明日


リビングの時計は、結婚祝いとしてグラジオとリーリエから贈られた上等なものだ。その針はいつもと変わらず正確に時を刻んでいる。故障しているわけでもない。

なのに、大好きなひとの帰りを待つときだけは、どうしてなのか針の動きが遅くなるような気がしてならない。プレサンスは不思議だよね、と思う。今日はなおのことそう感じられる。大試練はどんな挑戦者が来たの?どんなバトルをしたの?数年前に祖父に代わりしまキングに就任した夫、ハウにそう訊けば「ネッコアラがどうだった」とか「ライチュウがZワザでこうした」とか、いつもそれはもうイキイキと語ってくれるのだ。

でも。大試練の話を聞くのも待ち遠しいけれど、今日だけはそれを訊くよりも先に、早く伝えたいことがある――プレサンスは気がそぞろになりそうな自分を叱りながらも、夕食の準備を手際良く進めていた。その合間に何度も時計に目をやってしまうのを止められなかったけれど。

野菜の皮むきをする手を少しだけ休めて、ちらり。ドキ、カチ。ミルタンシチューの味見をして、ハウの好みの味になったのを確かめ、満足した後にもまた、ちらり。ドキ、コチ。心臓の音と時計の音とが交互に聞こえてくる。特に心臓の音は、心臓が2つに増えたみたいにドキドキがよく聞こえる。

……ううん、「みたい」じゃないんだ。だって――プレサンスはふっくらし始めたお腹をそっと撫でて微笑んだ。それから、差し込む夕陽の眩しさに目を瞬かせながら食器棚の扉を開ける。

そのとき、パタパタと足音が近づいて来るのが聞こえた。次いでカチャカチャと音を立てて鍵を開ける音。聞き間違えるわけがない、帰って来た!プレサンスが食器をひとまずキッチンカウンターに置いて振り返れば、そこにはもちろん満面の笑みで帰りを告げるハウがいる。

「おかえりハウ!」
「プレサンス、帰ったよー!手洗ったらすぐ手伝いに行くねー」
「ありがと、お願いね」

プレサンスも自然にぱあっと笑顔になったあと、料理を盛り付け始めながら思い返す。不思議だな、ハウって。その場にいるだけで心があったかくなる、笑顔にしてくれる。ほんとにお日様みたい。あの時も、まだアローラのことをほとんど知らなくて緊張してた私に笑いかけてくれて……。

しまめぐりに出発する日に初めて顔を合わせてから10年あまり。時に協力し、時に競い合うライバルからやがて恋人、そして生涯のパートナーへ。時の移り変わりの中で、プレサンスもハウもお互いに顔つきや背格好だけでなく関係も変わった。

でも、同じくらいだった背丈をあっという間にハウに抜かされても、彼の顔つきがもっと精悍になっても、その懐っこい笑顔は良い意味でそのまま変わっていない。プレサンスはやっぱり、そんな夫の笑顔が一番好きなのだ。

やがてハウが洗面所から戻ってきた。

「お待たせー」

キッチンに入るや頬にキスを落とすので、プレサンスも顔を少し上に向けて応える。いつからそうし始めたのかは覚えていないけれど、どちらがしようと言い出したでもなく自然とするようになり、今では見送るときと帰って来たときのお約束としてすっかり定着している習慣だった。

結婚して移り住んだこの新居は、オープンキッチンだから出入りもしやすい。何より夫や、そしてこれから増えていく家族の顔がよく見えるところが気に入ってすぐに契約したのだ。プレサンスの母には「もう少し他を見て回ってからにしなくて良いの?」と苦笑いされたけれど、ここに決めたのは間違っていないと毎日思う。同じ家にいるのに壁に阻まれて顔がちゃんと見えないなんて、きっと耐えられないから。

