プリンスはどこへ消えた


今日の天気は、いつも穏やかなメレメレ島には珍しくよく変わる一日でした。家を出た時には空には雲一つ見当たらなかったのに、スカル団がハウオリシティの街にした落書きを消したり、茂みの洞窟でぬしポケモンと試練の場の様子に変わりは無いかを見たりしてから、途中にあるポケモンセンターに差し掛かるあたりで急に曇り出したのです。そして、そこを通り過ぎて間もなくにわか雨が降り出して、ボクが家に急いで帰り着くまでにはこれでもかというくらいのどしゃ降りになっていました。

そんな憂鬱な天気の雰囲気は、いつの間にかそのまま部屋の中にまで上がりこんでいたのでしょうか。そこに俯いたプレサンスが遠慮がちに漏らす吐息も混ざり合って、ボクらを包む空気は喩えようもないほどの気まずさに満ちていて。そのせいか、視線もあちらへ飛んでこちらへ彷徨って、せわしなく動き続けてしまうのを止められずにいました。

「久しぶり、ですね。プレサンス」
「うん。ごめん……いきなり、連絡もしないで」
「……いえ」

母は戻ってきたボクにタオルを渡しながら迎えると「イリマにお客様よ、2階にいるわ。レディをお待たせしないようにね」と悪戯っぽく笑って告げたのです。ボクが「レディ?」と訊き返しても「そうよ」と頷いただけ。母はあれで悪戯好きなところがありますから、名前を明かさないことで驚かせようとしたのかもしれませんし、もしそうなら確かにその目論見通りになったわけですけれど……この時ばかりは少し恨みました。教えてくれてさえいれば心の準備ができたのに。見苦しくないよう身だしなみを整えてからドアを開けたは良いけれど、プレサンスの姿を見て少しの間は何を言っていいやら解りませんでした。

まさか、どうして。動揺は収まらないまま。おかげで、いつもなら滑らかに紡げるはずの言葉ももつれてしまってひどい有様です。

「それはそうとイリマ、ありがとね、あれ。ずいぶん長く借りちゃってごめん」

プレサンスはベッドの傍のテーブルの上を指差しました。そこには、確かにずいぶん前に貸した本。あの日よりももっと前、こんなぎこちない会話を交わすことになるなんて予想だにしていなかったころが思い出されてきました。

「いいんですよ……気にしないでください。送るという手もあったでしょうに」
「で、でもえっと、ずっと借りっぱなしだったものを同じ街に住んでるのに郵便で返すっていうのも失礼でしょ、だから直接返しにきたんだけど、ほんとは、その、イリマに取り次いでもらったらあれ渡してすぐ帰るつもりだったの、こうやって居座るつもりなんか無かったの、でっでも留守って言われたから預けようかなって思ってたらお手伝いさんがね、ほらあの一番長いひと、おじさまとおばさまに私が来たってこと言ったから、久々に来てくれて嬉しいって色々話しかけられて」
「そうでしたか」

少し忘れっぽいところと律儀なところは変わりませんね。でも、今回だけは借りていた本のことなんて忘れてくれて、両親が話しかけてきたのなんて上手くあしらって、そこそこで切り上げてくれて良かったんですよ。

片想いをしていた相手が来たことに、嬉しさと気まずさがない交ぜになった言葉が喉元まで出かかったのを抑えながら答える。プレサンスはベッドに腰掛けた状態で床を、ボクは意味も無く床をなぞる彼女の爪先に、それぞれ視線をやりながら言葉を交わす。だから、お互いの視線は一瞬もかち合わないまま、声もくぐもってすうっと消えていくだけ。

「しかもその後すぐ雨が降り始めて、イリマに用があるなら玄関先じゃなんだから部屋で帰りを待ちがてら雨宿りしていきなさい、っておじさまに勧められて断りづらくて……」
「そういえばティーの用意がまだのようですね。しばしお待ちください」
「良いってば、おばさまにもつい今さっき歯の治療したばっかりだから麻酔が完全に切れるまで何も飲めないんですって断ったの。それにすぐ帰るからお構いなく」

プレサンスは時々つっかえながらも、早口でボクの家を訪ねてきた理由をつらつらと話している。多分口を挟ませまいとしていて、そして言葉の通りすぐにでもここを離れたいのでしょう。

