝を抱えたままでいたら、さすがに節々が痛んできた。こんな時は顔を洗ってリフレッシュしよう、とプレサンスは思い立つ。ブロックは……お腹も空かないしまだ食べなくていいや、お水だけあとで飲もう。その繰り返しのうち手付かずのまま何日が経ったのか、もう忘れてしまった。デスクの上に置かれたそれの小さな山に目を向けたが手は伸ばさず、ベッドから起き上がってバスルームに入りスイッチを押す。

外に広がる街と同じくらい、宛てがわれた部屋も科学の力でいっぱいだ。微かな起動音がして、天井から降り注ぎはじめたのは衛生粒子なるもの。これを浴びれば、服を着たままで洗面も洗髪も入浴も、さらには身に着けている服を洗濯するのも一瞬のうちに終わるうえ、殺菌効果や消臭効果もあるから不潔になることもない。それでも、スイッチを押すよりも先に服を脱ごうとしてしまっていたし、ありもしないシャワーのコックを捻ろうとしてしまう。長らくのうちに沁みついた動きは無意識のうちにできてしまうものだ。

その時、苦笑いした自分の顔が鏡に映って――。

「やだな……ひどい顔」

プレサンスは思わずそんな呟きを漏らした。ここのところは鏡を覗く気にもなれずにいたから、その間に自分に起きた変化がにわかには信じられなかった。小麦色だった肌はすでに透き通るほど白くなっていて、そのせいで目の下のクマがひどく目立つようになってしまっている。そういえば関係があるかはわからないが、下り物もまだ来ない。周期は割に安定しているほうで遅れたことがあまり無いし、時期から言ってそろそろ来るころなのに……。

異世界で感じた不安を、プレサンスは自分以外を案じたり、あれこれをしようと考えたりして、心を昂ぶらせることで無理矢理抑えようとしてきた。でも、失敗だった。そんなまやかしの昂ぶりは続くはずもなく、日を追うごとに薄れている。しかも、それは同時に不安やストレスへとすがたを変えて、彼女をじわじわと追い詰め苛むようになっていた。

もう、限界が近づいているのかもしれない。あるいはとうに過ぎたのか。数日ばかり訪れてみるのと、こうして留まることになった――しかもいつ帰れるとも判らない――のとで、こんなにも違ってくるなんて。

バスルームを出て水を飲んだあと、プレサンスは何とはなしにベッドに戻り仰向けに寝そべった。そこに来訪者を告げるチャイムが鳴る。

“ピロポロ、ホウモンシャデス、ニュウシツヲキョカシマスカ”

そう訊ねてくる電子音声の次に聞こえたのは。

「ダルスだ。プレサンス、今少し構わないだろうか」
「はい、どうぞ。開錠しますね」
「失礼する」

すぐさま体を起こしながら口にした“開錠”という言葉にセンサーが反応して扉が開き、ダルスが室内へ足を踏み入れてくる。

その顔を見て、プレサンスは不安を抑えるためではなくて本心からダルスが心配になった。整った顔に浮かぶ疲労も目の下のクマも、日に日に色濃さを増しているばかりだから。唇は真一文字に引き結ばれていて――ああ、今日もかな。彼が告げんとしていることは、顔を見た瞬間予想が付くようになってしまっていた。

あれ以来、ダルスは再びワープホールを開通することに没頭しているようだった。だから顔を合わせる時間もほとんど無い。こうして毎日律儀に直接プレサンスのもとへ足を運んで、その日の進捗などを手短に報告してくれはする。だがそれだけ。「無理をしないで」と彼女が伝えても「気遣いには感謝する。だがプレサンスをこの世界に招いた者としての責任を果たさねばならない」と返してすぐに去ってしまう。ダルスはそのやり取りのときにはいつも思い詰めたような表情を浮かべているけれど、あの日の帰り際のそれとはまた別の理由からくるものという気がして、でもプレサンスは訊けずにいた。

ダルスが口を開こうとしたので、プレサンスは彼に向き直る。不安を顔に出さないようにしながら次の言葉を待ったが、彼は項垂れ、力無く首を横に振って。

「……力及ばず。やはり、まだだ」
「そう、ですか」

やっぱりだ。プレサンスは溜息を押し殺す。ルナアーラの能力をもってしてもなお、成果は上がっていないらしい。報告を聞いて漏らす息が、安堵からの息になる日は来ないような気さえしてしまうが、それでも彼女はコクリと頷く。こうしたやり取りはいつまでも続くのだろうか……。

だが、今日はこれまでとは少し違った。ダルスは顔を上げ「これが判明しても再びアローラへのホールを開くことに直接繋がるわけではないから、成果と呼ぶべきだなどとはとても胸を張れないが」と前置きして、こう続けたのだ。

「あの日起こったことの原因や、プレサンスのモンスターボールと図鑑端末に障害を引き起こしたものについては、おおよそ解明されつつある」
「本当ですか!」

帰れなくなっただけでなく、大事な手持ちをボールから出せなくなったわけだけでも知りたい。教えてほしいとプレサンスが頼んだところ、ダルスは次のような説明を始めた。

いわく、そもそもの発生源はカントー地方で、何者かによりそこを起点にイレギュラーな方法でウルトラホール――観測隊はこれに“RR”(アールツー)とコードネームを付け研究対象とすることにしたそうだ――が開かれた。