「このサラダもう運ぶー?」
「オッケー……あっごめん待って、その小皿のドレッシングかけてからね。あとシチューも持ってっちゃって」

いつも通りのそんな会話を交わしつつ、2人は配膳を終えた。「いただきます」を忘れずに口に出してから、スプーンを持ち料理を口に運び始める。

……そこまでは普段通りだったけれど、いつもお喋りに満たされる賑やかな食卓はそこからしん、と沈黙に包まれていた。そして沈黙は沈黙でも重苦しくないそれが、今かまだかとそわそわとした空気に変わり、サラダが最初の量の半分になったころ。プレサンスはいよいよそのことを切り出そうと、フォークをテーブルに置いた。

そろそろ、かな……。プレサンスはハウが食べ始める前に伝えて料理が冷めるのを避けたくて、ある程度経ってから食事の最中に伝えるつもりでいたのだ。

だが、タッチの差でハウが口を開くほうが早かった。今日“そこ”に行ってくることとその目的もあらかじめ告げてあったから、とうとう待ちきれなくなったのだろう。彼には珍しいことに、緊張した面持ちでフォークをぎゅうっと握りしめ、プレサンスの顔を真正面から見て問うてきた。

「それでさ……どう、だった?」

何が、なんて訊かれなくても解っている。それにしても珍しいな、ハウがこんなにガチガチで私が笑ってるなんていつもと正反対。プレサンスはそう思いつつ、抑えきれない笑みをこぼしながら夫に待望のニュースを伝えた。

「うん…いるよ、私たちの赤ちゃん。4か月だって。まだ性別ははっきりしない、けど」

お腹に、最愛の人との愛の結晶を授かったことが判ったのだ。あるとき以来色々とそれらしい兆しがあり、もしかしたらとは思っていたが、病院で診てもらいはっきりした今こうしてようやく明かすことができた。きっと喜んでくれるはず、プレサンスはそう期待して夫の方を見た。

するとハウは、今度は神妙な顔になってコクリと頷き――しかし、それきり固まってしまった。出会って十数年、今まで様々な彼の表情を見てきて、どんな場面でどんな反応をするのかも大体予想が付くようになっている。今回だって「やったー!」と喜びを爆発させることだろうとばかり思っていたのに……プレサンスは想像もしていなかったリアクションに面食らい、どうしていいのかわからなくなってきた。

「えっと……そうだ、エコーも撮ったんだよ。見る?……ハウ?」
「…… …… ……」

もしかして言葉だけじゃ信じられない?プレサンスはそう思い至り、すぐそばに置いていた鞄を手元に寄せた。入っていた封筒から胎内エコーの写真を取り出して「ほら、ね?」と見せてみても、ハウはまたコクリとするだけ。それ以外の動きと言えば、ぱちくりと瞬きを繰り返し呼吸をしている、それだけだ。

「ハウ?えっちょっとやだ、どうしたの」
「…… …… …… ……」
「ね、ねえってば。黙ってないで何か言ってよハウ!もしかして嬉しくない、の?」

プレサンスはハウの異変にほとんどパニック状態になってしまった。エコー写真を横に置き、彼の傍に寄って肩を揺する。夫は黙りこくったままなのは変わらず、嬉しくないのかという言葉にも、答えのつもりらしくかぶりをふる仕草でそうじゃないと示すだけ。だが一方では見る間に涙目になっていくものだから、ますますわけがわからない。

ねえどうして、なんで泣いてるの?いつも明るいのに涙ぐまれては、自分まで悲しくなってきてしまう。なんで、なんで……プレサンスはいよいよ不安を覚え始め、思わずつられて泣きそうになった――と。

「……ごめ、ん」

そこでプレサンスは不意に温もりに包まれた。立ち上がったハウに抱き締められていたのだ。ハラの指南の下、修行の一環で取り組むようになったアローラ相撲で鍛えられ、あの頃よりずっと厚みを増した胸板の感触がする。ドクリドクリと打つその鼓動は、今はもちろん服越しなのに、睦み合うひとときよりももっと波打っているのを強く感じた。