でも、プレサンスが飲み物を飲めない理由を話し始めたところで、ボクは彼女に背を向けてドアに近付いて。そうするが早いか、言い終わるのを待たずにドアを閉めて廊下へ出ました。ギクシャクした空気を廊下に出さずにプレサンスごと部屋に閉じこめておきたくて、その口からスカル団のように「ノー」と言われるのを聞きたくなくて、早めに足を動かして廊下を歩いていきました。あの時は一体全体何てことをしたんでしょう、って自分を呪いながら。

だって、だってボクはプレサンスに告白して、袖にされたのです。



階段はキッチンへ降りようと踏む度にギシリと嫌な音を立てている。プレサンスが来たと両親に教えたのは、彼女も言っていたようにボクが小さいころから長く勤めている人です。しょっちゅう遊びに来ていたプレサンスのことも見知っているし、きっと親切心からそうしたのでしょう。八つ当たりなんてできるはずもありません。

それはさておき何を用意させましょうか……そうだ、階段の途中まで来たところで思い出した。お手伝いさんは全員月に1回早く仕事を上がることになっていて、そして今日はちょうどその日に当たっていたのを。すっかり忘れていた。時間からして、プレサンスが訪ねてきたときには居たけれどその直後に帰ったのでしょう。結局自分でせざるを得ないですね、プレサンスと話す時間が削られてしまう……また軋んだ階段の音に合わせて溜息を吐く。そうして1階へ降りたら、母が丁度鞄に何かを詰め終えて持ち上げたところに出くわしました。

「外出ですか」
「そうなのよ、大叔母様が急病で入院してしまったって連絡があってね。様子を見に行くの」
「夜までかかるか……もしかしたら泊りがけになりそうでね。プレサンスさんのことをきちんとおもてなしするんだぞ。それじゃあ行ってくる」
「もちろんです。行ってらっしゃい」

両親が慌ただしく玄関を出て靴音が遠ざかっていくのを見送ってから、ボクはキッチンに立って準備を始めました。戸棚から取り出したのは、蒸らし時間が一番短いロズレイティーの缶。ケトルやカップを用意する手が、いつもより早く動いている。全ては上に戻ってプレサンスと話がしたいから。気まずいのは確か。でも帰ってください、などとは到底言えません。例え失恋した相手であっても諦めきれないのです、少しでも同じ空間にいる時間を引き伸ばしたいのです。きっとこの先も距離を置かれていくだろう分、なおさら。

ポットにお湯を注いだあと、蒸らし時間を測る砂時計をひっくり返せば、ガラスの中をサラサラと薄青い砂が零れ落ちていく――その様子を見ていると、簡単にあのときに、元に戻れたなら良いのにと、今となってはかなわないことを思ってしまうのです。

砂が落ちるにつれ、外から聞こえてくる雨音はますます強まるばかり。雨だれはいよいよピシャピシャと音を立ててガラス窓を打つほど激しくなっている。晴れていれば砂時計の砂が落ちていく微かな音がするはずなのに、このお天気ではかき消されてしまって、もうほとんど聞こえなくなりつつありました。



自分で言うのも何ですし自惚れが過ぎると思われるでしょうけれど、ボクは女の子達から人気があるのです。

まず、主に母の遺伝子のおかげかそれなりの容姿に恵まれました。それに以前はトレーナーズスクールの首席でしたし、今はキャプテンを仰せつかっていますから、ポケモンバトルの実力も同年代の中ではなかなかのものであるはずと自負しています。そうしたこともあってか、付き合ってほしいという愛の告白を何人から受けたのかなんてもう思い出せないほどです。

でも、ボクの心は母の長年の親友の子で幼馴染のプレサンス一筋でした。小さい時は遊びにも、成長してからは勉強にもバトルにも、何にだって一緒にのめり込める子などほかに思い当たりません。彼女と一緒ならば、何でもない一瞬一瞬が輝かしく素晴らしいものになるのです。他の女の子達に目をくれようとは全く思いませんでした。

プレサンスの横にいるべきなのはこのイリマしかいない、きっとあの子も同じ気持ちのはず――いつからかボクは、幼心にそんな未来を思い描くようになりました。今にしてみれば、ほとんど思い上がりと表現した方が良い確信でしたけれど、それが現実のものになることをつゆほども疑ってはいませんでした。