しかもこれはホウエン地方、シンオウ地方、イッシュ地方、カロス地方を経由してアローラ地方へ徐々に近づきつつあり、その過程で非常に巨大、かつ他のホールを脅かすほど危険なエネルギー体へと成長したという。

そして丁度まさにあの日。ダルスたちに付いてプレサンスが通って来たもの、シオニラとミリンが使ったシンオウ地方へ繋がっていたものも含め、全てのホールはRRに飲み込まれる形で消えてしまったようだ。加えて、様々な地を通って来た分、各地の電磁波だとかを取り込んでそれら同士が結合、結果としてボールやロトムの機能を阻害する働きを持つ未知の物質に変異したものがまき散らされていったのでは……とのことらしい。

「超巨大ウルトラホールが勢力を強めながら他のホールまで飲み込むなど、過去のあらゆる資料をあたっても全く前例の無いことだ。全力を挙げているが、正直に言えば初めてのケースの分、対処法の発見にはルナアーラの能力とおれらの科学力を併せてもなお時間を要するだろう……申し訳なく思う」
「で、でも、何が起きたのか判っただけでもちょっとスッキリしました。ありがとうございます」

プレサンスは落ち込んだ様子を見せまいとして、そしてダルスを励ます意味でも、顔を思いっきり動かして笑顔を作った。

「毎日本当にありがとうございます……でもダルスさん、無理しないで、くださいね」
「気遣いに感謝する。プレサンスこそ適切に睡眠も食事も取って、何かあればおれかミリンに遠慮なく伝えてくれ。ではまたな」

ダルスはいつもムスッとしている表情を、彼なりに精一杯緩めて応えた――ドアへと背を向けてすぐ、プレサンスに見せないよう険しい表情になって。

プシュッという音とともに、ダルスは閉まった扉の向こうへ姿を消した。プレサンスは見届けてからふう、と細い息を吐く。

不安を感じているところを、プレサンスはどうしても見せたくなかった。開通に成功しないまま、滞在が長引き始めていることにはさすがに気が付いている。

だがダルスをはじめ、ウルトラメガロポリスの人々だって初めての、それも難しいケースの解決のため奮闘してくれているのだ。不安に苛まれている様子を見せては、プレッシャーを掛けられているようで良い気はしないだろう。

今私にできることは、何でもないふりを見せながら気長に待つこと。それだけしかないよね。プレサンスは自分に言い聞かせた。

そのまま灯りを消して、体をベッドに横たえる。そのまま寝たら、夢でまたアローラのことを思い出してしまいそうでも、他にしたいことも気力も無いから消去法でこうするしかない。本来の光が無いせいで体内時計が狂ったのか、眠れど眠れどすっきりしないのはどうにもならないけれど。このベッド、マットレスの硬さやブランケットのフカフカ具合まで、ボタン1つで色々好みが調整できるんだからすごい……これを自分の部屋のベッドと同じくらいのにして、と。

「……よし、ちゃんと寝なくちゃ」

そして目を閉じて……ああ、やっぱり浮かんできたのは懐かしい顔や、しようと思っていたことばかり。

無事に帰れていたら、そろそろパパに会えるはずだったのに。「ジョウト土産をたっぷり持っていくから」と電話で言っていたからそれももちろんだけれど、何より久々に顔を合わせることを楽しみにしていたのに。パパの大好物のグレン風火山ハンバーグをママに教わりながら、昔“ばけねこむすめ”なんてニックネームが付いていたころの話をもっと詳しく聞こうと思っていたのに。アローラフォトクラブに入り浸ってまた写真をバンバン撮って、新しく手に入れたばかりのスタンプでデコって。お気に入りのマラサダショップが新しく売り出すとポスターを出していたズリのみマラサダが気になっていたから、それも早速チェックするつもりだったのに。それに久々にマンタインサーフも……。

止めよう。プレサンスは首をフルフルと振り自分に言い聞かせた。ああするはずだったのに、こうするつもりだったのにって、もうできないかもしれないのに思い出したってしょうがないじゃん。あーあ、のんきな私はどこに行っちゃったんだろ。こんなに落ち込んでクヨクヨするなんて、みんなビックリしちゃうかなあ……。

「みんな」……ああ、こんな言葉、どうして思い浮かべたんだろう。もう会えないかも、しれないのに。だめ、目がどんどん潤んできて、心の奥がキューッと締め付けられるように苦しくなって。

「会いたい……な……みん、な……!ぐすっ……ひっ、く、……かえりたい、よお!」

そんな呟きと、そしてここに来て初めて流す涙が、にわか雨の降り始めのようにポツリと漏れて。でもそれはあっという間にブランケットの隅を水浸しにするほどのスコール、いや土砂降りになって――。

ドアの向こうにも、それは聞こえていた。部屋を出たもののプレサンスの様子が心に引っ掛かり、もう一度入って何か言おうとして、しかし気の利いた慰めの言葉など何一つ思いつけはしないのだからおれももう休もう……そう思いながらまさに歩き出そうとしていたダルスは、その泣き声に足を止められ、鼓膜を激しく打たれていた。



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