「驚かせてごめん、プレサンス。嬉しくないわけ、ないって。感慨深いっていうの、かなー……感激したとかとにかくいろんな思いが一度にドーッと来てさ……何て言ったらいいのかわかんなくなっちゃったんだよー」
「な、なんだもう……!びっくりさせないでよ、っ、何も言わない、からっ、嬉しくないのかなって不安になったじゃない〜!ハウのばか〜!」
「ごめんって、っく」

ポタリ、滴が落ちる感触がする。見上げれば、ハウはくしゃくしゃの笑顔を浮かべつつも、大粒の涙を後から後から零していたではないか。

「まったく、あなたってひとは、っ……笑いながら泣いたりして忙しいんだから」
「オレのとくいわざなんだよー、これ」

驚くやら、嬉しくないわけではないと知り安心したやらで、プレサンスもとうとうつられて泣き笑いをしながら、愛情を込めて彼の腕をそっと抓ってやった。



抱き合ったまま、プレサンスとハウがひとしきり一緒に泣き笑いをすることしばし。気が済むまでそうしていた間に日はとっぷりと暮れ、月が顔を出していた。

シチューがすっかり冷めてしまい、ハウが温め直すのを買って出たので、プレサンスはテーブルに着いたまま、まだ少し覚束ない手つきにハラハラさせられながら眺めていた。ようやくどうにかこうにかながらやり終えた彼が、お皿を手にダイニングへ戻ってきた。その顔は先ほどまでとは打って変わって、浮かれに浮かれ喜びを隠せないといったふうだ。

「そっかー、おれパパになるんだー……!お腹の子さ、プレサンスとおれとどっちに似てるかな?女の子だったらプレサンスに似ておっとりしたかわいい子だろうなー、あとマラサダなら何味が気に入るかな?早く確かめたいよー、明日にでも生まれてきてくれればいいのにー」
「男の子ならハウそっくりの明るい子になりそう。でも待ち遠しいのは解るけどまだかかるよ、せっかちなパパね」
「へへ……あー!」
「なあに?」
「お腹の子に挨拶忘れちゃってたー!プレサンス、座ったままで大丈夫だからちょっとだけ体横に向けてー」
「え、うん」

ハウは椅子に掛ける寸前、一大事だとばかりにそう言うとプレサンスに向かって駆け寄って来る。そして、どうしたのかなと思いながらも、言われた通りに体の向きを変えた妻の前に屈み――この地の挨拶をする時と同じ手の動きで、優しくお腹を撫でながら語りかけた。

「アローラ。おれたちのところに来てくれて本当にありがとう!おれ、きみのパパのハウだよ。よろしくねー」
「ふふ……」

幸せに包まれるって、きっと今みたいなことを言うに違いない。本当に、本当に良かった。ハウと出会えて、この人だって決めて、この子のパパになってもらえて……プレサンスは愛おしそうにお腹の子に話しかける夫に、優しさと、そしてこの上ない頼もしさを見て喜びに浸った。

「じーちゃんもとーちゃんもきっと喜ぶだろうなー!あ、でも伝えてもいい時期待たなきゃいけないとかそういうのあるんだったっけー」
「先生はもう安定期に入ったから周りに伝えても大丈夫ですよって言ってた。ただ今日はもう遅いしね、ママやおじいさまには明日電話するつもり」
「わかったー。それじゃ、改めて」
「「いただきます」」

声を揃えて再びスプーンを取りながら、プレサンスはまだ目の前にはいないけれど、確かにそこにいる我が子に語りかけた。

さっき、せっかちねってパパのことを笑っちゃったけど。ママも早くあなたに逢いたいな。無事に生まれておいで。世界は、あなたを待ちわびているんだよ。

心の中でそう語りかけたそのとき。いくつ目かの太鼓が、応えるように一際大きくトクンと鳴るのがわかった。



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