そして成長するにつれ、そんな想いがいつしか恋心へと変わりゆくのはごく自然なことでした。さすがに10歳を過ぎてからは一緒に遊ぶ機会は減りましたけれど、胸を張ってプレサンスの隣にいられるように積み重ねを怠るまいと、スクールの隣の席で横顔をこっそりと見ながら密かにそう誓って。自分を磨き実力も付け、カロス地方に留学していた間にも、彼女との手紙のやり取りを励みに勉強に打ち込んで……その後帰ってきてキャプテンに任命されて間もなく、満を持して想いを告げたのです。

「ごめん」
「……え?」

なのに、返ってきたのは思いもよらない返事。予想とまるで反対の現実に打ちのめされかけて、それでも声を絞り出して聞き返しても。

「今、なんて」
「だからごめんって。イリマのこと嫌いなわけじゃないけど、彼氏として付き合うとかそういうこと全然考えられない。これからもいい友達でいようよってこと!じゃあねっ」

今までボクと話すときのプレサンスは、必ずまっすぐこちらを見てくれていたのです。なのに、あのときの彼女は初めて視線を逸らして、それだけ告げるが早いか、背を向けて駆け出して行ってしまった。ボクはショックのあまりその場に立ち竦んでしまって、プレサンスの後ろ姿を見送ることしかできませんでした。まさかふられたなんて急には信じられなくて、ずっと抱いてきた恋心に応えてもらえなかったのを信じたくなくて。

その日を境に、プレサンスは一層勉強に打ち込み始めました。10歳になったあたりから「私はママみたいに女優とかそういうの絶対向いてないもん、スクールの先生になりたいの」と言っていましたが、それを叶えるためにもっと力を入れ始めたのでしょうか。訊くこともできないからそれはわかりません。会えば挨拶はしてくれるのです。ですがそれから先……ちょっとした話をしようとする前にその場を立ち去ってしまうから。

それに、プレサンスは昼も夜もなく自習スペースに籠って本を読んだり先生に質問をしたり、バトルフィールドでバトルの実践をしたり。最近は夜遅くの最終下校時間直前まで残っているのでしょう、眠たげな目をこすりながら家へ帰る姿も見かけるようになりましたし、昨日もそうでした。

こうした態度や姿はボクを遠ざけるかのようで、かえってますます想いは募るばかり。かといって、プレサンスの後を四六時中追けまわすわけにはいきません。キャプテンとしての務めや技の研究という理由ももちろんですが、何よりそんなことをしてはキャプテンの名折れ。どうにかしたいけれどどうにもできない、そんな悶々としたものは日増しに膨れ上がるばかり。

それから少しして偶然プレサンスと2人きりになった時、どうしても我慢が利かずに訊いてしまったのです。ボクの何が悪かったのか、気に入らないのか、例えそれが耳の痛いことであったとしてもすぐにでも直さなくてはと思って。

「お願いです教えてください、ボクのどんな所が気に入らないのですか?そこが受け付けられないからボクと付き合えないと断ったのですか?」
「そういうわけじゃないって」
「じゃあどうして」
「……だから、無理なものは無理。嫌いだから言ってるわけじゃないの。ねえ、お願いだから解ってよ……イリマらしくないよ」

戦術のことならあのときにこうすればよかった、それを活かして次からはこうしようと考えられるのに。「無理なものは無理」などと言われてしまってはどうしようもありません。しつこい男は嫌われるというのに、言い聞かせるけれど口は勝手に動き続けてプレサンスを問い詰めて、その度に彼女の顔は悲しげに苦しげに歪んでいくばかりでした。好きな子にそんな顔をさせてしまうなんて……。

結局、あの日にプレサンスをああして問い詰めたのは大失敗。雰囲気を更にギクシャクさせるだけに終わったのを嫌でも認めるほかはありませんでした。



そこまで振り返った時、砂時計の砂が全部落ち切ったことに気が付きました。ああ、ティーの準備がようやく整った。トレーに載せて、はやる気持ちを抑えてこぼさないよう2階へ運び始めながら、ふとそういえば、と不思議に思う。

プレサンスはどうしたのでしょう?下へ降りる階段は1か所ですから、もちろん帰ろうとしたら階段の音がするはず。それにここを通ることになるからには、いくらキッチンが奥まったところにある上雨音が強いとはいっても気配を見逃すはずがない。でもそんなことは無かったから、まだボクの部屋か、少なくとも上にはいて律儀に待っていてくれてはいるのでしょう。けれど、両親の勧めがあったからとはいえあんなに帰りたがっていたのに。こちらとしては好都合とはいえどうして……もしかしたら、気が変わってボクと話がしたい、とか。そう期待しながら廊下を通って、部屋のドアを開けると。

「……すぅ……」

よかった、まだ居てくれたのですね。しかし何とも無防備なことに、プレサンスはボクのベッドに横たわって寝息を立てていたではありませんか。こうしていれば降りて来ないのも当たり前ですね。深夜までの勉強の疲れ?それとも、先ほど言っていた麻酔がどうのというのは、飲み物を断る口実ではなくて本当のことで、それがまだ効いているのでしょうか。それもあるかもしれませんが、ベッド好きなところはまだあのときのままだから、とか。

そういえばプレサンスは何故だかベッドが大好きなのでした。いつかは「程よい硬さが気持ちいいの」なんて語っていましたし、3歳かそれくらいでボクの部屋に初めて来たときもそうでした。部屋に入るとすぐにベッドによじ登って横になってゴロゴロ転げて、挙句にそれは嬉しそうに跳ね始めたのです。

最初は驚きましたけれどそれはもう楽しそうにそうしているものでしたから、ボクもつられてトランポリン代わりにし始めて。結局その音を聞きつけたボクの母に見つかって、遊びに来ていたプレサンスのお母さんと一緒に叱られて、楽しみにしていたおやつのマボサダを半分に減らされてしまったこともありました。そうそう、庭のプールで泳いだ後、一緒に並んでお昼寝をしたのもこの上でしたよね。貸していた本の横にそっとトレーを置いて、プレサンスの方を見ながらあのころを懐かしんだ。

ボクがそんな思い出に浸りながら見つめているなんてつゆ知らず、プレサンスはまだまだ夢の中。華奢な肩が微かに上下に動いている。寝息は小さくても、集中して聞いているせいか雨音に紛れずにボクの耳に入ってくる。

顔の横に添えられた小さな手。長い睫。薄いピンク色をした唇。幼馴染の贔屓目があるのは確かとはいっても、プレサンスはなんて美しいのでしょう。お世辞でもなんでもなく、いつか一緒に読んだ絵本の挿絵のお姫様のようです。

そうだ、ボクが「プリンス」なんて呼ばれるようになったのも(念のため断っておきますが、ボク自身がそう呼んでほしいなどと頼んだわけではありませんよ)、そもそもはプレサンスがいたからこそ。その絵本の美しいお姫様にも、そしてそれ以上に王子様のキスで呪いの眠りから目覚める、という筋書きにも憧れたらしい彼女は、ウットリしながらこう呟いたのです。

「いつかおうじさまがきて、キスしてくれたらなあ」

そのころボクは既にプレサンスのことが好きでたまりませんでした。ですから聞いた時は、恋の「こ」の字さえ書けるかどうか幼くて、まして心の中にある淡い思いの名前が恋だとはまだ解らない子供心にも、好きな子が他の男に――たとえそれが架空の存在であっても――心を向けているのを面白くないと感じたものです。

でも同時に気が付きました、ボクがプレサンスの「おうじさま」になれば良いのだと。それならきっと喜んでくれるはず……!と。

まずはお手本を知るために、王子様の出てくる話を片っ端から読み漁りました。両親から買い与えられた絵本だけでなく、メレメレじまの図書館やウラウラじまのマリエ図書館にもせがんで連れて行ってもらって、児童コーナーに一日入り浸ることも珍しくありませんでした。

すると読んでいくにつれ、王子様には悪いものに恐れず立ち向かう勇気や強さや打ち勝つための知恵、お姫様を一途に思い大事にする優しさや愛情もあることを知ったのです。そこから、そうなるにはどうしたらいいのかと自分に置き換えてみて、強さというのはポケモンバトルやそれにまつわる知識のこと、優しさや愛情は言うまでもなくプレサンスに捧げるものだと考えたのです。

そんなわけで、そうしたものを備えてプレサンスのためにより良い自分であろうとし続けたら、「プリンス」という呼び方が定着していたのですが……みんなからそう呼ばれたかったわけではなかったのに。ただ1人、プレサンスのためだけにそうなりたかったというのに。

「ねえ、プレサンス」

振り返るんじゃなかった。後悔を振り払いたくて、眼の前のプレサンスを見つめて名前を呟く。もしも恋人同士だったなら、顔を綻ばせた彼女に「なあに」って返事をしてもらえるのでしょうか。そうなれないのに、それでも思い浮かべずにはいられないまま、ボクは思う。

プレサンスはこれから誰と手をつなぐのでしょう?プレサンスはこれから誰と見つめ合うのでしょう?プレサンスはこれから誰とキスをするのでしょう?――そして、どうしてボクはその相手に選んではもらえなかったのでしょう。せっかく2人きりになれたのに、プレサンスはすぐそばにいるのに……心はもう、届かないのでしょうか。



その時、忘れかけていたことをふと思い出して、ボクの体はカッと熱くなり始めた。そうだ……この家には、今、ボクとプレサンス以外は誰もいない。しかも、彼女は寝ている……。

それならまずはそっと、そっと。部屋のドアへ足音を立てないように近寄っていく。寝入っているところを起こしてはかわいそうですから、そんな見え透いた言い訳を誰に言うでもなく並べながら、そのまま静かにドアに鍵をかける。プレサンスの様子を横目で窺うけれど、まだ目を覚ましそうにはない。

これからしようとしていることが良くないことだとは、十分承知しています。でも、プレサンスが悪いのです。何度もとは言いませんから、どうかこの一度きりだけでも。ボクたちの雰囲気はあの日以来変わってしまった。なのにその小さい頃からの癖が、この状況ではただボクを疼かせるだけのそれが変わらなかったのがいけないのです。

ボクも、男なんですよ?プレサンスを諦めきれないボクの前で無防備な姿を晒した、プレサンスがいけないのです――。

慎重に、1歩、2歩。ベッドへの距離がこんなにも遠く感じたことはありません。それでもゆっくりと近づいていけば、あとはプレサンスが横たわっているすぐそばに屈めばいいのです。

そのまま間近でプレサンスの寝顔を覗き込んで、改めて見とれてしまいました。まつ毛がこんなに長かったなんて。子供のときにつねりあった頬っぺたも、そして……ふざけてキスをしたことはあるけれど、これからのボクにはもう許してはくれないだろう唇も、きっとあのころのまま、柔らかいのでしょうね。

本当なら唇同士を重ねたいけれど、この横向きの体勢から動かしたら起こしてしまう。だから頬で、せめて頬で。ふうっと息を吐いて。

「もう、これで終わりにしますから」

そこで想いを封印する……つもりだったのですよ。本当に。

「んー……」
「!」

プレサンスはかすかな吐息を漏らしながら壁側に寝返りを打ちました。すると仰向けの状態になるわけで、つまり先ほどまでとは違って、唇にキスがしやすい寝相になったのです。

望んだけれど諦めようとしたことが、叶いそうになったなら……そのチャンスを無駄になどしないでしょう?できるわけがないでしょう?人の唇を盗んだらドロボウ?だから何だというのでしょう。罪悪感をかなぐり捨てて唇に意識を釘付けにされたまま左膝を立てて、そっとプレサンスの顔の横に左手をついてから上半身をかがめて……。

とうとう、焦がれていた感触がした。やっぱりすごく柔らかい。質のいいマシュマロだってこうはいかないはずです。多分リップクリームでしょうか、モモンのみの香りもしてきて。重ねるだけじゃ満足できない、もっと欲しい、そんな衝動に駆られて唇を強く吸った。

「っ!」

ですがそれが間違いのもとだったのです。プレサンスはそこで起きてしまって、そして夢中になったままだったボクには一瞬スキができた。彼女はそれをついて、ボクの肩を押しのけながら上体を起こすと――。

「何、するの」

非難をぶつけられたすぐ後にパン、と音が立って右頬にジンとした痛みが走る。そこは女の子だから力強くはないけれど、お見舞いされた平手打ちは強烈な拒絶のサインでした。

怯え混じりに睨んでくるプレサンス。その視線も刺さりそうなほど鋭くて、それを受けて痛みがますます強くなってきたような気さえしてしまう。それでも。

「……断られたってずっと好きだったんですよ、小さいときから。だから、どうしてもそうしたかったのです」
「だから、って。不意打ちで……キスして良い理由になるの?いくら眠いからって男の子の部屋で寝ちゃった私だっていけないけど……だからって、……ひどい、よ。信じてたのに」
「……」
「何とか言ったらどう」
「……どうして、ボクではいけないのですか?」

お互いの声は絞り出すたび震えて、外から聞こえるまだ激しいままの雨音と合わさって鼓膜を不愉快に叩く。謝るつもりはありませんでした。罪悪感はもう無いし、プレサンスだって自分でも言う通り良くなかったと自覚しているのですから。

それよりもどうしてそこまで拒むのか知りたいの半分、こんなに強く思っても届かない惨めさ半分で投げた問いかけに、プレサンスの顔はあの告白をした日よりも、もっと悲しそうに歪んで――ついに、心の内が爆ぜた。

「……もう……やめてってば!言ったでしょ付き合うとかそういう風に見られないって!私イリマとずっと友達でいたかったのにそういう目で見られるのほんとにヤだよっ!プリンスなんて言われて自惚れが過ぎちゃってるからさっきみたいなことしたんじゃないの?好きだからって言えば許されるとでも思ってない!?」

涙声で投げつけられる言葉は、口をついて出る度鋭さを増してボクの心を容赦なく抉っていく。友達でいたい?そんな……それじゃあ、ボクがプレサンスを想い続けてきたのも、「おうじさま」になろうとしたのも、まるで無駄だったというのですか?自惚れてなんていない。プレサンスの理想にふさわしくあろうとした、ただそれだけなんです――遮ってそう伝えたいけれど、口をどう動かしていいのかも忘れてただ黙っていたら。

「イリマがこんな……こんなけだものみたいなことする人だったなんて幻滅した。友達でいたいってさっき言ったけど取り消すから」
「……!!」

けだもの。耳にした時、ボクは自分の理性がはじけ飛ぶのを確かに感じました。そうですね、確かにボクなんてけだものです。でもボクをそんなところに堕としたのはプレサンスなのに、なんて言いぐさでしょう!

「帰るね。じゃあ……きゃっ!」

言わせません。逃がすつもりなどありません。立ち上がろうとするのを阻もうとしてプレサンスの肩をごく軽く押せば、その体はあっけないほど簡単にベッドに倒れ込んでしまった。すかさずその上に覆いかぶさるようにして、顔の横の位置で彼女の細い手首を押さえ付ける。

「やっやだ離してっ!誰か!」
「呼んでも無駄ですよ、ボクたち以外誰もいないんですから」

痛みにしかめた顔さえ愛おしい。嫌がって体を捩ろうとする仕草や怯える様子にさえ、どうしようもなく興奮してしまう。プリンスなんて呼ばれていたって、一皮剥いてしまえばこんなものなんですね。自分を嘲笑いながら、聞いてもらえない言葉を心の中でプレサンスに囁きかける。

ねえ、プレサンス。ある女の子がケロマツとキスをしたら、その正体は実は呪いで姿を変えられていた王子様だと判って、2人は結婚して幸せに暮らした……カロス地方のおとぎ話には、そんな話もあるのを知っていますか。そのお話しかり、プレサンスがいつか憧れたお話しかり、口付けを交わせば結ばれて全てが幸せなうちに幕を閉じる。そんな結末ならどんなに良いか。

なのに!ボクが贈った愛情のしるしは、ハッピーエンドへ導いてくれるどころか、ボクをけだものにする呪いになって跳ね返ってきただけだったのです。悲しいほどおめでたくありませんね。

王子様のすることはお姫様を救うこと。ですが、けだものができることなんてただ1つ――このままプレサンスを食べてしまうことだけ。そうでしょう?

「痛いよイリマ!やめてって、お願いだからっ……」

プレサンスは目を覚ましたのに、ボクも目が覚めているのに。どうして幸せな物語の続きではなくて、悪夢が勝手に――そうです、勝手に――始まってしまったのでしょうね。

ともかくバッドエンドの幕はもう上がったのです。だから左手でプレサンスのブラウスのボタンを毟るように乱暴に外したら千切れた音がしたからといって、彼女が痛がったりすすり泣いたりしたって、一体全体何が不思議なんでしょう?

ええ、ボクはプレサンスの言う通り、プリンスなどではなくて、けだものにしかなれはしないのですから。



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